吉村昭の数ある小説のうちの最長編作品。長崎を主たる舞台に、宇和島も重要なポイントとして登場する。

 

タイトルのとおり、主人公は江戸時代に長崎にやってきた医師・シーボルトと遊女(お滝)との間に生まれた娘・楠本イネ(お稲)。彼女は、日本初の女医としても知られている。

 

作品は、1823年のシーボルト来日から始まり、前半はシーボルト(鎖国下の日本にやってきたスパイ的な人物という色合いを出した描写になっている)とお滝を軸に展開。後半、成長したお稲を中心として話が進んでいく。

 

母娘2代の生涯を丹念に追った大河小説の趣。シーボルトの子であるがゆえに、特異な人生を歩む事になった主人公の、長く変化の多い人生を、読者はこの本を読みながらたどってゆく事になる。


 

鎖国時代の長崎や幕政の様子、諸外国が日本に押し寄せる幕末期。時代は明治へと入り、社会は急速な変化を遂げる。

また、シーボルトを始めとして、彼女達の周りには様々な人物が現れる。大村益次郎、伊達宗城(宇和島藩主)、福沢諭吉、医学界の著名な人物達・・。


作者は、主人公を描くだけではなく、その時々の社会・政治状況や彼女の身の回りに起こった大小様々な事件、そしていろいろな人達のプロフィール的なことを、(少しばかり横道にもそれながら)作中に散りばめることで、彼女達が生きた時代の流れをも巧みに描き出しているのである。

 


読み終えて、ずっしりとした充実感の残る一作。

 

 

※吉村昭は、イネを主人公とした小説を書こうと思い立ち、まずは呉秀三著『シーボルト先生其生涯及功業』という伝記を読んだ。その上で、同書には描かれていないシーボルトの陰の部分を自ら掘り出し、それによってシーボルトの人間像を明らかにしようとした、という。(『私の引き出し』に所収のエッセイ「伝記と陰の部分」)

 

※『歴史の影絵』に所収の「洋方女医楠本イネと娘高子」には、イネの娘高子が、大正十二年に地元の歴史家に語った話が記されている。吉村昭は、この話を重要な史料として、本作品を書いている。


※本書に出てくる人物や事件の事を、吉村昭は他作品でより詳しく書いている。

『長英逃亡』(高野長英)、『暁の旅人』(ポンペ、松本良順)、『洋船建造』(ロシア船ディアナ号の遭難)他


(昭和53年刊行/新潮文庫)