人生何回目かになるカンチャナブリへ行ってきた。
到着した翌日。1人になる時間をもらった。
そんなわけで、レンラル・バイクを借りて、めいっぱい走り回った。
前方からのゴゴーゴゴーという軽快で小気味良い風の刺激を受けていたら、ひとつまたひとつと塵が振り捨てられていくような心地がして
途中、休憩に立ち寄った川沿いのカフェで落ち着くころにはだいぶ身軽になっていた。
―と、そのときだった。
前触れもなく心の中から唐突にこんな声が聞こえてきた。
「ああ、そうか。あたしはあたし以上でもあたし以下でもないのだ。」
突然、生きている中で時々感じる違和感めいたものの正体は大体が「自分がイメージする像」に自分を当てはめようとして、ギャップが生じたりうまくいかなかったりすることが原因だということに気がついた。
環境が変わるたび、人との関係性が変わるたびに、無意識に作り変えられる「イメージとしての自分」。
それが「変わりようもない自分自身」という本来そこにただ在る、スキだらけのかわいそうな奴をチクチクと目立たぬように刺していたこと、そしてそのことが、妙な焦りや、勝手な義務感を生み出していたのだと思ったのである。
たとえば―
出産したら家族と自分という関係性の中でイメージする「おかあさん・妻としての自分の像」。
そこに自分をあてはめようとして、すでに出来ていることより、追いつかない部分が目立ってくることで
我慢しているような気になったり、自分に落胆したりする。
これは、実際の自分とイメージの自分とのギャップによる苦難。
たとえば。
部活の先輩と後輩と言う関係性の中で作る「後輩としての自分の像」。
後輩としての自分のイメージが先行することで、へつらったり、必要以上に声がうわずったりするとしたら、原因はやはり、自分で勝手に作り上げたイメージ像にふりまわされているから。
職場の肩書きやポジションもまた然り。
恋人関係、もしかしたら友人関係もまた。
思えば私なぞ、例えば渋谷を歩いているだけで「渋谷を歩いている自分というイメージ」があった気がする。だから妙に緊張した。
そうやって、関係性が変わることで、(自分で勝手に)作る「自分のイメージ」も変わり、関係性が多ければ多いほど、作り変えるイメージと、それにふりまわされる自分もまた増える。
言葉の通じない国に旅するのが好きだったのは、気分転換になるというより、自分で自分を「想定」せずにすむのが楽だったからだと思う。
もしかしたら「旅をしている自分というイメージ」が本来の自分自身により近かったからかもしれないが。
―とまあ、挙げればきりがないのだが、カンチャナブリでバイクを暴走させている間にふと気がついた「それ以上でもそれ以下でもない自分」という存在に、肩のあたりに乗っかっていた何かが払い落とされて、言いようもない安心感に包まれたのである。
自己暗示力が強いというか、飾ろうとする力が大きいというか、ともかくそういう自分として、ふとしたこの気づきが大きな新発見だったわけである。
そして目をつぶって自分の周りの幾人かを思った。
そして「なんだか魅力的な人」と感じる人は、その人自身がすでに「それ以上でもそれ以下でもない自分」をきちんと認識して生きているような気がした。
「それ以上でもそれ以下でもない自分」を認めることは
「それ以上でもそれ以下でもない相手」を認めることにつながって
自分にも相手にもプレッシャーを与えない。
だから求めない。
そして受け入れる。
ゆえに卑屈になることも、無駄に尊大に振舞う必要もない。
恋人ができても、入学しても、入社しても、無職になっても、結婚しても、出産しても、年をとっても。きっと。
ただもくもくと「すでにここに在る自分」として、個人的に人生を邁進する。
時折「すでにそこに在る相手」と時々手をつないだり、酒を飲んだりしながら。
到着した翌日。1人になる時間をもらった。
そんなわけで、レンラル・バイクを借りて、めいっぱい走り回った。
前方からのゴゴーゴゴーという軽快で小気味良い風の刺激を受けていたら、ひとつまたひとつと塵が振り捨てられていくような心地がして
途中、休憩に立ち寄った川沿いのカフェで落ち着くころにはだいぶ身軽になっていた。
―と、そのときだった。
前触れもなく心の中から唐突にこんな声が聞こえてきた。
「ああ、そうか。あたしはあたし以上でもあたし以下でもないのだ。」
突然、生きている中で時々感じる違和感めいたものの正体は大体が「自分がイメージする像」に自分を当てはめようとして、ギャップが生じたりうまくいかなかったりすることが原因だということに気がついた。
環境が変わるたび、人との関係性が変わるたびに、無意識に作り変えられる「イメージとしての自分」。
それが「変わりようもない自分自身」という本来そこにただ在る、スキだらけのかわいそうな奴をチクチクと目立たぬように刺していたこと、そしてそのことが、妙な焦りや、勝手な義務感を生み出していたのだと思ったのである。
たとえば―
出産したら家族と自分という関係性の中でイメージする「おかあさん・妻としての自分の像」。
そこに自分をあてはめようとして、すでに出来ていることより、追いつかない部分が目立ってくることで
我慢しているような気になったり、自分に落胆したりする。
これは、実際の自分とイメージの自分とのギャップによる苦難。
たとえば。
部活の先輩と後輩と言う関係性の中で作る「後輩としての自分の像」。
後輩としての自分のイメージが先行することで、へつらったり、必要以上に声がうわずったりするとしたら、原因はやはり、自分で勝手に作り上げたイメージ像にふりまわされているから。
職場の肩書きやポジションもまた然り。
恋人関係、もしかしたら友人関係もまた。
思えば私なぞ、例えば渋谷を歩いているだけで「渋谷を歩いている自分というイメージ」があった気がする。だから妙に緊張した。
そうやって、関係性が変わることで、(自分で勝手に)作る「自分のイメージ」も変わり、関係性が多ければ多いほど、作り変えるイメージと、それにふりまわされる自分もまた増える。
言葉の通じない国に旅するのが好きだったのは、気分転換になるというより、自分で自分を「想定」せずにすむのが楽だったからだと思う。
もしかしたら「旅をしている自分というイメージ」が本来の自分自身により近かったからかもしれないが。
―とまあ、挙げればきりがないのだが、カンチャナブリでバイクを暴走させている間にふと気がついた「それ以上でもそれ以下でもない自分」という存在に、肩のあたりに乗っかっていた何かが払い落とされて、言いようもない安心感に包まれたのである。
自己暗示力が強いというか、飾ろうとする力が大きいというか、ともかくそういう自分として、ふとしたこの気づきが大きな新発見だったわけである。
そして目をつぶって自分の周りの幾人かを思った。
そして「なんだか魅力的な人」と感じる人は、その人自身がすでに「それ以上でもそれ以下でもない自分」をきちんと認識して生きているような気がした。
「それ以上でもそれ以下でもない自分」を認めることは
「それ以上でもそれ以下でもない相手」を認めることにつながって
自分にも相手にもプレッシャーを与えない。
だから求めない。
そして受け入れる。
ゆえに卑屈になることも、無駄に尊大に振舞う必要もない。
恋人ができても、入学しても、入社しても、無職になっても、結婚しても、出産しても、年をとっても。きっと。
ただもくもくと「すでにここに在る自分」として、個人的に人生を邁進する。
時折「すでにそこに在る相手」と時々手をつないだり、酒を飲んだりしながら。



