先月4日に行われたニューヨーク市長選で、ニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジが11票を獲得していたことが明らかになった。
言うまでもなく、これは質の悪いいたずらだが、シーズン途中にもかかわらず政界に転身してしまったのは高橋ユニオンズでコーチを務めていた上林繁次郎だ。1955年のシーズン中に船橋市市議会議員選挙に立候補した。
コーチのシーズン中の出馬など前代未聞の珍事だが、追い打ちをかけるようにエースの野村武史や2軍監督の小田野柏も応援のために度々チームを離脱し、船橋市に出向いた。
ユニオンズは1954年に創設したばかりの新興球団。戦力も未熟で、創設1年目はパリーグ8球団中6位に沈んだ。
厳しい状況の中で15勝をマークした野村の戦線離脱は、チームには痛手。本来、野村を諫めるはずの飯塚隆久当時球団代表も上林の出馬を後押ししていたのだから、浜崎真二当時ユニオンズ監督は頭が痛かった。
そんな浜崎当時監督の苛立ちもどこ吹く風、上林当時コーチは当選。当初はコーチと市議の二刀流を誓っていたが、あっさりとユニオンズを退団した。
さらに野村も1956年限りで現役を引退。その3年後の1959年には、再選を目指す上林とともに船橋市議選に立候補し、そろって当選を果たした。
他方、残された浜崎当時監督は1955年9月、シーズン途中にチームの成績不振と精神的な疲労を理由に退任。ユニオンズ自体も1956年限りで解散した。
上林当時コーチだけの責任ではないだろうが、勝手な言動がチームの転落を加速させたと言っていいだろう。

言うまでもなく、これは質の悪いいたずらだが、シーズン途中にもかかわらず政界に転身してしまったのは高橋ユニオンズでコーチを務めていた上林繁次郎だ。1955年のシーズン中に船橋市市議会議員選挙に立候補した。
コーチのシーズン中の出馬など前代未聞の珍事だが、追い打ちをかけるようにエースの野村武史や2軍監督の小田野柏も応援のために度々チームを離脱し、船橋市に出向いた。
ユニオンズは1954年に創設したばかりの新興球団。戦力も未熟で、創設1年目はパリーグ8球団中6位に沈んだ。
厳しい状況の中で15勝をマークした野村の戦線離脱は、チームには痛手。本来、野村を諫めるはずの飯塚隆久当時球団代表も上林の出馬を後押ししていたのだから、浜崎真二当時ユニオンズ監督は頭が痛かった。
そんな浜崎当時監督の苛立ちもどこ吹く風、上林当時コーチは当選。当初はコーチと市議の二刀流を誓っていたが、あっさりとユニオンズを退団した。
さらに野村も1956年限りで現役を引退。その3年後の1959年には、再選を目指す上林とともに船橋市議選に立候補し、そろって当選を果たした。
他方、残された浜崎当時監督は1955年9月、シーズン途中にチームの成績不振と精神的な疲労を理由に退任。ユニオンズ自体も1956年限りで解散した。
上林当時コーチだけの責任ではないだろうが、勝手な言動がチームの転落を加速させたと言っていいだろう。
