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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録〜その30」 衝撃は走る〜80歳にしてこの深い悲しみは何処から来るのだろうか?

「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録〜その30」
衝撃は走る〜80歳にしてこの深い悲しみは何処から来るのだろうか?
雨の季節になって、我が家の自慢の紫陽花が開花する。
あ〜あ、昔のことをよく思い出す。春、紫陽花の花の咲く頃20代の君は青いワンピースで私の前に立ち塞がり身震いするほど綺麗だった。
私は一路妻が待つ有料介護ホームに向かう。
京王多摩センターの介護施設のあまり感じの良くない医者が無表情に言う。
「奥さんはどうもパーキンソン症候群の一つ「多系統萎縮症」なのではないか。奥さんは若いし進行が早い。難しい病気だ」
「そうですか、順天堂の医者が普通のパーキンソン病でここまで転ぶことが考えられない、注意不足かそれとも・・・。」と言っていました。
「とにかく今は歩ける状態にしなければ」と医者は言う。
「そうですか、確かにこの半年間で、散歩とかそれなりに頑張ってリハビリはしてきたんですが。症状はどんどん悪くなっているようですか」
「要介護度一から三になります。ここでは2ヶ月以上預かれません。今はトイレにゆくのも介護士が必要です。勝手に歩いて怪我をされたら施設の責任になります。言うことを聞かないとベットに縛りつけることになります。承諾書にサインをください。」
この施設、居住者が怪我をしても訴えられたりしないように、何枚もの承諾書にサインを求めてくる。
私は「一体あとどのくらい生きられますか」と聞きたかったがどうしても聞けなかった。
私は帰りの電車の中で焦って「多系統萎縮症」をネットで調べる。相当やばい病気で、あとどのくらい生きられるのかを考えて戦慄してしまった・・・。
普通パーキンソン病はあと10〜20年は生きられるというのに。彼女の場合、相当短いのかも知れないと思った。
それを記事を読んでから、私の意識はまさに宙に舞った。気がついたら駅から反対の橋本方面の電車に乗っていた。
どうやって家まで帰れたのかわからなくなった。
なんてことだ。現在妻の病院でのフォローのほとんどは彼女の姉さんがやってくれていて、姉さんが住む実家にも近い。私は助かって安堵し解放されたはずなのに、消耗し切っていた。
私はこの1年数ヶ月、介護のため妻だけを見てきたような気がする。ほとんど都会にも出ない。でも今は力が、気力が出ない。
この私の介護は何年も続くと思っていた。
妻が介護施設に入ってくれて私は救われたのだろうか
今こそ元気になれるような言葉が欲しい。
この歳になってこんなになるとは思わなかった。
しかし一人でいると深夜妄想が始まる。長い夜が始まる。
「期待は必ず失望へと変わる。そして重なった失望はやがて絶望に至る」(森達也)
写真、転んで 頭から落ちてもいいような帽子を被る。

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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録〜その28」 「介護経験者は語る...その2」

「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録〜その29」
「介護経験者は語る...その2」
またまた暗いメール が。もうそんなの読みたくないよと思いながら読んでしまいます。
突然、失礼いたします
僕も藤野さんと同じ思いです
僕は両親の介護を自宅で1年
父はレビー小体型認知症で
「P症候群」もあり要介護5
母は嗜銀顆粒性認知症で要介護4
僕は50歳で仕事を辞め
介護に専念しました
出来ると思ってたし
やらねばと思ってましたが
甘かったと思ってます
父は認知症でしたがマダラボケで
時たま幻覚を見たり
現実ではない事を口走りましたが
日常的には会話も出来たし
お風呂も排泄も少しの介助で
出来てました
認知症の度合いは母の方が酷く
家の中はひっちゃかめっちゃかで
夫婦なのに手をあげたり
手当たりしだい物を投げたり
デイサービスも利用しましたが
安定して通える事はなかったです
言った事が伝わらない
母は同じ間違いを繰り返す
火災になりかねない事をするので
毎度、ガス栓を止めにいく
家の前を歩く人たちに声をかけ
『助けて』と叫ぶ
その度に母を怒鳴ってる自分に気づき、自己嫌悪に陥る毎日でした
優しかった母
いつだって穏やかだった母に
怒鳴ってる自分が本当に嫌で
心が潰れそうな毎日でした
父との喧嘩も酷くなり
母を入院させようとなりました
良くない事とは思いましたが
自宅で介護を続けるのは限界でした
母に適合する薬を見つけるまで
ほんの少しの間だけ
すぐに退院出来るからと
自分に都合よく言い聞かせ
病院の説明を聞きました
『ケガ防止の為に身体拘束も
やむをえません』
寝る時、ベッドで拘束
日中は車椅子に拘束
『お母さまの安全の為ですから』
僕はサインしました
自分が救われたくせに
母の為だと言い聞かせて
2ヶ月
面会できないまま
退院の時
母は変わり果ててました
暴れる事もなく
穏やかでした
薬漬けで感情を失くしたのでしょう
言葉を発する事はなく
無表情な人形のようでした
声をかけても
返事が返ってくる事はありません
自分を責めました
後悔しました
周りは仕方がないと
これで良かったんだと
それでも僕には後悔しかありませんでした
母を壊したと
母が退院したころ
父は糖尿病と腎臓病で
入退院を繰り返していました
お世話になっていた
ケアマネさん
病院のソーシャルワーカーさん
皆さんの勧めで両親を同じ施設へ
入所させる事になりました
もう自宅で2人の面倒は無理だと
僕だけでなく周りも気づいてました
施設の見学は3ヶ所
詳しく話しを聞き
自立を促す事に重点を置いた
施設に決めました
寝たきりが歩けるようになる
車椅子が歩行器へ
歩行器が杖へ
排泄を自力でいける
食事が自分で出来る
これらを目指してるとの事でした
2人は入所後
認知症の症状がおさまり
薬も脱薬減薬出来て
落ち着いて暮らしていました
父はほとんど車椅子でしたが
歩行訓練も出来るようになり
食事も自分で
尿カテーテルがはずれて
自分でトイレに行けるようになりました
残念ながら昨年9月に永眠いたしましたが、その最後は充実したものだったと思います
母は健在ですが
もう誰の事もわかりません
それでも話しかければ
笑顔を見せてくれます
出来ない事も増えましたが
手厚い介護で穏やかに暮らしてます
たった1年の介護経験でしたが
『出来る』『やらなきゃ』で
出来るものではないと知りました
時には助けを借りる事も大切
介護はする方もされる方も
心への負担が大きいです
変わってしまった両親より
変わっていく自分が許せない時もあります
僕から言えることは
助けを求める事は
逃げる事ではないと言う事
見捨てる事ではないと言う事
助けを得ながら
優しくいられることの方が
はるかに良いと言う事です
決してご自身を責めないで下さい

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