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 あなたは〈The mapⅠ〉の中で、スタート地点はどこだと思われるだろうか?

 スタート地点は、実は2つある。世界の始まりという意味での起点は「H1」の「ド」であり、ここから始まった創造のオクターヴは下降してゆく。逆に、僕たち人間の誕生という意味なら、中央に描かれた地球のまわりを回る緑の曲線「本能オクターヴ」の「ド」が起点であり、ここから進化のオクターヴは上昇してゆく。



 先ほど「誕生」という言葉を使ったが、起点の「ド」は「出産」ではなく「受胎」を意味する。本能オクターヴは「肉体」のオクターヴだが、僕たちはお母さんのお腹の中にいるときから、もちろん肉体を持っている。

 では、「ド」が「受胎」ならば、「出産」はどこだろう? 本能オクターヴの「ミ」と「ファ」の間に「呼吸活動」とあるのがわかるだろうか。これは本能オクターヴが自力では「ミ」から「ファ」に上がれない状態であり、呼吸活動が入ることによって初めて「ファ」に到達できる。

 赤ん坊もお母さんのお腹にいるときは、まわりを羊水につつまれ、ヘソの緒から酸素と栄養をもらっている。人生最初の呼吸をするのは世に生まれ出た、その瞬間である。言い方を換えれば、お腹の中とは違い、ここで自らの呼吸を始めなければその後は生きてはいけない。つまり「出産」はこの「呼吸活動」の始まりとリンクする。

 受胎から出産まで俗に十月十日(とつきとおか)といわれるが、母親の胎内にいる間の、肉体の歴史というか、本能の凄さを僕に教えてくれた本がある。三木成夫著『胎児の世界』(中公新書、1983年刊)である。

 地球上に生命が誕生したのは、今から30億年以上も前の、海の中だった。原始の生命は、やがて「魚類→両生類→爬虫類→哺乳類」と進化をくり返し、海から陸へと上がる。この上陸劇に費やした時間は約1億年。この1億年を、胎児はわずか1週間で再現すると三木先生は教えてくれるのである。『胎児の世界』には、受胎1カ月後の胎児の顔のスケッチが掲載されている。

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 受胎32日(妊娠2カ月下旬)から1日おきの変化を描いた貴重なスケッチ。「これが本当に人間なのか!?」が最初に見たときの偽らざる感想ではあるけれど、なるほど「魚類→両生類→爬虫類→哺乳類」の面影がよく見て取れる。

 妊娠5カ月の安定期に入る前は、流産など胎児の死亡率が比較的高いという。これはかつて僕たちの遠い祖先が上陸に際してエラ呼吸から肺呼吸へと切り替わっていった、きっとその命がけの苦難と無関係ではないのだろう。

 ということは、スタート地点である「ド」で受胎したのち、「ミ」と「ファ」の間で産声をあげるまでに、僕たちはみんな羊水という海の中で肉体の進化を追体験しているのだと言えるのではないだろうか。

 「本能オクターヴ」は「ソ」を超え、「H48」に入って初めて「本能」になる。次の「H24」に上がるとき、「感情」は「感性」に、「思考」は「知性」に変容を遂げることはこれまでにも書いてきたが、「本能」は「ラ」を超えたあと、厳密には3つに分岐する。

 P.D.ウスペンスキー著『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社刊)の中でG.I.グルジェフは、分岐した3つを「本能センター」「動作センター」「性センター」と呼んでいる。だが、僕はこれらを「本性」「専門的技能動作」「愛」と名づけた。『奇蹟を求めて』はグルジェフの言ったことをウスペンスキーが書き、それを翻訳者が日本語に換えている。そのせいか、「本能」の高次レベルのとらえ方に一貫していないところを感じてしまったのである。

 「H24」に上がったとき、本能オクターヴの中枢にあるものは「本性」で、たとえば反射神経や消化機能など、僕たちの肉体に本来備わっているものだ。「本性をあらわす」とか、ネガティブな意味合いで使われることもあるけれど、もともと「本性」は「生まれつきの性質」とか「天性」という意味なので、「本能」との違いを表現する言葉としてはこれ以外にないと思われた。

枝分かれした「専門的技能動作」のほうは、たとえばスポーツ選手やもの作りの匠と呼ばれる人たちの技であり、これは訓練によって磨かれる。「専門的技能動作」がさらに高次の「H12」に行くと「神業的技能」となり、国宝級のものを作る人やコンピュータでもコントロール不能なわずかな誤差を指先で感じ取れる人の技能などがこれにあたる。

枝分かれしたもうひとつの「愛」は「H12」で「母性」に変容する。『奇蹟を求めて』の中ではこれを「エロス」と呼んでいるが、日本人としては「母性」のほうがグルジェフの言わんとすることによりフィットすると思えた。

 つまり、ここでは「本能」→「愛」→「母性」と変容する。「本能」は快を得る傾向性そのものなので、たとえばセックスでいえば肉体を触られたり舐められたりすることによって感じる。これが「愛」になると、たとえ肉体的な接触がなくても、相手が感じていればそれに共鳴して感じはじめる。「愛」はいろいろなものをつなぎ、排他性がない。その上の「母性」になると、慈しみの思いが高次から降り注いでくるので、さらに慈悲性が加わってくる。

 冒頭で、出発点のひとつは本能オクターヴの「ド」だと書いた。僕たちはこの「ド」から始まり、悠久の進化を追体験してこの世に生み出される。そして意識階梯が上がっていけば、本来備わっている肉体の機能を最大限に発揮しつつ、神業的技能も、自他ともに慈しむ心をも持ちうるのである。