2010年07月13日

票=貨幣=リンクを翻訳する

■『ised』倫理篇・設計篇刊行記念シンポジウムにはてなid:and-me-catさんといってきたので、感想を書きます(メモ:『ベーシック・インカム(キリッ』とか『クールジャパノロジーの可能性』とか『民主主義2.1(夏)~代議制の拡張可能性について~』もどこかに書きかけの感想があるはず。気がむいたら探しだして完成させるかもしれない)。

■まず、みっつのやや独立した論点。高木浩光氏のダメアーキテクチャ論は、ずっとまえにざっと読んだだけだが、twitterのように「自己実現欲求」ないし「コミュニケーション欲求」をエサに、ひとびとがプライバシーを晒してゆく、というものとはまったく違い、ケータイの欠陥ゆえに、ひとびとが意識しないあいだに、個別サイト利用時に住所に匹敵するほどコアな情報が筒抜けになってしまう、という問題だったはずだ。もちろんひとびとが意識しないような情報の開示は不可避だと立論してもよいが、twitterのはなしと混同してはならないだろう。個人的には、今回のほかの議論とは独立に手当てされるべき問題だと思う。

■ふたつめ、鈴木謙介氏が提起した「やりがいの搾取」について。不勉強な状態ながら、みっつほどの分類をしてみよう。1.「理念」「やりがい」「創造性」をエサに、不均衡な労働条件を強いられること。2.「感情」「創造性」などの目に見えないものの提供を強いられること。3.個人の「創作意欲」「創造性」に対して投資しつつ、あとから成功したものを金銭化され、投資額以上に利用されること。4.以上のいくつかの混合したもの。

このなかで、1.と2.は一部の私企業の飲食店などがあてはまると思うが、1.のような「労働」と「賃金」、2.のような「感情」と「賃金」の交換は、自由意志にもとづくかぎり基本的には保障されるべきとはいえ、それぞれのレートが不当な労働条件なら改善されるべきだろう。とくに2.のレートの不当さはみすごされやすいが、やずやの敗者復活戦が問題になったように、やりようによっては非難される。「感情」も一種の資本なのだから、適切なレートが必要だろう。差異化ないし競争が過激になってしまうのは、参入者が多いからだろうか、市場の規模が小さくポストがすくないからだろうか。4.は、不当な労働条件のうえに、成功しても利用されつくすというもので、ワナビー産業などがあてはまり、もっともややこしいケースだと思う。

さて、3.は、ニコ動が多少そうゆう側面をもっている(もちつつある?)とされているが、はっきりいえば「創造性」がエサでなく「労働者の再生産」がエサだとしても、資本主義は「労働者の再生産」をエサに「労働の成果」を余剰価値として回収する構造をもっており、資本主義の構図そのものだといえる(ところで、マルクス経済学においては、初期の資本主義は労働者の創造性を発揮する余地がある「労働の形式的包摂」で、独占資本主義はそうゆう余地がない「実質的包摂」、とされているらしい。後期近代は「実質的包摂」から「形式的包摂」にターンしたのだろうか?)

しかし、それでも、不均衡さというものは存在する。資本主義に共通している余剰価値の仕組みをすべて搾取とくくるのではなく、そのなかでとりわけ不均衡なケースを検出し吟味する方法が必要だろう。

■みっつめ。井庭崇氏が提起した「構造による資源の再分配」ではできない「創造性の喚起」が必要という議論があったが、お金という「めにみえる資源」ではなく関係性やコミュニケーションといった「めにみえない資源」が配分できているということで十分ではないのだろうか?あるいは、「創造性」という言葉は、既存の構造から抜け落ちるものとして把握されがちだが、社会科学的な記述ないし操作の対象であるなら、いちど大胆に「創造性」を単純な定義に落とし込み、特定の「創造性」の定義――おもしろさ等――がコミュニケーションメディアとして流通する過程を記述したほうがいいのではないだろうか。「構造から抜け落ちる」のではなく「べつの構造」ではないのだろうか。

創造システム論ではなく、社会"の"創造性、コミュニケーションメディア"としての"創造性、のほうがしっくりくる。

(……とかいうことをシンポジウム中に思ったら、まさにそうゆうことをやってるたいだ。あとで読んでみます汗)

■以下かなり僕個人の妄想で補完しつつ「isedシンポジウムの地図」を描いてみたい。

■まず、『民主主義2.1(夏)~代議制の拡張可能性について~』でも提出されつつ結局あやふやになった区分けとして、国全体での国民の投票のシステムをいじるのか、国会での議員の多数決のシステムをいじるのか、という区分けがありうるだろう。

この区分けそれぞれにおいて、アーキテクチャのシステム(票/多数決)と、ユーザ間のコミュニケーションのシステム(世間でのひとびとの政治についての語らい/委員会での議員の語らい)がある。このふたつは、前者は「票」という目にみえるものをめぐるコミュニケーションであり、後者は「政治的ただしさ」や「アジェンダ」といった目にみえないものをめぐるコミュニケーションである、という違いがある。

以上よっつはすくなくとも区別しないといけない。

■ここからさらに個人的な連想を展開しよう。アークテクチャのシステム、ユーザ間のコミュニケーションのシステム、それぞれに、市場やウェブとの比較がありえると思われる。まずは前者について。

■政治におけるアーキテクチャのシステムは、票をめぐるシステムとしてある。僕は、この構造は、市場での貨幣をめぐるシステムや、ウェブでのリンクをめぐるシステムに、比喩的にあてはめられるのではないか、と思う。票と貨幣とリンクは、投票する/投票される、価値をはかる/価値をはかられる、リンクする/リンクされる、というように、ある種の一方方向性をもっている。また、票数/価格/被リンク数が大きいほどその分野での影響力をもちうるという点でも似ている。

票を貨幣の比喩でみると、比例区の票はふつうの通貨に、小選挙区の票はその地域限定でしか用いられない地域通貨に喩えることができる(貨幣は(すくなくとも見かけ上)分割できるということ。以下の議論は、これを前提にしつつ、分割できるというだけでなく、分割の仕方を問題にしたい)

票をリンクの比喩でみると、票数というのは、被リンク数の多さに喩えられるだろう。ということは、票数の多さで候補者を並べることは、Googleでいえば、「キーワードなしの被リンク数番付」をみていることになる。ここで、被リンク数を「リンク通貨」と呼ぼう。リンク通貨は、ニコ動でいえば動画のマイリスト数に、twitterでいえばフォロワー数に相当すると思う。

しかし、Googleで被リンク数番付だけをみることはできないし、できても意味がない。キーワードを入力しなければ役に立たないからだ。ニコ動でいえばキーワードないしタグで、twitterでいえばハッシュタグで、単純なリンク通貨の大小による番付を再編成する必要がある。

ここでまず一点、ウェブという比喩の長所をあげることができる。政治における票は、貨幣でいえば地域通貨に、ウェブでいえば、地域名しか入力できないGoogleに喩えることができる。貨幣の比喩では地域以外の再編成の方法がなかなか想像できないが(できたとしてもオンラインゲームのように結局ウェブに頼ることになる)、ウェブの比喩なら、地域以外のキーワード/タグによる再編成を想像することができる。

単純な通貨=リンク通貨としての票の、地域通貨――地域に限定された通貨――ならない、キーワード/タグ通貨による再編成をもくろむこと。これは、結論としてはたいしたことはないかもしれないが、ウェブという比喩を経由してでてきたということに、なんらかの敬意を払いたいと思う。

(■しかし、地域通貨は地域に限定された通貨だったが、リンク通貨とキーワード/タグの関係性は、説明が難しいが、キーワード/タグに限定されたリンク通貨、というものだけでなく、キーワード/タグからのリンク通貨、のようなものを考えることができると思う。

ちょっと危ない議論になるが、言葉の定義というものは、その言葉に言及しているリンク数の多い論文によって決まるのではなく、その言葉についての語らいにより多くリンクできる定義と、その定義によってうかびあがる語らいの、相互作用によって成り立っているかんじがする(それっぽいけどすごい適当なこといってます)。

たんにある言葉で限定されたリンク数の多い論文ではなぜダメなのかというと、言葉はその定義によって論文のありかたとリンクの仕方を独自に整備してしまうところがあるからだ。その言葉のための論文の平面/リンクの仕方というものを考えなくてはならないのではないか。

たとえばはてなキーワードやハッシュタグはその言葉に言及しているページ/ツイットを時系列順に表示しているし、はてなブックマークはブクマユーザ数の順に表示している。けれど、言葉の定義に突っ込むなら、Googleでいうならそのキーワードに言及している記事を被リンク数順に並び替えるだけではなく、キーワードの関連性をかませること、ニコ動でいえばキーワードによる並び替えではなく、人為的な淘汰の要素がはいったタグによる並び替え、が重要なのではないか。ウェブの比喩はリンク通貨とキーワード/タグ通貨の関係を考える参考になると思う)

■以上が、比喩としての貨幣/リンクから政治における票をみること、だとして、電子貨幣がありえるように、実際に票をウェブ上の電子のシステムにおきかえることもできるだろう。1.比喩としてのリンク通貨からの票の再編成と、2.票をウェブ上の電子の動きに置き換えることは、独立しているとはいえ、2.を実現したほうが1.はやりやすいだろう。

■そして、政治におけるアーキテクチャのシステムだけでなく、政治における(みえない)コミュニケーションのシステムも、おなじように(みえる)ウェブに置き換えることが可能だろう。すなわち、政治的ただしさをめぐるコミュニケーションのシステムや、特定のアジェンダをめぐるコミュニケーションのシステムを、マニュフェストマッチングや、アマゾンリコメンドのようなシステムで肩代わりすること。

■荻上チキ氏にしてもisedあるいは東浩紀にしても、政治における、アーキテクチャのシステムと、コミュニケーションのシステムを、それぞれ再編成をともないつつ電子へおきかえることには、あまり理論的な抵抗はないだろう(このことですら心理的な抵抗はあるのだが)。対立点はここにはなく、おそらく、アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムの関係性にまでふみこんでいる。

荻上チキ氏は最初の発言において、前半は、ガバナンスの内容からガバメントは設計されるべきであり、ガバメントよりガバナンスが優先する、といったことを強調しつつ、後半は、ガバメントの設計からガバナンスを導く回路もあるかもしれない、ということもいっていた。ガバメント設計重視のisedに対するガバナンスの重要性の強調しているだけではないらしいのだ。

ガバナンスはコミュニケーションのシステムに、ガバメントはアーキテクチャのシステムにあてはめられるかもしれない。僕なりにいいかえれば、氏の発言の前半は、どのようなアジェンダのセッティングが必要かで、アーキテクチャの分節を導くべきだということを、氏の発言の後半は、アーキテクチャの分節がアジェンダを導くこともある、ということをいっていたではないだろうか。アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムは相互作用しているというのは、まさに社会科学の王道的認識だろう(僕もこの方向に興味をもっている)

僕は、シンポジウム後、アーキテクチャのシステムとコミュニケーションのシステムが相互作用しているという荻上チキ氏の認識がいちばん近いなと思っていて、コミュニケーションのシステムを誘導してしまうアーキテクチャのシステムを再編成するという方向性が魅力的に思えたのだが、id:and-me-catさんに、コミュニケーションのシステムも電子のシステムに置きかえられるうえに、電子に置き換えられたみえるコミュニケーションのシステムによる政治的アイデンティティの決定→アーキテクチャにおける投票行為を、自動化することもできるのではないか(と東浩紀氏はいっているのではないか)、といわれ、ここにはいくつかの方向性がありうるなと思った。

票という単一のアーキテクチャのシステム下において、無数のコミュニケーションシステムが成り立ちうる(みえないものから、電子としてみえるものまで)。それはひとびとの自己決定の幅をひろげるが、それにたえられないひともでてくる。たとえば、アマゾンリコメンドは「ひとつのリコメンドにすぎない」わけで、「どのリコメンドを選択するか」という問いが再帰してしまう。

東浩紀氏がいっているのは、ひとつのコミュニケーションのシステムを、アーキテクチャと自動的に連続したものにしてしまう、つまり、特定のコミュニケーションのシステムをアーキテクチャのシステムと自動的に連続にすることで、後者と一体化してしまう、ということなのではないか。

僕は、二層構造論を、二市場論(「票」の流通圏と「政治的ただしさ」の流通圏)に読み替えたうえで、コミュニケーションのシステムの多様性は、単一のアーキテクチャのシステムによって支えられている、がゆえに、アーキテクチャを再編成する必要がある、ということを思っていた。そうではなく、コミュニケーションのシステムをアーキテクチャのシステムに還元してしまう、という方向性なのではないか。

■整理しよう。1.政治におけるコミュニケーションのシステムとアーキテクチャのシステムのふたつは相互作用している。2.アーキテクチャのシステムは再編成をともないつつウェブに移行できる。3.コミュニケーションのシステムは再編成をともないつつウェブに移行できる。4.特定のコミュニケーションのシステムをアーキテクチャ化することができる。

まず、強調したいのは、1.2.3.は完全に両立可能だということだ。そして、いままで論じられてきたのは3.であり、2.はまだまだ論じたりないだろう。

そのうえで、みえないコミュニケーションのシステムをみえるコミュニケーションのシステムに置き換えつつアーキテクチャのシステムへの還元するまえに、僕は、コミュニケーションのシステムとアーキテクチャのシステムの境界線について考えてみたいと思う。

■今回のシンポジウムでは、荻上チキ氏は、とりあえずキャラはかっこいいし、シノドスでの蓄積をバックボーンに、最近の社会科学に言及してゆく手つきは鮮やかだし、ほかの登壇者が自分自身の最近の関心の表明にとどまっているなかでは、頭ひとつ抜けたバランス感覚をもっていた。ただし、彼のいうことは、個々のいっていることはわかるんだけど、全体ではなにをいいたいのかよくわからないことが多い汗

それから、鈴木健氏は、東浩紀氏がさえぎってしまったのでよくわからなかったが、以上のような整理にあてはまらない立論をしかけていた気がした。アーキテクチャのシステムだけを残して、コミュニケーションのシステムを解放する、といったこともいってた気がするし、アーキテクチャ/コミュニケーションの二分法にあてはまらない、ひとびとのコミュニケーションをそのままアーキテクチャとして機能させるような方向性もいってた気がする。鈴木健氏は、アイディアにあふれていて、いつもおもしろいことをおっしゃる方だと思う。

というわけで、このふたりの一騎打ちがみたかった気がする。

■最後になったが、東浩紀氏がでる討議でいつも話題になる運動論や論壇論は、あまり興味がもてない。リクツをいじくるのが好きなので。



yukiyukio_kun at 02:35│Comments(0)TrackBack(0)clip!

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