▲前国各地に大流行の哲学カフェ。間瀬哲医学が静かなブームなのか。今日社会と関連させて検討する。まずは哲学カフェについて。哲学カフェと称するコミユニケーション場が多く開設され、哲学出身者や哲学愛好家の知的交流の場となり、そこでは近代哲学、グロバリズム、新自由主義、自我、愛、などをテーマに語り合っている。多くののかフェでは、カフェ主宰者(多くは哲学人)と専門外各位(他分野専門家や市民)との語り愛を通して、哲学の一般への流布、市民への哲学の伝授、が主であるが、中には、市民に愛される哲学、市民側からの哲学の形成を目的とするものもある。
▲ここでは後者を対象として、哲学の現状から述べる。近代哲学では、哲学をより具体的にイメージするとか各分野での問題を哲学を介してアプローチするため、哲学という大枠がほぐれ、細分化されている。すなわち、哲学は倫理学と呼称を変えているかのようであり、また細分化としては技術哲学、経済哲学、社会哲学、芸術哲学など、目白押しである。この状況を基に、哲学人は「哲学は死んだ」とも言っている。ちょっと待って、勝手に死なないで、といいたいものである。
▲工学世界に目を転じよう。工学では科学技術の暴走が今日の社会混迷を引き起こしたとしておりまして、だからこそ哲学に活路を見出すとの思いがある。しかし今の社会では(技術先行社会)、お金とテクノロにより(計量経済学というマネー体系を基にして)大々的イノベで問題を克服し乗りこえれるとしている。このため、その動きをより強力にするために、教育はSTEAM教育(科学、テクノロ。工学、芸術、数学のこと、芸術は初めは入ってなく後付け)であり、文学等人文家や社会系、そして芸術系も必要なし、が推し進められようとしている。その結果、市民は科学技術のイノベにまにあうような考えが主流になり、より息苦しい世の中になるとの危惧委が当然出てきている。ちなみに、大学の文学部廃廃止もその延長である。
▲ここで社会をじっくり見よう。社会における暴走は科学技術ではなく、科学技術を駆使する一部人間のなせる業である。人間教育は、科学技術でなしえることはなく、感性や情緒などの醸成が人間に必要。そのことが科学技術イノベの前に無視されようとしている。
ではどう改善するのか。その旗手が哲学では、と捉えられている。もちろん、それは市民社会における市民のための哲学であり、市民があれこれ考えることそのものである。なお、前にも述べたが、ここでいう哲学とは、哲学体系の難しい論理ではなく、市民が社会からの枠を超えて思考することをいう。詳細については機会があれば、述べてみたい。
yukinnko_toyama