もっとワガママになれ!

とつい最近言われました。

サッカースポーツ少年団では最初から最後までディフェンスだった

ユキヒラです。



出光美術館で開催されている大仙厓展に行ってきました。

有楽町の帝国劇場の隣のビル9Fに上がると、人の多さに驚きました。

常に一つの作品に2〜3名は魅入っていました。

老若男女問わない仙厓の人気の高さを感じながらの拝観。

蛇足ですが、荷物は駅のロッカーに入れないほうがいいです。

美術館に100円が戻って来るロッカーがあります。



仙厓
美濃国武儀郡で生まれ、11歳の頃清泰寺で臨済宗の僧となった。19歳になり行脚の後に月船禅彗の門下に入る。32歳で印可を受け再び行脚の旅に出る。39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。
本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている[1]。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている[2]。
昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した[3]。 東京の出光美術館は出光佐三氏による仙厓の絵のコレクションで知られている。 wikipedia


『海賊と呼ばれた男』という小説のモデルが、出光興産創業者であり、仙厓コレクターであった出光佐三氏です。生前出光氏が収集されたコレクションと、福岡市美術館、九州大学文学部に収集されていたコレクションを、出光美術館の開館50周年を機に、30年ぶりに一堂に集めたのがこの大仙厓展です。

幾つか感じ入った作品について



指月布袋画賛

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作品解説
子供達と戯れる布袋さんのほのぼのとした情景のようだが、「月」を暗示する賛文「を月様幾ツ、十三七ツ」の存在から、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図であることがわかる。月は円満な悟りの境地を、指し示す指は経典を象徴しているが、月が指の遙か彼方、天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習などでは容易に到達できず、厳しい修行を通して獲得するものであることを説いている。コレクション第一号の作品。出光コレクション


出光美術館のHPでは上記のように記されています。展示でもほぼ同じような説明がありました。その中で印象に残った文章が下記です。


「求めるべきものははるか彼方にあり、容易には手が届かない。月は悟りで指は経典。いくら経典を読み直しても、悟りの核心には到達できない」


普段の生活の中で、問題にとらわれ、その解決法ばかり探し、本をはじめ、人に問うときも答えばかりを求めてしまいます。けれど、それではいつまでたっても解決しないのかもしれません。

悟りとは、人としての成長と捉えることもできます。そのためには「坐禅」であり、日常生活の中で、行動を起こし、また自分自身を顧みることが一番の近道なのかもしれません。

本ばかり読んで、満足していた自分に気がつくことができました。




南泉斬猫画賛

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禅の有名な公案にある話で、唐の時代、南泉という僧の寺で、弟子たちの住む
東堂と西堂の首座が子猫のことで争っていました。
それを見た南泉は子猫を取り上げ、言うことを言えば猫を助けるが、言えなかったら
猫を着ると告げますが、誰も答える者がいません。
そこで南泉は猫を斬ってしまいました。
http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2004.html

上記の引用文は「猫アリーナ」さんのブログから拝借いたしました。大仙厓展の解説では、東と西のお坊さんが、猫に仏性ありやなしやでいい争いをしていることになっていました。

僕が気になったのは「殺生戒を犯してしまうが、それで本当に良かったのか?」でした。
ハッとしたというのも、猫を斬ってしまえば確かに煩悩の原因は立つことができるのかもしれません。けれど、その真因は取れていないのではないでしょうか。

今回は猫を斬ることで、煩悩から逃れることはできた。けれど、同じようにまた二人の前に猫や犬が現れた時、やはり目の前の動物に仏性ありやなしやで論創が始まるのではないでしょうか。

結局、相手に勝ちたい、もしくは自分が正しい、というそれぞれのお坊さんの心に真因があるのではなかろうかと思ったわけです。さまざまな出来事が日々起こってきますが、本当の原因を突き詰めなければ、無駄な殺生をしてしまうかもしれません。自戒したいものです。



堪忍柳画賛

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作品解説
しなやかに枝を風になびかせる柳の大木を描き、その横に「堪忍」の大きな文字を添えている。吹き付ける風の中には耐え難い風もあるだろうが、柳はいずれの風をもさらりと受け流してやり過ごす。仙がいの感性は柳の姿にも人生の手本としての教訓を読み取り、我慢できないこともじっと堪え忍ぶことの肝要を説く図としてまとめあげた。それは処世訓であるばかりでなく、禅の修行にも重要な忍辱の教えに通じる仏教の根本の教えでもある。出光コレクション

賛に僕は非常に感銘を受けました。

気に入らぬ
風もあろうに
柳かな


気に入らないことも当然あるでしょう。逃げられるものなら逃げればいい。けれど、逃げられないのであれば柳のようにただ受け流すことも必要でしょう。

普段の生活でも我慢を強いられることがあります。ただ、感情を押し殺すだけの我慢ではなく、しなやかな心で受け流す。そんな心でありたいなとも思いました。



双鶴画賛

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賛は
鶴は千年
亀は万年
我は天年


 天寿を全うすると言います。解説にも、「天命」という言葉が使われていました。
出光氏はこれを病床で手に入れたそうです。どのような心境だったか測りかねますが、自らの天命を知り、心安らかに旅立たれたように思います。

今ここに生きている自分にとっては天命・使命どころか、個性すら自分ではつかめていない状態です。
けれど、一歩一歩ご縁を大切に生き抜いていく時、自ずからこの言葉が体に獲得される時がくるのだろうと思います。



終わりに

僕はゆっくり見るので、2時間ほどかけて全作品を鑑賞しました。

ユーモラスな絵と何より賛に惹かれます。

鋭い指摘もあれば、ユーモラスな擬音語もある。

絵はいっそう柔らかく人を和ませるものばかりです。


禅画というと堅苦しいように感じられますが、決してそんなことはありません。

むしろ肩肘張った自分をほぐし、大切なところだけピッと引き締めてくれたように思います。

開館50周年記念
大仙厓展― 禅の心、ここに集う 


 平成28年11月13日までです。

おためしあれ