<伝説の森田童子の死>〜最初から最後まで見届けた音楽家&詩人だった。

もう一度だけでも再会したかったが、やはり彼女の一本スジが入ったポリシーだったのだろう。再復帰はありえないと思ってはいたが。

あれから何度いろいろな機会を見つけて「もう一度だけロフトでライブをやって欲しい」と懇願したが、まさにそれが本人に伝わっているのかどうかも知る由もなかった。

私は今までたくさん自分の青春の思い出とともに森田童子の記事を書いて来た。記事中で彼女に何度かラブコールも送ったがついに返事はなかった。

森田童子は私がデビュー(73年西荻窪ロフト)から84年新宿ロフトでの引退宣言まで)最初から最後まで見届けた本当に数少ない音楽家だった。そして彼女は死んだ。

73年夏に近い梅雨の蒸し暑い夕方だった。一人の無名な少女が西荻窪ロフトにやって来て「私にも歌えるのでしょうか』と一本のテープとともに静かに控えめに聞いて来たことを今でも覚えている。

私は彼女のテープを聴いて、何とも暗い歌だが、その歌詞の内容が私の青春時代とものすごくリンクしていて、びっくりしながら聴いていた。

76年から80年代はまさにロックの時代だった。新宿ロフトは全盛でロフトに出なければロッカーじゃないとまで言われた時代だ。

ブック担当者からは「今、森田童子なんてスケジュールに入れたら業界から笑われます」とまで言われて絶句したことがあった。

彼女はとても不思議な人だった。いつも孤立無援だったような?
「君の過去に一体何があったんだ。こんな詩誰もが書けるものじゃない」と何度か彼女に聞いたことがあった。そんな時彼女はニコッと笑って話題をそらした。

多くのロックファンやライブハウスの中で私一人が森田童子を支持していた感があった。

森田童子はステージであまり上手くないギターを弾きながらいつも本当にたくさんの涙を出しながら歌っていた。それが演技ではないことをステージ横でいつも見ている私は知っていた。

来場するお客さんは、若くてどこか暗く、ヒッピーぽくって文庫本を持って、頭を下げ気味に、薄敗れたコートを背負って静かに誰とも口も聞かず座っていた。まるでお葬式の前夜みたいだった。

マネージャーの前田氏と結婚した時はなんか悲しかったな。前田氏は森田をメジャーにしょうと悪戦苦闘したが、結局はやはりアンダーグランドな歌手だったのだ。

森田童子と一度だけ、ライブが始まる前の1時間隣の喫茶店で二人だけで話したことがある。貴重なデートだった。

なんか私の青春(全共闘時代)のかけらが飛び散ったような気がしてならない。私もそうやって朽ち果ててゆくのだなと実に感じている。

やはり「みんな夢でありました」なんでしょうか?童子さん。

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