プロ野球界では先週、中日ドラゴンズ岩瀬仁紀北海道日本ハムファイターズへの移籍拒否していたことが話題になった。
 東京スポーツ紙によると、ファイターズは当初、海外FA権を行使しドラゴンズに移籍した大野奨太人的補償で岩瀬を指名した。
 だが、岩瀬が「人的補償になるなら引退する」と受け入れなかったため、結局は金銭による補償で落ち着いた。


 はたして真相は闇の中だが、球界にはかつて、移籍を拒否し、本当に引退してしまった選手がいる。
 元読売ジャイアンツ定岡正二だ。若干29歳での決断だった。
 1985年オフ、近鉄バファローズ(後の大阪近鉄バファローズ)の有田修三とのトレード要員に挙がると、定岡はこれを断り、任意引退での現役引退を表明した。
 定岡は1974年にドラフト1位でジャイアンツに入団。1982年にはオールスター・ゲームにも出場した。
 1985年当時、チームでは槙原寛己斎藤雅樹が成長著しかったとは言え、定岡自身は47試合に登板し4勝3敗2セーブ、防御率3.87をマークしていた。
 チーム愛とは言え、もったいない決断だった。

 チーム愛ではなく、兄弟愛で移籍を志願したのは、元日拓ホームフライヤーズ(ファイターズ)の金田留広だ。
 1973年、兄の金田正一ロッテオリオンズ(千葉ロッテマリーンズ)の監督に就任すると、弟の留広は「うちの場合は、兄じゃなく親なんだ。親代わりだった兄とは戦えない」と、オリオンズへのトレードを球団に志願した。
 はたして、野村収との交換トレードが実現し、1974年からは兄の下でプレー。移籍1年目から16勝を挙げ、最多勝パリーグMVPを獲得し、チームの4年ぶりのリーグ優勝、24年ぶりの日本一に貢献した。