2015年09月23日

本日『激動』10年ぶりの幕開け!!

皆さんおはようございます。若宮優子です

いよいよ本日『激動』の初日です

18:00開演・築地本願寺ブディストホール

10年ぶり、4回目の公演。
戦後を50年も生きた一人の舞台人として、
終戦記念70周年記念『激動』をお届けいたします。
(企画・製作・脚本・主演)

築地本願寺内にあるブディストホール。
お彼岸の連休、本願寺さんには沢山の方が参拝に見えています。
この大戦で命を落とされた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

『激動』で私は、
敗戦で傷つき、今も望郷の念を抱いて生き抜いている満州残留婦人・
江口春恵を演じます。

今朝の朝日新聞・東京版でも
「戦争が置き去りにした悲劇 中国残留婦人の半生 今日から築地公演」
として公演内容と稽古写真が紹介されました
北野さんありがとう

開演時間
23日(水) 18:00
24日(木) 14:00・19:00
25日(金) 11:00・16:00
26日(土) 14:00・18:00
27日(日) 14:00

料金(前売り・当日共・全席指定)
一般4,000円  70才以上3,500円  学生2,500円  AM公演3,500円

問い合わせ 劇場直通
03−3546−6955

詳しくは『激動』専用ブログ
http://blog.livedoor.jp/yuhko3-gekidou/
をご覧ください。

それでは劇場でお目にかかれるのを楽しみにお待ち申し上げます

若宮優子







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2015年09月05日

10年ぶりに『激動』を上演いたします!!

皆さん こんにちは。若宮優子です

4月に、娘は無事幼稚園に入園。
5月に、母が急逝。
8月に、私は50歳になりました。

10年前の終戦記念日に、下北沢の駅前劇場で幕を下ろしてから、
あっという間に10年が経ちました。
この秋、『激動』を上演いたします。

今朝の産経新聞でも、公演内容が紹介されました

詳しい公演情報は、今回の『激動」専用ブログ
『激動』若宮優子プロデュース10 終戦70年記念公演
http://blog.livedoor.jp/yuhko3-gekidou/ 
をご参照下さい。

皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております

若宮優子


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2015年07月12日

母の急逝

皆さん おはようございます。若宮優子です

2年もご無沙汰いたしまして本当に申し訳ありません。
それだけの年月の中では、皆様の周りでも、色々な変化がおありだったことでしょう。

お元気でいらっしゃいますか?

私の周りでは、この5月24日に、宮崎の母が急逝致しました(享年76歳)。
生前お世話になった皆様、通夜・告別式にご参列いただきました皆様、
弔意を下さった皆様に、心からお礼申し上げます。
四十九日法要と納骨も無事に済ませることが出来、ほっとしています。

母は、5年ほど前から心臓にペースメーカーを入れておりましたが、
23日の夜に普段通りに就寝した後で心臓が停止したようで、
一緒に寝ていた孫娘2人が、朝方「ばあちゃん」の異変に気づき、
同じ敷地内に住む私の姉が駆け付けた時には、
既に冷たくなっていたとのことです。

中学校の体育教師で、新体操やバスケットの部活動指導に熱中し、
心臓が弱くなったあとは国語教師を務めました。

退職してからは、「昔話の語り部」、「自宅での習字教室」を通して、
小さなお子さんたちと親しみ、

また、「地区の世話人」や「人権擁護委員」、「民生委員」、
「宮崎県個人情報保護審議会委員」等を拝命して、
地域の皆さんのお役に立てるよう働き、

プライベートでは、趣味の書道や表装に力を入れ、

スケジュール表には、いつもびっしりと予定が書かれていました。

逝くのが少し早いかなとも思いますが、
死の瞬間まで思い切り現役で働き、潔く幕を引いた人生も、
母らしいと受け取っております。

意志の強い、努力家の女性でした。
私も娘も、母の意思を受け継ぎ、母に倣って、
これからの人生を歩んで参ります。

何卒、今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

若宮優子


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2013年04月02日

娘は元気に2歳になりました


にんにちは
皆様、お元気でいらっしゃいますか?
本当に久しぶりにログインしたところ、
色々、様変わりしていて、月日の経過を実感しました。

そした、頂いていた皆様のコメントを
改めてゆっくり、ゆっくり拝読させていただきました。
遅くなりましたが、娘の誕生に寄せて下さったメッセージ、
心より感謝申し上げます。
私が遠のいていた間にも、たくさんの方に読んで頂いて
本当にありがとうございます


今、私の傍らですやすやと昼寝をしている
娘の寝姿を見守りながら、
思い切ってブログを更新いたします


母子手帳を初めて手にしてから今日まで、
ブログに向かえなかった一番の理由は、
娘の出産に、たいへん辛い出来事があり、
その心の整理に時間が必要だったためです。



山王病院の藤原センター長のもとで、
奇跡のように授かった命。
不妊治療の一環で、二度入院手術をしていましたから、
出産も安心して山王病院で出来ると思いました。
産科の玉田Drに担当していただき、
山王病院の皆様には、本当に感謝以外の言葉が見つかりません。
7Kgも痩せたひどいつわりが治まってからは、
短かったけれど、たぶん幸せな妊婦生活だったと思います。

このような感想になってしまうのは、
先に述べましたように、出産後が異常で、
出産前のことを思い出したりすることが出来ないままだったからです。


その日、32週直前の検診日。
お腹の張りが続くので、暫く経過観察のため入院しました。

が、二時間も経ったでしょうか?
NICU(新生児集中治療室)のある病院へ転院しなければならないと
玉田先生からお話がありました。
張り止めは随分前から服用していたのですが、

「強い張り止めを点滴しても、張りが治まらない。
子宮筋腫切除の為に子宮にメスを入れているから、
万が一このまま子宮が破裂したら大変なことになるし、
二ヶ月もの早産になるので、NICUのある病院を探します。」

山王病院としては、提携している愛育病院を、
私は、家の近くの聖路加病院を希望しましたが、
NICUに空きがあるのはたった一カ所、
X大学病院でした。
後から思えば、それもそのはず、
病院とは名ばかりのところでした。

医療ミスも度々起こしているし、評判もとてもよくない。
などということを調べる時間もなかった。
緊急搬送で転院、二日後に帝王切開で娘を出産。

産科の対応の酷さに、
ゆっくりと産後療養など望むべくもない中、

NICUの保育器に入っている娘だけは、
きっと最善の治療を行って下さると信じ、
主人のブログに、
新生児科への感謝を交えた娘誕生のコメントを出したその夜、

娘への投薬ミスという、
想像もつかないことが起こったのです・・・

生まれたときは1989kgで、体重は徐々に減り、
呼吸も自力でできずにいる、小さい小さい赤ちゃんに、
希釈せずに一日分の3倍の薬を投与したと・・・

24時間、副作用を見守る間、
私は気が狂いました。
今この瞬間も、“ショック死”という最悪の結末に怯えた感覚で
涙が次から次からあふれ出ます。
懸命な不妊治療の末、たった一人授かった命を・・・

今、娘が起きました。
「おかあさん」と呼んでいます。
もう切り上げてねということなのでしょう。


そして、昨日。
出産予定日から二年経ち、聖路加国際病院で二歳の検診を受け、
早産による成長の遅れも少しずつ取り戻し、
娘は、順調に成長しているとの結果でした。

医療ミスの後、
聖路加のご配慮で転院させていただき、
それから今日まで、
担当の草川Drを始め、
40日間お世話になったNICUの皆様にも、
元気に成長した娘の姿をお見せすることができ、
皆さんも、とても喜んでくださいました

もうしっかりと歩ける娘と家族3人、桜吹雪の中、
帰途につき、やっと安心と幸せとを実感できた次第です。

そんな中でも、X大学病院とは、まだ話し合いは終わっていません。
悔しい涙をたくさん流しました。
私はもう思い出したくなく、
後は主人が対応を考えてくれています。

我が身を投げ打って、家族の為に闘う。

そんな父親の元に生まれてきた娘は、幸せな人生を送れると思います

最後に、
本日3つの病院について記しました。
「医は仁術」が、患者およびその家族の心まで治してくれるということを
身を以て知りました。
すべての病院がそのような場所であって欲しいと望みます。



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2010年08月27日

45歳の誕生日に母子手帳を貰いました

2008年11月以来のご無沙汰で、本当に申し訳ありませんでした。

 45歳目前の44歳でようやく赤ちゃんを授かりました
20日の検査で主治医から「もう安心」といっていただき、主人と二人で区役所に行って、母子手帳を貰いました。ちょうど私の誕生日で、初めて「45歳」と記すのが母子手帳となりました。現在9週1日です。来年3月の出産予定、子宮筋腫の摘出手術をしているので、帝王切開での出産です。
 
 41歳で結婚し、43歳から不妊治療を始めました。仕事もきっぱりと止めて治療に専念しました。卵管閉塞年齢相応の卵巣機能の低下子宮筋腫の3つが不妊の原因でした。
 
 治療の最優先は、採卵を続け、体外受精(顕微授精)で胚盤胞を確保することでした。卵管と子宮の手術は後に回さなければならない。それほど、卵巣のタイムリミットが迫っていました。しかし、人の何倍も排卵誘発剤を注射しても、全く卵が育たずに採卵まで至らないことが何度もありました。また、育っても1個か2個のことが殆ど(4個採卵できたことが1度)です。更にその貴重な卵が、受精→8分割胚(3日目)→杯盤胞(5日目)と育つことは、気の遠くなる道のりでした。
 43歳で8分割胚1個、杯盤胞3個を凍結保存できました。が、私の年齢で杯盤胞が着床する確立は3分の1といわれ、3つ足しても100%にはならない。また、着床しても流産の可能性も高い。治療で体がきつい上に、不安と焦りばかりで塞ぎこんで、外にも出られなくなって行きました。

 44歳では、並行して、子宮筋腫の摘出手術と卵管形成手術を行いました。しかし、退院の翌週に卵管がまた癒着、腹膜炎を起こし、結局半年後に卵管切除手術を受けました。その間も体外受精を行いましたが、残念な結果しか得られませんでした。最後の時は、1個の卵胞が採れたものの、中身は空っぽで、「これで、もう一生分の卵を採り切ったんだなあ…」と、諦めるしかありませんでした。結局44歳では、一つも杯盤胞まで育ちませんでした。

 子宮の傷が回復し、6月下旬から、凍結胚移植(コントロール周期)の治療を開始しました。そして、
 ☆ 7月13日…杯盤胞(4AB)移植
 ☆   17日…血液検査で若干の着床の可能性が認められる。
 ☆   22日…妊娠検査薬では陰性も、血液検査で陽性→妊娠判定
 ☆ 8月 4日…胎嚢(7mm)確認
 ☆   11日…胎芽(7mm)&心拍(120)→妊娠確定 
 ☆   20日…胎児(13.87mm)&心拍(160)→区役所に届け
 ☆   26日…胎児(21.5mm)&心拍(190)→治療終了

 治療終了とは、胎盤がしっかりとホルモンを出し胎児を育てることができるようになったので、卵胞ホルモンと黄体ホルモンの投与の必要がなくなったということです。
 これで、この子の2年間の不妊科の治療が終わり、これからは産科通いとなります。
 
 10回((内1回は卵が得られず中止)の体外受精(顕微授精)、子宮と卵管の計2回の手術の後、1回目の移植で妊娠に至りました。まさか1回の移植で妊娠でできるとは夢にも思っていませんでした。この1年、悪い結果ばかりが続き、希望が持てなくなっていたのですから…それほど不妊に立ち向かうのは、本当に苦しいことでした。夫も徐々に理解してくれるようになりました。不妊治療を行う中では、あらゆる問題がむき出しになり、夫婦の危機を招きます。それを乗り越えてでも二人で子供を望む中で、親になる心積もりや覚悟ができ、家族になっていけるのだと実感しています。


 もしこの子が無事産まれても、万が一のことがあっても、不妊治療を再開します。病院の冷たい暗い所で私の体に戻って来られる日を待っている小さな小さな3つの卵たちがいます。「私のお腹の中で宿すことができずごめんね。待っててね」と想い続けています。

 私より、長い間不妊治療を続けている方もたくさんいらっしゃいます。毎周期毎周期を、唇をかみ締め涙を流しながら送って、懸命に治療を続けていらっしゃる皆さんに、「希望を捨てないでね」と願います。その為にも、45歳で産めるよう頑張ります

 今日は昨日の結果で安心したためか少し楽ですが、今悪阻の真っ最中です。どんな形になるかわからないけれど、落ち着いたら、纏まったものを書こうと思っています。今日はこの辺で・・・



yuhko3 at 17:13|PermalinkComments(0)clip!