判官びいきは今なお衰えず、雪ん子2286

2025.12.01 判官びいきは今なお衰えず、2286
 判官びいきは今も昔も変わらない。気の毒なこと事の善し悪しの区別がつかない周りの方々が寄ってたかって声を荒げると、決まって渦中の方に同情が集まり、声を荒げた方々をあしざまに悪く言う。ここでいくつか例を見てみよう。
 今年のある市町村の首長選挙でも、行政がコンサルの言いなりになって多大な資金を投入し(借金)して事業を進めることについて、現役側はひたすら批判に反論せず、投票日をことさら待ち続け、一方の候補者は禍根を後世に残すとして猛チャージであった。周りの一般の方はどう見ていたかと言えば、判官びいきがあった。結果は言わずと知れたもがな、じっと耐えていた現職の圧勝に終わった。
 また良くある話。某町内会での町内会長の施策立案や施策遂行が町民にためになってないと、猛チャージ。周りの方の一部では、町内会長がかわいそうと。そうではなく会長がもっと町民サイドで事業を進めればいいだけなのに。会長は会長をやめると言って啖呵を切ったが、判官びいきをいいことにやめるはずもなくどうどうと居直っている。
 最近は、総理の発言が大国を刺激して大事件となっているとき、判官びいきで、総理の肩をもたないのは非国民と声も上がっている始末である。
 しかしながら、なぜしっかりと事の本質に立ち返って論考しないのか。そこにあるのは判官びいきの浪花節だけか、と思えるくらいである。最近は、SNSがまさに判官びいきをあおっているかのようである。なんと住みにくい世の中、なんと思考停止なのか。ちょっくら、考えて欲しいものである。

人は誰のための生きるのか(改)、雪ん子2285

2025.11.30 人は誰のための生きるのか(改)、2285
 人の生存は自身の実践(行動)と社会の支援とからなると考えている。だが、日本では社会の支援を明確に言う人は少なく、家族を含め周りに方々との調和を気にすることが高齢になると特に多くなっている。本来、人の生については、生きたいというパワーが自身に内在するとともに、社会が生きる環境や気運を高めており、その意味でも人は自身と社会とにより生存をより可能にしている。
 しかしながら、日本の場合、社会からの高齢者生存への働きかけ(今の福祉行政をより超えた精神レベルにおいて)が十分ではなく、また、個人レベルでも自らの生存を自ら閉じよう(人に迷惑かけれない)とする傾向もある。これは、自身でも生存が難しく、社会でも生存がしにくくなってきている現れである。以下に欧州の場合と日本の場合を比較し、日本の今後について考える。(欧州についてはリッチャーさんの話を基に構成、十分でないかもしれませんが)
 欧州では尊厳を自ら保ちながら最大限生きるという姿勢がある(と聞く)のに対して、日本は社会に忖度し、周辺の人(家族)に忖度し、自らの生を諦めるかのような思考と行動がある。
 我友人によれば、その違いは宗教にあるのではという。確かに欧州の場合、一神教で思うに神のご加護の基に生があるので、生ある人間は最後の最後まで尊厳がある。これに対し日本の場合、輪廻思想(仏教)や八百万神の存在がご加護ではなく次がある(輪廻)とか何処にも神が居るとして個人を精神的に律することが宗教的主目的にならず(推論にかなり無理有だが、無我の境地といった捉え方)、だから日本では、何かにつけて忖度が日常的なのではなかろうか。
 ちょっと長くなったが、日本の場合、自分のために生きるという発想はなく(少なく)、自分も人のために生きているといわんばかりであるにで、その意味で自主性が欠落しているといった見方ができるようである。

日本における高齢者の生存に関する脆弱な気質を問題にする、雪ん子2284

2025.11.29 日本における高齢者の生存に関する脆弱な気質を問題にする、2284
 最近、日本の男性・女性の平均年齢は世界トップクラスとなっている。これは医学のシ進歩の賜物と言え、喜ばしいことである。その一方では、人間が何処まで尊厳を保って生きればいいのか、という疑問を呈する風潮も強くなってきている。事の起こりとして、高齢者医療の経済負担が自治体や国の財政を圧迫しているということ、寝たきり高齢者を抱える社会でいいのか、が根底にある。
 しかしながら、そうした高齢者医療問題(以後、高齢者問題)では、尊厳や財政の問題にしているものの問題の基礎にまで言及されることはほとんどないといっても過言ではない。
 このため、一般人における高齢者問題においては、一般人の素朴な考えとして流布されているのは、以下のような発言である。ただし( )内の文言は編集者が記。
  ・夢も希望も生きがいも全くない高齢者にとっては
   単に生かされているだけ(→身の始末)
  ・そんな状態になる前に、高齢者は(自分の身の始末を)
   自身及び家族と話し合って決めておく(→身の始末の合意)
  ・高齢者は家族に迷惑を掛けない(→身の始末を自ら)
  ・日本人だからそれでいい(→同調圧力にもなる)
 上記の考えの根本は何か。それは、高齢者本には誰のために生きるのかについて、周りの方々のためということであり、欧米でいう「自分のため」という言葉は決して出てこない。これを国民性と評する方が多いのも実に気にかかる。「自分の事は自分で実践」がなぜこうも軽んじられているのか。二点においてさらにみる。
 一つは、高齢者の生きがいにおいては、社会の存在がまるで感じられず、感ずるとすればそれは周辺の人や社会への忖度であり、社会の施策に高齢者を元気づけることがまるでないのである。人に迷惑を掛けれないという風潮はまさい高齢者の生きがいをくじくものであり、真に高齢者のやりがいを境が支援していることにはまったくなっていない。
 二つには、高齢者自身が上記のような社会ムードにおいては、完全に思考停止や萎縮を感じざるを得ないことである。夢も希望も生きがいも失うとは、まさにそのことであり、自己責任と言わんばかりの感がする。これまた社会全体でそうしたことにならないよ支援ががるべきと考える。
 三つには、日本人の取るべき道といった合理化が気になる。忖度思考はもともと、(自説だが極論すれば)日本の経済的貧困と、他民族侵入に介した自我の形成が必要なかったことによると考える。だからこそ、そうした風潮を打開すべく、各種の問題で市民運動が高揚している。
 結局、高齢者の社会的環境を如何に充実させていくのか、高齢者自身がが自ら生きることが肝要であり、まわりから生きることを諦めるような(強いるような)風潮は社会における同調圧力としてやはり断つべきと考える。高齢者が満足いく生涯を貫くという視点をもっと充実させて、自ら生存を放棄するに近いような風潮はなくしていかねばならないと考える。

***付録1 *****
 以上、高齢者問題に対して核心を纏めると、誰のために生きるのか。日本では自分自身ではないようだ。しかも、そこにはやりがいや夢や希望が無くなった時点で生存を放棄するという現実があると言わんばかりである。言てみれば現代版姥捨て爺捨てがまかり通りつつある。なぜ、高齢者が夢ややりがいを失うのか、そこは社会環境の脆弱さに起因しているだけであり、批判は社会に向かず自分及びその周辺にに向けるという日本の悪いところと見て取れる。 
 ちなみに、二点補足する。一つは、日本の医療が自治体や国の財政を悪化させているとして、医療財政健全化の動きが上記の高齢者生存にかなり影響を与えているのではと思われる。なんと自分よりも他者・他機関に忖度しなければならないのか。二つには、日本だけが寝たきり老人が多いので、日本独自の対応が必要という論がある。これは日本以外での多くの国では高齢者の死亡率が日本より高く、寝たきりになる方が結果的に少ないだけの事である。あたかも、日本の特殊事情だから、高齢者生存そのものを好ましくないという見方は慎むべき出る。

***付録2 *****  友人からのコメント

これはアイデンティティの問題と考えることができます。つまり、自己の存在をどのように規定しているかということです。人間(に限らないですが)は独りでは生きていかれません。
そこで生まれるのが社会であり、共済(共に助け合う)です。
そこには、自分から発するもの5、得るもの5という意識があるのだろうと思います(個人により、また宗教、社会倫理により異なるとは思いますが)。日本の場合(一神教でなく、全てに神が宿るというような考え方)、自己の確立は相対的です。つまり、他者の存在(他者の反応)によって自己が規定されるわけで、特に会社人間、仕事人間の場合、定年、退職となった瞬間に自己喪失という状況になると考えられます。一神教の場合、神は唯一絶対の存在で、しかも実在しない(=当人の思い込み)ものですから、それは当人といつも同一=自己喪失が無い、と考えられます。
日本は明治以降の近代化の中で、かつて有った共同体が崩れ、中途半端な個人主義(あるいは孤立)が入ってきたため、特に高齢者(役割を終えた人たち)の依って立つところを、自身も、社会も無くしてしまった、ということではないでしょうか?

 



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