小雪舞う季節も終わりに近づき、明日から3月、春を待ち望んでいた日々も、過ぎてしまえば冬が愛おしく思えるこの頃。
うっすらと雪化粧した日の雪を惜しみつつ、足元の冬の情景を見つめなおしてみました。
カミキリムシに穴を開けられ、キツツキにつつかれて朽木のようにみすぼらしくなったイチジクの木肌。半分雪化粧した傍らには冬芽が活動を始めた若枝が・・・冬と春が同居。
里山には欠かせない田んぼの情景。
色あせたひこばえが、行儀よく列を作って雪化粧、風雪に耐えながら春を待つ。
こちらは畑の情景。
エシャロットやニンニク、玉ねぎは冬を越してから実がふくらむ。
寒さや雪で外葉はしわがれているが、芯はしゃんとして陽光を待っている。
池の枯れハス。
思い思いに雪上でのアイスダンスを踊りながら、水ぬるむ日を待ち望んでいる。
雪が木肌を浮き立たせ、老木の威厳を放つオニグルミ。
夏の暑い時期には木陰を作り、秋にはクルミを提供してくれるつむぎの家の
シンボルツリー。
あれ!川の中に生えた柿の木?
いえいえ、護岸を彩る雪を背景に、冬作業の"剪定枝"が創り出した冬の情景。
川の中にできた氷の芸術
しょんべん小僧ならぬホースの水が造り出した氷柱。
身近なところに、見ようと思わなければ見えない”冬の美”が限りなく潜んでいました。
思い出すのは、凍り付いた川を遊び拠点の秘密基地として、下校途中で遊んでいた綾里っ子たちの生き生きとした姿です。
氷の塊からオリジナルの宝石を創り出し、わずかな水の流れから水生昆虫を発見し、生けすを作り生き物を守り、年齢や性別を超えた仲間と雪合戦やそり滑りをして雪や氷と戯れていた日のことです。
ところがある日、雪が降ろうと寒風が吹こうと響き渡っていた綾里っ子たちの歓声は、ぷっつり途絶えました。それは、父兄からの「子どもの帰宅が遅い!」という通報を機に、つむぎの家のブログ「みちくさ」が学校長の目に留まり、おとがめがあったようです。管理職である校長の立場としては、当然とるべき判断であるとは思います。
「みちくさ」は原則禁止ですが、帰る方向は一緒であっても、家までの距離はまちまちであり、日暮れの早い冬季は、いったん帰宅してから遊ぶということは、ほぼ不可能に近い。これまでつむぎの家では臨機応変に対応してきました。ランドセルを川べりにおいて、自然にすっぽり溶け込み、自然の中から遊びを生み出し、目を輝かせて遊ぶ姿を目にしたら、子どもたちの限りなく広がる自然体験を見守ってあげたいものです。(もちろん安全に遊べる環境づくりは前提条件ですが・・・・)
2年前の新型コロナ感染症の広がりで全国一斉休校になってから、里山で遊ぶ綾里っ子たちが激減しました。子どもたちの姿の見えない里山は、寂しいものです。得るものと失うものの価値判断は難しいですが、「主体」を置き去りにしてはなりません。
2023年には「こども家庭庁」設置法案を創設するというニュースが報じられています。「こどもをど真ん中に置いた新たな司令塔」と、言葉の響きはよいが、子どもを取り巻く家庭が中心というような大人の目線からではなく、真に子どもの権利が保障される子ども庁をと願わずには入れません。
子どもたちは、主体的な遊びを通して自然に親しみ、自然の美しさや厳しさも含め、自然からさまざまなことを学び、人は自然と共にあることの大切さを身につけていくのです。年齢や性別を超えた子ども集団での自然体験遊びは子供の健全な成長にとって欠くことのできないステージ。子どもの「自由な遊びの権利」を保障することが、明るい未来につながると確信しています。
一面氷に閉ざされた川を発見し、秘密基地と位置づけ創造したさまざまな遊び、綾里っ子たちはどんなにかワクワクした日々だったことでしょう。寒さをも吹き飛ばす歓声や目の輝きからうかがうことができます。
うっすらと雪化粧した日の雪を惜しみつつ、足元の冬の情景を見つめなおしてみました。
カミキリムシに穴を開けられ、キツツキにつつかれて朽木のようにみすぼらしくなったイチジクの木肌。半分雪化粧した傍らには冬芽が活動を始めた若枝が・・・冬と春が同居。
里山には欠かせない田んぼの情景。
色あせたひこばえが、行儀よく列を作って雪化粧、風雪に耐えながら春を待つ。
こちらは畑の情景。
エシャロットやニンニク、玉ねぎは冬を越してから実がふくらむ。
寒さや雪で外葉はしわがれているが、芯はしゃんとして陽光を待っている。
池の枯れハス。
思い思いに雪上でのアイスダンスを踊りながら、水ぬるむ日を待ち望んでいる。
雪が木肌を浮き立たせ、老木の威厳を放つオニグルミ。
夏の暑い時期には木陰を作り、秋にはクルミを提供してくれるつむぎの家の
シンボルツリー。
あれ!川の中に生えた柿の木?
いえいえ、護岸を彩る雪を背景に、冬作業の"剪定枝"が創り出した冬の情景。
川の中にできた氷の芸術
しょんべん小僧ならぬホースの水が造り出した氷柱。
身近なところに、見ようと思わなければ見えない”冬の美”が限りなく潜んでいました。
思い出すのは、凍り付いた川を遊び拠点の秘密基地として、下校途中で遊んでいた綾里っ子たちの生き生きとした姿です。
氷の塊からオリジナルの宝石を創り出し、わずかな水の流れから水生昆虫を発見し、生けすを作り生き物を守り、年齢や性別を超えた仲間と雪合戦やそり滑りをして雪や氷と戯れていた日のことです。
ところがある日、雪が降ろうと寒風が吹こうと響き渡っていた綾里っ子たちの歓声は、ぷっつり途絶えました。それは、父兄からの「子どもの帰宅が遅い!」という通報を機に、つむぎの家のブログ「みちくさ」が学校長の目に留まり、おとがめがあったようです。管理職である校長の立場としては、当然とるべき判断であるとは思います。
「みちくさ」は原則禁止ですが、帰る方向は一緒であっても、家までの距離はまちまちであり、日暮れの早い冬季は、いったん帰宅してから遊ぶということは、ほぼ不可能に近い。これまでつむぎの家では臨機応変に対応してきました。ランドセルを川べりにおいて、自然にすっぽり溶け込み、自然の中から遊びを生み出し、目を輝かせて遊ぶ姿を目にしたら、子どもたちの限りなく広がる自然体験を見守ってあげたいものです。(もちろん安全に遊べる環境づくりは前提条件ですが・・・・)
2年前の新型コロナ感染症の広がりで全国一斉休校になってから、里山で遊ぶ綾里っ子たちが激減しました。子どもたちの姿の見えない里山は、寂しいものです。得るものと失うものの価値判断は難しいですが、「主体」を置き去りにしてはなりません。
2023年には「こども家庭庁」設置法案を創設するというニュースが報じられています。「こどもをど真ん中に置いた新たな司令塔」と、言葉の響きはよいが、子どもを取り巻く家庭が中心というような大人の目線からではなく、真に子どもの権利が保障される子ども庁をと願わずには入れません。
子どもたちは、主体的な遊びを通して自然に親しみ、自然の美しさや厳しさも含め、自然からさまざまなことを学び、人は自然と共にあることの大切さを身につけていくのです。年齢や性別を超えた子ども集団での自然体験遊びは子供の健全な成長にとって欠くことのできないステージ。子どもの「自由な遊びの権利」を保障することが、明るい未来につながると確信しています。
一面氷に閉ざされた川を発見し、秘密基地と位置づけ創造したさまざまな遊び、綾里っ子たちはどんなにかワクワクした日々だったことでしょう。寒さをも吹き飛ばす歓声や目の輝きからうかがうことができます。