海外移住を前提にした若者の日本脱出もイージな世の中の結果、雪ん子2178

2024.08.20 海外移住を前提にした若者の日本脱出もイージな世の中の結果、2178
 オーストライアでは海外の有能な若者を確保したくワークホリデイシステムを稼働させている。各国の若者がオーストライアを目指して渡航している。
 日本の若者もそれに応募して、その多くは英語もままならぬ状態で、賃金が日本に比して2倍位の魅力にひかれ、文化交流は二の次(全くなし)で、生活費が日本の1.5倍もかかること、他国の若者との少ないパイを巡っての住居探しや就職がままならぬこと、など、まったく視野に入っていないという。
 こうした問題を如何に受け止めるか。一つに、なぜかくも若者に計画性がないのか。二つに、なぜそのような若者が生みされていくのか。なぜ若者に交流という観点(さらに言えば理念)が育たないのか。日本国の若者への対応が十分ならずをさらけ出しているといえる。そういえば、若者の起業支援(スターチアップ支援)がバラ色感を若者に植え付けているが、そこでは、自分らを中心に事業展開し、他者は事業に関するニーズとしてとらえており、自分や他者の人権とか社会的貢献などは影に霞んでいるかのようである。いわば。多様性の社会、何でもあり、すべて自己責任で社会としての人間育成はどことなくさむざむするのが功この頃である。

世の中を変えるには市民サイドの哲学思考で、雪ん子2174

24.07.02 世の中を変えるには市民サイドの哲学思考で、2174

▲前国各地に大流行の哲学カフェ。間瀬哲医学が静かなブームなのか。今日社会と関連させて検討する。まずは哲学カフェについて。哲学カフェと称するコミユニケーション場が多く開設され、哲学出身者や哲学愛好家の知的交流の場となり、そこでは近代哲学、グロバリズム、新自由主義、自我、愛、などをテーマに語り合っている。多くののかフェでは、カフェ主宰者(多くは哲学人)と専門外各位(他分野専門家や市民)との語り愛を通して、哲学の一般への流布、市民への哲学の伝授、が主であるが、中には、市民に愛される哲学、市民側からの哲学の形成を目的とするものもある。
▲ここでは後者を対象として、哲学の現状から述べる。
近代哲学では、哲学をより具体的にイメージするとか各分野での問題を哲学を介してアプローチするため、哲学という大枠がほぐれ、細分化されている。すなわち、哲学は倫理学と呼称を変えているかのようであり、また細分化としては技術哲学、経済哲学、社会哲学、芸術哲学など、目白押しである。この状況を基に、哲学人は「哲学は死んだ」とも言っている。ちょっと待って、勝手に死なないで、といいたいものである。

▲工学世界に目を転じよう。工学では科学技術の暴走が今日の社会混迷を引き起こしたとしておりまして、だからこそ哲学に活路を見出すとの思いがある。しかし今の社会では(技術先行社会)、お金とテクノロにより(計量経済学というマネー体系を基にして)大々的イノベで問題を克服し乗りこえれるとしている。このため、その動きをより強力にするために、教育はSTEAM教育(科学、テクノロ。工学、芸術、数学のこと、芸術は初めは入ってなく後付け)であり、文学等人文家や社会系、そして芸術系も必要なし、が推し進められようとしている。その結果、市民は科学技術のイノベにまにあうような考えが主流になり、より息苦しい世の中になるとの危惧委が当然出てきている。ちなみに、大学の文学部廃廃止もその延長である。

▲ここで社会をじっくり見よう。社会における暴走は科学技術ではなく、科学技術を駆使する一部人間のなせる業である。人間教育は、科学技術でなしえることはなく、感性や情緒などの醸成が人間に必要。そのことが科学技術イノベの前に無視されようとしている。

 ではどう改善するのか。その旗手が哲学では、と捉えられている。もちろん、それは市民社会における市民のための哲学であり、市民があれこれ考えることそのものである。なお、前にも述べたが、ここでいう哲学とは、哲学体系の難しい論理ではなく、市民が社会からの枠を超えて思考することをいう。詳細については機会があれば、述べてみたい。


 

ベーシックインカムの議論には社会構造に関する検討から、雪ん子2173

2024.04.25 ベーシックインカムの議論には社会構造に関する検討から、2173
ベーシックインカムの議論には社会構造に関する検討から
 ベーシックインカム(以降BIと記す)の論議をする機会があった。そこでは、BIの説明からはじまり、BIとして(国民への)最低限の生活維持費の支給によって、人間は仕事から解放され、より人間らしい行動(本来の仕事)に喜びを感ずることになり、その結果世の中がバラ色になるとのこと。続いて、BIへのチャレンジの歴史やBI可能性に関する学説が紹介された。
 BIについては、一般市民からは二つのことが根強く懸念されている。ひとつは、BI社会は本当にバラ色なのか。むしろ人間の良くない面として怠けの様相が強く現れるのでは。今ひとつは、BIのいわゆる財源が確保できるのか、である。
 これらについては、推進側は次のように返答している。まず第二点については、月額10~20万円支給なら増税に頼らず何とかなるというが、本当にそうかどうか、より議論が必要である。次に第一点の怠けモードについては、世界の各地で実施の社会実験では、素養磨きとして学校に通う等はあっても、仕事を辞める方はほとんどいなかったという事実があり、怠けに関する心配はないと言い切っている。とはいえ、仕事の捉え方について理屈補強も今なお試みられてもいる。すなわち、本来の目的である束縛されない仕事とは、人間そのものに関わる仕事としてケアーワークがBIに適合しているとしている。
 以上の話を聞いていると確かに賛同支障になるが、もっと枠を超えかつ深い考えができないものかと思う、すなわち、BIの目的が仕事からの解放あっての自由意思行為として人間性を謳歌するというなら、まずは仕事の社会性ならびに人間の社会性に言及されなくてはならない。仕事からの解放が人間性復権につながるというのは近視眼的思考結果であり、本来すべきことは社会における人間性復権ではないのか。そう考えると、世の中の格差が人間性を損ねることに言及せずして、BIがバラ色を提示するとは考えにくい。人間にとっては、自然を破壊する成長路線の堅持やそれにともなう格差の深刻化の社会において、バラ色やハピネスはありえないといえる。しかも片腹痛いのは、ケアーワーク以外は人間性の低い無価値とみなしがちはいささか行き過ぎであり、ケアーワークがサスチナブルかつ望ましいと仕事という願望めいた話には賛同しかねるので、社会の構造に一切手を付けず、生活面に限定して社会を見ないという姿勢こそ、BIは狭い狭いバラ色世界に却って浸っているだけである。
 ではどうするのか。BI議論の枠を広げて視点を俯瞰と深堀のグレードに変えて、人間性回復の視点から社会問題を取り組むりくむことが緊急の課題と考える。これををもってまとめとしたい。
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

yukinnko_toyama

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ