2013年05月06日

デタッチメントとコミットメントの往還のなかで

『Q』→『破』→『Q』とみて、『RETAKE』(これと『タオルケットをもう一度2』はセカイ系+生殖ネタで一番好き)を読み返したりした。


(以下『ヱヴァ破』および『ヱヴァQ』のネタバレがあります。それから書いたタイミングが違うので文体がバラバラです。以前のエントリと重複する論旨のものもあります。ご容赦を)




■『破』について

『破』は、『Q』の前フリでエンタメをやったというよりか、日常シーンと戦闘シーン、甘めのシーンと凄惨なシーンのバランスがよくて、この一作でテンションがめまぐるしく上下するエヴァを体験できるかんじがする。一作品でなんとなくまとまりがあるというか。

ただし作品内での整合性があるかどうかはべつで、これってアスカは助けないでレイを助ける理由が物語的/映像的にしめされているのかしら。あんまり示されていない気がする。ついでにいえば『今日の日はさようなら』はやっぱりすべってる気がしたけど、『翼をください』は歌のクオリティはともかく選曲はありな気がした。


これは新劇場版全体の傾向だが、戦闘描写も日常描写も、基本的なストラクチャー(戦闘フェイズ→日常フェイズ→戦闘フェイズ……)を維持しつつ旧エヴァのネタをひとつのフェイズに複数挿入する、という方法論をとっている。

戦闘描写についていえば、複数の使徒戦のネタをひとつの使徒戦に圧縮しつつ、新たに加算することで、旧エヴァをひととおりみたひとにとっても驚きがある展開になっている。ただちょっとテンポがわるくなった気はしなくもない。旧エヴァと比較してみてないからわからないが、旧エヴァはもっと有無をいわせないリズムがあった気がする。

ただし、そのことでエヴァの特異な記号体系およびそれをつなげる論理がはっきりあらわれているかんじもする。これについては後述したい。

日常描写についても似たようなことがいえて、複数のネタを圧縮しつつ加算するという方法論をとっているのだが、なぜかエヴァの日常シーンにあった独特の「影(*)」がなくなっているかんじがする。おそらくひとつの日常フェイズをわりと長くつづけないといけないので、「影」を差し込むと流れが停滞してしまうのだと思う。

(*:コミカルな描写のあとで登場人物が暗いことを独白したりとか、エレベーターや車などの物を使って人物間の断絶を強調したりとか、そうゆうところ。

旧エヴァにおいては、人物間の会話に物の動きをあわせることで非言語的に「本音」を表現するという演出が一方であり、もう一方で手をつなぐとか首を絞めるとかそうゆう直接的な接触がコミュニケーションのイメージとして提出されていた。新エヴァにおいてはそのふたつに対して料理や演奏やゲームといった物を介したコミュニケーションを差し込もうとしていると思うのだが、まだその試みは登場人物たちの関係性を変えるには至っていない)

ネタを圧縮しているのになぜか間延びした印象を受ける(がゆえにエヴァの地の素材がよくわかる)、というのが現時点での印象です。





■『Q』について

よく考えたら、コミットメントとデタッチメントを相互にくりかえしたり、状況の絶望さを強調したあとで奇跡をおこしたり(下げて上げる)、多幸的な状況から絶望に叩き落したり(上げて下げる)、といった「加熱−冷却」の論理って、エヴァンゲリオンの常套手段ではないだろうか。そしてそれはコードギアスやまどマギにも継承されている。

『破』は、終盤の展開が、旧エヴァのおなじ物語の段階より相対的にコミットメントしてたので、作品全体がコミットメント感をかもしだしていた。しかしこのコミットメントだって映画内の意味連関としてはそんなに必然性はなく、「旧エヴァとの比較」と「作品の区切り」を活用してコミットメント感を「盛った」だけ、ともいえなくもない。

それに旧エヴァでも「コミットメントして(ヤシマ作戦)獲得したなにか(二代目綾波レイ)を失う」というエピソードや、「みずからの言動によって犠牲者を生み出してしまう(トウジ)」エピソード、「やる気をだした結果みんなに迷惑をかける、そしてふてくされる」といったエピソードは描写されていた。だから『破』→『Q』の流れがすごいのは、さまざまな描写をつなぎあわせて2作品つかってコミットメント→デタッチメントの流れを「盛った」ところにあるのだと思う。

個々のデタッチメントの描写やコミットメントの描写にあまり意味をみいだしすぎないほうがいい。むしろデタッチメント−コメットメントの往還の「ふり幅」と「中身」をみるべきだろう。


いままでの『エヴァ』の戦闘シーンはやはりエヴァが戦闘のキーであり、ナレーションもエヴァを主語としたものが主体だったと思う。それが『Q』の最初のほうの戦闘シーンは、なんというかヴィレやヴィレ関連のシステムが主語になっている気がした。つまりエヴァ一点重視の戦闘シーンから、システム全体を主語としつつそのなかでエヴァが重要な役目を担う戦闘シーンへ、といった対比はあるのかもしれない(*)。しかし旧エヴァや破でもそれくらいのことはあったかもしれない。

(*:ネルフとヴィレが『Zガンダム』ぽっかったり、ヴンダーが『ナディタ』ぽかったりってのはみんないってるが、宇宙装備をつけたエヴァ二号機とか、主人公おいてけぼりでも(前フリではなく)意外と戦えているかんじは、『リヴァイアス』っぽいなあとも思った。つまりエヴァ以前の作品をなぞっているだけでなく、エヴァ後の作品とかぶってしまっている箇所もある。)

それに対して日常シーンは、ひたすらシンジを中心に描写されていて、みていてちょっとくどいと思ったのは事実だ。東浩紀が狂気が足りないといった旨のことをのべているらしい。おそらく彼のいう狂気の水準とは違うだろうが、ごく表面的にみても、描写されているのがシンジひとりの内面でしかなく、もっとシンジを媒介にしていろんな人物の内面がごちゃ混ぜになって、わけがわからないものまで混入してゆく、みたいなプロセスがみたかった気がする。

中盤くらいまでは、(ヴィレの)戦闘シーンは脱シンジ化に成功しておりさまざまな趣向をこらした展開をみせているが、(ネルフの)日常シーンはシンジに一極集中化しておりちょっと退屈、みたいなことは思っていた。この脱シンジ−シンジ中心という対比は、ヴィレとネルフの思想的対立にかかっているようにみえなくもない。

14年後という設定は旧エヴァに対する新エヴァの距離感とみなすのが妥当だろうが、ネルフ=旧/ヴィレ=新という対比ではなく、シンジを中心になんとなく戦闘シーンと日常シーンがまとまっていたりいなかったりした旧エヴァ/脱シンジ的要素とシンジ中心的要素がくっきり遠心分離してしまった新エヴァ、という対比のほうが説得力がある気がする。

終盤においてシンジは戦闘シーンにおける主役の地位を取り戻そうとする。次作においてふたつの要素は本格的に統合されるのだろう。一体どうやって統合するのか、あるいはしないのか。


ひとつ思ったのは、ネルフでの日常描写において、もはや学校も都市のひとびともおらず、「現代日本」的な描写が皆無なのだから、チルドレンたちが学制服を着る意味がまったくないのにもかかわらず、あいかわらずシンジやカヲルは学制服を着つづけている。

さらにはシンジが着ている学制服がネルフから支給されるシーンまで描かれている。たんにずっと学制服を着ているだけならお約束で済むが、わざわざ「学制服を着たシンジ」を再生産するところまで描写している。

エヴァ搭乗者は「エヴァの呪い」で歳をとらないという設定らしいが、シンジの場合はそれに加えて、実質的な意味合いを消失しているのに学制服を着つづけているというのも、「設定がキャラクターの本質になってしまった」ことをかんじさせる(伊藤剛風にいえば「チルドレンのおばけ」化?)

しかもトウジの中古の学制服が支給されるところまで描いている。これはシンジを追い込むための描写なのかもしれないが、設定としてやや違和をかんじさせるところでもある。綾波のプラグスーツが新調されているのだから、食事だけでなく衣服も生産しているのだろう。しかし都市生活は壊滅しているのだから、ネルフの制服以外を生産する理由はない。だったらネルフの制服を支給すればいいのに、わざわざ中古で学生服を支給している。どことなく学生服は周囲から浮き上がっている。

さらにいえば、綾波レイが住んでいる掘っ立て小屋も、ネルフ施設から浮きあがっているし、シンジと冬月が指した将棋も、レイのクローンが並んだ背景から浮き上がってみえる。

つまり、実質的に設定の裏づけがなくなった「現代日本」的描写(学生服、掘っ立て小屋、将棋)を、ことさら周囲から浮きあがったものとして表現するシーンが、連続しているのだ。




■『エヴァ』の戦闘シーンについて

先述のように、戦闘フェイズを長くつづける必要性からか、新ヱヴァは『エヴァ』の特異な記号体系がよりはっきりあらわれている気がする。たとえ『シン』がどのような出来であろうと、新エヴァは『エヴァ』の記号体系を考察するにあたってすぐれた素材を提供しつつあることは論をまたない。

以下新エヴァにかぎらず『エヴァ』の戦闘シーンについて考えてみよう。

まず基本的なこととして、『エヴァ』の戦闘シーンにおいては、ある形象に対して説得的な運動性を追及しつつ、それを反復する、といった方法論がとられている、という点を確認しておこう。たとえばATフィールドの「除々にひっぱられつつ、一気に破られる」という運動性は頻出のものだろう(「除々に進行しつつ、一気に完遂/反転する」というリズムもまた『エヴァ』的だ)。

こうした映像の論理はしばしば明示的な説明に先行していたり、設定の裏づけなしに用いられていたりする。『破』のゼルエル戦において初号機は未知の能力を連発するが、いままで戦ってきた使徒たちの形象と運動性を反復することによって、映像的な論理で読者を説得しているわけだ。

こういった映像的な論理をつなげあわせることで『エヴァ』の「わけわかんないけど、みれちゃう」感覚が成り立っているのだと思う。


形象と動きの関連付けは、けして無根拠におこなわれているわけではない。『破』のインタビューで、要塞都市のギミックはあまり多用するとギャグになってしまうからセーブした、といった発言があった記憶がある。『エヴァ』においては「この形象でこうゆう動きをしたら説得力があるか、ないか」といった精査が働いている。

また形象と動きは一対一対で対応しているわけではない。ひとつの形状に対して複数の運動性が割り振られることもある。代表的な形象がエヴァだろう。

なぜ『エヴァ』においてエヴァは強いのか? そのひとつの答えは、ガンダムより徹底して人間の身体の形状をトレースすることで、「人間の動き」を根拠としてさまざまな動きに説得力をもたせているから、ではないだろうか。おなじロボットが全力疾走したり大ジャンプしたり機敏な動きをしたり……それらの動きを、人間の造形を象ることで説得力を与えている。

エヴァのような人間的な造形は、さまざまな動きに説得力を与えることができる。それに対して「巨大な使徒」は、その形象から機敏な動きを導くことができず、運動性が制限されることになる。だから巨大な使徒に対しては比較的エヴァは善戦している。

また複雑でトリッキーなかたちをした使徒は、その形象から「弱点をつかれて崩壊する」というイメージが連想されやすい。おなじことは群生的な使徒、ちいさくて複数個体存在する使徒にもいえる。多数の個体がまとまってエヴァを翻弄するイメージよりも、多数の個体がちりじりになるイメージのようが連想しやすい。

そうすると『エヴァ』においては、「比較的ちいさくて、さまざなな動きが連想できて、ひとまとまりの個体」をもつ図象が「強い」、ということになる。いうまでもなく、これはエヴァの特徴をなしている。エヴァを活躍させるためにこうした秩序ができるのとどうじに、こうした秩序であるがゆえにエヴァが造形されたのだろう。

しかし、この条件にエヴァよりも当てはまってしまう形状がいくつか存在する。たとえば「球状のもの」の威力は『Q』ではっきりしただろう。複座式エヴァのファンネルのような武装は、二号機の槍を軽くあしらってしまった。

もうひとつは、「ひも状のもの」「帯状のもの」だ。エヴァは「ひも状のもの」「帯状のもの」に対してよく苦戦している印象がないだろうか? 旧エヴァでいえばレイが自爆したアルミサエル戦とか、ゼルエルの腕の部分とか。今回でいえば冒頭の宇宙作戦の帯状の使徒は一号機?の暴走でしか倒せなかったように。

なぜ『エヴァ』においては「ひも状のもの」「帯状のもの」が猛威をふるうのか? それは、「比較的ちいさくて、さまざなな動きが連想できて、ひとまとまりの個体」として、エヴァ以上に優秀な形象だから、ではないだろうか。

ということは、『シン』に期待してよいひとつの課題として、「ひも状のもの」「帯状のもの」を、視覚的な説得力の範囲内で攻略すること、をあげてよいのではないだろうか。

(つづく?)






■まとめ

『シン』は、

・「加熱−冷却」の論理とリズムは変わらないだろう

・脱シンジとシンジ中心を遠心分離してみせた『Q』の前フリを超えられるかどうか

・「ひも状のもの」「帯状のもの」を視覚的な説得力の範囲内で攻略できるか

・物を介したコミュニケーションがどこに着地し、どのように登場人物たちの関係性を変えるか

このへんに注目してみてみたい。

yukiyukio_kun at 21:40│Comments(0)TrackBack(0)clip!

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