2009年07月05日
、だらだらと感想を書きました。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破のネタバレあり。情報の入力はお金でできても、消去はいまのところお金ではできません。全力でひきかえせ!
■序は旧エヴァをなぞりつつ、キャラクター同士の関係性の変更を予告する。破はエヴァと使徒の反復構造をなぞりつつ、キャラクター同士の、そしてエヴァとキャラクターの関係を変更する。パイロットを入れ替えても意外と従来の構造が維持されている印象をうける。とどうじに、エヴァと使徒の関係の変更を予告する(フィルムの内容としても予告編としても)。だから、Qにおいては、いままでの変更すべてに新しい意味づけが与えられる可能性がある。
■序ってなんだったんだろう? 「破」から「序」をみてしまうと、「破」のような過剰さがないぶん、どうしても旧作から削ったものが目についてしまう。それでも、第一に「破」的なものの萌芽として、第二にそこから旧作をみかえすために、「序」の重要さを取捨してはならないと思う。
■エヴァの使徒化(旧バルディエル)があるならば、使徒のエヴァ化(新ゼルエル)もある。エヴァが使徒を喰い(旧ゼルエル)、エヴァがエヴァを食う(新バルディエル)なら、使徒もエヴァを喰う(新ゼルエル)。このへんの思想はとても好きだが、エヴァの本編自体が、似たようなエピソードの差異的な反復だということでもある。だからこそ複数の使徒のエピソードをひとつの使徒のものに圧縮できる。
■戦闘シーンについて。僕はエヴァになにを期待していたのだろうか?僕は旧エヴァにおいて、戦闘シーンがあまりに快楽なので、それを隠蔽するために、無理やり心理描写やキャラクターのドラマに価値をみいだしていたのだろうか? そんなふうに旧エヴァの読解枠組みを再考してしまうほど、新劇場版の戦闘シーンは快楽がつよい。エヴァンゲリオンはキャラクターの関係性が多少とも異性愛的になろうとも、びくともしない構造をもっている。
■戦闘シーンにかんしては、3D物理世界のシミュレーションという要素と(3D海外RPGのような)、2D平面における見え方にもう一度べつの意味を与える要素(カードゲームのような)と、2D平面における形象で戦う要素、のみっつの側面が指摘できるのではないだろうか。最後のがいちばん説明するのが難しく、エイリアン9を補助線にひくといいかもしれない。
■キャラクターについて。しかし、やはり、比較すれば、キャラクター描写の厚みが減った印象は否めない。時間的な短縮はニュアンスの縮減につながる。キャラクター間の関係性はより異性愛的になったといえるかもしれない。アスカ−ヒカリ、シンジ−トウジといった同性同士の関係性が切断され(アスカは友達がたくさんいたのに、より孤独になってる)、シンジを中心としたラブコメ構造が強化された。そのうえで、アスカがマトリエル相当を自力で倒したりと、シンジ主人公制を脱中心化する要素がないわけではなかった。マリ−レイの共闘とマリの獣化でその期待は高まるが(「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」)、最終的なオチはシンジとレイのロマンス。
■ここからひとつわかるのは、エヴァの「深み」と呼ばれるもののひとつは、セクシュアリティにかかわっているということだと思う。つまり、キャラが異性愛者か同性愛者か、という読みを成立させる余地が、「深み」みたいなものとして機能している。もし旧/新で失われたものがあるような感触があるのならば、新/旧を比較し、新という解釈枠から旧を読解してみたい。
■マリの獣化で男主人公によらない自力救済を期待させつつ、それを挫くところとか、アスカの受難とか、やはりセクシャリティを中心に組み立てられたエヴァの基本的な構造は変わっていない。(それもまたエヴァを構成するルールに内在した)映像的な強度ではほとんど使徒を倒しかけている、マリとレイのタッグが、結局のところ使徒を倒せないのは、彼女たちが女だからだ、とでもいいたくなるほどに。
■テレビ版エヴァの終盤は、キャラクターの感情がシンジを中心に組織されることで、各キャラクターが孤立し、切断されてゆく印象がつよい。小谷真理はそういったシンジを中心とする異性愛構造に対して、アスカ−ヒカリ関係に注目することで抵抗を組織しようとする(『聖母エヴァンゲリオン』)。その延長で考えれば、アスカ−ヒカリ関係が切断された新劇は、より異性愛構造が強化されている。実際、アスカはよりシンジへのあらかじめ挫折させられた怨念を強調されたキャラクターになっている。
■しかし、そういった構造を強化した結果、すくなくともシンジのまわりのキャラクター同士の関係性は親密になっている。ここではふたつのことが指摘できる。構造を強化しつつその中心を入れ替え可能にすることでシステムをこえることが、もしエヴァが不徹底その他の理由で不可能だとしても、理論上可能であり、またエヴァはその可能性ないし過程を提示しえているということ。そして、システムに見かけ上中心がなくても、みえない中心が機能していることがありえるということ。「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」という台詞は、そのような読解の臨界に位置する。
■ところで、まったくエヴァの知らないひとがいたら、「これがあのアスカか」「レイか」といって確認する作用はあるかもしれないが、一から好きになるということはないのではないか(けれども、そもそも僕がエヴァをレンタルした時点で、一から好きになっていたかは怪しい。僕はそうゆう世代だ)。しかし、僕は映像メディアは、アニメに限らず邦画も、「出会い」の映像化に失敗してきたとずっと思っているので、これはエヴァにかぎったはなしではなく、表現全般への不満かもしれない。
■いつも思うのだけど、エヴァンゲリオンの「僕」はどこからきたのだろう? ナディアのジャンは、ビジュアル的にも性格的にもケンスケだろう。村上春樹の「僕」とは似たところもあるようで、意外と相性が悪い。また、村上龍の「僕」はひとつ特徴があって、会話文での一人称が「俺」で、地の文の一人称が「僕」になっている。どちらにせよ、彼ら団塊世代のデタッチメントと、エヴァのシンジくんの拒否の意味論は、微妙に違う。この差異に注目しなくてはならない。
■この映画は宇野常寛理論に合致していそうで、じつは合致しすぎているがゆえにそのほころびをも提示しているのではないか。この映画はセカイ系なのか? 決断主義なのか? 世界の命運が少数の登場人物の動向に還元されているという環境のレベルにおいて、本作はセカイ系であり、そのような環境にのっかったうえで、世界より登場人物を優先させるという主体の意味論のレベルにおいて、本作は決断主義といえる。つまり、セカイ系か否かと決断主義か否かは独立なのではないだろうか。ところで決断主義は、エヴァ破から考えてみれば、ただの男女のロマンスと区別がつかない。
■エヴァのオリジナリティは、「世界の命運を少数の登場人物の動向に還元する環境」ではなく、「世界より登場人物を優先させるという主体の意味論」でもなく(どちらも一般的なセカイ系のイメージだろう)、そのふたつを満たしつつ、「わたしにはそのような物語にコミットする資格がない」という逡巡にあったのではないか? つまり、一般的にセカイ系と思われている意味論があって、そこへの拒否として記述するべきなのではないか? そうゆう意味で、エヴァ・クロニクルは全体としてセカイ系生成の物語であり、セカイ系はいままさに始まったといえる。
追記7/14
以上のことはまったくどうでもいい雑感の束なので、あとでまとめて消すかもしれません。
ところで、KGV氏の論争的な読解を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/KGV/20090709/p1
エヴァ破はもういちどみにいく予定なので、それから書きたいのですが、現時点で思うのは、「笑い」もまたイデオロギーだということは漠然とかんじていたのですが、こんなかたちで作品に、そしてまた批評にとりこまれるとは、予想もしなかった、ということです。そのうえで、もしこのテーマ批評がただしいのならば、登場人物が他者を「笑わせようとする(ギャグをいう、等によって)」シークエンスが必要なのではないか、ということも思いました。もういちど観てみます。
それから、福嶋亮大氏のエントリーを読みました。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/4f8ac0e16510d7dfb7d15b17166ad768
ひとつのモノに対して複数の記号をあてがう(ことでひとつひとつの記号の恣意性を暴く)ような所作から、複数の記号を並列するひとつのモノをもういちど記号として描く所作へ。ちょっと相対主義っぽく要約するとこうゆうかんじでしょうか。
僕はそもそもエヴァよりも『あずまんが大王』『らき☆すた』『けいおん』といった系譜のほうが好きなところがあります(『けいおん』はちょっと性的な役割を押し付けすぎだなあというKYな感想はもったけど)。そのこともあって、新エヴァよりもハルヒ二期のほうが批評的だというのは、説得的だと思いました。
そのうえで、福嶋理論で新エヴァが語れるところもあるんじゃないかと思いました。たとえば、福嶋亮大氏がシューティングゲームの東方について書いていたことが、新エヴァの戦闘シーンや使徒の分析に応用できるのではないか、と漠然と思いました。
新エヴァの使徒は複雑なデザインをしています。ぱっとみで、なんとなくこれはシューティングゲームの弾幕の攻略に似ているな、と思いました。新エヴァでは使徒を殲滅すると、「状況終了」とパイロットはいいます。これはゲームでいえば「面クリア」に近い語用法だと思いますが、ふつうのゲームならば、敵は一定の能力が与えられたひとつの駒として配置され、その駒をふくめた状況を攻略する、といった感覚だろうと思います。
しかし、新エヴァの使徒はそれ自体「状況」というかんじがします。もちろん使徒以外のファクターもあるのですが、そういったファクターをいったんキャンセルしているというか、使徒以外の状況を使徒の状況に還元するような、あるいは、そのふたつの状況の差異を無化してしまうようなところがあるのではないか、なんて思いました。
つまり、ある確定的な「駒」があって、それが「状況」ごとにさまざまな意味を与えられるのではなく、あらかじめその「駒」にその「駒」以外とのコミュニケーションが大量に圧縮されていて、それが「状況」に応じて適宜解凍される、といったイメージです。こうやって考えてゆくと「駒」という基本的な単位と思われていたもの自明性がゆらぐわけで、柄谷行人の問題系にもつながってくるかもしれません。
■エヴァ破二回目
一回目みたときは、前半の日常シーンはキャラクターが陳腐で違和感があり、後半の戦闘シーンはゼルエルのエヴァ零号機喰いはとてもよかたけど、「綾波をかえせ」と「翼をください」の歌の下手さに違和感がありました。
二回目みてみたら、前半の日常シーンはやっぱり貧しい感じがしました。id:and-me-cat氏とも話したけど、『らき☆すた』や『けいおん』における日常のコミュニケーション描写の豊かさをみてしまったあとでは、エヴァはまだ徹底していない気がします。しかし、むしろ後半の戦闘シーンのいくつかの違和感は、連続した流れ・テンポで考えれば、「みれる」、「もっとみたい」と思わせるものでした。
前半の日常シーンについては、もし新エヴァのセンスが悪いのだとしたら、それは旧エヴァもおなじ(センスのわるさをもっている)、ということを確認したいです。決定的に違うものが流れ込んでいるわけではないのです。しかし、旧エヴァのセンスのわるさは時代に共鳴したものだった、とはいえるかもしれません。
後半の戦闘シーンについては、そこにある一定のロジックを評価したいと思います。新エヴァのロジックは、旧エヴァにあった要素をより加算することで成り立っています。これは旧エヴァにもあった運動性だと思いますが、使徒の侵攻にあわせたインフレーションが、おなじ使徒の旧劇/新劇の差異によってひきおこされています。使徒の側の武装が加算され、エヴァが(より)ピンチになったところで、エヴァの側の武装も加算され、かろうじでつじつまがあう、といった運動性が、そこにはあるような気がします。
しかしそれだけでは「加算」にしかすぎず、使徒はエヴァに勝ったりしないのですが、ゼルエルのエヴァ零号機喰いによってそれがはじめて「反転」したかのようにみえます。しかしよく考えれば使徒はエヴァ初号機以外には勝利していたこともあったわけで、使徒のエヴァの関係はエヴァ同士の関係に先送りされ、エヴァの初号機の「反転」によってさきの「反転」はキャンセルされます。
映画的には、「加算」と「加算」の相殺のくりかえし→「反転」と「反転」の相殺1セット、で終わっているのですが、最後のカオルくんの「反転」が、映画内の相殺に還元されないものとして余剰します。
さて、kgv氏の読解についてですが、やはり首肯できません。エヴァのような自覚的かつ強迫的な作品がテーマをみずから示さないということは考えられないからです。それから、たしかに僕も友達もみているあいだちいさな笑いをもらしていましたが、よく考えたら旧エヴァも、というかすごい表現をみているときはたいてい笑いらしきものが口からこぼれます。僕は『ノルウェイの森』なんかは4回くらい読んでいるけど、やはりにやにやしながら読みますね。エヴァの場合、「こんなことになっててすごい」という笑いと、「これはないなあ」という笑いが混ざったものが口からこぼれます。そのような笑いは旧劇も新劇もまったくかわりません。僕はむしろkgv氏の読解がどのような伝統にうえで成り立っているかに興味があります。
とかいうことを思いつつ、僕は『センコロール』のことがきになってます。僕の素で好きな萌え要素がちりばめられているかんじです。女子高校生とか、ロボットとか、能力バトルとか。90年代のデータベースそのままといえばそうなのですが、個人的にアニメの「皮膚」には(「髪」とともに)興味があったので、そこに注目してみてみようかなあと思ってます。
ずっとまえから公開されていたこのイメージ映像がお気に入りです。
http://www.cencoroll.com/movie2.html
http://www.cencoroll.com/movie3.html
公式のトレーダーよりも、それよりまえに公開されていたイメージ映像のほうがより惹かれます。なぜかはよくわかりませんが、気がついた点をメモしておくと、イメージ映像のほうがキャラクターが大人っぽく、トレーダーのほうがジブリというか細田守っぽいかもしれません。どちらも好きですが、センコロールについてはイメージ映像版のほうがあっているかんじがします。それから、イメージ映像のほうが全体の構成がエヴァっぽい緩急がついていると思います。ポスト・エヴァの「かっこよさ」を提示できる作品として、期待します。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破のネタバレあり。情報の入力はお金でできても、消去はいまのところお金ではできません。全力でひきかえせ!
■序は旧エヴァをなぞりつつ、キャラクター同士の関係性の変更を予告する。破はエヴァと使徒の反復構造をなぞりつつ、キャラクター同士の、そしてエヴァとキャラクターの関係を変更する。パイロットを入れ替えても意外と従来の構造が維持されている印象をうける。とどうじに、エヴァと使徒の関係の変更を予告する(フィルムの内容としても予告編としても)。だから、Qにおいては、いままでの変更すべてに新しい意味づけが与えられる可能性がある。
■序ってなんだったんだろう? 「破」から「序」をみてしまうと、「破」のような過剰さがないぶん、どうしても旧作から削ったものが目についてしまう。それでも、第一に「破」的なものの萌芽として、第二にそこから旧作をみかえすために、「序」の重要さを取捨してはならないと思う。
■エヴァの使徒化(旧バルディエル)があるならば、使徒のエヴァ化(新ゼルエル)もある。エヴァが使徒を喰い(旧ゼルエル)、エヴァがエヴァを食う(新バルディエル)なら、使徒もエヴァを喰う(新ゼルエル)。このへんの思想はとても好きだが、エヴァの本編自体が、似たようなエピソードの差異的な反復だということでもある。だからこそ複数の使徒のエピソードをひとつの使徒のものに圧縮できる。
■戦闘シーンについて。僕はエヴァになにを期待していたのだろうか?僕は旧エヴァにおいて、戦闘シーンがあまりに快楽なので、それを隠蔽するために、無理やり心理描写やキャラクターのドラマに価値をみいだしていたのだろうか? そんなふうに旧エヴァの読解枠組みを再考してしまうほど、新劇場版の戦闘シーンは快楽がつよい。エヴァンゲリオンはキャラクターの関係性が多少とも異性愛的になろうとも、びくともしない構造をもっている。
■戦闘シーンにかんしては、3D物理世界のシミュレーションという要素と(3D海外RPGのような)、2D平面における見え方にもう一度べつの意味を与える要素(カードゲームのような)と、2D平面における形象で戦う要素、のみっつの側面が指摘できるのではないだろうか。最後のがいちばん説明するのが難しく、エイリアン9を補助線にひくといいかもしれない。
■キャラクターについて。しかし、やはり、比較すれば、キャラクター描写の厚みが減った印象は否めない。時間的な短縮はニュアンスの縮減につながる。キャラクター間の関係性はより異性愛的になったといえるかもしれない。アスカ−ヒカリ、シンジ−トウジといった同性同士の関係性が切断され(アスカは友達がたくさんいたのに、より孤独になってる)、シンジを中心としたラブコメ構造が強化された。そのうえで、アスカがマトリエル相当を自力で倒したりと、シンジ主人公制を脱中心化する要素がないわけではなかった。マリ−レイの共闘とマリの獣化でその期待は高まるが(「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」)、最終的なオチはシンジとレイのロマンス。
■ここからひとつわかるのは、エヴァの「深み」と呼ばれるもののひとつは、セクシュアリティにかかわっているということだと思う。つまり、キャラが異性愛者か同性愛者か、という読みを成立させる余地が、「深み」みたいなものとして機能している。もし旧/新で失われたものがあるような感触があるのならば、新/旧を比較し、新という解釈枠から旧を読解してみたい。
■マリの獣化で男主人公によらない自力救済を期待させつつ、それを挫くところとか、アスカの受難とか、やはりセクシャリティを中心に組み立てられたエヴァの基本的な構造は変わっていない。(それもまたエヴァを構成するルールに内在した)映像的な強度ではほとんど使徒を倒しかけている、マリとレイのタッグが、結局のところ使徒を倒せないのは、彼女たちが女だからだ、とでもいいたくなるほどに。
■テレビ版エヴァの終盤は、キャラクターの感情がシンジを中心に組織されることで、各キャラクターが孤立し、切断されてゆく印象がつよい。小谷真理はそういったシンジを中心とする異性愛構造に対して、アスカ−ヒカリ関係に注目することで抵抗を組織しようとする(『聖母エヴァンゲリオン』)。その延長で考えれば、アスカ−ヒカリ関係が切断された新劇は、より異性愛構造が強化されている。実際、アスカはよりシンジへのあらかじめ挫折させられた怨念を強調されたキャラクターになっている。
■しかし、そういった構造を強化した結果、すくなくともシンジのまわりのキャラクター同士の関係性は親密になっている。ここではふたつのことが指摘できる。構造を強化しつつその中心を入れ替え可能にすることでシステムをこえることが、もしエヴァが不徹底その他の理由で不可能だとしても、理論上可能であり、またエヴァはその可能性ないし過程を提示しえているということ。そして、システムに見かけ上中心がなくても、みえない中心が機能していることがありえるということ。「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」という台詞は、そのような読解の臨界に位置する。
■ところで、まったくエヴァの知らないひとがいたら、「これがあのアスカか」「レイか」といって確認する作用はあるかもしれないが、一から好きになるということはないのではないか(けれども、そもそも僕がエヴァをレンタルした時点で、一から好きになっていたかは怪しい。僕はそうゆう世代だ)。しかし、僕は映像メディアは、アニメに限らず邦画も、「出会い」の映像化に失敗してきたとずっと思っているので、これはエヴァにかぎったはなしではなく、表現全般への不満かもしれない。
■いつも思うのだけど、エヴァンゲリオンの「僕」はどこからきたのだろう? ナディアのジャンは、ビジュアル的にも性格的にもケンスケだろう。村上春樹の「僕」とは似たところもあるようで、意外と相性が悪い。また、村上龍の「僕」はひとつ特徴があって、会話文での一人称が「俺」で、地の文の一人称が「僕」になっている。どちらにせよ、彼ら団塊世代のデタッチメントと、エヴァのシンジくんの拒否の意味論は、微妙に違う。この差異に注目しなくてはならない。
■この映画は宇野常寛理論に合致していそうで、じつは合致しすぎているがゆえにそのほころびをも提示しているのではないか。この映画はセカイ系なのか? 決断主義なのか? 世界の命運が少数の登場人物の動向に還元されているという環境のレベルにおいて、本作はセカイ系であり、そのような環境にのっかったうえで、世界より登場人物を優先させるという主体の意味論のレベルにおいて、本作は決断主義といえる。つまり、セカイ系か否かと決断主義か否かは独立なのではないだろうか。ところで決断主義は、エヴァ破から考えてみれば、ただの男女のロマンスと区別がつかない。
■エヴァのオリジナリティは、「世界の命運を少数の登場人物の動向に還元する環境」ではなく、「世界より登場人物を優先させるという主体の意味論」でもなく(どちらも一般的なセカイ系のイメージだろう)、そのふたつを満たしつつ、「わたしにはそのような物語にコミットする資格がない」という逡巡にあったのではないか? つまり、一般的にセカイ系と思われている意味論があって、そこへの拒否として記述するべきなのではないか? そうゆう意味で、エヴァ・クロニクルは全体としてセカイ系生成の物語であり、セカイ系はいままさに始まったといえる。
追記7/14
以上のことはまったくどうでもいい雑感の束なので、あとでまとめて消すかもしれません。
ところで、KGV氏の論争的な読解を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/KGV/20090709/p1
エヴァ破はもういちどみにいく予定なので、それから書きたいのですが、現時点で思うのは、「笑い」もまたイデオロギーだということは漠然とかんじていたのですが、こんなかたちで作品に、そしてまた批評にとりこまれるとは、予想もしなかった、ということです。そのうえで、もしこのテーマ批評がただしいのならば、登場人物が他者を「笑わせようとする(ギャグをいう、等によって)」シークエンスが必要なのではないか、ということも思いました。もういちど観てみます。
それから、福嶋亮大氏のエントリーを読みました。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/4f8ac0e16510d7dfb7d15b17166ad768
ひとつのモノに対して複数の記号をあてがう(ことでひとつひとつの記号の恣意性を暴く)ような所作から、複数の記号を並列するひとつのモノをもういちど記号として描く所作へ。ちょっと相対主義っぽく要約するとこうゆうかんじでしょうか。
僕はそもそもエヴァよりも『あずまんが大王』『らき☆すた』『けいおん』といった系譜のほうが好きなところがあります(『けいおん』はちょっと性的な役割を押し付けすぎだなあというKYな感想はもったけど)。そのこともあって、新エヴァよりもハルヒ二期のほうが批評的だというのは、説得的だと思いました。
そのうえで、福嶋理論で新エヴァが語れるところもあるんじゃないかと思いました。たとえば、福嶋亮大氏がシューティングゲームの東方について書いていたことが、新エヴァの戦闘シーンや使徒の分析に応用できるのではないか、と漠然と思いました。
新エヴァの使徒は複雑なデザインをしています。ぱっとみで、なんとなくこれはシューティングゲームの弾幕の攻略に似ているな、と思いました。新エヴァでは使徒を殲滅すると、「状況終了」とパイロットはいいます。これはゲームでいえば「面クリア」に近い語用法だと思いますが、ふつうのゲームならば、敵は一定の能力が与えられたひとつの駒として配置され、その駒をふくめた状況を攻略する、といった感覚だろうと思います。
しかし、新エヴァの使徒はそれ自体「状況」というかんじがします。もちろん使徒以外のファクターもあるのですが、そういったファクターをいったんキャンセルしているというか、使徒以外の状況を使徒の状況に還元するような、あるいは、そのふたつの状況の差異を無化してしまうようなところがあるのではないか、なんて思いました。
つまり、ある確定的な「駒」があって、それが「状況」ごとにさまざまな意味を与えられるのではなく、あらかじめその「駒」にその「駒」以外とのコミュニケーションが大量に圧縮されていて、それが「状況」に応じて適宜解凍される、といったイメージです。こうやって考えてゆくと「駒」という基本的な単位と思われていたもの自明性がゆらぐわけで、柄谷行人の問題系にもつながってくるかもしれません。
■エヴァ破二回目
一回目みたときは、前半の日常シーンはキャラクターが陳腐で違和感があり、後半の戦闘シーンはゼルエルのエヴァ零号機喰いはとてもよかたけど、「綾波をかえせ」と「翼をください」の歌の下手さに違和感がありました。
二回目みてみたら、前半の日常シーンはやっぱり貧しい感じがしました。id:and-me-cat氏とも話したけど、『らき☆すた』や『けいおん』における日常のコミュニケーション描写の豊かさをみてしまったあとでは、エヴァはまだ徹底していない気がします。しかし、むしろ後半の戦闘シーンのいくつかの違和感は、連続した流れ・テンポで考えれば、「みれる」、「もっとみたい」と思わせるものでした。
前半の日常シーンについては、もし新エヴァのセンスが悪いのだとしたら、それは旧エヴァもおなじ(センスのわるさをもっている)、ということを確認したいです。決定的に違うものが流れ込んでいるわけではないのです。しかし、旧エヴァのセンスのわるさは時代に共鳴したものだった、とはいえるかもしれません。
後半の戦闘シーンについては、そこにある一定のロジックを評価したいと思います。新エヴァのロジックは、旧エヴァにあった要素をより加算することで成り立っています。これは旧エヴァにもあった運動性だと思いますが、使徒の侵攻にあわせたインフレーションが、おなじ使徒の旧劇/新劇の差異によってひきおこされています。使徒の側の武装が加算され、エヴァが(より)ピンチになったところで、エヴァの側の武装も加算され、かろうじでつじつまがあう、といった運動性が、そこにはあるような気がします。
しかしそれだけでは「加算」にしかすぎず、使徒はエヴァに勝ったりしないのですが、ゼルエルのエヴァ零号機喰いによってそれがはじめて「反転」したかのようにみえます。しかしよく考えれば使徒はエヴァ初号機以外には勝利していたこともあったわけで、使徒のエヴァの関係はエヴァ同士の関係に先送りされ、エヴァの初号機の「反転」によってさきの「反転」はキャンセルされます。
映画的には、「加算」と「加算」の相殺のくりかえし→「反転」と「反転」の相殺1セット、で終わっているのですが、最後のカオルくんの「反転」が、映画内の相殺に還元されないものとして余剰します。
さて、kgv氏の読解についてですが、やはり首肯できません。エヴァのような自覚的かつ強迫的な作品がテーマをみずから示さないということは考えられないからです。それから、たしかに僕も友達もみているあいだちいさな笑いをもらしていましたが、よく考えたら旧エヴァも、というかすごい表現をみているときはたいてい笑いらしきものが口からこぼれます。僕は『ノルウェイの森』なんかは4回くらい読んでいるけど、やはりにやにやしながら読みますね。エヴァの場合、「こんなことになっててすごい」という笑いと、「これはないなあ」という笑いが混ざったものが口からこぼれます。そのような笑いは旧劇も新劇もまったくかわりません。僕はむしろkgv氏の読解がどのような伝統にうえで成り立っているかに興味があります。
とかいうことを思いつつ、僕は『センコロール』のことがきになってます。僕の素で好きな萌え要素がちりばめられているかんじです。女子高校生とか、ロボットとか、能力バトルとか。90年代のデータベースそのままといえばそうなのですが、個人的にアニメの「皮膚」には(「髪」とともに)興味があったので、そこに注目してみてみようかなあと思ってます。
ずっとまえから公開されていたこのイメージ映像がお気に入りです。
http://www.cencoroll.com/movie2.html
http://www.cencoroll.com/movie3.html
公式のトレーダーよりも、それよりまえに公開されていたイメージ映像のほうがより惹かれます。なぜかはよくわかりませんが、気がついた点をメモしておくと、イメージ映像のほうがキャラクターが大人っぽく、トレーダーのほうがジブリというか細田守っぽいかもしれません。どちらも好きですが、センコロールについてはイメージ映像版のほうがあっているかんじがします。それから、イメージ映像のほうが全体の構成がエヴァっぽい緩急がついていると思います。ポスト・エヴァの「かっこよさ」を提示できる作品として、期待します。

