2008年06月04日

キャノーラ畑はきれいだぞー

   
    身の丈のドイツ

                       丹羽有一

「文明?」
5月のドイツへ行ってきた。ツアーにバッハの生家?や長らくコンソル(楽長)を務めた聖トーマス教会が含まれていたからである。行く前に「次はどこにでかけるの?」と聞かれたから「5月のドイツに行く}と答えたら「先生には似合わない」と云われた。
まあ、そう云われれば今まで先進国には行ったことがないか。
ベルリンへの直行便はないので、スイスのチューリッヒでトランジットする。ベルリン行きの飛行機に乗りかえて、フライトが始まる前の座席でチューリッヒまでの長いフライトで疲れていたために、思わず背もたれを倒してしまった。来了・来了(来た来た)早速来た。斜め後ろのドイツ人ぽい中年のオッサンから「Sorry ----」と注意が来た。早速背もたれを戻して、「Sorry」と答える。お互い(システムに参加したいもののことで、参加しないということを選んだヒトは含まないという集団のなかでのお互いという意味で)の快適さのために、飛行機の背もたれは安定飛行になるまでは倒さないというルールを作って守る。それを破る奴がいたら注意したり、罰を与えたりする。このシステムに参加することを「文明=Civilization」と呼んでよいであろう。快適さのためには注意されてコチンとくることを含有するシステムに参加するということである。日本では背もたれをかってに倒しても余り注意がとんでこない。その意味では日本人は文明人ではない?
これは父祖との暖かい関係性で獲得された「文化=Cultue」ではない。
「文明のクセ=中東においての交易」
唐突に話の場面が変わる。以前中東4ケ国を2回に分けて行ったことがあった。その折の体験は「相似形の東の地」「250,35,400mlの年間降雨量」としてこのblogのシリーズで述べた。現在ヨルダン川の西と東はイスラエル・ヨルダン・シリアなどといった国に別れ、ヨーロッパ風なイスラエルと込み合った街区のアラブでは著しく光景が異なる。しかし、地下何メートルから掘り出されたローマ時代の遺蹟はヨルダン川の東西でも同様である。両岸ともローマ帝国シリア属州の時代は長かったのである。その遺蹟の更に地下にはそれぞれの時代の遺蹟が埋まっているはずだ。例えばシリアのダマスカスは世界最古の街の一つと例えられるが、現在では遺蹟は掘れない。街全体が遺蹟の上にのっており、人口百万を超える大都市を壊さなければ発掘作業はできないのである。
ということは同じ場所に街が営み続けられたということを意味する。シリアのアレッポ・イラクのバクダッドでも同様である。それらの街々の置かれた位置が交易にとって圧倒的に有利であるから、支配民族が変ったり、イスラムへ宗教が変わったとしても、街の位置は変化しなかったということである。メソポタミアから始まった麦と羊を基礎にした中東の文明では都市とはそういうものらしい。藤本 強氏の「都市と都城」同成社を読むと都市とは文字どうりに交易を行う場である市から生活空間が拡がっていったものだと定義されている。藤本氏によれば都市の広がりは麦と羊の文化圏と重なるのだという。
イスラエルや東トルコの洪積台地を掘っていくと、完新世という地質年代が始まった1万数千年から気候が温暖化して、さらに気温が安定化した環境下で#1:定住生活が起こり、さらに#2:麦の栽培化という農業の開始とそれに続いて#3:羊を中心とした野生動物の家畜化による牧畜がおこった跡を確認できるはずだ。さらにヒトの活動の跡は沖積層の低地へと拡がり、メソポタミアでは河川の水をひいた#4:灌漑農法が開始されるとともに、#5:集住化がおこった。集住化がさらに規模を大きくなり、#6:都市化がおこり、すると階層分化とともに文字の開発などによる#7:文明化がおこった。
ここで、世界最初に文明の開始されたメソポタミア(アラブ語ではアルジャジーラ)という地を考えてみたい。この二つの大河が造った沖積平野では、灌漑によって生産された麦以外なにも採れないのである。あ、他にはアスファルトがブクブクと沸いてくる。しかし、それだけでは家屋を作る原料も栄養のバランスも摂れない。だから、文明の発生には他地域との交易が絶対的に必要だったに違いない。先ほど、藤本氏の説をひくと市の周りに都市が拡がる光景を想像してもよいかもしれない。少なくとも、麦と羊の文化地帯での文明は交易する場から派生したと夢想してもよいかもしれない。そこから、この地帯の文明にはある種の「クセ」が付帯してきたと云えるかもしれない。、
その都市国家の時代を経て、馬による移動・文字による伝達・武具の鉄器化などによる空間の狭小化は多民族支配を可能にして、#8:帝国の時代をむかえた。ヒッタイト・アッシリア・新バビロニアをへて、メソパタミア東部のイラン高原からハカーマニシェ(アケメネス)家のペルシャ帝国があっと云う間に勃興した。
こう書いてくると#1から#8までの方向性は、歴史学者をふくめた人文学者達が「歴史の必然」などということを言い出しそうであるが、仔細に考えるとこういうことだったのかもしれない。最終的なホモ・サピエンスへの進化の地であるアフリカで我々ヒト(文化的存在としての)は可塑性と表象性を身につけていた。可塑性とはやり直しができるということであり、表象性とは言語によって事物をイメージすることであり、顔の前面に位置するようになった両眼による立体視は世界を発見し、直立歩行によって移動機能から開放された前肢は「手」となり、道具の把握を可能にした。道具の使用によって世界は操作の対象になった。
世界を発見した結果として、逆に世界を認知する「己が心」という内面を見出したのではないか。
そこへ、#2と#3によって求餌行動から部分的に開放されたヒトは楽をすることを覚えた。それを私は勝手に「自己の家畜化」とよんでいる。その楽をしたい心根によって、文明の段階へいたったのではないか。
とともに階層を作り、固定化していった。さらに集団同士の争いを多発し、帝国の段階へいたった。
ハカーマニシェ朝ペルシャ帝国の時代になり、新たな潮流が加わった。
「一神教へのパスウエイ」
それ以前、各集団の宗教は多神教だった(らしい)。集団の願いを神格化した神に願いがかなえられるように祭祀をすればよいのであった。ペルシャ帝国をつくった古代アーリアを称する集団の宗教もそんなものだった。そのはるか昔に東イランの一角でアーリア人の多神教のパンテオンの中から、光の神・アフラマズダに善の神格を与え、最高神に祭り上げた宗教改革をしたザラスシュトラという人がいた。彼は多分光覚異常者ではなかったのか。もちろん証拠は無い。善があれば悪が必要となる。さらに彼は世界を善と悪の闘争する場と設定した世界観をも創造した。
その世界観をまとった善悪という価値の宗教に影響をうけた諸集団のひとつにユダヤ人がいた。彼らは現イスラエルの地に「カナーンの約束の地」として 入り込み農業化していった。カナーンとは東地中海沿岸に都市国家を営み、地中海交易に従事した先進的の民フェニキア人の古称で、彼らは主神のエルと雷の神バールを中心としたパンテオンを有していた。雷はこの半乾燥地帯に雨をもたらす豊穣を意味した。バールはそれを司る有力な神格である。
ユダヤ人たちは、彼らフェニキア人たちとの競合関係のなかで、エルとバールとの神格をあわせたようなヤーヴェという神格をなして、その神と契約して、不安定であったカナーンの地での占拠を規定事実化した。
その彼らユダヤ人たちの一部が新バビロニアのネブカドネザルによるバビロン捕囚でバビロンに留め置かれたが、それを打ち破ったキュロスのペルシャ帝国によってエルサレム帰参と神殿再建を許された。バビロン残存のユダヤ人たちによる律法書の編纂は後のユダヤ教の確立の画期となった。ペルシャ帝国支配イデオロギー化していったザラスシュトア教が影響を与えなかったはずはない。
時代が下ってローマの傀儡であったヘロデ王の時代、ガラリアで布教したイエス・キリストの甦りを信じたユダヤ教の一派はメシア観の違いからユダヤ教からはなれ、キリスト教を胚胎した。そして、ローマ世界にあって、唯一神を信ずる精神的な優位性をテコとして、ローマの国教にまでなり、ヨーロッパにおける教線を確保することになった。
失礼、話はドイツ紀行であった。ドイツに戻らなければならない。
「木組みの民家」
ベルリンへ着いた第一印象はホテルのドアーは分厚く、机、椅子の材木が厚くガッチリしていることであった。数奇屋造り以来のカロミを美として、戦後の合理化で薄っぺらさに慣れた東アジアの島国の人間には最初は奇異であったが、すぐ慣れた。
次の日はベルリン市内の観光になる。1990年に東西ドイツが統一され、91年にボンから首都をベルリンへ移転することになって未だ20年もたっていない。現地にすむ日本のご婦人のガイドの説明では、戦前のメモワールになっていた建造物の再建の計画があれもこれも・・・沢山あるのだという。大ドイツのメモワールはおろそかにできないといった家具もガッチリ作るといった精神につうじる文化があるのだろうか。それにしても東を吸収した西の財政負担は大変なものだろうに。ご苦労さーん。
そういえば、現在のメモワールになっている建造物も見ているうちに様々な様式があるのにきずく。その辺に興味があるとヨーロッパの都市を見て歩くと楽しいのだろうが。
様式といえば、戦前の在ベルリン日本帝国大使館の建物がそのままで保存されており、往時の威容をほこっており、四角の飾りもなにもない、そっけもない建物である。第3帝国様式というのだという。大日本帝国はナチスの美意識にあわせたということのようだ。3国同盟を結びにきた松岡などという小太りの外相もこの建物に入ったのだろうか。殆ど市街が廃墟になったベルリンで日本大使館が何故残ったのだろうか。考えてみれば、‘45.4月から5月のベルリン攻防戦を戦ったのはソ連軍であり、往時日ソ不可侵条約は有効であった。だから、日本領土であった在ベルリン日本大使館をソ連軍は攻撃しなかったのに違いない。
次の日はベルリン郊外のポッダムへ行く。その広場の一角にロシア式の農家の家が10数ケみらえる。ナポレオンはロシア遠征にあたってプロッシャ軍の10数万人をつれて往ったのだという。その大部分はむろん帰国できなかったことだろう。その代わりにロシアの捕虜を連行して、ここでオッパナしてナポレオンはフランスへ帰ってしまったのだという。なんちゅう勝手さだ。その子孫たちはロシア式の農家に住んでいいるというわけである。
また、ポツダムにはプロシャ王家のホーエンツォルレン家によるドイツ統一への道を切り拓いたフリードリッヒ大王の夏の離宮・サンスーシ宮殿がある。こぶりでロココ風だという説明だった。サンスーシとはフランス語で「憂いが無い」という意味だそうだ。彼は結婚後まもなく王妃を遠ざけ、他にも女気は無さそうで、あちらの趣味がありそうで、宮殿の繊細な装飾は「らしい」。彼は「王は国家の僕」といった言葉を残している。彼は死後、遺骸はサンスーシ宮の庭に狩猟の供をした歴代の愛犬と一緒に埋葬するようにと遺言した。ところが、そのとうりにはならず、200年ほど後の1991年の統一後、子孫の手によって遺言どうり愛犬たちと埋葬しなおした墓が庭にあった。ドイツ統一などへの貢献などといった飾りつける必要がない、孤独で愛したのは犬だけだとでも云っていそうな一人の男の生き様がみえるようだ。
その後、ハルズ山系の懐に抱かれた3都市を訪ねる。クヴェトリンブルク、ヴェルニゲオデ、ゴスラーである。ハルズ山系の林の新緑が目映いばかりだ。氷河期に何度も氷河が覆ったヨーロッパでは植物種の数がアジアなどと比較して少なく、ゆえに林は疎林で光が入り、新緑はまぶしい。
ツアー・ディレクター(TD)の美人のお嬢様は該博な知識の持ち主で、盛んに第2次大戦で損耗を逃れた3都市の木組みの民家の美しさを強調する。なーるほど。それも古いほど木組みも細く、曲がっていて味があり、美しい。クヴェトリンブルクの町には「木組みの家博物館」がある。庭先に木組みの外壁を作る過程がデモされている。それを見ているうちに遥かな昔小学校のときに、左官職人が働いているのを面白く見ていたときのことを思い出した。壁の芯には竹ひごを組み、船とよばれた平らな箱状のなかで土をこね、補強材として切った稲藁をいれて、こてで塗りこんでいた。ここドイツでは、芯は柳の枝でくみ、土の補強材としては動物の毛を入れたのだという。その土地でとれた材料で家をつくる、そうすれば湿気が多い夏の日本も、寒風の吹きすさぶ冬のドイツもしのげた。この頃の日本の建材はどこから来ているのか分かりはしない。
それにしても、現在のドイツの市街は美しい。第2次世界大戦の市街の損耗率は同じ敗戦国・日本の比ではなかったらしい。この美しい光景は戦後ドイツ人は頑張ったというしかない。家具をがっちり分厚く作る、国家的なベルリンのメモワアールには予算のいとまはつけない、戦後復興の結果としてより美しい市街にする、などといったドイツ人の事物にたいする態度には共通するものがありそうだ。アウトバーンを走っていたら、ドレスデンまで何キロメートルという標識がでてきたが、このザクセン王国の首都としてバロック風な美しい市街は第2次大戦時イギリス空軍の実験的な戦略的爆撃で一夜にして灰燼にきした。そして、破壊されたフラウエン(聖母)教会は廃墟のまま曝されていた。1994年から破壊された石材に番号をつけて、昔の部材で昔どうりに市民の寄付で美しく再建されたのだという。ここにも、先述したドイツ人の態度がある。
それにしても、5月のドイツの畑はとりわけ美しかった。旧東独の集団農場の名残もあるのか耕地単位が大きく、花盛りのキャノーラの淡い黄色が拡がり、その向こうには伸びつつある麦の緑が続く。その光景が延々と東南ドイツのなだらかな野に占める。もちろん、この光景も昔からあったものではない。中東から南ヨーロッパをへて麦の農耕、羊の牧畜が伝わった結果である。それにしても見事な畑である。
ゴスラーという町にあるランメルスベルグ鉱山は千年の歴史を誇る。坑道を見学すると直径10メートルを超える大水車が何機もある。深い坑道から鉱物を昇降させるためのものだという。よく見ると水車の板は2列に逆に向いており、昇降が切り換えられるようになっている。昔から技術大国ドーイツ。それに比して、江戸時代の日本では江戸の無宿人を唐丸籠で佐渡金山へつれていったという話を読んだことがあった。そこで、手で水汲みをさせられた人足は2〜3年でよろけで死んでしまったのだという。
木組みの民家から復興を遂げながら現在の立派な市街の形成へとそれぞれの代の上に次の丈を重ねて身の丈にしてきたドイツがいる。
しかし、そこには冒頭の機内のエピソードでふれたように(小うるさい文明)があるにちがいない。そして、何時でも若者にとってはより小うるくさく感じられるのにちがいない。そういえば、ゴスラーで泊まったホテルは駅のすぐ前にあった。部屋は角部屋で浴室の窓から駅の前にタムロする10台後半らしいいかにも悪そうな5,6人の足元はゴミでちらかっていた。TVではメーデーで荒れる若者のデモの様子を流していた。冒頭で機中で注意されたエピソードを挙げたが、文明のうるささに反発をおぼえるエネルギーは集団を超える。うるささゆえに参加しない奴らはどこにいくのだろうか?
「マルクト広場と山城」
全ての町の中心にマルクト(Markt)広場がある。Marktとは英語ではMarketである。丁度、季節が5月だったのでメーデーの装飾した木が立てられていた。美しい。冬の長いドイツ人が本格的な春の訪れを喜ぶさまが見えるようだ。キリスト教がはいる以前のゲルマン人の素朴?な宗教を想像したくなる。現在でも露店がたち、装飾された逆三角形の紙袋を売っていた。なにに使うのだと聞くと小学校の新入児が一日だけ学校へ持っていくのだという。日本の七五三の千歳飴のようなものらしい。広場に面した建物の端に縦に付けられた金属棒がある。姦淫(古い言葉だな)をした女性を縛りつけて尻をひっぱたたいのだという。同行のご婦人から「浮気をした男はひっぱたかないのか」という質問がとんだ。
もっともだ。この広場がドイツ人の私的生活にしめる大きさが想像できる。
当然公的にもドイツ人の生活の規定する。広場にはその町の守護聖人や町に関連する偉人の像があり、その脇には教会が必ずある。アイゼナッハのゲオルグ教会にはJ.S.バッハが洗礼された受洗盤がある。彼はこの教会で受洗簿に登録されたことによって、社会人として認知された。この社会ではキリスト教はこのようなものであった。
後に市庁舎のような行政庁舎もできてくるが、地下にはケラー(居酒屋)があり、お上の出張所である東の役場とは違う。
冒頭にメソポタミア発の文明の発達に交易の役割を示唆した。そして、藤本 強氏の「都市と都城」を引いて麦と羊の文明圏においては市(いち)の周囲に街が形成されてくること可能性をのべた。ここドイツの市街の形成にマルクトなどの広場における市の役割が大きいのだろうか。一方、交易の結果は価値をうむ。そうすると、自分は働きもしないくせに、暴力を背景にして、恒常的に富を掠め取ろうとする輩がでてくる。そいつらが何時もいうのは「お前たちを守ってやっている」ということである。そのことによって世俗的権力なるものがうまれてくる。
そういう輩の住まいがシュロス(山城)である。この地方のシュロスは千年ほどの歴史がある。建築は石つくりでごついものでギリシャやローマの軽ろさも優美さもない。しかし、アーチ状の構造の上部にキーストーンがあり、前代よりも荷重に耐えられるようになり、結果巨大建造物が可能となった。そして、彼らは支配区域によって公、候、伯などの爵位を神聖ローマ帝国から付与された。先ほど、述べたランメルベルグ鉱山のあるゴスラーの町はハンザ同盟に参加して、ここの商人は全ヨーロッパに展開し、鉱物を売った。その結果この町の民家は豪壮である。この町が豊かになる遥かに以前11世紀には神聖ローマ皇帝がやってきて、居城を築いた。皇帝さまの目線の良さよ。
カソリックがドイツに初期に入ったフルダの町の山の中腹には司教様の豪勢な館がある。ここでは今でもローマン・カソリックである。
「魔女の仕立て方と聖女エリザベート」
次の日にハルス山系の最高峰であるブロッケン山に蒸気列車で登るという前日のバスの中で前述したTDのお嬢様が「ゲーテのファウスト」のブロッケン山上のヴァルプルギスの夜に悪魔メフィストに誘われたファウスト博士が肉の饗宴に興ずる場面を読んでくださった。
バスの外はしのつく雨で、暗くなりはじめていた。そんな中で聞く、理性的な?ファウストが悪魔メフィストに誘われて肉の饗宴に興じるという物語はビビットくるものがある。キリスト教を背景として誕生した理性なるものと肉体との二元論を示唆するゲーテがいる。しかし、彼は当然のことながら、そこから踏み込んでキリストの構造に踏み込むようなことはしない。
この旅の間、ユーリー・ストノヤノフ氏の「ヨーロッパ異端の源流」を読み直していた。著者は1961年生まれのブルガリア人で現在ロンドン大学にいる。この本の出版は1994年で、実に著者33才の時である。30台でこのように様々な言語からなる古今東西の資料を渉猟して、その意味するものを再構成するそんな能力がいることに感嘆してしまう。ザラスシュトラ、トラキア(現ブルガリア)のオルフェウス教、ユダヤ教などの古代二元論(世界生成をさせうる原理はもともと二つあるという立場とでも云っておこうか、二つの原理がそもそも最初から二つあるーーを絶対二元論、それに対して一つの力の下部に二つの原理があるーーを相対的二元論、単一者的二元論とでもしよう。現在の我々では分かりにくいが、この原理は先験的である故に人間の力では抗しがたい、即ち変えられない。
この書は前述古代二元論をふまえて、正統?キリスト教の権威が確立された後に中世ヨーロッパ東部で古代からの伏流が湧いてくるように現れてきたキリスト教の二元論的異端諸派を取り扱った本である。異教ではない。アナトリアにおける「パウロ派」ブルガリアにおける大異端「ポゴミール派」その後を継ぐ南フランスにおける「カタリ派」などが勢威をしめし、それにたいして東方正教会・ローマカソリックといった勢力が弾圧しぬき、火刑しつくした歴史をしめしている。
それにしても二元論は中世社会でかくも人をひきつけたのだろうか。類推するに世に悪の原理が支配していると思わずにはいられない現実が存在しているということなのだろう。人に苦痛・不幸・憤激をもたらさざるをえない流行病、貧困、収奪、集団間の争いなどに溢れかえっていたのではないか。人々に悪の原理が支配している、「だからこのように対処しなければならいという」教えは説得力にとんでいたことなのだろう。それにたいして、権威をおかされた教会と世俗権力はあらゆる手段で摘発して、火刑においこんだ。後の魔女狩りや異端審問の祖形であろう。
私はペルーのリマの広場横にあるLa Inquisicionというスペイン時代のユダヤ人を対象にした異端審問所を観たことがあった。地下に拷問装置や牢がある恐ろしいものであった。因みにInquisicionとは建物の上部に塗られている緑色を意味する。転宗すれば天国が待つているという皮肉な装置である。
チューリンゲンの春の森が美しいアイゼナッハの町の近郊にはチューリンゲン方伯の居城ヴァルトブルク山城がある。豪壮な後期ロマネスク様式で、中にあのマルチン・ルターがギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳したという部屋と粗末な机が置いてある。
かって、イスラエルのベツレヘムの生誕教会でキリストが生まれたとされる洞穴を観て、教会の後ろへ出てくると聖ヒエロニムスの小ぶりな像があった。説明では聖書を訳した人だとあった。その後、聖書を成文化し、他言語へ訳された経過は「ヘレニズムとヘブライズムの交錯する場」としてまとめた。古代ヘレニズム社会ではギリシャ語が国際語であった。(現在の英語のようか)現在のエジプトのアレクサンドリアのユダヤ教徒が編纂した旧約聖書もギリシャ語で書かれ、パウロなど使徒伝も当然ギリシャ語であった。(しつこいがユダヤ語ではない)それをラテン語に訳したのがヒエロニムスだというわけである。このラテン語訳はヴルガード聖書といわれ、その後ヨーロッパ社会での聖書はこのタイプであった。カソリックとはこの定本を信徒に語り、その解釈を三位一体からはずれないようにすることだった。具体的にいうとドイツ語しか解さないこの地のカソリック信者はラテン語聖書を読めもしないし、読んではいけないのである。ルターはこの山城の一室でギリシャ語聖書をドイツ語に訳した。その後よく云われように印刷機の普及によって聖書が一般人にまで齎せるようになった。その結果、それまでカソリックの聖職者がいうことを「ごもっとも」と云っておいて、贖罪符でも買っておけばよいものを、それからは聖書を読んで三位一体というドグマに直接付き合わなくてはいけなくなったということを意味した。ゴクローサン。それにしても、この山城の一室を提供したチューリンゲン方伯家にとってもルターに与することは益だったに違いない。現在でも所得税の10分の1が教会税だなんて話を聞くと宗教解釈の争いは世俗の争いに直結するのだろう。その顛末としての30年戦争などといった歴史過程にはたちいらない。
このヴァウトブルク山城には13世紀のチュウリンゲン方伯の奥方でチェコ王家から嫁したエリザベート(ドイツ語よみ)が列聖せられているのだという。彼女は城から下って町の貧しい人々に施しをつづけ、後に数々の奇跡が証せられ列聖せられたのだという。
ヴァルトブルク城を観て、ホテルへ帰って前述書「ヨーロッパ異端の源流」の残りを読んでいると聖女エリーザベトの話がでていた。夜の夢に聖女があらわれてくれるかしら。
冒頭にヒトの表象性と可塑性によって可能になった「自己の家畜化」という動機ずけが「文明化」の可能にしたなどと夢想した。前項ではドイツの身の丈が代をつぐことによって高くなりうる点について述べた。キリスト教を含めた世界観なるものを伝えるなどということもこの型に事象なのであろう。自分の周りがそのようにしているものに自分をあわしていくということである。それを「もっともらしく」みせるために「真実」なる言葉が必要になった。繰りかえすと「文明」という事象に属することがらである。であるから、この世界は話がとうるという意味で合理的ともいえる。
ヒトは前記表象性と可塑性を手にいれるようになって、家族なる集団を形成するようになった。ホモ・サピエンスは他の哺乳類にくらべて特別に長い成長期をゆうしている。個体として他者の関与なしに生活できるまでが非常に長い。家族というシステムのなかではその他者とは多くの場合は父母とか、乳母役としての祖母である。
具体的には脳の効果器である手や声帯の発達と共発達する脳内神経系複雑化は視覚等の感覚器から受容する感覚とともに言語が主とした情報源であることに異論のある人は少ないであろう。周囲の狭い世界をみても電話で親子をまちがえることはあるし、自分は親は嫌いだといっている奴が親とそっくりな喋り方をしたりしている。
この時期に形成されたパターンが後の少年期や社会人になっての人格(よく分からない言葉ではあるが)をきめているのではないか、とかってに思っている。ある状況下での行動の発現ということを考えてみたい。状況を把握するためには#1:感覚を受容するという段階がある。その後#2:情報の認容#3:行動発現の取捨選択#4:行動などと複雑なのである。であるからこそ、やり直しができる可塑性がでてくる。#2#3の段階では「三つ子の魂」の様式によって支配されている。と勝手に思っている。その様式を他の迷惑をかまわず、振り回す奴を「人格障害者」という。
どうして、キリスト教の周囲の宗教を扱いながら「人格障害」などを問題にしているかというと、宗教の創始者やそれに続く奴は「天才的な勘違い」を人に押し付けることとセットで思い込むことができる人だかっらと思うからである。このタイプの型は「お前どうしてそうなんだよ。分ねーな」と他に言わさしめるように合理的でなく、理解不能である。文化的とでもいう事象である。
一方、前述の三つ子の魂に影響によって「自分が傷ついている」と思い込んでいる奴を「神経症」という。このタイプの一部の奴は先ほど天才的に勘違いした奴がおしつけた事象を文明として受け止める。宗教者の世間にはこんな関係があるのではないかという夢想である。
話題を変えるが、元々「単一存在下の二元論」であった(と私には思える)キリスト教正統派?が二元論諸派をかくも残酷にも弾圧できたのだろうか。その教説の基礎をなしたアウグスティヌスなど教父の言説を解析している余裕は私にはない。
それにしても、ザラスシュトラから始まった「世界はこうだ」という世界観(ザラスシュトラは世界は善と悪の闘争の場とした)が先験的だというイデオロギーはもっともらしさを人に与えている反面、どれだけの争いの源を与えてきたのだろうか。
「バッハの親指と様式」
冒頭にこのツアーにはバッハの事跡の場が含まれていたので参加したと記した。旅行に出かける10日前にアンジェラ・ヒュウイットの平均律クラヴィーア全曲を奏する演奏会に行ってきた。これから、本格的にバッハに凝ろうと思っているので、バッハがどういう場で生きていたのかを観てくるのも一興だと思ったからだ。
生地のアイゼナッハの町には「バッハの家」という古民家にバッハとその一族の歴史、同時代の古楽器の展示がある。古楽器の演奏もあった。家庭用のオルガンは前に演奏席がり、教会用のオルガンは後ろから弾く。3種類のハープシコードの音は軽やかだった。
門外漢の私も少しバッハの意味合いを分かりたいと思って、樋口隆一氏の「バッハの風景」小学館を持っていき、旅行中に読んでいた。分かったことは余り無いが、同時代人の手紙からみえるバッハの風景が面白かった。現在よりも圧倒的に演奏が音に直結しにくかったであろう往時のオルガンを弾くバッハの姿を同僚・仲間たちが伝えている。
「彼の練達の業にはあきれるばかりです。そもそもあの両手慮足をあんなに奇妙に、しかもあんなにすばしこく交差させたり、ひろげたりして、おそろしくかけ離れた音と音のあいだをとびかいながら、それでいてまちがった音ひとつまじえず、しかもあれほどの激しい運動にもかかわらずからだのほうは微動だにさせないなどいうことが、いったいどうして可能なのか、私にはほとんど見当もつきません。」J.A.シャイベ
引用が長くなったが、彼の演奏姿を彷彿とさせる。前揚書によると、それまでのオルガンの演奏技法では親指をあまり使わず、残りの4本指で弾いていたのだと言う。ご存知のように我々猿の仲間は親指と対する残指4本で木の枝を握ってたきたことから、物を握るようになった。バッハは親指を活用した演奏法を駆使したのだという。彼の才能が親指の使用を可能にして、さらに彼の音楽を大きくしたのだろう。天才というものの一端をすこし分った気分になる。
彼の一生は世俗的な王侯の宮廷での宮廷楽長とか、教会でのカンソルとの間を往復する人生をおくった。それなりに、王侯とその家族、教会の聖職者、市の参事会員との付き合いも大変だったにちがいない。
晩年の20数年を過ごしたライプツッヒでは聖トーマス教会の祭壇前には彼の遺骸が埋葬されていた。
その夜にゲヴァントハウスで弦楽四重奏曲を聴くことができ、至福のひと時を過ごすことができた。音の響きはすばらしかった。また、ホールが明るかったのが楽員がステージに登場するとホールの照明が暗転すると同時にステージのスポットライトが明るくなるそのタイミングが、This is Europa.
ここライプツッヒでは豊かな市民層の誕生により、ホールの建設とオーケストラの維持が可能となった。結果、音楽の徒は芸術家仁なれた。これもヨーロッパの成熟である。
前記、TDにでも教わらねばヨーロッパ建築史における様式、ロマネスク、バロックなどといった、は全く私には分らない。しかし、次の様式を可能にする技術面での進展があり、そのことによって次代の様式の流行も流行したぐらいの理解はできる。
音楽、美術の歴史にはたした様式の役割は。わー、勉強するのは大変だー。
「それぞれの地方とうるさい一極集中」
ドイツで感じたことだが、それぞれの地方都市が共通な構造がありながら、独自な美しさと余裕があることだった。イエナなどという数万人の町からカールツアイスという世界的なレンズメーカーがうまれた。などといった話はいっぱいある。
当然、前述したようにシュロスに巣くう領主権力が分かれてこのドイツの地に存在した。現在のそれぞれの町の独自さもその歴史を反映したものだろう。そもそもドイツという言葉はこの地のゲルマン集団では民衆を意味するものだったのだという。この共通語がなければ、犬とともに眠るフリードリッヒ大王などのドイツ統一などは無かっただろう。
成田空港には朝着いた。いつも成田からは成田エクスプレスで東京駅へでて、新幹線で帰ることにしている。それにしても、切符の買い方と乗り方の複雑さはなんだ。
それにしても、この空港の遠さは何だ。
駅に着いて、エスカレーターに乗ると、無機質な音声案内ががなり始める。新幹線のホームに着くとその案内がいろんな方角から絶え間なくなくおそう。そのおせっかいさの裏側にJR当局のここまでやっているという責任執りたくない症候群がすけてみえなくもない。
帰りの新幹線のなかでドイツを思い出していたら、その頑固さ融通の利かなさ、ケチなどと気がついた。そしたら、戦前あれだけ鬼畜米英を叫んでいた日本の保守層がアメリカとの軍事同盟をかくも所与のもののようにしか扱えないのか不思議だったのだが、ドイツの融通のなさを思うと日米保守層の利の聡さはマッチングがよーい。納得。

  
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2008年05月14日

2分法

二分法への飛び越えとその波及
 ザラスシュトラという風景

何十年も経ってしまったが、今でも馬鹿馬鹿しいと思い出すできことがある。戦前の旧制高校の伝統からか、この国にはドイツ風の?教養主義があり、ために大学に教養課程なる無駄な時間があり、それが私の怠惰な部分を引き伸ばし、結果的にだめにした。(と人の所為にしている)往時、青春病のなかにいた私は「倫理学」という選択科目をとってみた。ある日の講義で、BC7世紀を枢軸時代と云っていた。それは、その世紀に釈迦・孔子・ソクラテスという後世の人類精神史に影響を与えた、画期となる思想家を輩出したからなのだという。余りの単純化と肯定化に馬鹿馬鹿しくなり、2度とその講義に出るのを止めた。私の青春期の一こまである。
近頃、後世に影響を与えた思想家としてだったら、ザラスシュトラ(英語ではゾロアスターと表記する)を加えたら、どうだと勝手に思っている。二分法による世界観の確立と善の神・アフラマツダを選ぶべしとした倫理的宗教の創始者としてである。
哲学史を読むと、まずギリシャの哲学者群から話が始まる。あたかも、それ以前の歴史社会において、哲学的思弁が無かったかのように扱われる。日本の西洋哲学者も当然そのヨーロッパ中心の「クセ」を踏襲している。彼・ザラスシュトラの属した社会の後継者であるハカーマニシュ(アケメネス)王朝のペルシャ帝国との戦争に勝ったギリシャの後継をにんずるヨーロッパでは、彼・ザラスシュトラから影響を受けたことは無視されやすい。
実際にはBC6世紀には彼の名前はギリシャ世界には響いていた。また、イラン世界の東方ではでは、インドで大乗化した仏教の東斬にあたり、ザラッシュトラ教のミスラ神格が未来仏としての彌勒仏になるなどと彼の宗教の後世への影響の範囲と深刻さは大きい。他にもローマ世界でミトラ密儀と呼ばれたのは、イランのミスラ信仰でオリエント由来のこの宗教は大流行し、キリスト教が国教化に成功していなければ、ヨーロッパの光景が変わっていたかもしれない。
今、青木 健氏の「ゾロアスター教」講談社選書メチエ、を読んでいる。この国にイラン思想史を研究しようなどとする志す人は多く無いのだろう。だから、ザラスシュトラ教の本を数札読んできたが、さっぱりこの宗教のイメージが掴めて来なかった。けれど、この本によっていくつかの分かりづらいことがつじつまがあってきたことがあったので、それに沿って「ザラスシュトラの二分法の特徴を考えてみたい。
まず、彼の属した古代アーリア人の信仰生活を考えなければならない。
実は実際には、中央アジアからイラン高原へ遊牧しながら移動した(とされる)古代アーリア人の信仰を再現することは困難である。ザラスシュトラ教における神格やインドへ侵入(したという学説にしたがえば)したインド・アーリア人の神格のパンテオンからの類推でしかない。そこから想像をたくましくする。彼らは自然現象や社会事象のそれぞれに相当する神格をもつ多神教のパンテオンを有する。
その神格と人間の願望を結ぶつける作業が白魔術としての祭祀ということになる。それを支える社会階層としての分厚い祭祀団がいたとされている。(もっともこの強調もインドのブラーフマナ階層からの類推からかもしれない)
ザラスシュトラ自身もその祭祀階層の出身とされている。(前揚書)社会からの願望を叶えるために、多神への祭祀行為をしていた日常からの彼の「飛び越え」の結果を、彼の主張の筋書きからみてみたい。
#1:アフラ・マズダー(叡智の主)という善の神格の創案 #2:悪の神格としてのアンラ・マンユ(大悪魔)の創案 #3:それ以前の自然現象を神格化した神々を#1の善側に6体、#2の悪側に6体ずつ配置するという既存神の降格化 すなわち元来善悪という対立する二つの原理があるという二元論が成立する。そして#4:この世を善悪対立の戦いの場であると設定することによって、善を選択しなければならないとする。義務的な倫理規定の誕生である。この倫理規定は#5:善を選択しなかった個人の死後はその霊魂は「チントワの橋」は狭まり、地獄に落ちる。という筋書きによって強迫性を帯びてくる。
さらに善悪二原理の対立は世界を#6:終末させる。その終末の日には地下から溶岩が湧出してくる。その時、善人には溶岩はミルクのように感じられ、悪人には熱くて耐えられない。その結果、悪の敗北により善の完全勝利がもたらされ、この世は至福の時を迎えるとされる。くりかえすと、彼の主張の筋書きは#1から#6という方向性があるから成りたつ。
ザラスシュトラ自身がどういう人だったかは濃い霧の向こうにいる。しかし、その主張からはどういうタイプかは推定してもよい。人によって何がどの程度にストレッサーになるかは異なる。そして、ストレッサーに対する処理方式もそれぞれに違うのだろう。成育過程でそのストレッサー処理過程を人間関係へ投影して処理するクセがついたタイプの人間がいる。そういう人は関係性の偏りを自覚できず、育ってきているから他者に迷惑をかけたり、傷つけても気がつかない。臨床心理学ではこういう人たちを「人格障害者」と総称する。それらの人々は「おせっかい」でかつそれを自覚できない。
前述のザラスシュトラの主張の#4における善を選択すべしという倫理規定は押し付けがましい。個人の死が起こることはやむをえないが、世界が終末するという思想はおせっかいをとおりこして、他者を脅迫する。だから、彼の主張は彼のもつストレス対処法のくせー他者への押し付けがましさ#4、脅迫#6から発して、#1#2の善悪を司る神格ありきという二元論が誕生し、#3の諸神の降格化が意図される。
こんな風な云いかたをしてしまうと、実もふたもない。
古代アーリア人の社会では様々な神格を有する神への祭祀を執り行う「祭祀団」が分厚く存在したらしい。だから、ザラスシュトラの宗教革命における先ほど指摘した諸神の降格は祭祀団には大打撃を与えたに違いない。だから、後世の教団は善悪二元論のワクを守りつつ諸神の復活を図ったらしい。そのことによって、教団は生き残り、後代のサーサーン朝ペルシャでは国教の地位を確立した。
しかし、その先代のハマーニッシェ朝やパルティア時代のこの宗教の実態は良くは分からないのだという。
急にセム族のヘブライニズムにおける唯一神教の成立という話題にしたい。このblgのシリーズで先に「新バビロニアのネブカドネザル王によって、バビロンに捕囚されたユダヤ人たちが、バビロンを開城したハマーニッシェ朝ペルシャの創始者・キュロス大王により、開放され、エルサレムへ帰ることを許された。特筆されるべきことに、世界の中心地・バビロンに留まったグループがいたことである。彼らによって律法書が編纂された。」(先住民絶滅の地・パタゴニアから  世界観の形成を一神教の成立の後段という場で推論する)
先ほど、ハマーニッシェ王朝下のザラスシュトラ教の実態ははっきりしないと書いた。だからこの先の話は推論で証拠はない。そもそも宗教者なる人格障害者、特に自尊心のみ強いユダヤ人たちが、律法書編纂にあたってザラスシュトラ教から影響を受けた証拠などを残すはずはないだろう。
人は何時でも将来こうなってしまうのではないかという不安・現実に自分の思うとうりにならない不如意感・それを他者に投影した不満・自分の好ましく、必要なモノを失った喪失等等等にあたってはそれぞれの応じて思念が沸き、とともに悲しみ、怒り、焦りなどの感情が伴ってくる。
前に挙げた反対の事象・希望・満足・獲得等等等にあってもそれぞれの思念の後に感情を伴う。これらの思念・感情の総体を仮にここでは「自己=self」と呼ぼう。しかし、selfはその経験を性格にして受け取っているとは限らないだろう。逆にあるいはヒネクレテ受けとっていることはおおいなあることは一度冷静になれば判ることもある。
一方、それらの経験を記憶で結びつけている意識を「自我=ego」としたい。例えば夢をみるということを考えてみると、経験で人は傷ついたと感じたときに夢で修復しているのだと思う。即ち、経験を時間のなかで記憶を取捨選択した結果としての自我意識があるのかもしれない。
いずれも私の中から湧き上がってくるものでしかない。先験的にあるものではない。先ほど挙げたマイナスの経験を「悪のなせるもの」・プラスをもたらすものを「善のなせるものだという」とする態度は、誰かが示唆してくれれば、簡単に成立する。一種のカントのいう「自己の家畜化」である。この説明は複雑な事象を対立する2項で説明できるという単純化というイデオロギーを生む。光―闇、始まりー終わり、善―悪等等等
光にもやわらかい朝・真昼の真上から・薄暮色々あるではないか。闇にも月夜・星明り・色々あるではないか。
このザラスシュトラの提示した「新しい地平」は偏狭なセム的自己意識にヘレニズム的思考が纏わりつき、ローマ帝国内の格差の中で被害意識を神に選ばれたとする優越感に変えることに成功したキリスト教はヨーロッパを席巻し、その基調を造った。ローマ教会の分裂後のコンスタンチノープルで成立した正統教会は教線を北に伸ばし、ロシアまで達した。
その後、遅くきたイスラームが勃発した。シリアのダマスカスへ行った時、メッカの商人ムハンマドがこの街で勉強していったという話を聞いた。この街はキリストの使徒・パウロの「目から鱗が落ちたとされる回心」が伝えられた。
先ほど自我意識が成立する場では、記憶は勘違いするとした。この一神教の世界では神に選ばれたとする「集合記憶」による集団は簡単に成立し、違う神を選んだ他集団を攻撃することを善とする。そういえば、イラクにあるイスラーム少数派のシーア派の聖地カラバリは宗祖アリーが殺された所である。ここを廻ってのスンナ派との争いは絶えない。
繰りかえすと、ザラスシュトラの飛び越えとそれに続く自己家畜化という独断について述べた。
イラン南部のヤズドにはザラスシュトラの宗教の残滓があった。彼らは遺体を穢れたものとして、清い地と光を汚さないために、遺体をダフマという塔の底に置きっぱなしにして、禿鷹に始末させる。その塔に入って寝てきたことを思い出した。そこから、見た空は青かった。
  
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2008年04月09日

ロシアのでき方

ロシアという出来方
  ウズベキスタン・ブハラのレストランから

{ウズベキスタン、ブハラのレストランで}
ウズベキスタン旅行はご機嫌だった。なにせ、ガイドのウズベク族のお嬢さまが美人だったからである。その顛末は‘5年にこのblogのシリーズで「ウズベクのガイドは美人だった」と題して投稿した。ブハラのホテルのレストランで食事をしていた時の彼女の話と表情が忘れられない。レストランに入ってきた母子を見て、ヒソヒソ声で彼女は「タタール人なのよ」と云う。その折の彼女の表情には軽蔑と恐れがないまぜになったような複雑なものを一瞬感じさせた。その折の複雑な表情が気になり、記憶にのこってしまった。店に入ってきたくだんの女性は30代後半とおもわれ、綺麗な金髪で背は低く、瞳は黒いし、。なかなかな美人であった。タタールという名は日本人にはチンギス・ハンの属するモンゴル部と対立する遊牧部族名としてしか馴染みがなく、モンゴロイドであると漠然と思っている。その先入感と私の前を通り過ぎた彼女の風貌は異なる。ヨーロッパで彼女を見たらコーカソイドである。
タタールといえば、ロシアにタタールスタン共和国があって、その首府はカザンだななどと、漠然と思っていた。だから、母子はタタールスタンから観光か商用で来たのかと思ってしまっていた。何故ガイド嬢があのような様子を見せたのか不思議だったのである。
ところが、先日ロシアへの旅行ガイドブックを読んでいたら、第2次世界大戦の末期1944年5月に、スターリンによって対独協力の汚名をきせられて一夜にして、数十万人のクリミア・タタール人が往時のソ連内のウズベキスタンなどに送りこまれてきたのだという。なるほど、それだと合点がいった。単なる旅行者ではウズベク族ガイド嬢の複雑な表情は説明できない。それにしれも私の不勉強さ。
そういえば先述したblogでタシュケン近郊のレストランで高麗人の女性がウエイターとして働いていたことにはふれた。彼女は東洋人である私を見て、一瞬話しかけようとしたが、韓国人でないと気がついてやめた様にみえた。彼女の父祖は東の沿海州から連れてこられ、タタール人女性の父祖ははるばる西のクリミア半島から連れてこられたということである。
スターリンの猜疑心の為せる業はすごい。私は日本アルメニア友好協会(JAFA)入っている。そこでもれ聞いたことであるが、彼は南カフカス・グルジアの田舎町の貧しい靴職人の子として生をうけた。だから、単純にグルジア人だと思っていたが、実は父親はアルメニア人だったというのである。この地域では、各民族が混在してるのは常態だろう。民族などという手垢のついた言葉を使いたくないが、適当な言葉がない。異系の父親への反発があのような暴力的革命家をつくったのか?
そういえば、旅行中ガイド嬢は民族ということに敏感なように見えた。自分やドライバー氏はウズベクでドライバー氏の奥様はタジクでブハラのホテルのオーナーはドイツ人でそのために、今日はドイツ人の旅行団が来ているといった具合である。
そのオーナーももしかするとスターリンに追放された東方ドイツ人かもしれない。
金髪の美人さんをクリミア・タタール人の末裔だと仮定して論を進めたい。
これからの論は京大教授の杉山正明氏の「興亡の世界史 09 モンゴル帝国と長いその後 講談社」によっている。氏は「明治期に西欧の歴史学を導入した日本の世界史は、その枠組みを引き継ぎ、それなりのクセがある」と云われる。目からうろこである。13世紀にモンゴル帝国軍の侵略を受けたヨーロッパではその時の恐怖心を維持、拡大していく傾向がつよいし、恐怖は逆に対象を軽蔑、差別の対象にする。恐怖をひっくり返した心理が対象であるモンゴル軍をヨーロッパではギリシャ神話の「地獄の主・タルタロス」に例えた。たまたま、先ほど述べたようにチンギス・ハンの属するモンゴル部と対立した部族の一つにタタール部があった。チンギス・ハンによるモンゴル高原の統一後にはモンゴル・テュルク連合体の一部にタタール部が組み込まれた。一過性のモンゴル軍の攻撃で終わった中欧と異なり、現在のロシアのヴォルガ河流域・ウクライナ南部・クリミア半島ではモンゴル帝国の支配は長く続き、とくにクリミア半島部では18世紀までに至った。(クリム・ハン国)そのモンゴル・テュルク連合体を前記「タルタロス」と「タタール部」とわざと混同させてタタールと総称するようになったのは何時からなのだろうか?
その経過を振り返ってみよう。
この地域ではノヴォゴロド、キエフで細々と成立しつつあった「ルーシー族の都市国家」が後に大国になる「ロシア国家」になっていった。当然前記タタール国家との関係は濃密であった。その経過を見ていくと「ロシアという国の成りたち方」が見えてくるかもしれない。杉山氏の前揚書の「長いその後」にあたる。
{モンゴル帝国}
全ては1206年に現在モンゴル高原とよばれる草原でテムジンがモンゴル・テュルク系の遊牧生活を続ける諸部族を纏め上げ、チンギス・ハンとして即位したことに始まる。
前揚書の「モンゴル帝国」の部分にあたる。この地域は北方ユーラシアに東西に広がるステップと呼ばれる草原地帯の東部にあたる。このステップではスキタイ・匈奴以来の遊牧文化の中にある。しかし、この地球規模の広大な光景では、人間は多岐に言語・文化・系統をことなる集団に属している。チンギス・ハンは支配下に置いた集団を、軍事組織としては戦士の数で十を基本として、十進法により百・千人隊という具合に編成した。また
その戦士を供出できるように、軍事組織にあわせて遊牧社会を再編していった。戦士たちは基本的に馬・武具・食料などは自弁で戦闘に参加した。参加者はチンギス一族と「ともに富貴を亨ける」を期待する集団の誕生である。
その軍事・社会集団のうえにチンギス・ハンの命令一下動員される国家組織をつくった。それをモンゴル語で集団・国家を意味する「ウルス」といった。「大モンゴル・ウルス」の誕生である。チンギス・カン自身はモンゴル高原に4群のオルド(天幕)を有しており、ウルスの中心に位置し、南面した。そこから西のアルタイ方面である右翼にあたる。ソコにチンギスの息子達ジョチ・オゴテイ・チャガタイのそれぞれの名を冠したウルスが置かれた。即ち、何個かの千人隊を供出できる遊牧社会の支配をチンギス・ハンが息子たちに与えたということである。先ほど挙げた息子の名どうりに北から南の順におかれた。即ち、ジョチ・ウルスが最西北に位置した。東部の大興安嶺方面・左翼にはチンギスの3人の弟にそれぞれウルスを同様に与えた。そしてこの中央・右翼・左翼という型はモンゴル帝国国家の基本構造として維持されつづけた。
以降拡大し、世代を繋いでいき、世界帝国になっていったモンゴル・ウルスの各ハンはチンギス・ハンの血を継ぐとものとされた。チンギスの血を継ぐことが支配の正統性を担保することであった。後にチャガタイ・ハンの領域を切り従え、帝国といってよい規模の国家をなしたティムールはモンゴル貴族の家系ではあったが、チンギスの直系ではなかった。ゆえに、ハンを名乗らず、チャガタイ・ハンの系統の女を娶り、いわば「婿殿性」を支配の正統性とした。その形はモンゴルとの複雑な愛憎関係にあるロシア国家にもある。それは後にみる。
話は戻る。1206年の即位以前のテムジン時代のチンギス・ハンの実像は掴みずらい。故に歴史小説家の想像を逞しくする。しかし彼の前半生に多くの裏切り・背信・無視が同族人との関係てあったろうと簡単に想像できる。1206年の即位までの期間、彼は敵対的であった人々を後で罰するということが非常に少なかったらしい。有用であれば、使かえばよい。チンギス一族と「ともに富貴に亨け」ればよい。第1次モンゴルの誕生である。
彼らが周辺国・西遼を滅ぼす過程、結果においては、遊牧のキタイ族が加わった。第2次モンゴルである。モンゴルが世界帝国になる過程で、彼とその一族を中心とする同心円の輪は大きく、多層になっていったということらしい。その総体がモンゴルという語で括られた。もちろん、征服の過程で頑強な抵抗や裏切りへの報復的な虐殺があったに違いない。
話をウズベク旅行にもどす。当然サマルカンドの街はこの国観光のハイライトである。広い街路のみられるソ連時代に築かれた新市街、道が狭く民家が密在する旧市街にはたくさんのモスク群や廟がある。その上部の装飾タイルはみな青でサマルカンド・ブルーとよばれる。ティムールの趣味から始まるのだという。遠景には美しいが近ずくと緻密さに美を見出す日本人の目には荒い工事だ。
旧市街の北部には「アフラシャブの丘」と呼ばれる膨大な土塊がある。モンゴル軍に破壊された元のサマルカンドの街である。此処に立つといろんな遺跡をみた感覚とは全然違う。背筋がぞくぞくしてくる。ところで、モンゴル軍はこの街を攻めたときに、鉛管でできた上水道システムを破壊したのだという。この乾燥地帯にあっては、住民は街から退去せざるをえない。街は破壊されたといよりは、放擲されて廃墟になったというのに近い。
後にはモンゴル軍の残虐性が声だかに喧伝される。アフラシャブとは後世付けられたネーミングで伝説上の初代の「ソグド人」の王である。この廃墟の丘の下には歴史博物館があり、遺跡で見つかったソグド人の婚礼の行列が正確に再現してある。これは文句無く美しい。彼らソグド人の文化レベルは高いとすぐに分かる。このトランス・オクサス(アムダリア河の古語)は南のイラン世界、西のローマ、東の中華世界との中継点にあたり、交易商人としての活躍は史上名高い。彼らのもたらした文物は広範である。例えばゾロアスター教、大乗仏教、西へは絹、紙などである。日本の正倉院の国宝の「白瑠璃椀」はサーサーン朝ペルシャのガラス製品を彼らが唐にもたらしたものである。その彼らも7世紀のイスラムによる侵入により、アラブ商人にとって変わられたのだろうか、文化的特性を失い、歴史の中に埋没していった。サマルカンドの街といっても、住人は代わってしまったということである。ユーラシアではそんな変遷は繰りかえされる。13世紀チンギス・ハンがこのオアシス都市国家を襲った時、この街はテュルク系のホラズム・シャー帝國下にあった。話が横道にそれた。
先ほど、モンゴル高原の右翼におけるジョチ・ウルスが各ウルス中最北に位置するという話はした。この地域はユーラシア大陸中緯度の乾燥地帯の東西に地球規模で広大に広がるステップと呼ばれる草原地帯の東にあたるということは前述した。そして、その帯は西にはカザフ草原さらにその西のヴォルガ河流域のキプチャク草原、さらに黒海北部を越えてドニエプル流域にまでいたる。当然、そこにはさまざまな遊牧民が暮らし、集団をなしている。モンゴル高原の遊牧社会から発したモンゴル・ウルスにとって同様な生活スタイルを有する西の草原を征することは、正統なことと意識されていたに違いない。チンギス・ハンがその長子のジョチのウルスを西北端に置いたことは、前記西の草原を切り取ることをジョチ家へ遺言したともウルスの人々には受け取られたかもしれない。ジョチは1227年に死んでいる。1936年にその次子・バトゥを主将とするモンゴル・ウルスの西征が始まる。その最初においてはアラル海北域、現カザフ・ステップでは制圧に手間取った様子はない。それはジョチ以来の「西方拓疆」が完了していたことを意味するのだろう。遠征の準備はできていたのだろう。
その後、北方に転じ、ヴォルガ・ブルガールの本拠地をついて、従えている。私はブルガリアへ行ったおり、ブルガリア人とはカスピ海北沿の地にいたブルガール人たちが2手に分かれ、その内の一派が遥々黒海の北をとおり、その黒海西岸の現ブルガリアの地に定着したのだと聞いた。その時、アジアとかヨーロッパとかいう区切りですむ話ではないと実感した。ユーラシアという空間の広がりを前提にしなければならないと思ったことをおもいだした。そのブルガール人たちの故地はロシアの現タタールスタン共和国の辺りにあたる。その地の住人にはブルガールの血が流れている。タタールスタンではなく、ブルガールスタンでもよかった。
その後、諸侯の勢力に分かれた「東北ルーシー」の地、モスクワ、ウラジミールをおとし、その後南に転じ、北カフカスを掠め、キエフからポーランド・ハンガリーと現ヨーロッパと意識されている地を襲い、最終的には東方にもどり、キプチャク草原へ本拠地としてジョチ・ウルスの右翼としてのバトゥ・ウルスをサライに築いた。
バトゥ家の天幕群は黄金の刺繍でかざられ、そこに伺候せざるを得なくなったルーシ諸侯からは「ゾロタヤ・オルダ」ロシア語で黄金のオルドと呼ばれた。バトゥ・ウルスはルーシ国家をその版図にいれたが、直接支配することはなかった。オルドに諸侯に呼びつけ、「大公位勅許状=ヤルルウイク」なる所領安堵のお墨付きを渡し、ハンへの住民の徴税・貢納を代行させた。徴税の請負である。その監視のためにウルスからの代官・バスカクを置いた。ようするに、緩やかな間接支配に任せたのである。モンゴルからみたルーシはその程度な存在であった。もちろん、正教系のキリスト教の禁止、モンゴル語の強制、風俗をモンゴル風にさせるなどといったヤボなことはしない。貢納を怠ったり、反乱を起せば、ハンの命令一下チュルク、カザフ、キプチャク系よりなる軍勢が押しかけるだけだった。
この関係は永く続いた。その後、世界(ユーラシア)は一体化し、パックス・モンゴリア下における交易は拡大された。そのお余りに与ったルーシ諸侯もいるはずだが、ルーシ側の資料が強調することはない。
ユーラシア大陸中央部から西部へかけては中国の新疆からオスマン・トルコまでチュルク系の諸族が帯状に居住していた。その北縁にあたるジョチ・ウルスのモンゴル人も言語はチュルク語になり、宗教もイスラム化して、他との区別がつきづらくなっていった。
{ルーシ}
さて、さっきルーシ諸侯と単純に呼んだが、問題は簡単ではない。古来この大地に住んでいて東スラブ語を話していたルーシ族の有力者が諸侯となり、やがてその中で力を付けたモスクワ公国が広域化してロシア帝国になったというほど、直線的な経過ではなく。ルーシ意識というアイデンティティーは錯綜する。
9世紀に治安が乱れたこの地の住民がスカンディア半島にいたバイキング族の首長リュウリックを招聘して、公にしたというヴァイキング招聘伝説があり、彼ら外来の傭兵隊長のようなものを「ルーシ」と呼んだのだという。そうだとすると、もともとの住人が自分たちがルーシだというアイデンティティイは最初にはない。
とにかく、リュウリックの系統はスカンディアナビアに近いノヴォゴロドに公国を築き、やがて南のドニエプル河沿いのキエフの町を襲い、キエフ公国をこの地域の最大な勢力にした。やがて、この地域の住民もノヴォゴロド、キエフ・ルーシと呼ばれるようになった。後世になって、ロシアなるものが成立したということに、画期をやくした英雄として3人があげることに文句をいうロシア人はないであろう。
その3人とは#1:アレクサンドオル・ネフスキー #:イヴァン4世(雷帝) #3:ピョートル大帝である。ネフスキーと雷帝の間には300年近い時間の経過がある。ネフスキーとは後代に西から侵入したスウェデン軍をネヴァ河の戦いで破ったことを称えられて、ネヴァ河のという意味で「ネフスキー」と祭上げあれた。その前半におけるスウェデンとの戦争に比してバトゥ・ウルスには融和的で彼は4回目のその都サライ訪問(伺候といってよい)の途次、死亡した。即ち、ルーシ集団の独立を守るという立場からみると「二律背反」なのである。彼はウルスの支持を利用して、競争者である弟を排除した。なぜ、ウルスが支持するかというと、ルーシ諸侯に徴税し、その貢納を安全にサライに送った。要するに請負である。ウルス側にも請け負うルーシ側の人間、システムが必要としたのである。逆にいえば、ルーシ民衆や諸侯側からみればウルスからの代官とともに簒奪者なのである。この二律背反者を後のロシア正教は聖者として列聖する、あのネヴァ河の英雄・ネフスキーとして。最初から屈折したルーシ意識は、この二律背反者の一面を隠すことによって更に錯綜する。栗生沢猛夫氏の「タタールのくびき :東京大学出版会」によると13世紀当時のルーシ年代記は数が少なく、かつモンゴルの破壊、虐殺をも語らない。ところが、年代が下るにしたがって年代記におけるルーシの被害は立派になり、モンゴルは神がくだした「天魔」として巨大に成長していく。天魔がいたほうがロシア正教という宗教勢力に利がある。また確立しつつあるツァーリ(カエサルのロシア語)制にとっても、そのウルスへの貢納の伝達者への役割を忘れさせる効能をもたらしてくれる。ルーシ民衆の怨嗟の声がツァーリには向かわない。「タタールのくびき」は声高に挙げられる。
そして、彼アレクサンドルの末子、ダニールがモスクワ公となり、請負という役割はキエフに比べて、小さな田舎町であったモスクワに引き継がれた。
{その後}
変化はモンゴル側でもおこる。その後、バトゥ・ウルスは緩やかな弛緩の中にあった。結果、1440年から1464年にかけてバトゥ・ウルスはクリミア・カザン・アストラハンの3カン・ウルスに分裂した。
一方、貢納を請負することによって、力を付けたモスクワ公国の公は、ウラジミール大公を兼ねることによって、ツァーリ化の道を開いた。宗教面でもモスクワに総主教座をおき、ロシア宗教の国教化を推進した。その初期には、総主教はコンスタンチノープルから送られた。当然のことながら、彼らの母語はギリシャ語でルーシのことを、ロースまたはローシアと発言した。その言葉をルーシの元締めであるモスクワ公が国家の名前として採用した。日本という漢字をニホンと読み慣わしているうちに、アメリカ語でジャパンと呼ばれているから、日本政府がジャパンと呼ぶようになってしまったというようなものである。
先ほど、ロシア史に画期をやくした2番目ロシア式英雄として、暴虐な帝王イヴァン雷帝(4世)の名を挙げた。彼の時代にバトゥ・ウルスの分裂したカザン、アストラハン両ハン国を滅ぼした。カザンでは、男は皆殺しになり、女は俘虜にされた。それを見たアストアハン・カン国は自ら投降した。
そこへのロシア帝国の進出にあたっては、バトゥ・ウルスが宗教を強制しなかったのに対して、ゆるやかにイスラム化していった住人にロシア正教が強制され、それに伴ってロシア帝国の臣民としてのアイデンティティーが求められた。
ここで振りかえって、ロシア史を旋回させたイヴァン雷帝自身のことを考えてみると彼の母はジョチ・ウルスの直系で、やはり2度目の妻もジョチ家の血脈であった。つまり、彼の支配の正統性自身がティムールのところでふれたように、モンゴルのチンギスの血に対する「婿殿」性の半分に依拠している。しかし、現実には彼は帝国化し、ロシア正教を背景にしたロシアというアイデンティテイーで、対外的に獲得した諸カン国に臨み、かつ対内的には、ルーシとしての民衆の農奴化へすすむ。それは次代のロマノフ朝の農民の移動禁止をとうした農奴制の強化によって完成し、西ヨーロッパで成立した「市民」と著しい対比をなすようになる。現代ロシア語で農民を意味する「クレスチアニン」はという言葉はキリスト教徒を意味する「フレスチアニン」から派生した事実に示された農民のアイデンティティーは支配層のロシア意識とするどく対立する。
また、遠隔の地で他の正教圏との交流が少なかったロシア正教は典礼様式が他から著しく異なってしまった。そこでロマノフ王朝側は旧来の儀礼を、ギリシャ正教風に突然、強行に変更した(教会分離、ラスコール)。旧来の儀礼を守ろうとした人々は分離派とよばれ、迫害の対象になった。そのことはロシア社会に深い傷を与え、ロシア帝国の上層と聖ルーシ意識をもった民衆の分裂は深化した。それは、19世紀の上層のインテリをきどる「アロードニキ」の時代まで続いた。
一方、カザン、アストラハン両ハン国滅亡後の諸ハン国の運命をみると、最東部にあった「シベル・ハン国」は滅ぼされ、その東という意味で「シベリア」と呼ばれた大地に飛び出したコザック兵はあっという間に太平洋に達し、ウラジオストックの町を造った。ウラーはロシア語の雄叫びでストックは東をさす。シベル国があいて、ウラーと雄叫びを挙げながら飛び出していったコザック兵の姿を彷彿とさせる。そういえばロシア南部にはウラジカフカスという町がある。ロシアの周囲の諸国、民族は大変だった。
バトゥの弟、シバンを祖に擁く「シバン・ハン国」の住人はいつしか「ウズベク」よ呼ばれるようになった。一説には勢力を拡大したハンの名「オズベク」に由来するというのだが。ロシアに圧迫されたウズベク族はハン・ムハンマド・シャイパーニに率いられ、はるばる南のサマルカンドに押し寄せ、ティムール帝国を滅ぼし、シャイパーン王朝を築いた。シャイパーンとはシバンのイラン風な発音である。ここでも住人は代わる。
玉突き状に押し出されたティムール帝国のアクバルはアムダリア河を渡り、アフガニスタンを南下して、インドへ攻め込み、デリーに「ムガール帝国」を築いた。当然ムガールはモンゴルの意である。
諸ハン国の滅亡をうけながらもクリミア半島のクリム・ハン国は長く命脈を保ち、最終的に滅ぼされたのは女帝エカテリーナの時代である。ロシアが黒海沿岸に達しることができたのは、極めて新しい。権力を失った住民は大挙してオスマントルコ帝国に亡命した。ロシア、ウクライナ系住人の殖民が続き、ハン国からの住民は少数派に転落した。そして、最終的に第2次大戦中にスターリンによって追放され、金髪の彼女はブハラのホテルに現れた。
ブハラ・ハン国にはアストラハン・ハン国からの亡命者が政権をたて、またその西のヒヴァではウズベク族がハン位に着いた。チンギス以来の統治システムはイスラム化し、テュルク化しながらも細々と命脈をつないだ。
先ほど、現在タタールスタン共和国となっている地は、かってブルガール族の領域だった。それをジョチ・ウルスが征服した。その後に分裂して、カザン・ハン国となった。故に住民の遺伝子にはブルガールの血が色濃い。ソ連邦が形成された時にこの地の共和国のネーミングを如何するかということが問題になり、ブルガールスタンという案もあったのだという。しかし、結局タタールスタンになったのだという。ロシア共産党の民族意識を垣間見ることができる。当然この地の住人には反発と独立への志向が内包される。
{再びブハラで}
19世紀勢力を広めたロシア帝国によって、現在中央アジア5国になっている領域は植民地化されていった。そして、1920年代にロシア革命によって民族問題は解決されたはずであった。故に問題はないという前提は、被支配民族にとっては抑圧そのものであった。共産党による開放はなかった。
1920年には長く命脈をたもったブハラ、ヒヴァ・ハン国はロシア共産党によってつぶされチンギス以来の血は絶えた。往時の建物がほとんど残るヒヴァの内城・イッチャンカラではハン時代の牢獄がそのまま残され、安っぽいマネキンの囚人が繋がれ、また囚人を塔の上から生きながら投げ落とす「残酷刑」が文明的な共産党の宣伝臭さながら、デモされていた。ウズベクの美人のガイド嬢はホテルのホールで歌っているロシア人のオバサンをみて、ロシア人の芸術性への憧れを隠さない。
また、かってウズベク共産党の第一書記だったカリモフは独立後も独裁的な大統領として、権力を握ったままでいる。ガイド嬢によると「彼はモスクワへ行ってネジを巻かれてくると元気になるのだという」。中央アジア5ヶ国の国境線はスターリンによって、民族の居住する現実を無視されて引かれた。ゆえに、民族の混在があちこちでみられる。この国の東隣にはタジキスタンがある。繰りかえすとウズベク族はテュルク系である。ということはテュルク系の言語を話し、文化をもっているにすぎない。タジク族はイラン系の言葉を話す古くからの民族である。前記カリモフ大統領は少数派のタジク出身であるという。その彼は2年ほど前に、この国の東部で起こった民主化運動を銃で抑圧した。殺された人々にはタジクが多いはずだ。タジクスタンに近い東部にはタジクが多いはずだからだ。
チンギス以来のモンゴルの権力形成とそれにからんだロシア意識の形成をみてきた。
ワー、大陸に生まれた人間は大――変。
  
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2008年04月02日

二分法

二分法への飛び越えとその波及
 ザラスシュトラという風景

何十年も経ってしまったが、今でも馬鹿馬鹿しいと思い出すできことがある。戦前の旧制高校の伝統からか、この国にはドイツ風の?教養主義があり、ために大学に教養課程なる無駄な時間があり、それが私の怠惰な部分を引き伸ばし、結果的にだめにした。(と人の所為にしている)往時、青春病のなかにいた私は「倫理学」という選択科目をとってみた。ある日の講義で、BC7世紀を枢軸時代と云っていた。それは、その世紀に釈迦・孔子・ソクラテスという後世の人類精神史に影響を与えた、画期となる思想家を輩出したからなのだという。余りの単純化と肯定化に馬鹿馬鹿しくなり、2度とその講義に出るのを止めた。私の青春期の一こまである。
近頃、後世に影響を与えた思想家としてだったら、ザラスシュトラ(英語ではゾロアスターと表記する)を加えたら、どうだと勝手に思っている。二分法による世界観の確立と善の神・アフラマツダを選ぶべしとした倫理的宗教の創始者としてである。
哲学史を読むと、まずギリシャの哲学者群から話が始まる。あたかも、それ以前の歴史社会において、哲学的思弁が無かったかのように扱われる。日本の西洋哲学者も当然そのヨーロッパ中心の「クセ」を踏襲している。彼・ザラスシュトラの属した社会の後継者であるハカーマニシュ(アケメネス)王朝のペルシャ帝国との戦争に勝ったギリシャの後継をにんずるヨーロッパでは、彼・ザラスシュトラから影響を受けたことは無視されやすい。
実際にはBC6世紀には彼の名前はギリシャ世界には響いていた。また、イラン世界の東方ではでは、インドで大乗化した仏教の東斬にあたり、ザラッシュトラ教のミスラ神格が未来仏としての彌勒仏になるなどと彼の宗教の後世への影響の範囲と深刻さは大きい。他にもローマ世界でミトラ密儀と呼ばれたのは、イランのミスラ信仰でオリエント由来のこの宗教は大流行し、キリスト教が国教化に成功していなければ、ヨーロッパの光景が変わっていたかもしれない。
今、青木 健氏の「ゾロアスター教」講談社選書メチエ、を読んでいる。この国にイラン思想史を研究しようなどとする志す人は多く無いのだろう。だから、ザラスシュトラ教の本を数札読んできたが、さっぱりこの宗教のイメージが掴めて来なかった。けれど、この本によっていくつかの分かりづらいことがつじつまがあってきたことがあったので、それに沿って「ザラスシュトラの二分法の特徴を考えてみたい。
まず、彼の属した古代アーリア人の信仰生活を考えなければならない。
実は実際には、中央アジアからイラン高原へ遊牧しながら移動した(とされる)古代アーリア人の信仰を再現することは困難である。ザラスシュトラ教における神格やインドへ侵入(したという学説にしたがえば)したインド・アーリア人の神格のパンテオンからの類推でしかない。そこから想像をたくましくする。彼らは自然現象や社会事象のそれぞれに相当する神格をもつ多神教のパンテオンを有する。
その神格と人間の願望を結ぶつける作業が白魔術としての祭祀ということになる。それを支える社会階層としての分厚い祭祀団がいたとされている。(もっともこの強調もインドのブラーフマナ階層からの類推からかもしれない)
ザラスシュトラ自身もその祭祀階層の出身とされている。(前揚書)社会からの願望を叶えるために、多神への祭祀行為をしていた日常からの彼の「飛び越え」の結果を、彼の主張の筋書きからみてみたい。
#1:アフラ・マズダー(叡智の主)という善の神格の創案 #2:悪の神格としてのアンラ・マンユ(大悪魔)の創案 #3:それ以前の自然現象を神格化した神々を#1の善側に6体、#2の悪側に6体ずつ配置するという既存神の降格化 すなわち元来善悪という対立する二つの原理があるという二元論が成立する。そして#4:この世を善悪対立の戦いの場であると設定することによって、善を選択しなければならないとする。義務的な倫理規定の誕生である。この倫理規定は#5:善を選択しなかった個人の死後はその霊魂は「チントワの橋」は狭まり、地獄に落ちる。という筋書きによって強迫性を帯びてくる。
さらに善悪二原理の対立は世界を#6:終末させる。その終末の日には地下から溶岩が湧出してくる。その時、善人には溶岩はミルクのように感じられ、悪人には熱くて耐えられない。その結果、悪の敗北により善の完全勝利がもたらされ、この世は至福の時を迎えるとされる。くりかえすと、彼の主張の筋書きは#1から#6という方向性があるから成りたつ。
ザラスシュトラ自身がどういう人だったかは濃い霧の向こうにいる。しかし、その主張からはどういうタイプかは推定してもよい。人によって何がどの程度にストレッサーになるかは異なる。そして、ストレッサーに対する処理方式もそれぞれに違うのだろう。成育過程でそのストレッサー処理過程を人間関係へ投影して処理するクセがついたタイプの人間がいる。そういう人は関係性の偏りを自覚できず、育ってきているから他者に迷惑をかけたり、傷つけても気がつかない。臨床心理学ではこういう人たちを「人格障害者」と総称する。それらの人々は「おせっかい」でかつそれを自覚できない。
前述のザラスシュトラの主張の#4における善を選択すべしという倫理規定は押し付けがましい。個人の死が起こることはやむをえないが、世界が終末するという思想はおせっかいをとおりこして、他者を脅迫する。だから、彼の主張は彼のもつストレス対処法のくせー他者への押し付けがましさ#4、脅迫#6から発して、#1#2の善悪を司る神格ありきという二元論が誕生し、#3の諸神の降格化が意図される。
こんな風な云いかたをしてしまうと、実もふたもない。
古代アーリア人の社会では様々な神格を有する神への祭祀を執り行う「祭祀団」が分厚く存在したらしい。だから、ザラスシュトラの宗教革命における先ほど指摘した諸神の降格は祭祀団には大打撃を与えたに違いない。だから、後世の教団は善悪二元論のワクを守りつつ諸神の復活を図ったらしい。そのことによって、教団は生き残り、後代のサーサーン朝ペルシャでは国教の地位を確立した。
しかし、その先代のハマーニッシェ朝やパルティア時代のこの宗教の実態は良くは分からないのだという。
急にセム族のヘブライニズムにおける唯一神教の成立という話題にしたい。このblgのシリーズで先に「新バビロニアのネブカドネザル王によって、バビロンに捕囚されたユダヤ人たちが、バビロンを開城したハマーニッシェ朝ペルシャの創始者・キュロス大王により、開放され、エルサレムへ帰ることを許された。特筆されるべきことに、世界の中心地・バビロンに留まったグループがいたことである。彼らによって律法書が編纂された。」(先住民絶滅の地・パタゴニアから  世界観の形成を一神教の成立の後段という場で推論する)
先ほど、ハマーニッシェ王朝下のザラスシュトラ教の実態ははっきりしないと書いた。だからこの先の話は推論で証拠はない。そもそも宗教者なる人格障害者、特に自尊心のみ強いユダヤ人たちが、律法書編纂にあたってザラスシュトラ教から影響を受けた証拠などを残すはずはないだろう。
人は何時でも将来こうなってしまうのではないかという不安・現実に自分の思うとうりにならない不如意感・それを他者に投影した不満・自分の好ましく、必要なモノを失った喪失等等等にあたってはそれぞれの応じて思念が沸き、とともに悲しみ、怒り、焦りなどの感情が伴ってくる。
前に挙げた反対の事象・希望・満足・獲得等等等にあってもそれぞれの思念の後に感情を伴う。これらの思念・感情の総体を仮にここでは「自己=self」と呼ぼう。しかし、selfはその経験を性格にして受け取っているとは限らないだろう。逆にあるいはヒネクレテ受けとっていることはおおいなあることは一度冷静になれば判ることもある。
一方、それらの経験を記憶で結びつけている意識を「自我=ego」としたい。例えば夢をみるということを考えてみると、経験で人は傷ついたと感じたときに夢で修復しているのだと思う。即ち、経験を時間のなかで記憶を取捨選択した結果としての自我意識があるのかもしれない。
いずれも私の中から湧き上がってくるものでしかない。先験的にあるものではない。先ほど挙げたマイナスの経験を「悪のなせるもの」・プラスをもたらすものを「善のなせるものだという」とする態度は、誰かが示唆してくれれば、簡単に成立する。一種のカントのいう「自己の家畜化」である。この説明は複雑な事象を対立する2項で説明できるという単純化というイデオロギーを生む。光―闇、始まりー終わり、善―悪等等等
光にもやわらかい朝・真昼の真上から・薄暮色々あるではないか。闇にも月夜・星明り・色々あるではないか。
このザラスシュトラの提示した「新しい地平」は偏狭なセム的自己意識にヘレニズム的思考が纏わりつき、ローマ帝国内の格差の中で被害意識を神に選ばれたとする優越感に変えることに成功したキリスト教はヨーロッパを席巻し、その基調を造った。ローマ教会の分裂後のコンスタンチノープルで成立した正統教会は教線を北に伸ばし、ロシアまで達した。
その後、遅くきたイスラームが勃発した。シリアのダマスカスへ行った時、メッカの商人ムハンマドがこの街で勉強していったという話を聞いた。この街はキリストの使徒・パウロの「目から鱗が落ちたとされる回心」が伝えられた。
先ほど自我意識が成立する場では、記憶は勘違いするとした。この一神教の世界では神に選ばれたとする「集合記憶」による集団は簡単に成立し、違う神を選んだ他集団を攻撃することを善とする。そういえば、イラクにあるイスラーム少数派のシーア派の聖地カラバリは宗祖アリーが殺された所である。ここを廻ってのスンナ派との争いは絶えない。
繰りかえすと、ザラスシュトラの飛び越えとそれに続く自己家畜化という独断について述べた。
イラン南部のヤズドにはザラスシュトラの宗教の残滓があった。彼らは遺体を穢れたものとして、清い地と光を汚さないために、遺体をダフマという塔の底に置きっぱなしにして、禿鷹に始末させる。その塔に入って寝てきたことを思い出した。そこから、見た空は青かった。
  
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2008年03月26日

孔丘の乗っかかり

不思議な装置
  曲阜での乗っかかり 

今「DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?」
という崎谷 満氏の本を読んでいる。要旨は稲作を齎し、揚子江文明を築いた南方系の民族を黄河流域から勃興した北方民族である漢族が滅ぼし、包含し、中国大陸を統一していった経過を考古学的に裏づけるとともに、そこから、追い出されて日本列島に辿りついた人々の足跡をY遺伝子のDNAの変異から考察しているというものである。
また、この3月にはチベットのラサを中心としてチベット人グループによる反中国運動が起こっている。それに対して中国共産党のオエライサンは早速、この事態をインド亡命中のダライラマ一味の策動だと決め付けていた。そういう策動でもなければ、こういう運動があるということはチベット自治区の住民が不満を抱いているということになってしまう。共産党統治下に不満はありえないというイデオロギーに基づいた事態の把握法でそれ以外の思考はない。40数年前の人民解放軍のラサ侵攻時(この指揮は小平が執った)の朝日新聞の記事を思い出した。往時の左傾化した朝日新聞は中国からの外報を無批判に載せていた。それは解放軍がラサの寺院で生きたまま剥離された皮膚を見つけたというものであった。朝日新聞の記者が実際に見たのか。中世的な宗教権威による農奴支配の酷薄さを示しているとされていた。人民解放軍のチベット侵攻は農奴状態にあるチベット「人民」を解放するものだという宣伝である。
そういえば、3週間程前にチベットがいままで中国領土でなかったことは一度もないとのたまわった中国政府の要人がいた。
20年ほど前に、中国を訪れた後に、来日した当時のドイツ首相がこんなことを言っていたことを思い出した。「中国は日本を13ほど集めた国ですね」そういえば日本の広さと人口は中国の一つの州である。そういえば、中国より狭く、人口も多くは無い全ヨーロッパには幾つの国があるのだろか。それぞれの歴史から国土と国民を有する国民国家が成立しているヨーロッパという地域から来た首相にとって中国という装置は不思議なのだろうと想像できる。その不思議さはどういう歴史過程からうまれてきたのだろうか?
よくこの国の現在の共産党指導部は「安定と統一」とのたまう。結果は現在の支配体制の現状維持という筝である。この統一ということは中国という領土空間にいる諸民族が大部分を占める漢族に従うということを意味している。そこで、まず現在の中華人民共和国を構成する空間について考えてみたい。実は自治区と称される内モンゴル、新疆ウイグル、チベットと青海省が中国の領土と見做されたのは一瞬でしかない。それは1775から1778年にかけて乾隆帝の治世に満州語で「ダイチン・グルン」漢字に訳すと大清国が100年来の宿敵ジューン・ガル遊牧王国を滅ぼし、大版図を獲得したことによる。そして、中国本土と新しく獲得した藩部はそれぞれの役所で統治した。ところが、この巨大空間が「中華」なるものに固有の伝統・枠組みであるとする考え方が生まれ、清末から民国の時代の列強からの侵略をはねかえせない現実との相克の中で肥大化して、現在にいたって「安定と統一」の対象空間と看做されている。
よく大河流域で独自の文明が起こった地域のなかで、独自のスタイルがそのまま持続しているのは「中華文明」だけだというような歴史の書き方がある。確かにある時点からイスラム化されたエジプト・メソポタミアで古代文明がそのままのスタイルを継続させているとは云いづらい。
この広大な大陸の北方、黄河流域から派生した文明を跡付ける考古学的成果を司馬遷以来の各王朝が前代の王朝史を正史として、編纂した成文歴史書とつきあわせるといった歴史学研究のスタイルが当然とされてきた。それも、歴史的に「華夷の別」を言い立てることを習い姓とするこの地域の知識層にあわせて、夏・殷・周以来の農耕地帯の王朝変遷をえがくことが華であり、そこへ侵入を繰りかえす遊牧民族を夷として、描くことが中国の歴史だということになってしまっている。中華の辺縁に位置する我が国における東洋史なるものも、当然このスタイルを踏襲している。この歴史意識の濃厚なこの国では、かってこういう土地だったという意識・言説が「現実」の土地・空間の範囲を決めてしまう。先ほど述べた乾隆帝時代の一瞬成立した「清の支配空間」を中華人民共和国の範囲だと決め付けるのもこの歴史意識を反映している。現実にみえる空間と思念上の空間意識は異なるということである。この意識は対象とする地が大きいほど心地よい。大――主義の齎す軋轢と悲劇は枚挙の暇は無い。例えば、セレウコス朝の版図やローマ属州だったシリアの範囲を前提として隣国レヴァノンへ介入を続けるシリアの態度がレヴァノン情勢の不安定さの基礎にあるし、ミロシェヴィッツに率いられた大セルヴィア主義の亡霊が旧ユーロで捲き起こした流血はたかだか10数年前のことでしかない。もちろん、大中華人民共和国の場合も同様である。現実ではなく思念上の空間が意味する閉じられたものではある。例えば、多数派である漢族中心は当然とされ、異民族の地に漢族はずけずけと乗り込んで、商売に励み、現地の人々の素朴な生活を安っぽい商業主義にまきこみ、軋轢をおこす。3月にチベットで起こっているのはそういうことへの結果である。
他民族を搾取してしても、当然と思っている。その態度をもたらすものに中華文明のもつ物質文化性があると想像をしている。極端な話、全ての事物を中華文明の発明だと思っており、それが他民族の物質文化より優れていると感じている。文化的相対主義、それぞれの文化には優劣はなく、文化によって集団の差はないという立論の欠片もない。そこから、少数民族に粗悪品を売りつけることは悪とはされない。それにしても彼らが売りつける日用雑貨品の下品な色はなんだ。
先ほど述べたように王朝の変遷史を華の中国の範囲として、王朝が変わる現象を天帝の地上統治の命が革まるとする「革命」と称する。そこから、王朝は変遷しても天帝の命令は一貫しており、中華文明は永続するという時間意識がうまれる。社会現象の持続は時間というものを感じさせずにはいられない。そこから、益階層は固定化しやすい。もちろん共産党革命によって統治階層は変わったとされている。しかし、共産党統治の長期化とともに、益階層の固定化という力学は変わらないということではないか。益階層ではない人々は諦観のなかにいやすい。中国の農村社会ではそれを感じる。
以上、中華世界のもつ#1:空間認識 #2:文化主義 #3:時間意識 #4:階層の固定化 などといった中国人が生きていく「装置」にふれた。
‘05.10.にこのblogのシリーズに「文明のくせ〜強迫性」と題して、儒教の開祖・孔丘の生まれ故郷である、山東省曲阜の町を見た体験を書いたことがあった。
この国では君子は何面する。すなわち、背にあたる北面にはなにか聖なるものがひかえている。南から君子に伺候する臣下は、拝謁して、膝折することによって、北面の聖と君子を一体化したものを感じるという装置になっている。
曲阜にいくには、省都の斎南から南下する。途中に泰安市があり、その北部には歴代皇帝が即位を天帝に認めてもらうために、封禅の儀をした泰山という霊山がある。その南の泰安市には岱廟という泰山の神を祀った建築群があり、当然のことながら、諸殿は南面し、背に泰山の天帝をおっている。
孔丘の生誕の地・曲阜の町はその泰安市の南にある。だから、儒教の祖・孔丘を祀る孔廟に参る参拝者は南門から入り,明清代に増築をくりかえされた域内を1kmも歩いて,大成殿で孔子像を拝跪すると孔子像の背にある泰山の天帝を意識してしまうロケーションになっている。結果的にやらずもがなの、孔丘の中国の聖なる線への乗っかかりを見えるものにしてしまっている。頭頂部が変な格好をしていたので、本名を孔丘という。
中国の歴代王朝の創始者は後代の王と区別して「王者」とよばれ、その言行は天命とみなせ、後代にも遵守されるべきものとされた。天子と称される所以である。孔丘の称えた「徳」の観念はこの天命を思念させるキーワーズになった。そして、有徳のものは無徳のものよりも物質消費量が多いのは当然とされた。人間以下の諸物は消費の対象とされ、動植物を愛護する観念は決して生まれなかったし、自然破壊は加速された。当然、益階層の固定化にも役立った。金日成の創始した北朝鮮の王朝も徳を媒体とした儒教からみると、理解しやすい。私ことだが、父は親孝行で儒教の徒というような身の処しかたがあったように思う。その処しかたに質素だということがあったように思う。だから、儒教は質素を教えるシステムだと勝手に思ってきたが、実はそうではないということである。
また、男の命は長男をつうじて伝えられていくという「考」の観念は、この国の死後の国、すなわち未来・現在・過去の命との連絡性を強調する時間観念をもたらした。
また、孔丘が周の礼式を再現したと称する礼教は階層差を固定化を具象化させるものになった。数百年前に滅んだ王朝の礼を片田舎のおっさんが再現できっこはない。
それにしても、大成殿の孔子像の偉丈夫ぶりはなんだ。どの肖像画や像も同じようだから、本当の姿を映しているのだろう。大きな顔の太い眉毛はたれさがり、どんぐり眼は見開かれ、大きな鼻の下の分厚い唇はあき、歯が剥き出しだ。この像の風貌は、正式でない結婚で生まれ、下賎で追い育ち、のし上がり、魯の王朝に変わって自分の王朝を夢想し、敗れて各地を放浪せざるを得なかった男の欲の大きさを想像させる。
とにかく、中国というシステムに徳・礼・考の観念で乗っかかった男はそのシステムを固定化し、自分を顕彰させ、子孫を富貴にはした。
経済的に豊かになった中国は世界各国に「孔子学院」を建てているのだという。何を教えるんだ。
「もし、歴史がかくなかりせばという設問」は許されてよいと何回か書いた。孔子の後世の漢の武帝がが儒教の変わりに「墨家」の思想を国教化していたら。ま、無理かそのころには、墨子の本も残ってはいない。

  
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2008年03月19日

エフェソスの聖母マリアの家から

ヘレニズムとヘブライズムの交差する場
  西トルコ・エフェソスから
ユダヤ教のガリラヤ地方分派とみなされ「ナザレ派」とよばれており、後に「クリスチアノイ=キリストに従う者」とよばれるようになった宗教運動はイエス・キリストをメシア=救世主とみなすことによって、ユダヤ教から明確に分離した。その過程でユダヤ人を「キリスト殺し」とみなし、彼らを排し、攻撃していく初期キリスト教の「教父」という存在群には辟易とさせられる。(ユダヤ人とローマ帝国:大澤武男 講談社)
前回パタゴニアのところで論じたユダヤ教の確立過程で繰り返し、現れる預言者群に感じる頑固さをとうりこした気味悪ささえ感じる。
ここでユダヤ人と呼ばれた集団の言語生活にふれておこう。以前シリアのパルミラというオアシスの隊商都市をみたことがあるが、その神殿の門にはギリシャ語とアラム語の表記が並んであった。アラム人とは「海のフェエニキア・陸のアラム」と称された、現在のシリアを中心として、商業に活躍した民族である。彼らがラクダを家畜化したといわれている。その彼らの言葉がアッシリア帝国以来、現在中東といわれている地帯の共通言語になった。往時パレスチナにいたユダヤ民族にも使用されていた。イエス・キリストもこの言葉を使っていたとみなされている。日常言語であった。
アッシリアによるイスラエル国の滅亡や新バビロニアによるバビロン捕囚などといった500年以上の昔の話をもちだすこともなく、BC4世紀のアレキサンダー東征以来顕著になってきたヘレニズム社会では、ユダヤ民族がパレスチナ以外の地での居住はありふれたことであった。当然ながらこのデイアスポロ・ユダヤ人の圧倒的な周囲社会との接触のなかで言語はギリシャ語化していった。いわば、ヘレニスト・ユダヤ人とでもいえる。当然ながらギリシャ人を支配層とするヘレニズム社会では、その言葉は公的な場で使われ、そしてギリシャ哲学を背景にした概念語でもあった。
捕囚以来のバビロニア、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアの居住区は特に巨大なものであったのだという。前者では成文化したトーラーの編纂によって後のユダヤ教の確立におおきく寄与した。また後者の地ではBC3世紀に70人訳聖書とよばれるヘブライ語からギリシャ語への翻訳がおこなわれた。しかし、離散の地でも多くの民族と異なり、この集団は自分達・ユダヤ民族のみが、ヤーヴェの神に選ばれた民であることをシナゴーグに集い、トーラーを守り、アフリカからの習俗である割礼などをまもることによって堅持しようとした。当然ヘレニズム社会の他集団とは軋轢をおこし、弾圧もされたりした。
一方、パレスチナ死海西岸のクムランの地でエッセネ派教団の古跡を依然みたことがあったが、彼らエッセネ派はプールで沐浴した後、隣の書写室で聖書を一字一句間違えることことなくその聖い言葉とされる聖書を「ヘブライ語」で書き写した。という風な保守的・復古的な立場もあった。
A.D.70年に、終末思想にとらわれ、メシアの来臨を待望する「熱心党」にひきずられたユダヤ戦争では、エルサレム神殿は破却され、再建も許されなかった。その大喧騒のなかで、地中海岸の「ヤブネ」の逃れ、教学所を設け、その後に聖書の正典を決め、以外の書を廃棄していったグループがあった。その間にエルサレム神殿の祭司に変わって律法学者=ラビの権威が確立した。その過程の結果39冊のヘブライ語で書かれた聖書のみが正統なものとされ、ギリシャ語で書かれた先述した70人訳聖書はユダヤ教の聖書から外された結果になった。このヘブライ語で書かれた律法書への固着の結果、ユダヤ民族の幅がせまくなり、ディアスポロ・ユダヤ人の間に分裂を確定的にしたキリスト教が広まることとなった。
このことによって、千年にわたるユダヤ教の歴史の形が確定し以後現在にいたる2千年間
律法をまもり、シナゴーグに集い、休息日、割礼などの習俗を守るユダヤ民族なる集団が確定し、現在のイスラエル国家が誕生し、「中東紛争」は絶え間が無い。
ここで、一神教の成立の前段階ともいうべき、ユダヤ教の成立に影響を与えた要素について概観したい。かってヨルダン川の東岸の最高峰でモーゼが没した地とされるネボ山頂からヨルダン川沿いにパレスティナ自治区西岸地区を眺めたことがあった。約束された「カナンの地」を臨みながら果たせなかったモーゼの悔しさを想定させるのにぴったしのロケーションだと実感できた。旧約聖書によるとモーゼの後継者ヨシュアはユダの荒野から伏流水がわく世界最古の町イェリコを角笛を吹いて、歓楽させた。ということは、「約束のカナンの地」は「先住しているカナン人の地」であると云わねばならない。ユダヤ人と後世、呼称される集団の侵略である。南アラビアから移動してきたとされる「ユダヤ人、歴史的には正しくはないが」とフェニキュアの古称であるカナン人との文化的落差は大きかった。彼らは東地中海沿岸・レヴァントに多くの都市国家を築き、メソポタミアとエジプトの大先進地帯との間でレヴァノン杉などの海上交易に従事した。彼らは先進地域との交流のなかで、ユダヤ人たちにとって、目も眩むような文明を築いていった。(フェニキア人:グレン・E・マーコウ、創元社)その一つにフェニキア人の宗教構造があるのではないかと勝手に思っている。(ウガリトの神話 バアルの物語:谷川政美 新風舎)それは最高神・エルと雨をもたらす雷の神バアルの争いの中でバアルは神殿を造る。また死の神モートとバアルは争う。恰も生と死が争うように。
頑固で気位の高いユダヤ集団は影響を被ったことを認めたくために、最高神エルの神格に恵みを与えるバアルの力を付与し、死の神モートをサターンの地位に貶めれば最高神の新たな登場となる。様々な神のなかで、最高神格を祀る集団は他集団より、心理的に上位でいられる。モーゼの十誡では、私以外の神を拝してはならないとヤーヴェは云い、他の神格の存在を否定しているわけではない。初期の一神教の姿である。
ここで、雷の神バアルの神格について考えてみたい。初期ユダヤ教の世界を3、000年ほど前と考えてもよい。その一万数千年以前に完新世の温暖化のなかで、食料採取に余裕ができたこの地の人々は定住生活をはじめた。やがて、1万3千ほど前になるとムギの栽培化がおこる。世界で一番早い農業の始まりである。やがて、遅れてヒツジの家畜化がおこる。(ムギとヒツジの考古学:藤井澄 同成社)ムギの栽培化とヒツジの家畜化という人類の歴史にとって大きな一歩の方向は、世界の殆どの地域で後戻りすることはなかった。この二つの始まりを可能にした条件はレヴァント地方の僅かに降る冬季の雨である。年間雨量が250〜500mlもあればよいのである。ムギは冬季の降雨があれば、発芽し夏の稲と違って夏の降雨は必要としない。ヒツジは冬季の雨のおかげで牧草を食み、春に出産をし、ミルクをだすことができる。それを可能にした自然条件には二つの要素がある。一つは地中海で湿気をすった冬季の偏西風である。もう一つが南北にはしるシリア地溝帯の東西に隆起した山岳地帯である。レヴァノンのレヴァとは白い色をあらわし、山頂に積もった雪をさしている。この地帯を東西に50kmも走ると「肥沃な3ケ月弧を実感できる。それを過ぎればシリア砂漠がつづく。
もちろん、完新世の温暖化と上記二つの条件だけでは農業と牧畜の開始などといった文化的の事象には「ヒト」がそこまできていたという以外にはない。云うまでもないが人類学的にはホ・サピエンスとよぶ我々を文化的側面を「ヒト」と表記する。ヒトとしてのこの時代は終末期旧石器時代から先土器新石器時代への移行期にあたる。ここからは私の妄想でーす。定住生活にはいると人間の排泄物をとりちらかしていると、外敵に襲われる要素になったのではないか。そのために一定な所に穴を掘って処理したのではないか。そこへ東アナトリアからレヴァントへかけての野生コムギが大量に生えた。それを見てヒトは栽培にふにだしたのではないか。私は排泄物のなかでムギが発芽するか知れないので「大―胆な仮説」そして、ムギの植え付けは索状になっていく。ケニアのサヴァンナという草原へ行ったことがあったが、線状のものは地平線しかなかった。ここまでは洪積台地でおこったらしい。やがて、ヒトは大地をおり、広いメソポタミアや海岸平野など沖積平野へ灌漑という線状の水路を穿ち水をとうすことによって、ムギの大量生産を可能にした。面白いことにメソポタミアではムギとヒツジとコールタール意外には何も生産しない。建築物を造る木材も石材もない。そこでヒトは必然的に必要なものを交換する集まる場所としての都市ができ、そこで王権・文字・神殿などの文明化がメソポタミアでおこり、そこから四方に伝播していった。そこからヒトは文明化の方向に合わせて「記憶を通じて可塑的に振舞うという態度=カントのいう自己家畜化していけば、スピードは速まる。さてさて、前置きが長くなってしまったが、この地帯における降雨の重要性を理解していただければ、雷の神バアルの神格が想像される。雨、生を望むのならバアルを祀り、彼の神殿の豪華さを称えればよい。やがて、バアルは最高神エルを打ち負かす。しかし、その生は長い死の神モートとの戦いに疲弊していく。そもそもこの世の全ての事象を一つの神格によるものであるなどと云えるものだろうか。雨、生を望むのならバアルを祀ればよいだけなのだ。
ところが、アラビア半島から北上して、やがてカナン人の地で定着していくユダヤ集団はフェニキア都市国家の後背地で農業を学び、農民化していった。その文化的な被影響性が一方的なときには、どの集団でも素直にそれを認めるということは少ない。この集団の場合は彼らの民族神にエルの神格にバアルの権能を与え、モートをサターンに貶めることによって新たな最高神にして、帰依することによって、自集団を精神的に高いものにすることによって、他集団に同化・吸収されない結果となった。それを主導したのが預言者としょうする一連の人間群である。彼らは最高神ヤーヴェへの帰依を義をした。義は自分一人で納得してればよい。しかし、わざわざ言い立てる人間は聞かせるべき、対象となる人々を必要とする。そういった、態度は臨床心理学には人格障害者と称する。
この集団がパレスティナで確立されたころから、現在中東と称される世界最初の文明地帯は鉄器を最初に使用したヒッタイトを嚆矢として様々な帝国が勃興をくりかえす。アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシャ、マケドニア、ローマといった風にである。その度にメソポタミアとエジプトの回廊をなすレヴァント・パレスティナの諸集団は大変であった。特に初期のアッシリアと新バビロニアは非占領地の住民を帝国の他地域に強制移住をするという政策をとった。北のイスラエル王国はアッシリアに滅ばされ、都サマリアの住人は連れ去られた。100年以上命脈を保ったみな南のユダ王国は新バビロニアのネブカドネザルに滅ばされて、エルサレムの住人はバビロンに連れ去られた。彼らは「バビロン捕囚」と被害を申し立てる。彼らは世界最初の文明都市バビロンに幻惑されたにちがいない。彼らはバベルの塔の神話をつくって、幻惑されたことから高い塔を造ったことが諸言語の違いに結びつくというどんでん返すをやってぬける。あくまでも素直ではない。
エルサレム神殿での祭祀ができなくなった集団はバビロンの地で律法書の編纂を開始する。この文の前段で、その約500年後ユダヤ戦争で神殿が破却された後に律法書の正典が死者選択されて、ヘブライ語の律法書のみを認めることが以降2,000年のユダヤ人のあり方を決めるということにはふれた。やがて、新バビロニアは東から興ったアケメネス朝ペルシャのキケロに滅ぼされ、捕囚民はエルサレム帰還と神殿再建を許された。もちろん、帰還せず、バビロンのコロニーにい続けた人々も多かったはずだ。彼らはペルシャが持ち込んだであろうゾロアスター教の世界観を勉強したのだと思っている。ゾロアスターはアーリア人の多神教のパンテオンのうち、光の神を最高神として善の神格を与えた。宗教者による光異常感覚者だったのかもしれない。光―闇、善―悪といった対立2項によって全てが説明できるといった2分法による世界の説明である。私はゾロアスターの後世への影響は古代ギリシャの哲学者群と同等に遇されてもよい。ギリシャ以西をもってヨーロッパとする地政学的概念によって、オリエントからの被影響性をなくしたいーこれもヨーロッパという作り方の結果である。そのゾロアスターからのユダヤ人達への影響は2種類の旧約聖書の創生記の差から読み取るべきだとおもう。(物語 イスラエルの歴史:高橋正雄 中公新書)
光と闇の2項対立は善と悪の2項へ投射され、先ほど指摘したおせっかいなユダヤ教の預言者群のいう義に従わない不義は彼らの世界観からは悪とされる。義から悪という方向性が確立される。
私は中東に数回行ったことがあった。印象はローマ遺跡はノーサンキュウだー。もちろんイタリア本国の話ではない。シリア属州での話しである。因みにパレスティナはシリアに属していたし、シリア総督からは帝政期のローマ皇帝は数人選ばれいる。ヨルダのジェラシュ・レバノンのバールベック・シリアのパルミラ・イスラエルのカイザリアなどのローマ遺跡は面として残り、道路、フォーラム、神殿、必ずついてまわる浴場などは生活大国としてのローマの姿を彷彿とさせる。その多くは以前の先行する国家の上に面として築かれている。故にローマ遺跡の下に埋没するかっての町は見えない場合がおおいのである。エルサレム第1、第2神殿の全てを目にすることは無いのであろう。実は中東旅行はローマ遺跡の旅といったら大げさか。と同時にローマ時代の生活を想像してもよい光景も見える。バールベックのバッカス神殿では貴族の子息たちはワインを飲みながら乱痴気騒ぎをしたというのである、そこから数百メートル離れた石切り場では何百トンという石が余りの重さに運べず、放置されていた。乱痴気騒ぎをしているすぐ横で石工たちの労働量はどの程度のものだったのだろうか。パルミラ遺跡のメイン通りの両側の列柱には各柱の寄贈主を模した石像が誇らしげにのせられていた。アラブ時代のローマの遺跡に比べて粗野な砦から西をみると、夕日のなかに石切り場の山が墓石のようなシルエットでみえた。歴代の何百年でどれだけの石工が死んだのだろうか。先日、日本のローマ史学者がTVでもともと沿地中海世界の食料自給には差があり、パクス・ロマナによって食料が運ばれ、飢えが解消されたと云っていた。そうかもしれないが、私が指摘した2都市の光景から見えてくる生活の差も事実であろう。被征服民や零落民が生きていくのは大変だったのだろう。
‘06.8にこのblogのシリーズで「250、35、400mmの年間降雨量」と題して報告したが、その中で(図書館のアリストテレス)で西トルコの古代港湾都市エフェソスの光景にふれた。メイン道路を中心に図書館、神殿、闘技場などの古代ローマの公共空間が現前して、その生活大国ぶりが実感される。この町から数キロメートル離れた山上に「イエス・キリスト」が磔刑にされた後で「聖母マリア」がエルサレムから移り住んだ庵の跡があるのだという。何故そんなことが判ったのかというと、19世紀にドイツの修道女が夢にみて、そのとうりに発掘すると住居跡が発掘され、「聖母マリアの家」と証明さあれたのだという。この話は非常に示唆に富むという思いがする。ここエフェソスのメイン道路の脇にはむき出しの水洗トイレがある。丸見えであるが、我々とは恥意識が違うに相違ないが、誰でもこの快適さに参加できたと限らなかったかもしれない。この華やかな古代都市周辺でしか生きてはいけないが全面的には参加できない零落民がもしかして初期のキリスト教徒だったりと夢想することは、面白―いかも。そういえば聖パウロが西方への布教旅行の途次、ここエフェソスでも布教したという話もある。
話を200年ほど前のセレウコス朝シリアの酷薄なヘレニズム化にたいする「マッカビー=鉄槌」反乱以降のパレスティナに複雑な状況にふれたい。この内乱により、ユダヤ人たちはハスモン家のもとで、バビロン捕囚以来450年余ぶりに独立を獲得した。しかし、ユダヤ人集団の内実はセレウコス朝シリアのヘレニズム化を受けた結果、複雑であった。ヘブライイズムはヘレニズムによって消滅の危機を迎えていたのである。パレシティナ以外に住むディアスポラユダヤ人の言語がギリシャ語化したことには以前ふれた。(ヘレニスト)一方、エルサレムに住むユダヤ人はヘブル主義者とも呼ばれ、頑固な律法と習俗の遵守者であった。
宗教者の間でもサドカイ派、パリサイ派、熱心党、エッセネ派(クムラン教団)詳細にはふれない。ハスモン家のつかの間の独立の後、勢力を伸ばしたローマ帝国により属王ヘロデが擁立された。終末思想にとりつかれた熱心党によって引き起こされたユダヤ戦争によってエルサレム神殿が破却された後に、サドカイ派は命脈を絶たれ、その混乱のなかでエルサレムお逃れたパリサイ派は律法をヘブライ語だけにすることによって現在に至るユダヤ人の範囲が決まった。死海西岸のワディクムラムでエッセネ派の教団跡を見たことは以前書いた。マサダ砦ではローマ式の浴室をもつヘロデ王の離宮跡の前に熱心党が全滅した部屋があった。そして、山上の砦から見下ろすと砦攻略のためのローマ軍が造った道が、2、000年を経て残っていた。反乱を許さないローマ軍の執念がよく判る。
こんなことが分かるのもヘレニスト・ユダヤ人の歴史家ヨセフスによる。それもローマという客観者がいるからであろう。旧約聖書を歴史書として読まなければ、実際はこの我の強い民族はいつも分烈しがちだったに違いない。
最高神を唯一神化する過程で、逆に自民族を選べれた民であると自負し、他より高みにおきたいという方法をめぐる対立抗争については前述した。くりかえすと、それは我々らしさを対象としたレベルのことである。
そういう状況で初期キリスト教団が成立した。(学問的に云う原始だとか初期だとかという議論にははいりこめない)。冒頭にユダヤ教の一派とみなされ「ナザレ派」と呼ばれた集団についてふれた。最初期の彼ら=ユダヤ人キリスト教徒(クリスチアノイ)はユダヤ教の律法に従っていた。しかし、磔刑になったとされたイエスが復活したメシアであるという「信」をもつという点だけは異なっていた。そもそもキリストという言葉はメシアのギリシャ語訳「クリストス」からきている。そして、救いはイエスを信以外はない。そして、そのためには、イエスの名において「洗礼」を受ける。その彼らもエルサレムの神殿に参っている。ということは彼らがユダヤ教のヤーヴェを否定したことはなかったということを意味していた。
イエスの復活を「信」ずることは個のレベルのことであり、世界宗教への基となった。そして、信じれば神の福音がもたらされ、そのことによって救われるという構造がなった。
民族宗教としてのユダヤ教との違いである。
しかし、ここでも一神教らしい禁止規定が裏面にある。信がないことは不義であり、悪とされ、サターンが準備されていた。
しかし、二つの宗教運動の違いは露呈する。それは、律法の軽視とイエスがユダヤ人によって殺されたと難じることにより、はっきりしてくる。もちろん、イエスの磔刑はローマ総督の手になったが、初期キリスト教徒はそれをエルサレム・ユダヤ人の仕業だとみなした。そして、その責任転嫁はユダヤ民族総体にむけられた。「キリスト殺し神学」の誕生である。そこには、ユダヤ教の律法遵守ができないという態度の裏返し?は深読みか。
とにかく、キリスト教はディアスポロスユダヤ人の間に教線を拡大する。
その後、先述したパルミラ、バアルベック、エフェソスの3都市の光景でふれたように、ローマ帝国の生活格差で辛吟する零落民・奴隷の間にひろがり、恰もユダヤ人が先進フェニキア人に精神的に優位にたったように、零落民たちは貴族や富裕市民の生活を堕落として心理的に優位にたてた。時代が下ってアウグスティヌスやグレゴリウス教皇などのラテン教父の時代になると反ユダヤ主義は、彼らは滅びることも許されないというほど残酷なものにまでなっていく。
その神学の確立にプラトンのイデア論などのギリシャ哲学の結果とその思弁法の援用があったことは勿論である。(もしかして、アリストテレスの質量論は?)
結果、他者をバルバロイとみなすヘレニズムと義の裏側に不義をみなすヘブライイズムが結合して将来のヨーロッパという型を作っていく。恰もその裏返しにアジアという外者の呼称がある。
最高神格から唯一神へという歴史の流れを概観した。その跡を辿りながら、あらためて「歴史の方向性がかくなかりせば」という設問は許されてよいと思った。
  
Posted by yugen2 at 10:07Comments(1)TrackBack(0)

エフェソスの聖母マリアの家から

ヘレニズムとヘブライズムの交差する場
  西トルコ・エフェソスから
ユダヤ教のガリラヤ地方分派とみなされ「ナザレ派」とよばれており、後に「クリスチアノイ=キリストに従う者」とよばれるようになった宗教運動はイエス・キリストをメシア=救世主とみなすことによって、ユダヤ教から明確に分離した。その過程でユダヤ人を「キリスト殺し」とみなし、彼らを排し、攻撃していく初期キリスト教の「教父」という存在群には辟易とさせられる。(ユダヤ人とローマ帝国:大澤武男 講談社)
前回パタゴニアのところで論じたユダヤ教の確立過程で繰り返し、現れる預言者群に感じる頑固さをとうりこした気味悪ささえ感じる。
ここでユダヤ人と呼ばれた集団の言語生活にふれておこう。以前シリアのパルミラというオアシスの隊商都市をみたことがあるが、その神殿の門にはギリシャ語とアラム語の表記が並んであった。アラム人とは「海のフェエニキア・陸のアラム」と称された、現在のシリアを中心として、商業に活躍した民族である。彼らがラクダを家畜化したといわれている。その彼らの言葉がアッシリア帝国以来、現在中東といわれている地帯の共通言語になった。往時パレスチナにいたユダヤ民族にも使用されていた。イエス・キリストもこの言葉を使っていたとみなされている。日常言語であった。
アッシリアによるイスラエル国の滅亡や新バビロニアによるバビロン捕囚などといった500年以上の昔の話をもちだすこともなく、BC4世紀のアレキサンダー東征以来顕著になってきたヘレニズム社会では、ユダヤ民族がパレスチナ以外の地での居住はありふれたことであった。当然ながらこのデイアスポロ・ユダヤ人の圧倒的な周囲社会との接触のなかで言語はギリシャ語化していった。いわば、ヘレニスト・ユダヤ人とでもいえる。当然ながらギリシャ人を支配層とするヘレニズム社会では、その言葉は公的な場で使われ、そしてギリシャ哲学を背景にした概念語でもあった。
捕囚以来のバビロニア、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアの居住区は特に巨大なものであったのだという。前者では成文化したトーラーの編纂によって後のユダヤ教の確立におおきく寄与した。また後者の地ではBC3世紀に70人訳聖書とよばれるヘブライ語からギリシャ語への翻訳がおこなわれた。しかし、離散の地でも多くの民族と異なり、この集団は自分達・ユダヤ民族のみが、ヤーヴェの神に選ばれた民であることをシナゴーグに集い、トーラーを守り、アフリカからの習俗である割礼などをまもることによって堅持しようとした。当然ヘレニズム社会の他集団とは軋轢をおこし、弾圧もされたりした。
一方、パレスチナ死海西岸のクムランの地でエッセネ派教団の古跡を依然みたことがあったが、彼らエッセネ派はプールで沐浴した後、隣の書写室で聖書を一字一句間違えることことなくその聖い言葉とされる聖書を「ヘブライ語」で書き写した。という風な保守的・復古的な立場もあった。
A.D.70年に、終末思想にとらわれ、メシアの来臨を待望する「熱心党」にひきずられたユダヤ戦争では、エルサレム神殿は破却され、再建も許されなかった。その大喧騒のなかで、地中海岸の「ヤブネ」の逃れ、教学所を設け、その後に聖書の正典を決め、以外の書を廃棄していったグループがあった。その間にエルサレム神殿の祭司に変わって律法学者=ラビの権威が確立した。その過程の結果39冊のヘブライ語で書かれた聖書のみが正統なものとされ、ギリシャ語で書かれた先述した70人訳聖書はユダヤ教の聖書から外された結果になった。このヘブライ語で書かれた律法書への固着の結果、ユダヤ民族の幅がせまくなり、ディアスポロ・ユダヤ人の間に分裂を確定的にしたキリスト教が広まることとなった。
このことによって、千年にわたるユダヤ教の歴史の形が確定し以後現在にいたる2千年間
律法をまもり、シナゴーグに集い、休息日、割礼などの習俗を守るユダヤ民族なる集団が確定し、現在のイスラエル国家が誕生し、「中東紛争」は絶え間が無い。
ここで、一神教の成立の前段階ともいうべき、ユダヤ教の成立に影響を与えた要素について概観したい。かってヨルダン川の東岸の最高峰でモーゼが没した地とされるネボ山頂からヨルダン川沿いにパレスティナ自治区西岸地区を眺めたことがあった。約束された「カナンの地」を臨みながら果たせなかったモーゼの悔しさを想定させるのにぴったしのロケーションだと実感できた。旧約聖書によるとモーゼの後継者ヨシュアはユダの荒野から伏流水がわく世界最古の町イェリコを角笛を吹いて、歓楽させた。ということは、「約束のカナンの地」は「先住しているカナン人の地」であると云わねばならない。ユダヤ人と後世、呼称される集団の侵略である。南アラビアから移動してきたとされる「ユダヤ人、歴史的には正しくはないが」とフェニキュアの古称であるカナン人との文化的落差は大きかった。彼らは東地中海沿岸・レヴァントに多くの都市国家を築き、メソポタミアとエジプトの大先進地帯との間でレヴァノン杉などの海上交易に従事した。彼らは先進地域との交流のなかで、ユダヤ人たちにとって、目も眩むような文明を築いていった。(フェニキア人:グレン・E・マーコウ、創元社)その一つにフェニキア人の宗教構造があるのではないかと勝手に思っている。(ウガリトの神話 バアルの物語:谷川政美 新風舎)それは最高神・エルと雨をもたらす雷の神バアルの争いの中でバアルは神殿を造る。また死の神モートとバアルは争う。恰も生と死が争うように。
頑固で気位の高いユダヤ集団は影響を被ったことを認めたくために、最高神エルの神格に恵みを与えるバアルの力を付与し、死の神モートをサターンの地位に貶めれば最高神の新たな登場となる。様々な神のなかで、最高神格を祀る集団は他集団より、心理的に上位でいられる。モーゼの十誡では、私以外の神を拝してはならないとヤーヴェは云い、他の神格の存在を否定しているわけではない。初期の一神教の姿である。
ここで、雷の神バアルの神格について考えてみたい。初期ユダヤ教の世界を3、000年ほど前と考えてもよい。その一万数千年以前に完新世の温暖化のなかで、食料採取に余裕ができたこの地の人々は定住生活をはじめた。やがて、1万3千ほど前になるとムギの栽培化がおこる。世界で一番早い農業の始まりである。やがて、遅れてヒツジの家畜化がおこる。(ムギとヒツジの考古学:藤井澄 同成社)ムギの栽培化とヒツジの家畜化という人類の歴史にとって大きな一歩の方向は、世界の殆どの地域で後戻りすることはなかった。この二つの始まりを可能にした条件はレヴァント地方の僅かに降る冬季の雨である。年間雨量が250〜500mlもあればよいのである。ムギは冬季の降雨があれば、発芽し夏の稲と違って夏の降雨は必要としない。ヒツジは冬季の雨のおかげで牧草を食み、春に出産をし、ミルクをだすことができる。それを可能にした自然条件には二つの要素がある。一つは地中海で湿気をすった冬季の偏西風である。もう一つが南北にはしるシリア地溝帯の東西に隆起した山岳地帯である。レヴァノンのレヴァとは白い色をあらわし、山頂に積もった雪をさしている。この地帯を東西に50kmも走ると「肥沃な3ケ月弧を実感できる。それを過ぎればシリア砂漠がつづく。
もちろん、完新世の温暖化と上記二つの条件だけでは農業と牧畜の開始などといった文化的の事象には「ヒト」がそこまできていたという以外にはない。云うまでもないが人類学的にはホ・サピエンスとよぶ我々を文化的側面を「ヒト」と表記する。ヒトとしてのこの時代は終末期旧石器時代から先土器新石器時代への移行期にあたる。ここからは私の妄想でーす。定住生活にはいると人間の排泄物をとりちらかしていると、外敵に襲われる要素になったのではないか。そのために一定な所に穴を掘って処理したのではないか。そこへ東アナトリアからレヴァントへかけての野生コムギが大量に生えた。それを見てヒトは栽培にふにだしたのではないか。私は排泄物のなかでムギが発芽するか知れないので「大―胆な仮説」そして、ムギの植え付けは索状になっていく。ケニアのサヴァンナという草原へ行ったことがあったが、線状のものは地平線しかなかった。ここまでは洪積台地でおこったらしい。やがて、ヒトは大地をおり、広いメソポタミアや海岸平野など沖積平野へ灌漑という線状の水路を穿ち水をとうすことによって、ムギの大量生産を可能にした。面白いことにメソポタミアではムギとヒツジとコールタール意外には何も生産しない。建築物を造る木材も石材もない。そこでヒトは必然的に必要なものを交換する集まる場所としての都市ができ、そこで王権・文字・神殿などの文明化がメソポタミアでおこり、そこから四方に伝播していった。そこからヒトは文明化の方向に合わせて「記憶を通じて可塑的に振舞うという態度=カントのいう自己家畜化していけば、スピードは速まる。さてさて、前置きが長くなってしまったが、この地帯における降雨の重要性を理解していただければ、雷の神バアルの神格が想像される。雨、生を望むのならバアルを祀り、彼の神殿の豪華さを称えればよい。やがて、バアルは最高神エルを打ち負かす。しかし、その生は長い死の神モートとの戦いに疲弊していく。そもそもこの世の全ての事象を一つの神格によるものであるなどと云えるものだろうか。雨、生を望むのならバアルを祀ればよいだけなのだ。
ところが、アラビア半島から北上して、やがてカナン人の地で定着していくユダヤ集団はフェニキア都市国家の後背地で農業を学び、農民化していった。その文化的な被影響性が一方的なときには、どの集団でも素直にそれを認めるということは少ない。この集団の場合は彼らの民族神にエルの神格にバアルの権能を与え、モートをサターンに貶めることによって新たな最高神にして、帰依することによって、自集団を精神的に高いものにすることによって、他集団に同化・吸収されない結果となった。それを主導したのが預言者としょうする一連の人間群である。彼らは最高神ヤーヴェへの帰依を義をした。義は自分一人で納得してればよい。しかし、わざわざ言い立てる人間は聞かせるべき、対象となる人々を必要とする。そういった、態度は臨床心理学には人格障害者と称する。
この集団がパレスティナで確立されたころから、現在中東と称される世界最初の文明地帯は鉄器を最初に使用したヒッタイトを嚆矢として様々な帝国が勃興をくりかえす。アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシャ、マケドニア、ローマといった風にである。その度にメソポタミアとエジプトの回廊をなすレヴァント・パレスティナの諸集団は大変であった。特に初期のアッシリアと新バビロニアは非占領地の住民を帝国の他地域に強制移住をするという政策をとった。北のイスラエル王国はアッシリアに滅ばされ、都サマリアの住人は連れ去られた。100年以上命脈を保ったみな南のユダ王国は新バビロニアのネブカドネザルに滅ばされて、エルサレムの住人はバビロンに連れ去られた。彼らは「バビロン捕囚」と被害を申し立てる。彼らは世界最初の文明都市バビロンに幻惑されたにちがいない。彼らはバベルの塔の神話をつくって、幻惑されたことから高い塔を造ったことが諸言語の違いに結びつくというどんでん返すをやってぬける。あくまでも素直ではない。
エルサレム神殿での祭祀ができなくなった集団はバビロンの地で律法書の編纂を開始する。この文の前段で、その約500年後ユダヤ戦争で神殿が破却された後に律法書の正典が死者選択されて、ヘブライ語の律法書のみを認めることが以降2,000年のユダヤ人のあり方を決めるということにはふれた。やがて、新バビロニアは東から興ったアケメネス朝ペルシャのキケロに滅ぼされ、捕囚民はエルサレム帰還と神殿再建を許された。もちろん、帰還せず、バビロンのコロニーにい続けた人々も多かったはずだ。彼らはペルシャが持ち込んだであろうゾロアスター教の世界観を勉強したのだと思っている。ゾロアスターはアーリア人の多神教のパンテオンのうち、光の神を最高神として善の神格を与えた。宗教者による光異常感覚者だったのかもしれない。光―闇、善―悪といった対立2項によって全てが説明できるといった2分法による世界の説明である。私はゾロアスターの後世への影響は古代ギリシャの哲学者群と同等に遇されてもよい。ギリシャ以西をもってヨーロッパとする地政学的概念によって、オリエントからの被影響性をなくしたいーこれもヨーロッパという作り方の結果である。そのゾロアスターからのユダヤ人達への影響は2種類の旧約聖書の創生記の差から読み取るべきだとおもう。(物語 イスラエルの歴史:高橋正雄 中公新書)
光と闇の2項対立は善と悪の2項へ投射され、先ほど指摘したおせっかいなユダヤ教の預言者群のいう義に従わない不義は彼らの世界観からは悪とされる。義から悪という方向性が確立される。
私は中東に数回行ったことがあった。印象はローマ遺跡はノーサンキュウだー。もちろんイタリア本国の話ではない。シリア属州での話しである。因みにパレスティナはシリアに属していたし、シリア総督からは帝政期のローマ皇帝は数人選ばれいる。ヨルダのジェラシュ・レバノンのバールベック・シリアのパルミラ・イスラエルのカイザリアなどのローマ遺跡は面として残り、道路、フォーラム、神殿、必ずついてまわる浴場などは生活大国としてのローマの姿を彷彿とさせる。その多くは以前の先行する国家の上に面として築かれている。故にローマ遺跡の下に埋没するかっての町は見えない場合がおおいのである。エルサレム第1、第2神殿の全てを目にすることは無いのであろう。実は中東旅行はローマ遺跡の旅といったら大げさか。と同時にローマ時代の生活を想像してもよい光景も見える。バールベックのバッカス神殿では貴族の子息たちはワインを飲みながら乱痴気騒ぎをしたというのである、そこから数百メートル離れた石切り場では何百トンという石が余りの重さに運べず、放置されていた。乱痴気騒ぎをしているすぐ横で石工たちの労働量はどの程度のものだったのだろうか。パルミラ遺跡のメイン通りの両側の列柱には各柱の寄贈主を模した石像が誇らしげにのせられていた。アラブ時代のローマの遺跡に比べて粗野な砦から西をみると、夕日のなかに石切り場の山が墓石のようなシルエットでみえた。歴代の何百年でどれだけの石工が死んだのだろうか。先日、日本のローマ史学者がTVでもともと沿地中海世界の食料自給には差があり、パクス・ロマナによって食料が運ばれ、飢えが解消されたと云っていた。そうかもしれないが、私が指摘した2都市の光景から見えてくる生活の差も事実であろう。被征服民や零落民が生きていくのは大変だったのだろう。
‘06.8にこのblogのシリーズで「250、35、400mmの年間降雨量」と題して報告したが、その中で(図書館のアリストテレス)で西トルコの古代港湾都市エフェソスの光景にふれた。メイン道路を中心に図書館、神殿、闘技場などの古代ローマの公共空間が現前して、その生活大国ぶりが実感される。この町から数キロメートル離れた山上に「イエス・キリスト」が磔刑にされた後で「聖母マリア」がエルサレムから移り住んだ庵の跡があるのだという。何故そんなことが判ったのかというと、19世紀にドイツの修道女が夢にみて、そのとうりに発掘すると住居跡が発掘され、「聖母マリアの家」と証明さあれたのだという。この話は非常に示唆に富むという思いがする。ここエフェソスのメイン道路の脇にはむき出しの水洗トイレがある。丸見えであるが、我々とは恥意識が違うに相違ないが、誰でもこの快適さに参加できたと限らなかったかもしれない。この華やかな古代都市周辺でしか生きてはいけないが全面的には参加できない零落民がもしかして初期のキリスト教徒だったりと夢想することは、面白―いかも。そういえば聖パウロが西方への布教旅行の途次、ここエフェソスでも布教したという話もある。
話を200年ほど前のセレウコス朝シリアの酷薄なヘレニズム化にたいする「マッカビー=鉄槌」反乱以降のパレスティナに複雑な状況にふれたい。この内乱により、ユダヤ人たちはハスモン家のもとで、バビロン捕囚以来450年余ぶりに独立を獲得した。しかし、ユダヤ人集団の内実はセレウコス朝シリアのヘレニズム化を受けた結果、複雑であった。ヘブライイズムはヘレニズムによって消滅の危機を迎えていたのである。パレシティナ以外に住むディアスポラユダヤ人の言語がギリシャ語化したことには以前ふれた。(ヘレニスト)一方、エルサレムに住むユダヤ人はヘブル主義者とも呼ばれ、頑固な律法と習俗の遵守者であった。
宗教者の間でもサドカイ派、パリサイ派、熱心党、エッセネ派(クムラン教団)詳細にはふれない。ハスモン家のつかの間の独立の後、勢力を伸ばしたローマ帝国により属王ヘロデが擁立された。終末思想にとりつかれた熱心党によって引き起こされたユダヤ戦争によってエルサレム神殿が破却された後に、サドカイ派は命脈を絶たれ、その混乱のなかでエルサレムお逃れたパリサイ派は律法をヘブライ語だけにすることによって現在に至るユダヤ人の範囲が決まった。死海西岸のワディクムラムでエッセネ派の教団跡を見たことは以前書いた。マサダ砦ではローマ式の浴室をもつヘロデ王の離宮跡の前に熱心党が全滅した部屋があった。そして、山上の砦から見下ろすと砦攻略のためのローマ軍が造った道が、2、000年を経て残っていた。反乱を許さないローマ軍の執念がよく判る。
こんなことが分かるのもヘレニスト・ユダヤ人の歴史家ヨセフスによる。それもローマという客観者がいるからであろう。旧約聖書を歴史書として読まなければ、実際はこの我の強い民族はいつも分烈しがちだったに違いない。
最高神を唯一神化する過程で、逆に自民族を選べれた民であると自負し、他より高みにおきたいという方法をめぐる対立抗争については前述した。くりかえすと、それは我々らしさを対象としたレベルのことである。
そういう状況で初期キリスト教団が成立した。(学問的に云う原始だとか初期だとかという議論にははいりこめない)。冒頭にユダヤ教の一派とみなされ「ナザレ派」と呼ばれた集団についてふれた。最初期の彼ら=ユダヤ人キリスト教徒(クリスチアノイ)はユダヤ教の律法に従っていた。しかし、磔刑になったとされたイエスが復活したメシアであるという「信」をもつという点だけは異なっていた。そもそもキリストという言葉はメシアのギリシャ語訳「クリストス」からきている。そして、救いはイエスを信以外はない。そして、そのためには、イエスの名において「洗礼」を受ける。その彼らもエルサレムの神殿に参っている。ということは彼らがユダヤ教のヤーヴェを否定したことはなかったということを意味していた。
イエスの復活を「信」ずることは個のレベルのことであり、世界宗教への基となった。そして、信じれば神の福音がもたらされ、そのことによって救われるという構造がなった。
民族宗教としてのユダヤ教との違いである。
しかし、ここでも一神教らしい禁止規定が裏面にある。信がないことは不義であり、悪とされ、サターンが準備されていた。
しかし、二つの宗教運動の違いは露呈する。それは、律法の軽視とイエスがユダヤ人によって殺されたと難じることにより、はっきりしてくる。もちろん、イエスの磔刑はローマ総督の手になったが、初期キリスト教徒はそれをエルサレム・ユダヤ人の仕業だとみなした。そして、その責任転嫁はユダヤ民族総体にむけられた。「キリスト殺し神学」の誕生である。そこには、ユダヤ教の律法遵守ができないという態度の裏返し?は深読みか。
とにかく、キリスト教はディアスポロスユダヤ人の間に教線を拡大する。
その後、先述したパルミラ、バアルベック、エフェソスの3都市の光景でふれたように、ローマ帝国の生活格差で辛吟する零落民・奴隷の間にひろがり、恰もユダヤ人が先進フェニキア人に精神的に優位にたったように、零落民たちは貴族や富裕市民の生活を堕落として心理的に優位にたてた。時代が下ってアウグスティヌスやグレゴリウス教皇などのラテン教父の時代になると反ユダヤ主義は、彼らは滅びることも許されないというほど残酷なものにまでなっていく。
その神学の確立にプラトンのイデア論などのギリシャ哲学の結果とその思弁法の援用があったことは勿論である。(もしかして、アリストテレスの質量論は?)
結果、他者をバルバロイとみなすヘレニズムと義の裏側に不義をみなすヘブライイズムが結合して将来のヨーロッパという型を作っていく。恰もその裏返しにアジアという外者の呼称がある。
最高神格から唯一神へという歴史の流れを概観した。その跡を辿りながら、あらためて「歴史の方向性がかくなかりせば」という設問は許されてよいと思った。
  
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2008年02月20日

先住民絶滅の地から

先住民絶滅の地・パタゴニアから
  世界観の形成を一神教の成立の後段という場で推論する

 歴史のすすむ方向が「もし、かくなかりせば」という設問は許されてよい。そこには、現実への失望が含意され、歴史がもし、違っていたならば、こうでは無かっただろうという切望にもにた感情がある。ところで、前回のblogへの投稿(風のパタゴニア)では当地で求めたCarlos Vega Delganoの「PATAGONIA  FIRE SHADOWS」という写真集にみられる先住民の裸形からは撮影者の先住民はかくあるべしという世界観がみてとれると書いた。この寒冷の地で裸で暮らすわけはない。その写真集に撮られた後、彼ら・先住民はほぼ絶滅した。また、パタゴニアという地名に込められたマガジャネス御一行の先入感的な世界観にもふれた。
彼ら、南アメリカ大陸最南端の地・パタゴニアの先住民は現生人類の世界拡散に関して、最高のフロンティア・スピリットの持ち主であった。15〜20万年ほど前にアフリカ大陸で種として成立した我々・ホモ・サピエンスは5万年ほど前にアフリカを出て(出アフリカ)、全世界へ拡散していった。考えてみれば、世界の各地の自然は著しく違っており、人類の環境は多様であった。ところで、我々以外の動物種では異なる環境への適応には進化を必要とする。そのためには時間がかかるのである。それに対して、ホモ・サピエンスの場合には新しい種が成立するなどという広範な肉体変化も無くとも、種々の環境への適応を遂げながら、移動して世界への拡散していった。出アフリカを果たして、ユーラシア大陸の東を目指したグループのうち、3万年ほど前にシベリアで寒地適応をとげた集団があった。若干の肉体適応(顔の凹凸が平定化する、手足が短くなる等)とともに例えば、マンモスの骨と皮で家を造る等の文化適応を遂げながら、定着した。
1万4〜5千年前の寒冷期に海底面が沈下し、結果2回にわたってベーリング架橋ができ、シベリア定着民の一部がアメリカ大陸へ渡った。1万4千年ほど前と推定されている。彼らの子孫は1万2千年ほど前にはパタゴニアにも姿を現し、足跡を残している。アルゼンチン南部の「クエバ・デ・ラス・マノス=手の洞窟」のネガティブ・ハンドでみることができる。南北アメリカ大陸の距離・1万4千kmを僅か!2千年で縦断・踏破したことになる。一年に28kmの移動距離である。それも多様な自然環境に適応しながらの移動である。チリに入ってからも、飛行機の窓から観える砂漠・氷河・パンパという草原等の南北の多様な自然の変化には先にふれた。もちろん、パタゴニア先住民が一万二千年前にこの地へ到達した集団の直接の子孫だという証明はない。しかし、地球への拡散という人類史の重要なモティーフからみるとフロンティア・チャンピオンには間違いない。
そのチャンピオン達もマガジャネス御一行の到着以来500年ほどで絶滅してしまった。一万年を超えた歴史はどこへいってしまったのだ。
1492年のコロンブスのアメリカの一部への到着以来の歴史を「大航海時代」等ということもある。そして、世界の歴史が一体化したなどともいう。ところで、我々はその200年前にジンギス・ハーンの征服活動に始まるモンゴル帝国の膨張に伴うユーラシア大陸の東側の一体化という歴史も知っている。モンゴル系の支配者達は世界の所々で、例えば中国では支配のためには、儒教を援用したし、キプチャク・ハーンでは自分達がイスラーム化さえした。それに反して、大航海時代なるものは北方ルネッサンスをへてほぼ一体化・キリスト教化した西ヨーロッパの膨張でしかない。それをチリの首都・サンチャゴのアルマス広場脇のカテドラル・ド・サンチャゴの重厚だが、うすら寒い建物に具現化されている。そのキリスト教なるものは神への信仰だけではなく、つきものとして、世界の創造なる物語に延長して現実世界もかくあるべしという「世界観」を伴っている。
もちろん、世界のどの社会でもそれぞれに自分をとりまく世界への説明をともなう考え方はある。しかし、先述したキリスト教的な世界観の成立は人類史のなかでも特異なものではないかと思っている。
ここからは、妄想を含んだ私の推論である。それは、マガジャネス御一行のパタゴニア到着より、2千年以上前に現在、中東といわれる地域の一部で起こった。ユダヤ教という一神教の成立には、前段と後段の二つの段階があると勝手に妄想している。ギリシャ語で川のむこう側を意味するヘブライ人と称されるセム語族の一集団が後に彼らの民族神「ヤーヴェ」から「約束された地・カナァンの地」に侵入したのはいつ頃だったのだろうか。アダーム・ノァ・アブラヒム・モーゼなど話からそれを推定してもしょうがない。カナァンとはカナァン人の土地という意味で、もちろんこの地が無人の地だったということでない。エジプトとメソポタミアという古代の大文明の回廊地帯を形成するこの東地中海の海岸地方とその後背地は早くから、通商に従事し、現在のレヴァノンを中心にした東地中海沿いに都市国家が並んでいた。彼らはこの地の特産のアッキガイ科の巻貝から採れる紫紅色の染色を輸出したために、彼らの国を紫の国・カナァンと呼んだのだという。エジプトもメソポタミアとも乾燥地で木材は産出せず、彼らの扱うレヴァノン杉は貴重で、この地はその輸出で栄えた。
後に彼らはギリシャ語で「フォイニケオス」とされる紫紅色にちなみ、「フェニキア人」と呼ばれるようになる。彼らの都市国家の発掘からは高度な文化が現れている。
その文化遺産の一つに現シリアにあるウガリト遺跡で発掘されたメソポタミアの楔形文字を応用したアルファベットの発明がある。現在、東アジアの一部で使われる漢字を除く世界の大部分で使用される表音文字体系の嚆矢の一つである。メソポタミアの20数個の楔形文字を使用して、表音文字にしたいわゆるアルファベットで粘土板に刻まれた中に彼ら古代のウガリト人の信仰した神話がある。粘土板は字を刻まれた後で焼かれたために、現在の我々でもその神話を知ることができる。(ウガリトの神話 バアルの物語 谷川政美 新風社)その多神教パンテノンの主神を「エル」という。やがて、雷と雨の神である「バアル」によって実権を奪われてしまう。バアルはそれから死の神「モート」と死と再生をかけて争う。
私は5年ほど前に、シリア砂漠から西へ向かい、東地中海岸へ旅をしたことがあった。乾燥して緑がまったくない砂漠から山へかかると急に緑の耕作地になった。いわゆる、「肥沃な三日月弧地帯」である。その折のガイド氏の説明では年間250mm程度の降雨があれば、麦作を中心とした耕作が可能なのだという。この東地中海地帯では、降雨は冬季に地中海の水蒸気を含んだ西風が、レヴァノン山脈などの大地溝帯の両側で隆起した山脈で上昇気流になってもたらされる。ときには、雷雲をともなった嵐としてである。この地の古代の農耕、遊牧社会にとって、降雨は欠くべからざるものであった。この三日月弧地帯の洪積台地で1万数千年前の地球の温暖期に定住・麦の栽培による農耕・羊の家畜化による牧畜という歴史の方向がおこった。(ムギとヒツジの考古学 藤井純夫 同成社)そして、この方向の先に沖積平野における都市の誕生と文明化がおこった。麦は秋に植え、冬季に数回の降雨があれば採りいれできる。また、冬季の雨で生えた草を食んで羊は子を産み、授乳できる。繰りかえすと、冬季の降雨が農耕化・牧畜化・都市化・文明化という歴史の方向を可能にしたといえる。そう考えてくると「ウガリド神話における雷と雨の神・バアルの活躍」の意味がわかってくるように思う。
考えてみれば、社会の事象は複雑で、あい矛盾することも起きる。一人の神の御業とするよりも、それぞれの属性をもつ神々の御業としたほうが理解できやすい。我々、人間はその属性を頼って、お願いをすればよい。この世界で最初に文明化した中東のさまざまな社会では人格神が多数いる多神教の世界であった。
そのなかで、結果として唯一神教から一神教を確立させた集団があった。前述したギリシャ人からヘブライ人と云われた人々である。彼らは遊牧生活からカナアン人の地へ入り込んで定着・農耕化していった。彼らが後世編んだ「旧約聖書」(この言い方は福音書を新約聖書としたキリスト教徒の側からの言い方である)には前揚した「ウガリト神話」と共通な語・句・節が非常に多いのだという。また、列王記上18章19〜40には預言者エリヤとバアルの神官達の対決の模様が描かれている。すなわち、彼らは先進文化をもったフェニキアの影響下で神観念を独自なものにしていったことを物語っているのだろう。しかし、彼らはバアルの信仰世界に同化することはなかった。エル的な主神と雨を降らす力を有したバアル的な神格を同化して、死の神・モートを悪魔におとしめたことによって、唯一神教を成立させていった。モーゼの十誡では、ヤーヴェの神はモーゼに他の神を信仰するなとは言っているが、他の神は無いとはいってはいない。すなわち、第一誡で「おまえにはわたし以外の神々があってはならない」云っているのである。嫉妬深い神なのである。
それは、この地への定住を安からにするために、「ヤーヴェとの契約」をとる必要に迫られたからに違いない。ユダヤ教の前段階の成立である。
やっと、話が一神教の成立の後段まできた。
この間にこの世界の最新地域の歴史は青銅器から鉄器時代への変革を遂げた。とともに、(だからというべきなのか)切れ味の鋭い武器を手にして、馬や馬車によって移動能力をたかめた集団は、他への支配欲はそのままにして、他の集団を襲い自己の支配下に組み込み始めた。ヒッタイトを嚆矢とする帝国というパターンの始まりである。やがて、アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシャ、・・・と続く。その間に前述したヘブライ人という集団は12あると称する部族という単位のまとまり形から、他の国を習い王権を成立させた。いわゆるダヴィデ王朝である。そして、イェルサレムを都としてヤーヴェの神殿が営まれた。あたかも、ウガリド神話で力を得たバアル神が自分の神殿を造るエピソードのようにである。
このヘブライ人という集団はまとまりを欠く傾向をもっていたのかもしれない。やがて、統一王朝は北のイスラエルと南のユダヤ王国に分裂した。因みに現在、国名になっているイスラエルと言い方は、創世記二4以下によれば、民族の父祖アブラム(後にアブラハム)の孫ヤァコブは神に格闘を挑んだゆえに「神に挑んだ」という意味でイスラエルという尊称を与えられたとされていることからきているのだという。「物語 イスラエルの歴史 高橋正雄 中公新書」南のユダヤという名はユダという部族名からきている。
この帝国が形成された時代、周辺の弱小の集団の運命は悲惨だったに違いない。殺されるか、版図にくみこまれるか、奴隷にされるかであった。それも被征服民の抵抗さによって違ったものになったであろう。ヒッタイト・アッシリア・新バビロニアまでの帝国は抵抗被征服民達を帝国版図の他地域に連れ去るという政策をとった。
北のイスラエル王国にBC722から721年にアッシリアが襲いかかり、王国民を連れ去った。南のユダヤ王国では、その後にアッシリアは帝国の他地域から雑多な民族を殖民し、イスラエルの血が無くなったと強調する。私は‘05に<東京の夏>音楽祭サマリア人のア・カペラ詠唱を聞いたことがあった。サマリアとはイスラエル王国の都の名である。彼らサマリア人は南のユダヤ教と分派し、ゲリジム神殿を聖地として独自の信仰を守り、コミュニティを維持している。「イスラエル パレスチナ 聖地奇行 小川英樹 連合出版」彼らサマリア人達の存在を思う時、後に成立したユダヤ教の構造が解かるような気になってくる。
北イスラエル王国の滅亡の136年後のBC586年にアッシリアを滅ぼした新バビロニアはイェルサレムに襲いかかり、神殿を破却し、3度にわたりユダヤ民をバビロンに連れ去った。(バビロン捕囚)その間、彼らユダヤ人達はバビロンの先進文化と接触しつつ、古代ヘブライ族の宗教遺産を民族存続の基本原理とするユダヤ教団を形成していった。具体的には多様な伝承と律法の採集と律法を定期的に学習と勤行をする場としてのシナゴーグと呼ばれる集会所が始まる。この帝国の時代その版図に組み込まれた集団が別に編成された例は多数あったに違いない。文化的なアイデンティティは混在しても、生物学的遺伝子は残せたはずだ。
やがて、時代は移り、キケロ大王のアケメネス朝ペルシャによって世界の中心・バビロニアは開城された。ペルシャはそれ以前の帝国と違って占領地の住民は移動させることはせずに属州として納税の義務だけを負わせた。それゆえに、キケロはユダヤ人のイェルサレム帰還を許した。やがて、帰還民は第二神殿の建造にとりかかることになる。
特筆されるべきことであるが、先進バビロニアに残留したグループがいたことである。ここで、口承伝記などから文字による表記律法化が行われた。
ウガリト神話のところで触れたが、粘土板に焼かれた楔形文字のアルファベットは往時の人の思考がそのまま残されている。しかし、2500年ほど前のバビロニアに済むユダヤ人が彼らの伝承・律法・世と民族の始まりを説く創世記などには彼ら・律法学者の思考が反映されないはずが無い。
ここからはさらに私の独断である。アケメネス朝ではイランのアーリア民族の多神教のパンテノンの中で、光の神・アフラ・マズダを最高神とするザラスシュトラ(ゾロアスター)の宗教改革を国教化しつつあった。ここペルシャに占領されたバビロンでも魅力的な思潮ではなかったのではないか。その影響をBC9世紀とされるヤーヴェ資料層の古いものとBC5世紀のものとされる新しい創生記の記述の差から読み取ってよい。古いものでは「転地創造の初めは地上にはまだ野の潅木一本なく野草一つ生えていなかった」。から「天地創造の初めは荒涼混沌として闇が淵をおおっていた。創造の順序(イ)光―昼、闇―夜(ロ)大空―天(ハ)陸―地、水の集まりー海、陸と海の分離・・・」
比べてみて、如何であろうか。さらにいずれもがザラスシュトラ的な世界の二分法的分離から成っているのではないか。光―闇、天ー地といった二分法は時間とか空間を極端に分けることによって、その全てを理解できるという態度を招来するのではないか。
そのことが、いくらヤーヴェと契約した選民であると確信しても残る一抹な不安さを解消する効果をもつ世界観となりうるのでないか。妄想・妄想・
それにしても、ヘブライ,ユダヤ史に繰りかえして現れる預言者という存在は何なんだ。ヤーヴェの信ずるなら自分一人で信じればよいではないか。あの押し付け方がましさこそ、他者との境目がきちんとしてないタイプではないか。それこそ、宗教者の特性かもしれない。
ところで、ガマジャネス御一行様の世界観から話が2千年遡ってしまい、この間にキリスト教的世界観の成立という章がなければならない。それは後日とする。
それにしても、一神教的態度の基礎はこの時できたのではないか。
この間、雑誌をみていたらボリビアのポトシ銀山の特集をしていたが、開発以来400年ほどのここでの死者は800万人を超えるのだという。ヨーロッパ的世界観の端的な結果である。

                    丹羽有一
                    ’8.2.20
  
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2008年01月16日

風のパアタゴニア

風のパタゴニア

年末から正月にかけて、チリの南端のパタゴニアへのツアーに参加した。もともとはパタゴニアという語はアルゼンチン側の南端の地方をさす言葉であったのだという。大西洋からインドへの出口を探して、南米大陸海岸沿いに南下していたマゼランご一行様方は、1520年の3月にアルゼンチンのサンフリアンの海岸へ上陸した。英語で「マゼラン」とよぶ彼のことをチリではスペイン語で「マガジャラス」とよんでいるので以下はそう表記することとする。
そこで、先住民のテウエルチェ族がグアナコの毛皮でできた靴をはいて付けた大きな足跡をマガジャラスが見て、この地をパタ=足、ゴン=巨大、すなわちパタゴネス=巨足族の土地という意味のパタゴニアとよんだことからきているという定説となっている。しかし、往時スペインでは「ヒガンデ・パタゴン=大足の巨人」という騎士物語が流行っていたのだという。かって中世から近世へかけてのヨーロッパ社会では自分たちが知るヨーロッパと周辺世界以外の未知の世界では異形、例えば片眼、の人類?が跋扈していると広く信じられていたのだという。それどころではない。パタゴニアという地名は本格的な大航海時代の幕をあけた「マガジャラスの偉業」とともに250年もヨーロッパ社会で人口に膾炙され続けたのだという。即ちヨーロッパ人たちが外の世界をみる前提にある「世界観」をみてとってもよい。その世界観をパタゴニアの先住民の最後姿を写したCarlos Vega Delgadoの「パタゴニアの火の影」という写真集で殆ど裸形でポーズを撮らされているYamana 族の姿から見て取ってもよい。即ち写真の撮影者であるヨーロッパ人の末裔にとって先住民たちは非文明的でなければならないという世界観が見て取れるのだ思う。話が大げさなことになってしまった。
冬のダラス空港の午後のネボケタ日差しのなかでトランジットした我々の機は少し西方向に一路南下する。日本からの時差は15時間から12時間の世界である。やがて早く日があけて、夏の南米の朝日の下で乾燥したアンデスの山々が機窓からみえる。やっと、チリの首都=サンチャゴのアルトウロ・メリノ・ベリテス空港に到着する。長かった!
周辺の山は木は少ないが街の周囲は緑にあふれている。
翌朝、国内便で南下する。サンチャゴの街がとぎれて、暫く右手に太平洋を見て進むと全然異なった風景になる。高地の草原に様々な形の湖沼が見られると思うと大きな氷河が現
れる。とするうちにプエルト・モン空港に着陸する。小雨が降っており、陽光あふれるサンチャゴから来た身には夏から初冬になってしまった。木々の高さも低い。そこから目的地プント・アレーナスへ向かう。チリ側の大陸最南端が見えると一面の草地である。マガジャラス海峡の水面を掠めるように機はチリ側の最南端の町プント・アレーナスの空港に着陸する。ハルバルキタゼ・プントアレーナス!マガジャラス海峡は鈍い鉛色である。空港の潅木は風下に傾いでいる。風のパタゴニアの始まりである。繰りかえすが、ここには
サンチャゴの明るい夏の陽光はない。機窓から望見されたこの国の自然環境にふれた。とにかく、南北に長い国土なのである。4,300kmにも及ぶ。因みに東西の幅は平均175kmなのである。ボリビアとの国境に近い北部のアタカマ砂漠、この乾燥地域では世界の3分の1をも産出する銅や他の鉱物資源も豊富なのだという。
中央部のサンチャゴ周辺では、畑地がひろがる。その南には湖沼地帯、氷河、パンパとよばれる草原というふうに南北には多彩な自然環境がひろがっている。先ほど写真集でふれた先住民たちの先祖(直接の先祖とは証明できないにしても)は、3万年ほど東シベリアで寒地適応を遂げた(低い鼻、短い手足などの肉体進化と着衣、狩りの仕方などの文化的適応をふくむ)後、干上がったベーリング海峡を渡河した。それは、14、000年ほど前だと推定されている。彼らは14、000kmにもわたる南北アメリカを僅か?2,000年ほどで縦断して、アルゼンチン・パタゴニアのクエバ・デ・ラス・マノス(手の洞窟という意味)に左手の洞窟画を残している。5万年ほど前から始まったホモ・サピエンスの全地球への拡散の中でも、特筆されるフロンテイアぶりである。それは、単に距離を移動するだけではなく、今まで触れたきたような様々な自然環境への適応を果たしながらの進出である。
一万年近くこの地で適応したであろう、勇敢な彼らの子孫たちも、マガジャネスご一行様の到着来、僅か数百年で地上から殆ど消えてしまった。
さて、話を前日のサンチャゴでの観光にもどそう。空港から日本人(「日系人ではない」のお兄さんがガイドにつく。以下は彼の説明による。空港から街まで立派な高速道ができている。数年前に建設されたこの国最初の高速道も施工はなんとイタリアの会社によるのだという。支払いは銅の産出による収入によってまかなわれたのいう。ラテン気質!コレ位の技術は国産でやれよ。.
Old Town にはいる川の周囲にはそれとすぐ判るバラック建築がめだつ。この国の人口は1,600万余であるが、サンチャゴの人口は急膨張して、600万人を超えているのだという。前回西オーストラリアのパースに行ったおり、感じたことだが旱魃によるパース周辺の主生産物の小麦の生産は減少しているにも関わらず、パースの街は膨張しつづけているのだという。昨年、国連の人口統計機関が世界の都市人口の比率が50%を超えたという発表をしたという新聞記事を読んだことがあったが、どうやら20世紀後半から21世紀にかけて都市への人口集中という現象は世界中にあり、我々の文明は「都市という新しい怪獣=ミノタウルス」を飼い始めてしまったということなのかもしれない。当然、集中に伴う病理現象はある。この街はペルーのインカ帝国を滅ぼしたフランシス・ピサロの部下のペドロ・デ・バルデビアが黄金を求めて第二のインカ帝国を探して、現在のボリビア、アルゼンチンをほっつき歩いて、この地へたどり着いたことから、始まる。この地を根拠地とした理由として、まず、穏やかな気候が挙げられるであろう。周囲の四方が山に囲まれた盆地である。近づくに従って街が煙ってみえるのに気がつく。日本人ガイド氏によるとスモックなのだという。この都市規模と周囲の山では、排ガスが抜ける所はない。宿泊するホテルはNew townにある。周辺は近代都市でOld townで見かけたバラックはない。
観光のためにOld townnのプラザに行く途中はなだらかな下りがつづく。Old townは300mも低いのだという。スモックは空気より重い。従って、徐々にスモックはより貧しい住人が多いOld townに集まってくるのだという。なるほど!
Old townの中心となるプラザをアルマス広場という。ここにはペドロ・デ・バルデビアの騎馬像がある。そして、地面には3枚のレリーフがあり、この広場を中心として街の戸数が増えていった歴史が俯瞰できるようになってある。アルマスという言葉は兵器庫という意味なのだという。先住民の海の中におかれた殖民都市では一旦緩急あれば市民が兵器を求めてここに終結したのであろう。
広場の四囲にはこの国の主だった歴史的建造物が集中している。つまり、プラザとはヨーロッパにおいてはそのような役割を果たしている。その中で一際目立つ建物がサンチャガ・カテドラル(英語読みでは聖ヤコブ)がある。屋根の上にはこの街の守護聖人・サンチャゴとアメリカの守護聖女カルメンの像がのっている。
先ほど、パタゴニアという地名に関連して彼ら=ヨーロッパ人の世界観を論じたが、もちろん、世界観なるものの成立にとって、キリスト教の教義は絶大な影響をあたえる。大足族はいるはずだという思い込みが成立するの反対側に神が存在するという観念があり、それを具体的に示す装置として、カテドラルがある。
話しが前後するが、先ほどチリ側の最南端の町・プントアレーナスに飛行機で到着したところまで書いた。この港町はマガジャネスが大西洋から南米大陸とフエゴ島との間の海教を抜けて太平洋を結果として発見したのは、スペイン人バルボアがパナマ地峡を東から西へ越えて「南の海」=太平洋をみた1513年の7年後の1520年であった。それまでヨーロッパ人の地理概念には太平洋という海はなかった。とにかく、ここマガジャラス海峡のほぼ中央部に面したプントアレーナスの町は、この海峡を通過する途次に寄港する各国の船によって栄えた。その後をアルマス広場の四囲の建物の豪華さから見て取れる。サンチャゴの広場と名もおなじであるが、ヨーロッパ系の人たちの町をつくる基本形をみてとれる。
そういえば市民の考古学―2・都市と都城(同成社・藤本 強)を読んでいたら、現在の中東地域で1万年ほど前から始まった小麦栽培を主とした農業地帯では、人々が物を交換しやすい地に市がたち、それが都市に成っていったというのである。なるほど、文字どうり市なのである。それゆえ シリアのアレッポやダマスカスのように何千年も同じ所に街が築かれ続けられる。ヨーロッパはその亜流であるから、なるほど!それに比して、我が稲作地帯である東アジアでは王権のある所に人が集まる都城なのだという。だから、権力者が交代すると町は撃ち捨てられる。そのうち、北京が廃墟になったりして。冗談。真夏だというのに風が冷たい。広場で先住民の女性がウールの帽子を売っていたので、思わず買ってしまった。1914年のパナマ運河開通によって、ここは羊毛の集散地である、静かな町になってしまった。ごごから、目指すパイネ国立公園の麓のプエルトアナレスへ一気に移動する。荒涼としたパンパスという草地の中を突っ走る。所々に牧場の家と羊が飼われている。この地の草力ではヨーロッパなどと比べて羊を養いがたく、一頭あたりの土地は10倍も必要とするのだという。そのためかどうか、牧場が集まった農村集落などといったものは存在しない。日本に帰ってきてから、この地の風の強い理屈を読んだ。#1:南北半球ともに中〜高緯度にかけて吹く偏西風、北半球に比較して風を遮る大陸はない、#2:南太平洋の高気圧と南極で発生する低気圧の間で生まれたコリオリ力からできる地衡力 #3:南アンデスにある大陸氷塊で冷やされた空気からうまれる地域風 こんな理屈を並べてもよーく分からない。結果として西の太平洋の湿気を含んだ風は、隆起したアンデス山塊にぶつかり、その西麓と頂上付近で大量に雨がふる。それが氷結すると氷河ができる。チリとアルゼンチン側の海岸線の差を思い出してもらいたい。複雑なチリ側の海岸線も氷河が削ったフイヨルド型の地形であることは一目してわかる。とうことは、アンデスを越えた東側のアルゼンチン側は乾いた風が吹きえ下ろす乾燥した光景があるにはずであるが私の人生ではそれを見ることはないのであろう。パイネ国立公園に一路入る。そのために、地球の裏側まではるばると来た。公園の規模は大阪府ほどの広さに及ぶのだという。パイネという語はこの地の先住民の言葉で「青」を意味するのだという。途中の山の椴松に似た低木の針葉樹の枯死がめだつ。現地ガイド氏によるとパラサイトのためなのだという。墓標のようでもある。再度、確認するが真夏なのである。公園内に入ると雲が低く垂れ込めて寒い。様々な色をした湖沼の水面が美しいが、山の全貌はみえない。中央部に近づくにしたがって、陽がでてきたので期待していると、グレイ湖でのクルーズを始めるころには、大粒の雨が降り出す。山の天気をおもいしる。一時間ほどクルーズしてグレイ氷河の末端に近ずくと、氷河の青が濃く、アイスランドのものとは色が違う。成育がチガウンデアロウ。パイネ・グランドの山壁の褶曲が大きく、このちに加わった太平洋から力の大きさを想像できる。フランス谷あたりでは低木が岩の褶曲なりに生えている。はじめてみた。あっという間の二日間が過ぎてしまった。帰りのバスの車窓から最後の角のような形をしたクエルスがみえる。夢中でシャッターをきるが、心のヒダの記憶にとどめるしかない。このツアー中、海部陽介氏の人類がたどってきた道を読んでいた。ちきゅうの歴史からみたら、アットいう間の十数万年前に種として成立したH・サピエンスが5万年ほど前に現代人らしさを獲得して、地球中に拡散していったというお話である。その出アフリカのルートとして、東アフリカの大地溝帯とレヴァント地方を想像して、見に昨年行ったきた。このツアー中、白人系の人々の立派の足腰と張った臀部を見ているとアフリカを出ていったホモ・サピエンスは彼らのようでなかったかという妄想がした。このツアーヘ来る前に、遠距離の移動とトレッキングに身構えて、1月半ほど歩き過ぎてしまった。おかげで、足をくじいてしまった。そのためにツアーコンダクターの美人の娘さんに気をつかわしてしまった。ツアー中彼女の柔道のすり足に似たポーズを見ていると安心感がうまれ、おかげで帰ってこれた。!!

  
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2007年10月10日

二つの到着の違い

「二つの到着の違い」
                    丹羽有一
前回にオーストラリア・ツアーの印象を「二つの到着」と題して記した。第1の到着とは、6万年ほど以前に、この大陸に到達したホモ・サピエンスが大陸の各地へと放散して南西オーストラリアの地に到着したことを指している。その子孫が現在大陸各地にいるアボリジナルと称される方々である。その存在を「マルクの洞窟画」が示してくれる。私には、三ケ月と魚と手の絵が判読できた。力強いものである。その絵を見ると存在する事物を観察・記憶し、岩穴の天井に絵の具で表出するという、行動的に現代人とされるホモ・サピエンスの脳の「表象作用」が策定できる。さらに月、魚、手と並べられると、我々はそこに、彼らが、「月」の出ている状態が「魚」という獲物がよく、「手」にいれられるという願望しているのだとくみとることも可能である。それは食料を確保するという生物の基本欲望を表象できるということであろうし、なおかつ、岩絵という表象によって魚がよく捕れるという状態を常態化し、永続化を可能にしたいという「恣意」を秘めたマジカルな態度をよみとってもよい。
そのことは、魚という獲物が恒常的には獲得されるということはありえない現実を、これこれのこと=この場合は岩絵をかくこと、によって、可能に出来るいう「可塑化」がそのが背景にある。
この脳の機能を「行動的に現代人」である新人段階のホモ・サピエンスの特徴であろう。
東南アジアのスンダ大陸からオーストラリアへ渡来した、この「行動的に現代人」であるホモ・サピエンスは岩にホールを穿ち、生活空間に貯水することによって、乾燥大陸オーストラリアへの適応能力を高め、この大陸全体への放散を可能にした。くりかえすとこれが南西オーストラリアへの「第1の到着」である。
彼ら・人類が到着する以前にはこの地にはどのような自然が拡がったいたのだろうか。想像するだに楽しい。現在風に言い換えれば、乾燥オーストラリアの「環境」である。彼らアボリジナルの先祖たちは、この乾燥環境という新たな「生態系」で獲物を狩猟し、草の根などを採集し、「適応」し、数万年を経た。生態系のなかで食料獲得する場を人類学では「ニッチェ」とよぶ。
この乾燥した大陸では、頻繁に雷などによって山火事がおこった。今回の短いツアーでも各地の疎林や草原でも焼け跡が見られた。最初のうちは、草木が焼死しているのだと思ったがユーカリの仲間の木々は厚い樹皮に保護され、種子は火事にあって初めて発芽するのだという。火事という環境での植物進化の結果である。
一方、到着したアボリジナルの先祖たちはある地域での採集が終わり、移動する前に火を放つのだということを読んだことがある。
しばらくすると、彼らは戻ってきて、新たな「ニッチェ」にするのだという。即ち、彼らは生態系への適応という範囲を超えて、生態系を改変するという行動をしていた。、その行動は雷などによって自然におこる山火事のサイクルの中にある。
ところが、ツアー中に麦畑の低地の草が、塩害で枯死してしまい、真っ黒になってしまった光景はよく見かけた。絶望的な黒さであった。この地に麦の栽培を創めるために広範にユーカリなどの木々を切り払った。それらの木は塩を含んだ地下水を吸い上げ続けてきた。麦畑の低地には時に降った雨水が溜まる。その溜まり水によるサイホン効果によって、地下水の塩が地上に析出される。
即ち、この地の塩害は18Cのヨーロッパ人による「第2の到着」によって齎された。
麦の栽培による農業は現在の中東・「肥沃な三ヶ月孤」で約一万年におこった。
この地の麦作は麦、羊の放牧、休耕という輪作による土地利用が主としているのだという。羊の放牧は広い牧草地のなかに、小さな給水用のダムがあるだけである。即ち、羊たちは野外で夜を眠る。だから、外の羊毛は真っ黒である。ガイド嬢の説明によると一年に一度、羊毛を刈ってやらないでいると、毛が伸びすぎて羊は死んでしまうのだという。
前記の農業の開始につづいて羊・山羊の家畜化によって、やはり中東の地で牧畜がおこった。
羊の毛を刈らないでいると、死んでしまうという事象は、その家畜化の結果である。羊の毛をより多く得たいという、人間の恣意によって長い毛の個体をかけあわせ続けた結果が自分では生き続けられない羊の誕生である。繰りかえすとこの過程を「野生種の家畜化」という。
ひるがえって、農業革命と牧畜化を人類進化史のなかで位置づけてみたい。
まず、人類進化の結果としての文化・社会事象を略述してみると、
#1:ホモ・ネアンデルターレスまでの段階の旧石器時代
#2:アフリカで進化した行動的な現代人の段階に現れる洞穴壁画や装飾
#3:一万数千年前からの完新世にいたっての地球の温暖化と気温の安定化という環境のなかで、定住化がおこった。
#4:麦の栽培化による農業革命
#5:羊と山羊の家畜化による牧畜
#3〜#5までの事象は「豊かな三日月地帯」でおこった。
以下
#6:都市化
#7:文明化
#8:帝国化
など後に「歴史」として記述される事象が次々と興った。
第1の到着においては、#2の行動的に現代人としてのアボリジナルの先祖たちの象徴性・可塑性に裏打ちされた恣意性などを指摘した。
第2の到着はいわゆる「大航海時代の後期」で興った。そのことは、現在の中東地域での出来事(#3〜#8)が各時代に波及した結果である。今、波及という言葉を使ったが、そこでおこった事柄には二つの有りえそうな想定がある。例えば、農業の伝播を考えてみると、中東から麦作をヨーロッパに齎した人々が、その地でそれまで狩猟採集生活をおくっていた人々を駆逐したしまったのか、あるいは狩猟採集生活者が麦作を倣って、農業をはじめたのかである。これに近い事象は「ホモ・ネアンデルターレスと行動的に現代人であるホモ・サピエンス」や「日本列島における縄文人と弥生人」との間におこった関係であろう。その答えは「人骨からのミトコンドリアDNA」の解析が齎してくれるかもしれないが、現今では霧の彼方にある。
征服・駆逐という暴力的な事象を考えてみるときには、#3:定住化の結果おこった人口増と財の専有化によっておこった集団間の暴力が齎されたらしいことの延長から、人間の暴力性を想起すればよい。
後者の狩猟採集民が農業化を学ぶという態度を考えてみるときは、人間の「真似る」という行動を考えればよい。しかし、その時には若干の「屈折感」を伴うことが多い。
では、この暴力と学ぶという「行動」の基礎にあるものはなんであろうか。「感情」であろう。言語生活に伴う思弁からだけでは、行動はおきない。
感情が「感覚や感性」などといったあいまいなものに支配されているのだろう。という意味では感情に支配されてるという態度は「感覚の幽囚者」であると表現してもよい。
一方、大きな脳と複雑な神経支配をよぎなくされたホモ・サピエンスは他の動物に比して較べようもない長い幼児期をもった。それは、親との関係で屈折した感受性をもつことがある。
先ほど人間によって刈毛をしてやらねば、死んでしまうという羊の家畜化の話をしたが、我々行動的に現代人であるホモ・サピエンスの子孫たちは、定着化・農業革命・牧畜開始以来「文明」という乗り物に乗って、感覚の幽囚の結果、自身を「文明の家畜」と化してきた。それを「自己の家畜化」という。。
その結果が塩害であろうし、基本産業である麦の不作をよそに、金融をテコにして拡大し続ける「パース」の街の姿に見ても良い。
とにかく、象徴性と可塑性を基礎にした第1の到着から、感覚への幽囚から齎された第2の到着という我々の文明という乗り物はかけ離れてしまった。
補遺としてかってに推論をしたい。
西オーストラリア博物館でアボリジナル・アートを見た。鮮やかな色に彩られた、独特なモチーフと文様は強い印象が受けるが、余りにも我々の美意識とはかけ離れており、いいとか好きになると言うものではない。そのうちに、彼らの描くのに線という要素が稀らしいことに気がついた。ひるがえって、ヨーロッパ人がこの地に到着(第2の到着)する以前の彼らの生態系で、線というもの、特に直線として認識されるものは少なかったとも思える。それに対して我々の周辺には、例えば、稲とか麦の畝、舗装された道路、四角いビルの四隅などの直線にあふれている。厳密に言うとこれらも線ではなく拡がりをもつ面ではあるが、その幅が狭い空間を我々は線として認識している。考えてみると、1万年ほどより前に農耕を始める以前のホモ・サピエンスの空間認識もアボリジナルとかけ離れたものではなかったとしても良い。もしかすると、ホモ・サピエンスは麦の条として栽培をはじめて周囲に線というものを認識しだしたのかもしれない。などと勝手におもうとそこから、我々は空間を線で区割りし、それを梃子にして支配空間を広げていったのかもしれない。また、現在の我々が時間が線的に経過するという感覚の基礎がこの時代にできたのかも知れないなどと想像してしまう。

                   ’7.10.10.
  
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