2013年05月07日

統語論と意味論のまとまりから考えるJRPG

http://blog.livedoor.jp/yukiyukio_kun/archives/65951782.html
の改良版であり、一部重複します。



下記の議論を参考にビデオゲームにおける統語論と意味論を区別してみたい。

http://togetter.com/li/97227
https://docs.google.com/document/d/1dGVVAWuw7qXZsBOXcTLscAy3N_iAC-IukDZ_Ixq5srM/edit?hl=ja&authkey=CLaqycAC

『スーパーマリオ』の「Bジャンプ」は、「画面上方への移動、減速、落下etc」という統語論と、「跳躍」という意味論のカップリングによって成り立つ(以下、「統語論と意味論のカップリング」を「統語論=意味論」と表記する)

おなじ「Bジャンプ」が、ブロック頭突きにも、障害物の乗り越えにも、敵踏みにもなるというのが、語用論に相当するのではないだろうか。『ゼルダの伝説』でいえば、弓矢は、敵を攻撃するという統語論=意味論にも、離れたスイッチをいれるという統語論=意味論にもなる。『テトリス』や『ぷよぷよ』の「連鎖」も一種の語用論かもしれない。


また個々の統語論や意味論は単独で存在しているのではなく、一定の/一貫した「まとまり」をもつ。

『マリオ』でいえば、「Bボタンで画面上方で移動」「十字キーで左右に移動/スクロール」「右方向に移動するとゴール」といった個々の統語論がひとつのまとまりとして設計されており、それに対して「横方向からみた2Dマップ」という意味論のまとまりが組み合わされている。

こうした「統語論=意味論のまとまり」は、ひとつのゲームにおいて複数存在することもある。たとえばメインのゲーム画面は横スクロールアクションの統語論=意味論のまとまりを採用しているが、メニュー画面では十字キーで文字列を選択するといった別様の統語論=意味論のまとまりを採用している、といったように。

わかりやすい言葉でいえば統語論=意味論のまとまりは「操作系」に近い意味をもつ。メインのゲーム画面とメニュー画面で操作系が異なることはよくあるだろう(以下メインのゲーム画面とメニュー画面の切り替えは議論にふくめない)



おおざっぱな対比でいえば、典型的なWRPGは、3D空間を描写し(意味論)、3D空間の物理法則にあわせたルールを実装する(統語論)ことで、ゲーム全体で「3D空間」的な統語論=意味論のまとまりを表現している。

それに対して典型的なJRPGは、移動フェイズにおいては「2D空間」的な統語論=意味論のまとまりを採用し、戦闘フェイズにおいては「時間(ターン)」的な統語論=意味論のまとまりを採用している。

WRPGとJRPGでは、ゲーム全体で統一した統語論=意味論のまとまりを設計するか(シームレス)、複数の統語論=意味論のまとまりを切り替えるか(セパレート)が、異なる。


またJRPGは比較的意味論と統語論の対応関係が「荒い」ことが多い。たとえば技のゲームシステム上の効果(統語論)と技のエフェクト(意味論)があまり緊密に関係していない、といったように。その結果統語論だけの差異化や意味論だけの差異化がおこったりする。たとえば技のエフェクトだけ派手になってゆく、とか。

それに対して意味論/統語論が補われる場合もある。『FF8』では技のエフェクト時間によって特殊技やスロットの目推しをする時間を稼ぐことができる。長いエフェクトという意味論に対してコマンド入力の時間稼ぎという統語論をおぎなっている。


こうした設計の違いはゲームの拡張性にも関係している。WRPGにおいてはゲームのステージを追加したり、ゲーム全体の意味論を入れ替えてしまうようなMOD文化が発展したのに対して、JRPGは対戦や交換などゲームの一部門にコミュニケーションを導入する文化や、ゲームの部分的な意味論だけをとりだしてきて共有する二次創作文化が発達している。

またイノベーションのありかたにも関係しているかもしれない。WRPGは定番ジャンルを引き継ぎつつゲームデザイン全体を暫進的に改良している印象があるのに対して、JRPGは個々のパーツの統語論や意味論を単独で差異化している印象がある。

WRPGはゲーム全体のクオリティが高いが、JRPGは個々のパーツがユニーク、といった印象。

(田中秀臣氏が、日本の漫画批評は個々のパーツを分類するだけの博物学でしかなく、グルンステン『マンガのシステム』は作品全体のエンジンから個々のパーツがいかにして導かれたのかを問題にしている、といった趣旨のことをのべていたが、日本で博物学的な発想が流行るのはなんらかの必然性があるのかもしれない、なんて思ったりして)



以下、もうすこしくわしくJRPGの統語論=意味論のありかたについて考えてみよう。


そもそも欧米には『指輪物語』のようなハイファンタジーの伝統があり、ハイファンタジーを再現するためにTRPGがあり、TRPGを再現するためにCRPGがある。TRPGの選択肢構造にもっとも近いビデオゲームは、『カードワース』や一部のADVだろう。ハイファンタジー的な世界観をもっともうまく構築しているビデオゲームは、3DのオープンワールドRPGやMMORPGではないだろうか。

いまとなっては2DのCRPGは、ハイファンタジーの再現でもTRPGの再現でもない、固有のジャンルという側面がある。


CRPGの起源的な作品のうち、『ウルティマ』(の2作目まで?)や『ローグ』は、移動にかかわる統語論=意味論と戦闘にかかわる統語論=意味論が、ひとまとまりの「見下ろし型2Dマップ」という統語論=意味論として設計してある。

それに対して『ウィザードリィ』は、移動にかかわる統語論=意味論と戦闘にかかわる統語論=意味論を基本的に別のまとまりとして設計しつつ、「擬似3Dダンジョン」の意味論を一部共有している。移動フェイズから戦闘フェイズに移行したさいには、擬似3Dダンジョンの表象のうえに敵キャラクターが描写される。

JRPGの起源といわれる『ドラゴンクエスト』は、『ウルティマ』と『ウィザードリィ』を折衷した、といわれる。『ドラクエ』は、移動フェイズは見下ろし型2Dマップの統語論=意味論を採用し、戦闘フェイズはターン制フロントビューバトルの統語論=意味論を採用している。

つまり『ドラクエ』においては、『ウィザードリィ』にはあったふたつの統語論=意味論のまとまりに共通する意味論(擬似3Dダンジョン)がなくなっている。『ウィザードリィ』がゲーム全体をふたつの統語論=意味論のまとまりに分割し、『ドラクエ』がそのふたつをほぼ自律させた、といえるだろう。

このような移動フェイズと戦闘フェイズの分割と自律という特徴は、『ドラクエ』のようなフロントビューだけでなく、たとえば『FF』のようなサイドビューにもあてはまる。

こうした分割と自律は、さまざまなメリットとデメリットをもっているだろう。

メリットと思われるもの:
・戦闘中は地理的な要素は気にしなくてよいので、プレイヤーがとっつきやすい
・多人数パーティで地理的な要素があると入力が煩雑になるが、それを避けることができる
・フェイズが分割されているので、それぞれのフェイズを作りこみやすい

デメリットと思われるもの:
・各フェイズが何度も中断されるのでプレイングのテンポがわるくなる
・移動フェイズの統語論/意味論と戦闘フェイズの統語論/意味論が無関係になり、ゲーム内にお互いに無関係な要素をかかえることになる
・統語論的な特質・効果のバリエーション(射程、2マス移動、敵を吹き飛ばす等)が制限される



以下、JRPGないしその周辺において、移動フェイズ/戦闘フェイズの分割をどうあつかってきたか、印象的な例をおもいつくままに挙げてゆく。


『ロマサガ』のシンボルエンカウントは、移動フェイズと戦闘フェイズを統語論的につなげるひとつの試みだと評価できるだろう。たとえばフィールド上の敵シンボルの図象で敵モンスターの種類を類推できたり、敵シンボルと接触する方向によって味方の初期位置が異なったりする。

シンボルエンカウントはツクール製のゲームにも多い。『禁術と呼ばれる術』『ネフェシエル』『イストワール』のように、フィールド上の敵シンボルの図象からモンスターのランクがわかるようにすることで、ダンジョン探索をやりやすくしている作品もある。

『魔王物語物語』は、プレイヤーキャラクターが敵シンボルに接触するとそのときの角度が固定され、そのまましばらくするとフィールドの図象上で戦闘がはじまり、敵と味方の角度が戦闘中に参照される。統語論的なつながりがより強化されているといえるだろう。

(こうしたシンボルエンカウントの欠点として、移動フェイズ(リアルタイム)と戦闘フェイズ(ターン制)で操作系が違うのでプレイヤーが齟齬をおこす点が挙げられる。たとえば『エストポリス伝記2』や『創刻のアテリアル』はフィールドがターン制になっておりそのような齟齬はない)

『クロノトリガー』の場合は、(よく勘違いされるが)移動フェイズと戦闘フェイズ自体は分割しつつ、移動フェイズのフィールドと敵の図象をそのまま戦闘フェイズで用いている。つまり意味論的なつながりはかなり確保している。

『帽子世界』(*)も移動フェイズと戦闘フェイズが分割されているが、移動フェイズが横スクロールアクションに似た統語論=意味論になっており、敵シンボルに接触するとフィールドが表示されたままサイドビューの戦闘がはじまる。いわばサイドビューバトルの意味論で移動フェイズも説明してしまった、といえる。

(*:『帽子世界』は、移動フェイズと戦闘フェイズを意味論的につなげたり、連携を乱数ではなく狙ってできるようにしたり、個々の技単位ではなく技の系統単位のカスタマイズにしたり、プレイヤーキャラ=ボスキャラにして無駄のない構造にしたり、と、『ロマサガ』を的確にアップデートしている作品だと思う)

以上のような方向性を、移動フェイズと戦闘フェイズを完全に統合するのではなく(シームレス)、移動フェイズと戦闘フェイズを切り離したままなにも関連付けないのでもなく(セパレート)、移動フェイズと戦闘フェイズを切り離しつつ、両者において統語論的/意味論的要素を共有することで、ふたつのフェイズを関連付けてゆく、といった意味で、「スムーズ化」と呼んでみたいと思う。


フリーゲームのRPGにおいて、けして多数派ではないが、ほかではみられない固有のジャンルとして、「ノンフィールドRPG(*)」が挙げられるのではないだろうか。アンディーメンテが精力的に製作することで広め、ステッパーズストップのポーン氏の『雪道』のような名作があり、RPGツクールでも何作か作られている。

(*:筆者はこの用語を、SK氏のウェブサイト『フリーRPGガイド』(公開終了)で知った。このサイトはフリーゲーム作家にインタビューをしていたサイトとしてはかなり古いのではないだろうか)

ノンフィールドRPGは、移動フェイズと戦闘フェイズの分割はおなじだが、移動フェイズを、「進む/戻る」の2つのコマンドと歩数といったパラメータしかない、いわば1Dのダンジョンとして設計している。また移動フェイズも戦闘フェイズもフロントビューのような簡素な図象で表現してある。

ノンフィールドRPGは、移動フェイズの十字キーによる2Dマップ移動のわずらわしさを、ダンジョンを1Dにすることで簡略化し、テンポを大幅に向上した、と評価することができるだろう。

『フィラデルフィア演義』や『ランナーズ・エクリプス』のようなノベル+戦闘のゲームも、移動フェイズを簡略化した(クリックで文章を読む進めるだけにした)RPGであり、ノンフィールドRPGと類似した発想、といえなくもない。

じつはこれと似た発想がうかがえるジャンルが、RPG以外で存在する。

ゲーム性のあるエロゲー(以下エロゲー)において、多数ではないが固有のジャンルとして、非配置型SLGが挙げられる。筆者が「非配置型SLG」と呼ぶものは、ユニットを都市に配置する必要がなく、敵に攻められた時点で自由に出撃するユニットを選んでよいもの、を指している。アリスソフト(*)の『鬼畜王ランス』『戦国ランス』、『VenusBlood』シリーズや『英雄*戦姫』など。

(*:アリスソフトの提唱する「地域制圧SLG」はマス目単位ではなく拠点単位で攻防するSLGを意味しており、その一部が筆者のいう「非配置型SLG」にあてはまる)

これらの作品は本格的なSLGを簡略化したものと考えるのが一般的だろうが、みようによっては、移動フェイズ――十字キーでの2Dマップの移動――を簡略化し、クリックでマップ上の拠点を選び戦闘フェイズに移行する形式のRPG、ともいえるのではないだろうか。

その証拠として、『鬼畜王ランス』のダンジョン攻略は「進む」と「戻る」による移動と戦闘から成り立っており、部分的にノンフィールドRPGとそっくりになっていることを指摘したい。ノンフィールドRPGと非配置型SLGは「RPGの移動フェイズを簡略化してテンポをよくする」という発想がお互いに似通っているのではないだろうか。

こうした移動フェイズを簡略化する方向性を、「チャート化」と呼んでみよう。『Ruina』のようなゲームもそうした方向性をもっていると思う。

『パズドラ』のようなソーシャルゲームでもフィールドが簡略化されている作品は多い。チャート化という方向性は、かならずしもソーシャルゲームのように環境の要請によってのみでてきたのではなく、クラシックなRPGのかったるさを前にしたときにでてくる自然な発想なのではないだろうか。


JRPG的な移動フェイズと戦闘フェイズの分割に対しては、シームレス化だけでなく、スムーズ化やチャート化といった対処方法もありえる、ということがいえるだろう。



もしJRPG的なものの未来を占うなら、コンソールJRPGおよびその周辺――フリーゲームやゲーム性のあるエロゲーや同人ゲー――において、どのような試みがあったのかの分析が必要不可欠だろう。














補論――『ふしぎの城のヘレン』について

(だいぶ前にやったので記憶で書いてます)



『FF』のアクティブタイムバトルや『タクティクスオウガ』のウェイトターンは「基本コマンドで敵のゲージに介入する」という要素はあまりない。それに比べると『エナジーブレイカー』や『グランディア』あたりは基本コマンドで敵のゲージに介入することができる。攻撃すると敵のゲージを押し下げたり、HPを減らすと敵の行動力の回復を妨げたり。エロゲーでも『あかとき』や『ティンクルくるせいだーす』あたりはそうした要素をもっている。

こうした「味方キャラ多数でゲージを操作して戦闘の展開を主導する」というRPGは、1対1だとそれほどゲージを操作することはできず、1体の敵(ボスキャラ)を多数の味方で攻撃して足止めする、といったバランスが多い印象がある。

では1対1でアクティブタイムバトル的な戦闘はないのかというと、『elona』や『片道勇者』あたりはローグライクなので基本味方は1人だが、味方と敵が1ターン1行動ではなく、速度的なパラメータで行動がまわってくる。しかし基本コマンドで敵のゲージに介入はできない(アイテム等ならできるが)

僕が思うに、「基本コマンドで敵のゲージに介入する」ような戦闘システムは、1対1でも威力を発揮するようにするとバランスブレイカーになってしまうし、逆に1対1では効果が薄いようにするとシステムの意義がなくなってしまうので、多人数で協力することで効果が発揮されるタイプが多いのではないだろうか。

そう考えると『ヘレン』の「選んだ技によって防御力が変わる」システムは、こちらのコマンドによって敵の攻撃を軽減/無効化でき、そうすることによって相手の技選択を拘束することができ、間接的に敵の行動に介入することができる。しかし相手を行動不能にするわけではないのでハメるわけではないし、バランスブレイカーになるわけでもない。それでいてうまく活用すれば有利に戦いを進めることができる。そうゆう意味で1対1でも成り立つ絶妙な按配のシステムなのではないだろうか。

(ちなみにもうひとつの解決法として『ウィザーズクライマー』を挙げたい。この作品は1人のプレイヤーキャラクターが移動と戦闘がシームレスな2Dマップのダンジョンを攻略してゆくゲームだが、技に射程・効果範囲があり、かつ、技選択から発動までにタイムラグがあるので、移動によって相手の技を避けることができる。場合によってはかなりのターン敵の技を避けつづけることができてしまうし、逆にこちらの技が避けられつづけることもある。

『ウィザーズクライマー』は原則的にオート操作しかできない設計によって、何ターンも射程とタイムラグの計算をしなくてはならない煩雑さをうまく回避している。あわせて高速機能もあるので、きちんと準備すればテンポよくダンジョンを攻略することができる。また簡易ながらAIをカスタマイズすることもできる。

『ヘレン』がゲージへの介入要素を定量化・間接化にしたのに対して、『ウィザーズクライマー』はゲージへの介入要素をふくむシステム全体をオート化した、といえるだろう)



『ヘレン』はプレイヤーが試行錯誤をすることで「うまくなる」ことができる稀有なRPGだが、それには「うまくなる」余地があり、かつ、最大限に活用しても強くなりすぎないような、システムを設計する必要がある。

どのような基本システムを設計するかによって、技や敵キャラといった要素の定質的なバリエーション(*)は制限される。また単純に数字だけ増やしてゆくとプレイヤーはすぐ飽きるので、適宜に新規の要素をだす必要がある。つまり技や敵キャラのバリエーションは成長の余地やマップの数を拘束する。また要素のバリエーションはプレイヤーの工夫の余地も決めてしまうだろう。

(*:『ヘレン』の場合は攻撃力と防御力のバランスが定質的な特徴といるのがすごい)

『ヘレン』は基本システムから導かれる要素のバリエーションをダブりなくモレなくゲーム全体に配置している印象がある。基本システムの設計とレベルデザインの関係性が密な印象をうけるゲームだ。逆にいうとこれ以上要素を追加するのはキツいかもしれず、大作向きではないのかもしれない。



ストーリーはメタフィクション(プレイヤーがダンジョンを攻略すること=コンテンツを遊びつくすことが、物語内で主人公がダンジョンを崩壊させる要因となりうることと重ねられている)でありながら舞台の外部の描写(亜人)があるのが特徴といえば特徴。『ゼルダの伝説 夢をみる島』や『イストワール』などをみてもゲームとメタフィクションの相性はいいが、こうしたメタフィクションにおいては舞台の外部の描写はない。

メタフィクションか否か、と、世界設定に厚みがあるか否か、と、舞台の外部の描写があるか否か、はそれぞれ別個なのではないだろうか。

メタフィクション、薄い、外部なし……『夢をみる島』
メタフィクション、厚い、外部なし……『イストワール』
メタフィクション、薄い、外部あり……『ヘレン』
メタフィクション、厚い、外部あり……『Moon Whistle』や『moon』(PS)があてはまる? 『FFT』もみようによってはそうだろうか。



いくつか個人的に思った課題を提出すると、ダンジョンとボスキャラの相乗効果でギミックを演出していたのはとてもよい。しかし前述のようなシンボルエンカウントの欠点はあてはまってしまうだろう。

あとよく「ランダム性のない戦闘システム」といわれるが、筆者のプレイ体験では敵キャラの技の選択がおなじ条件でも変わる(セーブ直後のボスキャラの行動がかわる)ことがあった。たしかに提示されている技の情報から技の効果が確実に予測できるだけでも既存のRPGより先進的ではあるのだが、完全情報の戦闘システムということであれば『フィラデルフィア演義』や『ランナーズエクリプス』などを挙げるべきではないだろうか(*)

(*:下記のラジオで挙げられてました汗)




参考URL:

http://www.ustream.tv/recorded/32016653

このラジオを聴きながら書いたので、かぶっている指摘もあります。ご容赦ください。

それにしても細かいところみてるな〜観察眼がすごい!!!


>ツクールはMODカルチャー

これはそのとおりだ!!ツクールについても書きたいが、力尽きたんであとで書き足します……

(つづく?)

yukiyukio_kun at 02:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2013年05月06日

デタッチメントとコミットメントの往還のなかで

『Q』→『破』→『Q』とみて、『RETAKE』(これと『タオルケットをもう一度2』はセカイ系+生殖ネタで一番好き)を読み返したりした。


(以下『ヱヴァ破』および『ヱヴァQ』のネタバレがあります。それから書いたタイミングが違うので文体がバラバラです。以前のエントリと重複する論旨のものもあります。ご容赦を)




■『破』について

『破』は、『Q』の前フリでエンタメをやったというよりか、日常シーンと戦闘シーン、甘めのシーンと凄惨なシーンのバランスがよくて、この一作でテンションがめまぐるしく上下するエヴァを体験できるかんじがする。一作品でなんとなくまとまりがあるというか。

ただし作品内での整合性があるかどうかはべつで、これってアスカは助けないでレイを助ける理由が物語的/映像的にしめされているのかしら。あんまり示されていない気がする。ついでにいえば『今日の日はさようなら』はやっぱりすべってる気がしたけど、『翼をください』は歌のクオリティはともかく選曲はありな気がした。


これは新劇場版全体の傾向だが、戦闘描写も日常描写も、基本的なストラクチャー(戦闘フェイズ→日常フェイズ→戦闘フェイズ……)を維持しつつ旧エヴァのネタをひとつのフェイズに複数挿入する、という方法論をとっている。

戦闘描写についていえば、複数の使徒戦のネタをひとつの使徒戦に圧縮しつつ、新たに加算することで、旧エヴァをひととおりみたひとにとっても驚きがある展開になっている。ただちょっとテンポがわるくなった気はしなくもない。旧エヴァと比較してみてないからわからないが、旧エヴァはもっと有無をいわせないリズムがあった気がする。

ただし、そのことでエヴァの特異な記号体系およびそれをつなげる論理がはっきりあらわれているかんじもする。これについては後述したい。

日常描写についても似たようなことがいえて、複数のネタを圧縮しつつ加算するという方法論をとっているのだが、なぜかエヴァの日常シーンにあった独特の「影(*)」がなくなっているかんじがする。おそらくひとつの日常フェイズをわりと長くつづけないといけないので、「影」を差し込むと流れが停滞してしまうのだと思う。

(*:コミカルな描写のあとで登場人物が暗いことを独白したりとか、エレベーターや車などの物を使って人物間の断絶を強調したりとか、そうゆうところ。

旧エヴァにおいては、人物間の会話に物の動きをあわせることで非言語的に「本音」を表現するという演出が一方であり、もう一方で手をつなぐとか首を絞めるとかそうゆう直接的な接触がコミュニケーションのイメージとして提出されていた。新エヴァにおいてはそのふたつに対して料理や演奏やゲームといった物を介したコミュニケーションを差し込もうとしていると思うのだが、まだその試みは登場人物たちの関係性を変えるには至っていない)

ネタを圧縮しているのになぜか間延びした印象を受ける(がゆえにエヴァの地の素材がよくわかる)、というのが現時点での印象です。





■『Q』について

よく考えたら、コミットメントとデタッチメントを相互にくりかえしたり、状況の絶望さを強調したあとで奇跡をおこしたり(下げて上げる)、多幸的な状況から絶望に叩き落したり(上げて下げる)、といった「加熱−冷却」の論理って、エヴァンゲリオンの常套手段ではないだろうか。そしてそれはコードギアスやまどマギにも継承されている。

『破』は、終盤の展開が、旧エヴァのおなじ物語の段階より相対的にコミットメントしてたので、作品全体がコミットメント感をかもしだしていた。しかしこのコミットメントだって映画内の意味連関としてはそんなに必然性はなく、「旧エヴァとの比較」と「作品の区切り」を活用してコミットメント感を「盛った」だけ、ともいえなくもない。

それに旧エヴァでも「コミットメントして(ヤシマ作戦)獲得したなにか(二代目綾波レイ)を失う」というエピソードや、「みずからの言動によって犠牲者を生み出してしまう(トウジ)」エピソード、「やる気をだした結果みんなに迷惑をかける、そしてふてくされる」といったエピソードは描写されていた。だから『破』→『Q』の流れがすごいのは、さまざまな描写をつなぎあわせて2作品つかってコミットメント→デタッチメントの流れを「盛った」ところにあるのだと思う。

個々のデタッチメントの描写やコミットメントの描写にあまり意味をみいだしすぎないほうがいい。むしろデタッチメント−コメットメントの往還の「ふり幅」と「中身」をみるべきだろう。


いままでの『エヴァ』の戦闘シーンはやはりエヴァが戦闘のキーであり、ナレーションもエヴァを主語としたものが主体だったと思う。それが『Q』の最初のほうの戦闘シーンは、なんというかヴィレやヴィレ関連のシステムが主語になっている気がした。つまりエヴァ一点重視の戦闘シーンから、システム全体を主語としつつそのなかでエヴァが重要な役目を担う戦闘シーンへ、といった対比はあるのかもしれない(*)。しかし旧エヴァや破でもそれくらいのことはあったかもしれない。

(*:ネルフとヴィレが『Zガンダム』ぽっかったり、ヴンダーが『ナディタ』ぽかったりってのはみんないってるが、宇宙装備をつけたエヴァ二号機とか、主人公おいてけぼりでも(前フリではなく)意外と戦えているかんじは、『リヴァイアス』っぽいなあとも思った。つまりエヴァ以前の作品をなぞっているだけでなく、エヴァ後の作品とかぶってしまっている箇所もある。)

それに対して日常シーンは、ひたすらシンジを中心に描写されていて、みていてちょっとくどいと思ったのは事実だ。東浩紀が狂気が足りないといった旨のことをのべているらしい。おそらく彼のいう狂気の水準とは違うだろうが、ごく表面的にみても、描写されているのがシンジひとりの内面でしかなく、もっとシンジを媒介にしていろんな人物の内面がごちゃ混ぜになって、わけがわからないものまで混入してゆく、みたいなプロセスがみたかった気がする。

中盤くらいまでは、(ヴィレの)戦闘シーンは脱シンジ化に成功しておりさまざまな趣向をこらした展開をみせているが、(ネルフの)日常シーンはシンジに一極集中化しておりちょっと退屈、みたいなことは思っていた。この脱シンジ−シンジ中心という対比は、ヴィレとネルフの思想的対立にかかっているようにみえなくもない。

14年後という設定は旧エヴァに対する新エヴァの距離感とみなすのが妥当だろうが、ネルフ=旧/ヴィレ=新という対比ではなく、シンジを中心になんとなく戦闘シーンと日常シーンがまとまっていたりいなかったりした旧エヴァ/脱シンジ的要素とシンジ中心的要素がくっきり遠心分離してしまった新エヴァ、という対比のほうが説得力がある気がする。

終盤においてシンジは戦闘シーンにおける主役の地位を取り戻そうとする。次作においてふたつの要素は本格的に統合されるのだろう。一体どうやって統合するのか、あるいはしないのか。


ひとつ思ったのは、ネルフでの日常描写において、もはや学校も都市のひとびともおらず、「現代日本」的な描写が皆無なのだから、チルドレンたちが学制服を着る意味がまったくないのにもかかわらず、あいかわらずシンジやカヲルは学制服を着つづけている。

さらにはシンジが着ている学制服がネルフから支給されるシーンまで描かれている。たんにずっと学制服を着ているだけならお約束で済むが、わざわざ「学制服を着たシンジ」を再生産するところまで描写している。

エヴァ搭乗者は「エヴァの呪い」で歳をとらないという設定らしいが、シンジの場合はそれに加えて、実質的な意味合いを消失しているのに学制服を着つづけているというのも、「設定がキャラクターの本質になってしまった」ことをかんじさせる(伊藤剛風にいえば「チルドレンのおばけ」化?)

しかもトウジの中古の学制服が支給されるところまで描いている。これはシンジを追い込むための描写なのかもしれないが、設定としてやや違和をかんじさせるところでもある。綾波のプラグスーツが新調されているのだから、食事だけでなく衣服も生産しているのだろう。しかし都市生活は壊滅しているのだから、ネルフの制服以外を生産する理由はない。だったらネルフの制服を支給すればいいのに、わざわざ中古で学生服を支給している。どことなく学生服は周囲から浮き上がっている。

さらにいえば、綾波レイが住んでいる掘っ立て小屋も、ネルフ施設から浮きあがっているし、シンジと冬月が指した将棋も、レイのクローンが並んだ背景から浮き上がってみえる。

つまり、実質的に設定の裏づけがなくなった「現代日本」的描写(学生服、掘っ立て小屋、将棋)を、ことさら周囲から浮きあがったものとして表現するシーンが、連続しているのだ。




■『エヴァ』の戦闘シーンについて

先述のように、戦闘フェイズを長くつづける必要性からか、新ヱヴァは『エヴァ』の特異な記号体系がよりはっきりあらわれている気がする。たとえ『シン』がどのような出来であろうと、新エヴァは『エヴァ』の記号体系を考察するにあたってすぐれた素材を提供しつつあることは論をまたない。

以下新エヴァにかぎらず『エヴァ』の戦闘シーンについて考えてみよう。

まず基本的なこととして、『エヴァ』の戦闘シーンにおいては、ある形象に対して説得的な運動性を追及しつつ、それを反復する、といった方法論がとられている、という点を確認しておこう。たとえばATフィールドの「除々にひっぱられつつ、一気に破られる」という運動性は頻出のものだろう(「除々に進行しつつ、一気に完遂/反転する」というリズムもまた『エヴァ』的だ)。

こうした映像の論理はしばしば明示的な説明に先行していたり、設定の裏づけなしに用いられていたりする。『破』のゼルエル戦において初号機は未知の能力を連発するが、いままで戦ってきた使徒たちの形象と運動性を反復することによって、映像的な論理で読者を説得しているわけだ。

こういった映像的な論理をつなげあわせることで『エヴァ』の「わけわかんないけど、みれちゃう」感覚が成り立っているのだと思う。


形象と動きの関連付けは、けして無根拠におこなわれているわけではない。『破』のインタビューで、要塞都市のギミックはあまり多用するとギャグになってしまうからセーブした、といった発言があった記憶がある。『エヴァ』においては「この形象でこうゆう動きをしたら説得力があるか、ないか」といった精査が働いている。

また形象と動きは一対一対で対応しているわけではない。ひとつの形状に対して複数の運動性が割り振られることもある。代表的な形象がエヴァだろう。

なぜ『エヴァ』においてエヴァは強いのか? そのひとつの答えは、ガンダムより徹底して人間の身体の形状をトレースすることで、「人間の動き」を根拠としてさまざまな動きに説得力をもたせているから、ではないだろうか。おなじロボットが全力疾走したり大ジャンプしたり機敏な動きをしたり……それらの動きを、人間の造形を象ることで説得力を与えている。

エヴァのような人間的な造形は、さまざまな動きに説得力を与えることができる。それに対して「巨大な使徒」は、その形象から機敏な動きを導くことができず、運動性が制限されることになる。だから巨大な使徒に対しては比較的エヴァは善戦している。

また複雑でトリッキーなかたちをした使徒は、その形象から「弱点をつかれて崩壊する」というイメージが連想されやすい。おなじことは群生的な使徒、ちいさくて複数個体存在する使徒にもいえる。多数の個体がまとまってエヴァを翻弄するイメージよりも、多数の個体がちりじりになるイメージのようが連想しやすい。

そうすると『エヴァ』においては、「比較的ちいさくて、さまざなな動きが連想できて、ひとまとまりの個体」をもつ図象が「強い」、ということになる。いうまでもなく、これはエヴァの特徴をなしている。エヴァを活躍させるためにこうした秩序ができるのとどうじに、こうした秩序であるがゆえにエヴァが造形されたのだろう。

しかし、この条件にエヴァよりも当てはまってしまう形状がいくつか存在する。たとえば「球状のもの」の威力は『Q』ではっきりしただろう。複座式エヴァのファンネルのような武装は、二号機の槍を軽くあしらってしまった。

もうひとつは、「ひも状のもの」「帯状のもの」だ。エヴァは「ひも状のもの」「帯状のもの」に対してよく苦戦している印象がないだろうか? 旧エヴァでいえばレイが自爆したアルミサエル戦とか、ゼルエルの腕の部分とか。今回でいえば冒頭の宇宙作戦の帯状の使徒は一号機?の暴走でしか倒せなかったように。

なぜ『エヴァ』においては「ひも状のもの」「帯状のもの」が猛威をふるうのか? それは、「比較的ちいさくて、さまざなな動きが連想できて、ひとまとまりの個体」として、エヴァ以上に優秀な形象だから、ではないだろうか。

ということは、『シン』に期待してよいひとつの課題として、「ひも状のもの」「帯状のもの」を、視覚的な説得力の範囲内で攻略すること、をあげてよいのではないだろうか。

(つづく?)






■まとめ

『シン』は、

・「加熱−冷却」の論理とリズムは変わらないだろう

・脱シンジとシンジ中心を遠心分離してみせた『Q』の前フリを超えられるかどうか

・「ひも状のもの」「帯状のもの」を視覚的な説得力の範囲内で攻略できるか

・物を介したコミュニケーションがどこに着地し、どのように登場人物たちの関係性を変えるか

このへんに注目してみてみたい。

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2011年02月06日

ゲーム論メモランダム

http://togetter.com/li/97227

死に舞さんの統語論と意味論のはなし、どこかでちらっと耳にはさんだことがあって、それをヒントに勝手にいろいろ考えてたところでした。どこかでまとまって参照できないかなと思っていたので、これが読めてとてもよかったです(ちなみにustのほうはみようと思ったんですが音がききとれなくてやめちゃいました)

これを読んで思いついたこととか、いままで考え溜めてたことなど。

■統語論、意味論、語用論

・スーパーマリオの「Bジャンプ」は、「画面上方への移動、減速、落下etc」という統語論と、「跳躍」という意味論のカップリングによって成り立つ(以下、「統語論と意味論のカップリング」を「統語論=意味論」と表記する)

・おなじ「Bジャンプ」が、ブロック頭突きにも、障害物の乗り越えにも、敵踏みにもなるというのが、語用論に相当するのではないだろうか。ゼルダの伝説でいえば、弓矢は、敵を攻撃するという統語論=意味論にも、離れたスイッチをいれるという統語論=意味論にもなる。テトリスやぷよぷよの「連鎖」も一種の語用論かもしれない。

■WPRGとJRPG

・WRPGは、ひとつの「空間」において(物理法則を模範とした)複数の統語論=意味論の束を設計する(その結果、物理空間の再現を目指すことになる)。JRPGは、移動フェイズにおける統語論=意味論の束と、戦闘フェイズにおける統語論=意味論の束が、完全に切り替わってしまう。

・WRPGとJRPGでは、統一した統語論=意味論の束を設計するか(シームレス)、さまざまな統語論=意味論の束を切り替えるか(セパレート)が、異なる。

・WRPGは、複数の統語論=意味論の束をまとめるひとまわり大きな統語論=意味論として、「3D空間」の表象を活用する。3D空間を描写し(意味論)、3D空間の物理法則を再現する(統語論)(以下、複数の統語論=意味論を束ねる包括的な統語論=意味論を、「タグ統語論=意味論」と表記する)

・もっとも典型的なJRPGは、移動フェイズにおけるタグ統語論=意味論として「2D空間」を活用し、戦闘フェイズにおけるタグ統語論=意味論として「時間(ターン)」を活用する。「時間」の活用は、レベル制等にもみられる。

■アリスソフト

・複数のタグ統語論=意味論としての「空間」「時間」を切り張りした作品として、アリスソフトのシミュレーションゲームが挙げられるだろう。たとえば『大悪司』では、暴力団の地域抗争をモチーフに、戦闘フェイズの「空間」、部下管理フェイズの「時間」、捕虜管理フェイズの「時間」、風俗店経営フェイズの「時間」等、1ターンのうちに複数の「空間」「時間」が切り替わる(全体が1ターン進むごとにそれぞれのフェイズを1ターンづつプレイさせられる)

・『大悪司』の真骨頂は、時間Aと時間Bを「キャラクター」が横断するところだろう。たとえば、戦闘フェイズでつかまえた女性捕虜を、風俗店いりさせるとか(!)、序盤で活躍したが役不足になった女性戦闘員を、風俗店いりさせるとか(!!)。ようは、おなじキャラクターが、複数の「時間」(戦闘フェイズ/捕虜管理フェイズ/部下フェイズ/風俗店経営フェイズ)において、複数の役割(敵戦闘員/捕虜/味方戦闘員/風俗嬢)が与えられている。それぞれに固有イベントがあったりするので、全体のボリュームがすごい。

・ほかにも『GALZOOアイランド』では、シナリオとシステムを、キャラクターだけでなくキャラクターの一部としての装備品が横断する、といった一幕もある。

■ノンフィールドやりこみRPG

・逆に、ひとつのタグ統語論=意味論としての「時間」にすべてを還元した作品として、アンディーメンテやステッパーズストップの「ノンフィールドやりこみRPG」が挙げられる(AM系とか雪道系とかいわれる)。

・そこでは、「進む」を選択するとダンジョンを1歩進み(歩数が1増える)、「戻る」を選択するとダンジョンを1歩戻る(歩数が1減る。「戻る」がない作品もある)。ダンジョンというもともと空間的な表象が、進む/戻るという時間的な統語論=意味論で表現されている。

・そして、アイテムの発見、NPCの登場、敵との遭遇、仲間の加入等のイベントが、すべて進むと戻るの操作の延長上に発生する。ほとんどのイベントは文字で表現されたものだが、RPGにありがちなものがひととおりそろっている。進むと戻るという単純な操作だけで、既存のRPGとおなじくらい多様な展開がおこる。その結果、パチンコとおなじような射幸性――1回の「進む」の入力において期待する展開の多様さ――を獲得している。

・厳密にいえば、ノンフィールドやりこみRPGであっても、戦闘フェイズに入れば異なるタグ統語論=意味論に切り替わる(戦闘ターン)。したがって、ノンフィールドやりこみRPGの革新性は、もっとも上位のタグ統語論=意味論として「時間」を採用し、それを表現する統語論=意味論(ダンジョンの進む/戻る)を開発した点にあるだろう(JRPGももっとも上位のタグ統語論=意味論は空間的なものだ)

・初期のアンディーメンテは時間というタグ統語論=意味論にひとつかふたつのタグ統語論=意味論を付け加えるだけだったが、現在のアンディーメンテは、時間というタグ統語論=意味論にさまざまなタグ統語論=意味論を加算している(開発フェイズ、育成フェイズetc)。FF8以降のフェイズの多元性を受け継いでいる。

・それに対してステッパーズストップの一部の作品(『雪道』や『プロバビリティ・シー』)は、AMの戻ると進むのダンジョンを継承し、時間というひとつのタグ統語論=意味論にこだわりつつ、移動フェイズと戦闘フェイズを横断する基底的な単位(「剣」や「カード」等)を模索している印象がある。そこには原子論的な世界観がうかがえる。

■WRPG、シューティング、ノンフィールドRPG

・JRPGは、ゲーム全体を統合するひとつのタグ統語論=意味論を表現するのは苦手だが(ロマサガも切り張りばかりだ)、一風変わった統語論と意味論のカップリングを考え付くのがうまい。それは、意味論主導で新しい統語論を導きだしたり、統語論の差異化を意味論で説明付けたりすることで、なされる。

・ひとつの成功例として、ロマサガの「閃き」が挙げられるかもしれない。戦闘中にランダムに技を入手するという統語論を、「閃く」という意味論で説明している。

・上記リンクでもいわれていることだが、既存の統語論から差異化するだけで意味論がともなっていなかったり、意味論だけで統語論がともなっていなかったり、といった欠陥もありうる。その最たるものは、JRPGのサイドビューだろう。実質的にはターン制なのに、なぜそのマスにキャラクターがいる必要があるのか?なぜみっつの弾の攻撃エフェクトが出る必要があるのか?あまりにも統語論をともなわない意味論があふれすぎている。

・批評的な文脈で東方のシューティングが注目されている理由のひとつとして、シューティングが、1.キャラクターという単位だけではなく、もっと細かい単位(弾etc)で、意味論的表象を統語論に組み込みやすい、ということと、2.2D空間というひとつのタグ統語論=意味論にゲーム全体を統合できる、ということが挙げられるのではないだろうか。

・そこから東方の革新性について考えると、キャラクターという統語論=意味論と弾という統語論=意味論の中間にスペルカードという統語論=意味論を設定した点にあるだろう(あるいは、ゲーム外の意味論(設定)とゲーム内の統語論=意味論をキャラクターによって担架しているところなど)

・WRPGは3D空間というタグ統語論=意味論にゲーム全体を統合し、シューティングは2D空間というタグ統語論=意味論にゲームを統合し、ノンフィールドRPGは時間(ターン)というタグ統語論=意味論にゲーム全体を統合している。WRPGとシューティングはリアルタイム制のことが多いが、ノンフィールドRPGは非リアルタイム制=ターン制だ。

■2Dターン制シームレスRPG?

・では、2D空間というタグ統語論=意味論によって統合されたターン制RPG、すなわち2Dターン制シームレスRPGは存在するのだろうか。おそらく、ウルティマやローグが近いだろう。

・JRPGのタグ統語論=意味論の切り替え性は、ウィザードリィに範をとったものだといえる。ウィザードリィはみかけは3Dダンジョンの表象で統一されているが、移動モードの操作系と、戦闘モードの操作系が異なる。つまり、ひとつの3D空間の意味論的表象に対して、ふたつの統語論が切り替わる(ドラクエになると移動フェイズと戦闘フェイズが完全にべつのタグ統語論=意味論にわけられている)

・それに対してウルティマ1、2やローグは、2D空間というタグ統語論=意味論によって統合されている。現代においてウルティマおよびローグの文脈を復活させている作品として、『elona』を挙げたい。

・『elona』は、移動も戦闘も2D空間でおこなわれるし、移動時も戦闘時も操作体系はおなじだ。世界地図や各街はすべてのプレイで共通しており、この点はランダム性のないウルティマと似ている。ダンジョンはローグライクのように自動生成する。ウルティマとローグの折衷として初心者にもとっつきやすい。

・最後にローグライクRPGとして『ディアボロの大冒険』(公開は終了している)を紹介したい。

・『ディアボロの大冒険』は、『ジョジョの奇妙な冒険』の二次創作だ。したがって、ゲームにさきだって膨大な意味の体系がすでに存在していたことになる。そのような意味論的表象の束を一貫して表現するタグ統語論=意味論として、ローグライク的な2D空間が選択されている。

・『ディアボロの大冒険』でおこなわれていることは、『ジョジョの奇妙な冒険』の膨大な意味論的表象を、和製ローグライクRPGの系譜(トルネコ→シレン)のギミックのこれまた膨大なストックと、一対一対応させてゆく、という作業だ。このふたつは量的に拮抗しており、統語論が意味論を導く場面も、意味論が統語論を導く場面もあったことが、さまざまな点からうかがえる。

■追記1

https://docs.google.com/document/d/1dGVVAWuw7qXZsBOXcTLscAy3N_iAC-IukDZ_Ixq5srM/edit?hl=ja&authkey=CLaqycAC

こっちは読んでなかった汗

ジャンル化というのは、関係が固定化した統語論と意味論のカップリングの束、とは考えられないだろうか。だから、そこでは意味論が抜け落ちる(前提と化す)こともあるし、語られたとしてもステロタイプなものにとどまる。

そうゆう意味では、洋ゲーもそれなりにジャンルを形成しているのではないだろうか(わからないが)

そのうえで、洋ゲーと和ゲーは、既存の関係が固定化した統語論と意味論のカップリングの束に対して、統語論と意味論のカップリング全体を差異化するのか、統語論単独ないしは意味論単独をとりだしてきて差異化するのか、が違うのではないだろうか。

即興の例だけど、「いままで戦闘が終了するとゴールドが入手できたので、これからはモンスターを倒すごとにゴールドが入手できるようにしました」→「どうゆう設定?」みたいに、統語論単独で差異化してしまったり、「この武器は二回連続で斬る攻撃エフェクトにしました」→「ダメージは一度だけ?」みたいに、意味論単独で差異化してしまったり、といった事態のことを想定している。

(もう一点、洋ゲーはおおまかなジャンルを共有して、統語論と意味論の関係性全体を暫進的に改良していってて、和ゲーは個々のエレメントごとに差異化していっているかんじもする。これはようはどれくらいの大きさの統語論=意味論を対象化するか(全体か部分か)ということであり、タグ統語論=意味論が単数か複数かということとおなじか)

ゲームをマッピングする軸として、

・タグ統語論=意味論の単数性←→複数性

・統語論と意味論の双対性←→独立性

のふたつがありえるのかもしれない(シューティングやローグライクは、タグ統語論=意味論の単数性と、統語論と意味論が双対性が、共通している)

どちらにしても、和ゲーは統語論と意味論のどちらも膨大なストックをもっており、そのデータベースを徹底的に評価することからはじめるべき、ということは疑いえない。そのうえで、データベースのあり方・利用方法について、いくつかの軸(タグ統語論=意味論の単数性/複数性、統語論と意味論の双対性/独立性etc)をたてつつ、意識化すべきだろう。

■追記2

・厳密にいえば、意味論だけをとりだして差異化する、ということはできない。たとえばFF8やFF9では、攻撃エフェクトの長さをゲームの統語論に利用することができる(長い攻撃エフェクトのあいだ、△連打で必殺技をねばったり、リジェネで回復したり)。というか、攻撃エフェクトの派手さを追求してたんに技を増やしただけであっても、技が増えるということ自体がゲームの統語論に影響をおよぼしている。

・それから、あらゆる統語論はかならずインターフェイス上で表現されなくてはならない以上、統語論だけをとりだして差異化することもできない。「○○は技を習得した」というそっけないメッセージであれ、豆電球のドット絵であれ。

・そうゆう意味では、ゲームは統語論と意味論が分離できないという前提にたったうえで、統語論と意味論が分離できるという幻想・イデオロギーをも、分析の対象にしなくてはならない。



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2010年07月13日

票=貨幣=リンクを翻訳する

■『ised』倫理篇・設計篇刊行記念シンポジウムにはてなid:and-me-catさんといってきたので、感想を書きます(メモ:『ベーシック・インカム(キリッ』とか『クールジャパノロジーの可能性』とか『民主主義2.1(夏)~代議制の拡張可能性について~』もどこかに書きかけの感想があるはず。気がむいたら探しだして完成させるかもしれない)。

■まず、みっつのやや独立した論点。高木浩光氏のダメアーキテクチャ論は、ずっとまえにざっと読んだだけだが、twitterのように「自己実現欲求」ないし「コミュニケーション欲求」をエサに、ひとびとがプライバシーを晒してゆく、というものとはまったく違い、ケータイの欠陥ゆえに、ひとびとが意識しないあいだに、個別サイト利用時に住所に匹敵するほどコアな情報が筒抜けになってしまう、という問題だったはずだ。もちろんひとびとが意識しないような情報の開示は不可避だと立論してもよいが、twitterのはなしと混同してはならないだろう。個人的には、今回のほかの議論とは独立に手当てされるべき問題だと思う。

■ふたつめ、鈴木謙介氏が提起した「やりがいの搾取」について。不勉強な状態ながら、みっつほどの分類をしてみよう。1.「理念」「やりがい」「創造性」をエサに、不均衡な労働条件を強いられること。2.「感情」「創造性」などの目に見えないものの提供を強いられること。3.個人の「創作意欲」「創造性」に対して投資しつつ、あとから成功したものを金銭化され、投資額以上に利用されること。4.以上のいくつかの混合したもの。

このなかで、1.と2.は一部の私企業の飲食店などがあてはまると思うが、1.のような「労働」と「賃金」、2.のような「感情」と「賃金」の交換は、自由意志にもとづくかぎり基本的には保障されるべきとはいえ、それぞれのレートが不当な労働条件なら改善されるべきだろう。とくに2.のレートの不当さはみすごされやすいが、やずやの敗者復活戦が問題になったように、やりようによっては非難される。「感情」も一種の資本なのだから、適切なレートが必要だろう。差異化ないし競争が過激になってしまうのは、参入者が多いからだろうか、市場の規模が小さくポストがすくないからだろうか。4.は、不当な労働条件のうえに、成功しても利用されつくすというもので、ワナビー産業などがあてはまり、もっともややこしいケースだと思う。

さて、3.は、ニコ動が多少そうゆう側面をもっている(もちつつある?)とされているが、はっきりいえば「創造性」がエサでなく「労働者の再生産」がエサだとしても、資本主義は「労働者の再生産」をエサに「労働の成果」を余剰価値として回収する構造をもっており、資本主義の構図そのものだといえる(ところで、マルクス経済学においては、初期の資本主義は労働者の創造性を発揮する余地がある「労働の形式的包摂」で、独占資本主義はそうゆう余地がない「実質的包摂」、とされているらしい。後期近代は「実質的包摂」から「形式的包摂」にターンしたのだろうか?)

しかし、それでも、不均衡さというものは存在する。資本主義に共通している余剰価値の仕組みをすべて搾取とくくるのではなく、そのなかでとりわけ不均衡なケースを検出し吟味する方法が必要だろう。

■みっつめ。井庭崇氏が提起した「構造による資源の再分配」ではできない「創造性の喚起」が必要という議論があったが、お金という「めにみえる資源」ではなく関係性やコミュニケーションといった「めにみえない資源」が配分できているということで十分ではないのだろうか?あるいは、「創造性」という言葉は、既存の構造から抜け落ちるものとして把握されがちだが、社会科学的な記述ないし操作の対象であるなら、いちど大胆に「創造性」を単純な定義に落とし込み、特定の「創造性」の定義――おもしろさ等――がコミュニケーションメディアとして流通する過程を記述したほうがいいのではないだろうか。「構造から抜け落ちる」のではなく「べつの構造」ではないのだろうか。

創造システム論ではなく、社会"の"創造性、コミュニケーションメディア"としての"創造性、のほうがしっくりくる。

(……とかいうことをシンポジウム中に思ったら、まさにそうゆうことをやってるたいだ。あとで読んでみます汗)

■以下かなり僕個人の妄想で補完しつつ「isedシンポジウムの地図」を描いてみたい。

■まず、『民主主義2.1(夏)~代議制の拡張可能性について~』でも提出されつつ結局あやふやになった区分けとして、国全体での国民の投票のシステムをいじるのか、国会での議員の多数決のシステムをいじるのか、という区分けがありうるだろう。

この区分けそれぞれにおいて、アーキテクチャのシステム(票/多数決)と、ユーザ間のコミュニケーションのシステム(世間でのひとびとの政治についての語らい/委員会での議員の語らい)がある。このふたつは、前者は「票」という目にみえるものをめぐるコミュニケーションであり、後者は「政治的ただしさ」や「アジェンダ」といった目にみえないものをめぐるコミュニケーションである、という違いがある。

以上よっつはすくなくとも区別しないといけない。

■ここからさらに個人的な連想を展開しよう。アークテクチャのシステム、ユーザ間のコミュニケーションのシステム、それぞれに、市場やウェブとの比較がありえると思われる。まずは前者について。

■政治におけるアーキテクチャのシステムは、票をめぐるシステムとしてある。僕は、この構造は、市場での貨幣をめぐるシステムや、ウェブでのリンクをめぐるシステムに、比喩的にあてはめられるのではないか、と思う。票と貨幣とリンクは、投票する/投票される、価値をはかる/価値をはかられる、リンクする/リンクされる、というように、ある種の一方方向性をもっている。また、票数/価格/被リンク数が大きいほどその分野での影響力をもちうるという点でも似ている。

票を貨幣の比喩でみると、比例区の票はふつうの通貨に、小選挙区の票はその地域限定でしか用いられない地域通貨に喩えることができる(貨幣は(すくなくとも見かけ上)分割できるということ。以下の議論は、これを前提にしつつ、分割できるというだけでなく、分割の仕方を問題にしたい)

票をリンクの比喩でみると、票数というのは、被リンク数の多さに喩えられるだろう。ということは、票数の多さで候補者を並べることは、Googleでいえば、「キーワードなしの被リンク数番付」をみていることになる。ここで、被リンク数を「リンク通貨」と呼ぼう。リンク通貨は、ニコ動でいえば動画のマイリスト数に、twitterでいえばフォロワー数に相当すると思う。

しかし、Googleで被リンク数番付だけをみることはできないし、できても意味がない。キーワードを入力しなければ役に立たないからだ。ニコ動でいえばキーワードないしタグで、twitterでいえばハッシュタグで、単純なリンク通貨の大小による番付を再編成する必要がある。

ここでまず一点、ウェブという比喩の長所をあげることができる。政治における票は、貨幣でいえば地域通貨に、ウェブでいえば、地域名しか入力できないGoogleに喩えることができる。貨幣の比喩では地域以外の再編成の方法がなかなか想像できないが(できたとしてもオンラインゲームのように結局ウェブに頼ることになる)、ウェブの比喩なら、地域以外のキーワード/タグによる再編成を想像することができる。

単純な通貨=リンク通貨としての票の、地域通貨――地域に限定された通貨――ならない、キーワード/タグ通貨による再編成をもくろむこと。これは、結論としてはたいしたことはないかもしれないが、ウェブという比喩を経由してでてきたということに、なんらかの敬意を払いたいと思う。

(■しかし、地域通貨は地域に限定された通貨だったが、リンク通貨とキーワード/タグの関係性は、説明が難しいが、キーワード/タグに限定されたリンク通貨、というものだけでなく、キーワード/タグからのリンク通貨、のようなものを考えることができると思う。

ちょっと危ない議論になるが、言葉の定義というものは、その言葉に言及しているリンク数の多い論文によって決まるのではなく、その言葉についての語らいにより多くリンクできる定義と、その定義によってうかびあがる語らいの、相互作用によって成り立っているかんじがする(それっぽいけどすごい適当なこといってます)。

たんにある言葉で限定されたリンク数の多い論文ではなぜダメなのかというと、言葉はその定義によって論文のありかたとリンクの仕方を独自に整備してしまうところがあるからだ。その言葉のための論文の平面/リンクの仕方というものを考えなくてはならないのではないか。

たとえばはてなキーワードやハッシュタグはその言葉に言及しているページ/ツイットを時系列順に表示しているし、はてなブックマークはブクマユーザ数の順に表示している。けれど、言葉の定義に突っ込むなら、Googleでいうならそのキーワードに言及している記事を被リンク数順に並び替えるだけではなく、キーワードの関連性をかませること、ニコ動でいえばキーワードによる並び替えではなく、人為的な淘汰の要素がはいったタグによる並び替え、が重要なのではないか。ウェブの比喩はリンク通貨とキーワード/タグ通貨の関係を考える参考になると思う)

■以上が、比喩としての貨幣/リンクから政治における票をみること、だとして、電子貨幣がありえるように、実際に票をウェブ上の電子のシステムにおきかえることもできるだろう。1.比喩としてのリンク通貨からの票の再編成と、2.票をウェブ上の電子の動きに置き換えることは、独立しているとはいえ、2.を実現したほうが1.はやりやすいだろう。

■そして、政治におけるアーキテクチャのシステムだけでなく、政治における(みえない)コミュニケーションのシステムも、おなじように(みえる)ウェブに置き換えることが可能だろう。すなわち、政治的ただしさをめぐるコミュニケーションのシステムや、特定のアジェンダをめぐるコミュニケーションのシステムを、マニュフェストマッチングや、アマゾンリコメンドのようなシステムで肩代わりすること。

■荻上チキ氏にしてもisedあるいは東浩紀にしても、政治における、アーキテクチャのシステムと、コミュニケーションのシステムを、それぞれ再編成をともないつつ電子へおきかえることには、あまり理論的な抵抗はないだろう(このことですら心理的な抵抗はあるのだが)。対立点はここにはなく、おそらく、アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムの関係性にまでふみこんでいる。

荻上チキ氏は最初の発言において、前半は、ガバナンスの内容からガバメントは設計されるべきであり、ガバメントよりガバナンスが優先する、といったことを強調しつつ、後半は、ガバメントの設計からガバナンスを導く回路もあるかもしれない、ということもいっていた。ガバメント設計重視のisedに対するガバナンスの重要性の強調しているだけではないらしいのだ。

ガバナンスはコミュニケーションのシステムに、ガバメントはアーキテクチャのシステムにあてはめられるかもしれない。僕なりにいいかえれば、氏の発言の前半は、どのようなアジェンダのセッティングが必要かで、アーキテクチャの分節を導くべきだということを、氏の発言の後半は、アーキテクチャの分節がアジェンダを導くこともある、ということをいっていたではないだろうか。アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムは相互作用しているというのは、まさに社会科学の王道的認識だろう(僕もこの方向に興味をもっている)

僕は、シンポジウム後、アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムが相互作用しているという荻上チキ氏の認識がいちばん近いなと思っていて、コミュニケーションのシステムを誘導してしまうアーキテクチャのシステムを再編成するという方向性が魅力的に思えたのだが、id:and-me-catさんに、コミュニケーションのシステムも電子のシステムに置きかえられるうえに、電子に置き換えられたみえるコミュニケーションのシステムによる政治的アイデンティティの決定→アーキテクチャにおける投票行為を、自動化することもできるのではないか(と東浩紀氏はいっているのではないか)、といわれ、ここにはいくつかの方向性がありうるなと思った。

票という単一のアーキテクチャのシステム下において、無数のコミュニケーションシステムが成り立ちうる(みえないものから、電子としてみえるものまで)。それはひとびとの自己決定の幅をひろげるが、それにたえられないひともでてくる。たとえば、アマゾンリコメンドは「ひとつのリコメンドにすぎない」わけで、「どのリコメンドを選択するか」という問いが再帰してしまう。

東浩紀氏がいっているのは、ひとつのコミュニケーションのシステムを、アーキテクチャと自動的に連続したものにしてしまう、つまり、特定のコミュニケーションのシステムをアーキテクチャのシステムと自動的に連続にすることで、後者と一体化してしまう、ということなのではないか。

僕は、二層構造論を、二市場論(「票」の流通圏と「政治的ただしさ」の流通圏)に読み替えたうえで、コミュニケーションのシステムの多様性は、単一のアーキテクチャのシステムによって支えられている、がゆえに、アーキテクチャを再編成する必要がある、ということを思っていた。そうではなく、コミュニケーションのシステムをアーキテクチャのシステムに還元してしまう、という方向性なのではないか。

■整理しよう。1.政治におけるコミュニケーションのシステムとアーキテクチャのシステムのふたつは相互作用している。2.アーキテクチャのシステムは再編成をともないつつウェブに移行できる。3.コミュニケーションのシステムは再編成をともないつつウェブに移行できる。4.特定のコミュニケーションのシステムをアーキテクチャ化することができる。

まず、強調したいのは、1.2.3.は完全に両立可能だということだ。そして、いままで論じられてきたのは3.であり、2.はまだまだ論じたりないだろう。

そのうえで、みえないコミュニケーションのシステムをみえるコミュニケーションのシステムに置き換えつつアーキテクチャのシステムへの還元するまえに、僕は、コミュニケーションのシステムとアーキテクチャのシステムの境界線について考えてみたいと思う。

■今回のシンポジウムでは、荻上チキ氏は、とりあえずキャラはかっこいいし、シノドスでの蓄積をバックボーンに、最近の社会科学に言及してゆく手つきは鮮やかだし、ほかの登壇者が自分自身の最近の関心の表明にとどまっているなかでは、頭ひとつ抜けたバランス感覚をもっていた。ただし、彼のいうことは、個々のいっていることはわかるんだけど、全体ではなにをいいたいのかよくわからないことが多い汗

それから、鈴木健氏は、東浩紀氏がさえぎってしまったのでよくわからなかったが、以上のような整理にあてはまらない立論をしかけていた気がした。アーキテクチャのシステムだけを残して、コミュニケーションのシステムを解放する、といったこともいってた気がするし、アーキテクチャ/コミュニケーションの二分法にあてはまらない、ひとびとのコミュニケーションをそのままアーキテクチャとして機能させるような方向性もいってた気がする。鈴木健氏は、アイディアにあふれていて、いつもおもしろいことをおっしゃる方だと思う。

というわけで、このふたりの一騎打ちがみたかった気がする。

■最後になったが、東浩紀氏がでる討議でいつも話題になる運動論や論壇論は、あまり興味がもてない。リクツをいじくるのが好きなので。



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2009年08月15日

「萌え」と規律訓練

『けいおん』についてのだらだらしたメモ:




■女性の語りって、どういった表現がただしいのだろう。女性って、どういやって表現したらいいのだろう。

■僕の予想だと、『けいおん!』のコミュニケーションがところどころ性的な意匠を押し付けあうようなものであり、その「萌え」の定義には、それとは差異のある「かわいさ」の定義ともども、セクシュアリティの非対称性が影を落としていることは間違いないにしても(つまり、萌え記号の定義のなかに男性の視線が入り込んでいたとしても)、このていどの性的な意匠のおしつけあいは、じっさいの女性の共同体においても観測できてしまうのかもしれない。それがいやな気分になる。

もちろん「萌え」と「かわいさ」の差異と部分的な融合はきちんと語られるべきだろう。女性だけで男性の視線をシミュレートしあっているのか、男性の視線なしで女性性を直接に欲望しているのか。しかし、いうほどの違いがあるのか僕には疑問だ。

■『けいおん』の萌え記号は、物語を駆動する要因にもなるし、登場人物間にも共有されている。

たとえば、1話の物語的な難関のひとつとしてツムギが加入するところが挙げられる。ここでツムギが加入することで、不安定だったミオとリツの関係が、なし崩し的に三人の共同体として安定する。ここでツムギが加入する理由は、ミオ−リツの百合的関係に対するツムギの「萌え」の感情だと、あとであかされる。

それから、第1話でユイがリツににらまれて時間差で◎△◎こんな顔になるところがあり、リツもその顔が驚いた顔だということを読み取っている。また、文化祭か新歓か忘れたがステージにあがった回で、観客がユイの萌え記号を読み取ったことが前提の展開もあった気する。

■『けいおん』の非現実的な展開(別荘や、ギターの値切り)は、ツムギが担当している。ツムギの行動のインセンティブは女の子共同体に「萌える」ことなのだから、この物語は表面的なエピソードのつなぎだけでなく、もっと基底的な部分においても「萌え」が機能している。

■『けいおん』の好きなところは、ユイが部活の勧誘を断るときにあいての状況を察して「ぬか喜びさせてごめんなさい」と謝るところであり、ユイがバイト代を三人に返すところであり、ツムギが「ですます」調とタメ口を区別しないところだ。部活の勧誘を断るのに謝ったり、バイト代を返したり、語尾の反復性がそこまで強調されないのは、とてもふつうの感覚で、リアリズムといってもいいかもしれない。ツムギの別荘といった非日常は受け入れられても、コミュニケーションの反リアリズムはうけいれられないのが、萌えアニメの読者なのだと思う。

そのうえで、ユイが泣きだして収集がつかなくなったところで、「演奏きく?」「演奏してくれるの?(顔が萌え記号化)」「くいついた!」といった、ひとつのキャラクターに対する複数の萌え記号が喚起する文脈の切り替えが、その場を救っている。僕はこれをキャラクターの設定を要求せず表層にとどまるかぎりにおいて肯定したいと思う。

■『けいおん』の「萌え」はぎりぎり実際のコミュニケーションのオチにも使えそうな「萌え」だといえるかもしれない。たとえば『化物語』の萌えも登場人物間に共有されているが、それは読者共同体を前提としたメタフィクショナルなものだと思う。それに対して『けいおん』の「萌え」は、とりあえず装いとしては、「萌え」がたとえ男性視点をふくんでいたとしても、それはすでに「萌え」という言葉の文化論的な来歴としてでしかない。それは文字通り「古語」を引用して会話をすることに似ている。

■『けいおん』のギャグはそれほどおもしろくない。第1話でリツの妄想が暴走するところがあるが、僕は横目でちらっとツムギをみた動作でオチが読めてしまった。しかし、オチが読めるのにすべっているかんじがしない。『けいおん』は、ギャグが笑えなくても萌えはすべらせない。萌えが空転しないと、これほど視聴がラクだとは知らなかった(本当は、第1話の次回予告の「わたし、部活を始めました!」とかはけっこうきついのだけど。それでも全体的に環境管理がうまくいっていることは間違いない)

■じつは、たまたまリアルタイムでみた第9話がひかかっていたのだけど、そのときは、「萌えキャラ」をうけいれることと「けいおん部」という共同体を肯定することが重ねられていて、なぜだろうと思った。とおしてみてみると、そのような「萌え」「まったり」「共同体」と、音楽による「規律訓練」は、いっけん反してみえるが、じょじょに重ねられていっていることがわかった。そのような方向性の極限には、1話と13話に登場する、目が星に固定され笑顔をふりまくマックの女性店員がいる。

■やはり萌え四コマを出自としているからか、『けいおん』のコミュニケーションは、話題としては「共同体」と「規律訓練」と「萌え」の三種類にしぼられ意外とノイジーなかんじがしない(好みとしてはもうすこしノイジーだとうれしい。速度はこれくらいか、もっと遅くてもいい)が、会話のオチは、きれいに「萌え」に統一されている。だから安心してみれる。ただし、「オチとしての萌え」とはいっても、その場のキャラクターのふるまいに回収するものと、キャラクターの設定に回収するものの二種類があり、前者もくりかえすと後者に転態することを忘れるべきではない。

■それほど数は多くないが、ツムギがポテトをリツのトレイに空かしたりとか、「シャランラシャランラ」とか、「野鳥の会!?」とか、つっこまれないネタ未満のネタはよかった。もっとこうゆうフラグメントがほしい。

■11話は、評価が分かれるだろう。リツの性格がウザくかんじられるのは、リツがミオを困らせるといったおなじ構造のエピソードが短い時間で連続するからだと思う。主軸に萌えエピソードを付加してゆく『けいおん!』的ではない印象を一瞬うけたが、よくかんがえたら『けいおん』は以外とリニアな構造をしている。エピソード自体はけっこう好きで、こういった恋愛に頼らない鬱は、『けいおん』をベーシックにもっと開発してほしいと思う(MADでいえばこれとかこれ)。

注目に値するのは、本来萌えアニメ読者がたえられないはずのリツのウザさが、リツが風邪をひいていたことで回収されること点だと思う。ここで「納得」するのがアニメの共同体なのだといっていいかもしれない。「場の空気」は最終的にキャラクターに帰属され、それも「風邪」という、一時的にキャラクターの設定を改変してしまうものに帰属される。

■13話はユイのキャラに回収されるまではおもしろい。

■しかし、ユイはあんなに演奏がうまくなる必要があったのだろうか。「萌え」を顕在化させる一方で、その対立軸として「規律訓練」をも強調している。だから規律訓練を抑圧しても過剰に適応してもどちらでも違和感がない。僕としては、どちらにせよ、なぜそれほど規律訓練を強調するのだろう、と思った。「萌え」は物語を解体するのではなく、物語を浮かび上がらせ、潤滑し、維持し、落とし前をつけるのに貢献している。もっと徹底した反物語も可能なのではないか。

たとえば反物語ということでいえば『らき☆すた』のほうが徹底して日常をみせていて、実際僕は好みだった。ただ、こちらも女の子のおしゃべりそのままだとは思わなくて、キャラクターの知識というべつの非現実性がある。そう考えれば、「萌え」「規律訓練」「共同体」しか話題がない『けいおん』も、それはそれでリアルなのかもしれない。どちらももっと散文的にアプローチしてほしいと思う。

そもそも僕は京アニがよく提示する「部活をつくる」という物語にまったくノレない。物語が強すぎる。『ハルヒ』は負の部分が多いから納得したけど、『CLANNAD』はそれでつまずいた。

規律訓練の部分だけとりだせば、ジャンプ的だともいえるし、意外と中学生日記のセンスにも親和性をかんじる。中学生日記には萌えはないから除外するとして、ジャンプとの差異は、萌えの位相にある。ジャンプの萌えは読者をむいている(『化物語』と共通の構造)が、『けいおん』の萌えはタテマエとしては登場人物のあいだにある。こういったタテマエが共有されつつあるのは重要だ。そのうち本物もでてくるかもしれない。

というのも、斎藤理論によれば、ある記号を同一化の対象とみなす同性(彼女はその記号が登場人物の共同体においてどうあつかわれているか、が読者共同体においてどのようにあつかわれるか、を重要視するだろう)と、ある記号を所有の対象とみなす異性(彼は、その記号が読者共同体においてどのようにあつかわれるかを重要視するだろう)は異なる(たとえば佐和子先生は女子共同体における「ウケ」、をみる読者共同体の「ウケ」を先取りして行動している)が、宮台理論によれば、ひとつの記号に対して組織されたふたつの読者共同体は、つねに年齢的な差異をふくんでいる。この差異が消失したとき、わたしたちは萌えアニメによって異性とコミュニケーションしあえるだろう。








■キャラ談義

見た目はたしかにミオがかわいいが、性格的にはリツがいちばんよくできている。リツは大成功だと思う。前髪というギミックもよかった。ツムギとは違い、リツの悩みはあくまで表層にとどまっている。リツの前髪は、第1話の「ギャラは七三ワケね!」のときのように瞬時に切り替えのきく萌え記号としてあつかわれることもあるし、第13話のようにエピソードを構成したりする。深層のトラウマではなく、表層の記号の運用のうちにトラウマの萌芽を検出すること。それこそが、トラウマの治癒そのものよりも重要だと思う。

ミオは矛盾してるかんじがぬぐえなかった。「しっかりもの」と「怖がり」って矛盾しないのだろうか。どちらかというと「怖がり」はユイのほうが似合いそうだ。ミオは普段から「しっかりもの」と「怖がり」が同居しているのではなく、極限状態だと「怖がり」になる、というツンヘタレなキャラのほうが似合っていたかもしれない。しかし、「しっかりもの」と「怖がり」は矛盾しているかんじはしたが、「甘々なものが好き」という設定は、ちゃんと同居しててよかったと思う。

ツムギみたいな子は、設定はともかく性格的にはたしかにいそうだ。いそうだけれども、僕はこうゆう後景に退いてしまうキャラは肯定できない。

ユイはかわいいことは認める。この子はけっこうほかの子との共通点がみいだされやすい。リツとは反規律訓練なところが、ミオとは甘々なセンスが、ツムギとは女の子好きなところが、それぞれあとから抽出される。

さて、ミオとリツは幼馴染なのだから、そこにツムギとユイが入ってくれば、自然とミオ−リツペアと、ツムギ−ユイペアに分化するはずだ。しかし実際にはツムギとユイのスロービートなところは共通点として強調されず、ユイとリツが共同戦線をはることが多かった。僕はノドカのことよりも、ミオ−リツ−ユイの三角関係のほうが争いの萌芽を孕んでいると思う。こちらをフューチャーしてほしかった。

どちらにしても初期四人組みがもっともクオリティが高いと思う。アズサ始め第二世代はあまりいいとは思わなかった。





















yukiyukio_kun at 00:35|PermalinkComments(0)clip!