2014年07月12日
片桐一考
片桐さんの核の人が書いてくれた、片桐さんのお話。
「熊がお好きなのですか」
と、訊かれれば、「そうです」と片桐市正は応える。それも嘘ではない。大抵の人はそれで納得したようにうなずく。彼等の質問には、片桐はきちんと応えているからだ。しかしそもそも、彼等の疑問と、口に出した質問とが一致しているとは限らない。だから次のように訊かれた時は、片桐の答えは「熊が好きだから」ではない。
「何故熊の毛皮を愛用されているのですか」
海から凍えた風の吹く日だった。数日前に本国からの連絡船を見送ったこの地は、今は急ぐ仕事もなくおちついている。本国と前線の中継を果たすのがこの港町での片桐の仕事であり、彼自身が前線に赴くことは多くない。 片桐は、今日も肩に掛けている黒い毛皮の、だらりと下がる腕にそっと手をかける。兎や鹿に比べればよほど硬くてごわついた毛皮は、とても丈夫で暖かい。その毛皮は凍えるような異国の地でも片桐の体温をしっかりと守ってくれる。 片桐に問いを投げかけた若い男は、本国からもってきた着物を二枚三枚と重ねて着た上に綿入りの上着を着て、まだ寒そうだ。傍にいるその父親の方も同じような格好をしている。後方支援を担うこの場所で、さすがに武装は解かないまでも、肌を凍らせるだけの鎧や鉄兜を好んで着るものはまずいない。あれらは防寒の役に立つものではないのだ。 火鉢の中では、暖をとるために本国からもちこまれた炭が、ぼんやりとした火色をくすぶらせていた。その熱のとどく位置に、片桐も他のふたりもつめている。 ふたりは片桐の配下ではないが、この地においては彼の麾下にはいっていた。こちらでは多くの武将とその配下がいりみだれ指揮系統が混乱しがちだが、少なくとも片桐の周囲ではそれほどの混乱はおきていない。 問題は内陸に行くほど深くなる。 そしてより深刻なもうひとつの問題は、身を切るような寒冷だった。 毛皮は貴重品である。寒さのために死んでいくものもいる中で、それは必要なものでもあった。しかし兵のすべてに行きわたるほどの毛皮など、調達が間に合うわけもない。いきおい、敵の骸から衣服を剝ぎ取るものが増えたが、それをおもてだってとがめることもできない。 そんな中、ひとりこの状況を予測でもしていたかのように、本国から毛皮を纏ってやってきたのが片桐だった。もちろんそうではないことを周囲は知っている。彼はそもそも、本国に居たときからその熊の毛皮を身につけていたのだから。 「この熊は、昔私が討ち取ったものです」 問いを受けて、自慢する風もなく片桐は言ったが、それを聞いた父親の方はそれはすばらしい、と声をあげた。 「先頃清正殿が虎を仕留めたと評判になりましたが、片桐殿は熊ですか。いやあ、武勇に優れた方々が同じ陣営にいると思うと心強いものですな」 「加藤殿と比べるような話ではありませぬ」 「謙遜なさらずともよろしいのに。さぞかし手強かったでしょう」 実際のところ、片桐は周囲に武辺者などとと思われてはいない。現在就いている役目を見ても知れることで、苦笑をたたえた当人もそのことは了解していた。 涼しげな片桐の顔は内面を読み取りづらいもので、気の良い男はそこに自分の考えをのせていく。 「清正殿も仕留めた虎を太閤様に送り、その武勇を誇られた。片桐殿の毛皮もそうした手柄の証でしょう」 「……」 それとは少し違うとは思ったが、うまく説明できる気がしなかったので、片桐は沈黙を選ぶ。相手に自分の意図を分からせようという意志が、片桐にはうすい。それは例えば妻や弟のような、言わずとも片桐の意図をある程度察してくれる貴重な存在がいた、弊害とも言えた。 「ぜひ、その時の様子を話して頂けませんか」 目を輝かせた若者に尋ねられ、隠すようなことでもないから、片桐は語り始めた。 「この熊に会いましたのは元服の前、山に籠もっていた折のことです」 「―何故山に?」 「修行をしに行きました」 いわゆる山籠もりであり、日常の生活からはなれて己を見つめ、厳しい環境の中で体も鍛えられる―一石二鳥、という発想だ。そもそも片桐の育った土地は山が身近であり、そして修験の山の多い土地柄であった。城下町で修験者を見かけることも珍しくない生まれなのだ。山に入るという選択は彼の中にしぜんにあった。 「まるで義経公のようですな」 とは無論、かの源氏の総大将が若かりし頃、鞍馬山の天狗に教えを受けたという話に引っかけている。要するに、半分冗談だと思われているのだ。ふ、と笑って片桐はつづける。 「山に入ってその日に、私はクマに会いました」 今なら五尺強の片桐は、当時は未だ成長期の前だった。対して熊は四尺をゆうにこえ、五尺に届かんとする。但し単純に身長を比較しても仕方がない。そもそも少年と熊では体格が違いすぎるのだ。熊の肢は片桐の腕を三本束ねても足りないほどだった。 後ろ足で立ち上がれば黒々として大きな体に、のど元だけ白い筋がくっきりと。太い前肢にはするどい爪がついている。山に入って早々にそんな熊に出くわした片桐は、一度は死を覚悟した。 ―けれど片桐は死ななかった。 「そうしてそのクマと友になりました」 ひぐらしの鳴き始める季節に山の中は、日が沈めばたいそう冷える。そんな夜を、片桐はクマと共に体温を分け合ってすごした。 常に一緒にいたわけではないが、同じ山を棲み家としていればいくどとなく遭遇する。巡り会えばしばし時を共にし、食べ物を分け合うこともあった。 そうしていつしか秋が深まり、クマのうごきが鈍くなる前に、片桐は山を下りた。又いずれ会うだろうと、何故か確信をもって。 聞き手はなんと言っていいものか、片桐の真意を図りかねて戸惑った。華々しい物語を期待していた側としては、出鼻をくじかれた感もある。 いきなり獣と友人であると言われたのだ。冗談と笑い飛ばそうにも、片桐の表情はあいかわらず微笑含みにおだやかで、巫山戯ているとも決めつけられない。表情に比して言葉は簡潔に整然として、穏やかではあっても柔弱とした印象を与えない。 しかしどうやら話の方は、穏やかではない方向にむかっているようだった。先が読めない若い男は、遠慮がちに続きを促した。 「その熊とはその後―…?」 「これがそのクマです」 要するに、話はいずれそこにゆきつく。 肩から羽織ったずっしりとした熊の毛皮を片桐は示してみせた。 頭から尾まで、見事にしたてられたその毛皮を。 その年の冬になり、枯れ木の季節からいちはやく梅が蕾をつけ、水辺で水仙の一群れが花を開いたころ、人喰い熊のうわさが片桐の耳にもとどいた。 冬の熊は危険だ。冬眠の途中で、或いは冬眠からはやく目覚め、腹が空いているのに食べるものがない。人でも腹が空けば気が立ってくるもの。ましてや獣、そこを刺激されようものなら…。そして一度人の味を覚えた熊はそれ以降人間を餌とみなすようになる。足もおそく、耳も目もにぶい人間を狩るのはたやすい。 うわさの熊は空腹ゆえか人里近くまでおりてくるという。ちかく山狩りが行われるという話に、片桐は再び山へとむかった。なじんだ山の、なじんだ場所へ。 「まことに目にするまでは、まさかという思いがありましたが」 それはあのクマだった。 「私の友人でした」 「何か目印のようなものでもあったのですか」 「いいえ」 「それではどうしてその熊がそれだとわかったのです」 そもそも熊の見分けなどつくものではないと思っての発言だが、長い時間を共にすれば獣でも個体差のあることはわかってくるものだ。ただし、片桐の答えは若干ずれていた。 「友人でしたから」 それだけで充分と言わぬばかりに。見ればわかったという。 飢えた巨軀をふるわせ、目をぎらつかせるその友は片桐を見てわかったのかと、訊くだけ愚かで、ふたりはそれ以上の問いを呑み込む。 「いずれ殺されるものならば、この手で仕留めたいと思いました。 ―とてもたくましく、たいそう強い熊でしたので」 誇らしげに、片桐は言う。 「それはやはり強いものと戦いたいというお心からでしょうか」 若い男が実に純粋な期待をなげる。父親が咎めるような所作をしたのに気付かぬものだから、申しわけなさげな視線が片桐によこされる。片桐は安心させるように笑みを返した。 「それもありましょうが…。そう、あれを知らぬものに討たせるのは惜しいと思ったのです」 あのごわつく毛皮の温かさ、腹の柔らかさ、太い腕が魚をとる時の素速いうごき、えものをねらう冷たい目、そして体をうねらせ獲物をしとめんとする時の烈しさ。あれを知らないものに、あの強さを知らないものに、討たせてなるものかと。それはあまりに口惜しい、と片桐は思ったのだ。 「手強かったのでしょうね」 「そうですね…」 銃は当時まだ一般にあつかわれるようなものでなく、たける熊に正面から向かうのは我と自らを殺すようなもの、となればのこる手段は罠か、大勢で数にまかせてとりかこむか、離れた場所から弓を使うかとなる。 前者ふたつは片桐にはとれない。己の手でしとめることを目的にしているのだから。 幸いにして片桐の弓の腕は悪くなかった。 木々の間に身を潜め、クマのよく通る道をにらんで待った。晴れ間がつづき、雪はゆるみはじめていた。静けさと冷たさが空気を張り詰めさせるなか、片桐の知るその道を、変わらずクマは通りかかった。 ぶあつい毛皮は矢が致命傷となることをゆるさない。 射通せるところは限られており、ひきしぼった片桐の矢はあやまたずクマの左目をうばった。しかしやはり、成長期前の力ではその命まで奪うには足りない。 まだ余韻をのこす弓をその場に放り、片桐は槍を手にとった。緊張と寒さから極端に手は冷えていたが、震えはなかった。 痛みにクマは猛り狂った。 手負いの熊の前に身をさらすことが自殺行為であることなど、片桐は知っていた。それでもそうしなければならなかった。早くしとめなければ、熊を退治せんと集まった村人達が熊の咆吼をききつけてやってくる。 「太刀ですか。それとも槍で」 「槍です。山中では長すぎるので、短くしたものを」 熊の太い体には、斬るよりも貫くほうが効果がある。熊の体躯を両断するほどの怪力がなければ、太刀はさほどに使えない。槍の柄は手近の木にたたきつけて半分ほどの長さにした。でなければ、移動するにさえ木々の密集する中では邪魔だったのだ。 「もしや、片桐殿の槍が短いのはそのためなのですか」 父親の方が、ふと思い当たり部屋の片隅におかれた片桐の槍に目をやる。 槍は一般に長いほど有利とされる。個人に合わせて調整されるものではあるが、片桐のそれは戦場においても極端に短かった。 「はい。あの時の感覚を元にしています」 今でも片桐の槍はおのれの身長にとどかない程度しかない。それが片桐にとって実戦的な長さなのだ。 「勝負は一度きりでした」 槍にしろ太刀にしろ、熊の一撃をうけとめきれるほどの耐久性はない。それは片桐自身の体にしても同じことだった。つまり、クマの攻撃を受けずに、こちらの攻撃を入れなければならない。 腰を落とし、全身を緊張させ、指先の感覚に神経を巡らせた。体を半身にして、前に出した足はいつでも踏みこめるように、足の指でしっかりと地面をつかむ。はやる鼓動で胸がさわぐ。身を包む冷えた空気とは対照に、片桐の腹の中には熱がたまっていた。 槍をかまえた片桐の姿を、クマが残った方の目でとらえた。 「視線があったのを契機に踏み出しました。全力で突かねばとどかなかったでしょう」 クマが片桐にむかってくる。震動が足下に伝わってくる。威嚇するように後ろ肢で立ち上がり、ふりあげられた太い前肢をなんとかかわした。 矢が刺さったままの左側面、死角に回り込もうとする片桐は、同時にもうひとつの気配にも気がついた。 体勢を崩してさらけ出されたクマの左胸。体ごと前に、ためらうことなくまっすぐに突き出された槍は深々と突き刺さり、クマの背中にのぞいた穂先がぬらりと光った。 重い手ごたえを感じると同時に、肩に焼かれるような熱さがはしった。 片桐の体にも、槍の先が立っていた。 「一突きで!」 思わず高い声をあげた若者の頬は昂奮でやや赤らんでいる。片桐はくっと目を細めた。目尻のしわが深くなり、笑みを深めたように見える。 それまで意識しなかった風の音がびょうびょうと耳にひびいてきた。 それは或いは血の流れる音であったかもしれない。 全身でぶつかるようにクマを突いた片桐は、失われていこうとするクマの体温を感じていた。においも呼吸も感じられる、かつて寄り添い合ったときと変わらぬ距離で、片桐はクマのふところにいた。槍を伝ってくる生臭いぬめりと同じもので着物はじっとりと重くなっていく。 最後に見上げたくろい目には、ただ片桐のすがたが映っていた。 鏡うつしの片桐の右肩に槍の刃先がうずもれて、はからずもそろいになったようだ。片桐とクマの最後の場面に、追いついた者があったのだった。おそらく片桐を援護しようと突き出された竹槍を、必要以上に大きく回り込むことで片桐はおのれの体で受け止めた。さいわいに腰が引けていたのか傷は深くなかったが、いずれにしろそれは大した問題にはならなかった。 誰にも邪魔をされることなく、片桐とクマは相対し、片桐はクマを葬った。 「―そうです。一突きで」 どんなに重要な勝負でも、一瞬で決着がつくこともある。実力が拮抗していても明確に勝ち負けが出てしまうこと、反対に明らかな戦力差があってもそれが覆されることもある。強いから勝ったとも言い難く、勝ったのだから強いのだと言われる。 当人にどのような意味のある勝負でも、残るのは勝敗の事実であって、片桐の場合はクマのからだだった。 しとめたクマと共に戻った片桐はずいぶんと褒められたが、内輪の話で終わった。それが広く人の口の端にのぼるほどの家柄でもなく人脈も特にない、細々とつづく歴史だけはある旧家が片桐の実家だった。それでも主君の浅井氏にほめられ、息子をたたえてやりたかった父親は、片桐に何か褒美にほしいものはないかと訊いた。 「殿もなにか望みのものがあるなら申してみよとおっしゃってな」と言う父は、元服したばかりの男の子のこと、馬の一頭でも欲しがるものと思っていたのだろう。息子の返事は予想外だったにちがいない。 片桐の負ったきずは、彼自身が説明を加えなかったために、熊とたたかって得たきずだと周囲には思われていた。治療をした医師はちがうことぐらい分かっていただろうが、特に何も言わなかった。たいして深くもなかったきずは、少年期の代謝の良いからだではほとんど跡ものこさず消えるだろう。しかしこの時はまだ肩には包帯を巻いて、片桐は父と対面した。 この時片桐にのこっていたものは、いずれ消えるきずだけだった。 「何か望みをと言われても、私にはあのクマを己が手で討ったという以上のことはありませんでした。ですので、そう申しました」 あのクマを戴けませんか―、と。 そうしてクマの毛皮は片桐のためにしつらえられた。身に纏うためさすがに顔の部分は落とされたが、ほとんど全身を使って作られた毛皮は、十五の齢から今にいたるまで、片桐と共にある。 「成る程、そういう経緯でしたか」 片桐の言葉少なな話を聞きおわった反応は親子で異なる。 「それは人食い熊を退治された証なのですね」 すなおに賛嘆の表情をうかべた若者は、片桐の話を武勇伝―手柄と褒美、という形で聞いたのだろう。息子を見る父親の表情は苦い。 ふたりの顔つきを等分にながめて、片桐は語ることを止めた。 「すこし海の様子を見てきます」 言って、クマの毛皮で包んだ体をもちあげる。ついでに槍を取り上げたのは、ひとりで稽古をするつもりだからだ。槍の穂先は布でくるまれている。有事でないときはこうしてきっちりと刃を隠すのに、そうした日常でも時間があれば鍛錬はわすれない。 今回の任務といい、秀吉が片桐に任せる仕事の大半は直にいくさに身を投じることのないもので、自身でもそちらのほうが向いているのだろうと思う。実際皆がこぞって戦さに出る必要はないし、それでは戦場は成り立たない。こうして後方で兵站や道の整備を指揮することが片桐は得意だ。とどこおりなく物資が行き渡るように、速やかに情報が伝わるように、―それらを結ぶ道はただしく生命線となる。 片桐は自分の役目に自覚があるし、自負もある。 敵も味方も立場だけのもの、必要があれば戦うし、なければ戦わない。殊更に槍をふりまわし武を誇ろうという気もない。出世はしまいが満足はしている。使える主君にも恵まれた。しかしだからこそ、片桐は己を鍛えることは怠らない。 海からふきつける風は本国より何倍か厳しく、そもそも潮の匂いになれていない片桐は、べたつく空気とその匂いに、異国にいるのだという思いを強くする。 海岸沿いをそぞろに歩いていた片桐は、うしろから呼び止める声にふりかえった。 「片桐殿、申し訳ありません」 ようやく見つけた片桐の姿にかけ寄ってくる男がいる。片桐は、穂先を下に腕に沿わせてもっていた槍をくるりとまわし、とん、と石突きを地面について男を待った。 「どうされました」 返事をした片桐の、常とかわらぬ様子に近づく男は安堵したようだ。 格別人混みの中でなくとも、片桐という男はとかく見つけにくい。熊の毛皮を背おっているからというのでもないだろうが、動物が景色にとけこむように、しいて探さねば見つからなかったりする。 それほどに、一見奇異なその出で立ちは彼の身にしっくりとしているのかもしれない。 一番の特徴である毛皮の下は古風な水干着。黒と青を基調とした生地に、懸緒は鮮やかな橙。敵地に不似合いなたっぷりとした袖に指先をうずめ、体を覆う衣服でとらえ辛いが姿勢は正しい。 「先程は愚息が失礼をつかまつりました。本人にかわって謝罪します」 「何も。気にすることはありませぬよ」 「立ち入ったことをお聞きして、ご不快ではありませんでしたか」 「そのようなことはありません」 ゆるしを得られた男は腰から体をおる礼をとった。それから寒そうに身をちぢめる。着物の前をかきあわせ、男は苦笑した。 「いやその、はじめは酔狂かと思っておったのです。しかしずいぶん大事になさっているご様子なので、てっきりどなたかからの賜りものか、あるいは形見かなにかかと…」 しばらく傍にいれば目にするが、片桐は毛皮を風通しの良い日には陰干ししたり、たまには虫除けの煙でいぶしたりと、こまごまと手入れをしている。大切にあつかっている様子がうかがえるのだ。 片桐はただ軽くわらって、 「それも良いですね。次からはそれにいたしましょうか」 と言った。 「―は、?」 相手の反応にも関わらず、頭から例の毛皮をかぶった片桐は涼しい顔をしている。 「では、先程のお話は…」 「ご子息は満足なさったでしょう」 青年の中には自分の期待する、自分の理解できる形での話が残ったはずだ。 「それで構いはしますまいか」 ようやく男は気がついた。目の前にある片桐の笑顔はおかしいのでも楽しいのでも、ましてや作っているわけでもなく、自然と浮かぶものであって、それが逆に表情を読みづらくすらしているのだと。 「―とにかく今は重宝しております。これは、温かいですから」 黒い毛皮のクマが言う。背中をむけると、ほとんど人の姿は消えてしまう。 片桐自身に相手を惑わそうという気はない。だが一々をつまびらかにしようとも思わぬから、しばしば周囲は困惑させられることになる。 他者にしいて理解を求めない片桐が、自ら多くを語ることは稀だ。そんな彼がはじめて毛皮の因縁を語った相手は妻だった。 幼なじみとしてながくすごした彼女と正式に婚約をかわした日に、片桐はその一連の流れを物語った。彼女は最後まで黙して聞いていた。 「このクマはもはや私の一部だ。忘れることも、捨てることもできない。―おまえを正妻にするということは、これから先、たとえ側室をもつようなことになっても、おまえを第一に扱うという誓いをたてることだ。そのおまえに、私が敬い、おのれの血肉としたものを秘すことは裏切りになってしまう」 独特の律儀さで片桐は言った。彼をよく知る妻は、それをおかしいとも滑稽だとも言わなかった。代わりにまっすぐ片桐を見つめていた。 「君様は、そのようなことを気にされていたのですか」 「そうだ。おまえがそれを厭うても、変えることはできぬ。それを言っておきたかった。それでも構わぬか」 妻になる女は、艶然と笑った。 「君様になにがありましても、だれがありましても、それでも君様はあたしのところに帰ることを選ばれるのでしょう」 この日から使い始めた「きみさま」という呼び名は、ややぎこちなく温かく、妻がふたりの関係を受け止めようとしていることを示していた。幼い頃からそうやって、すこしずつ変化していく流れの中で、ふたりの関係は続いている。それを断ち切る選択を、片桐も妻もしないだろう。 けれど笑って許容してくれた妻も、共感や理解を示したわけではない。どんな思いがあっても、どんな覚悟があっても、わかり合うとは難しい。片桐の皮膚にも熊のように硬い毛がはえていたなら、その差異はたやすく目に見えて、はなからわかり合えないものとも思えただろうに。 「―そうですな、ともかくも、ここでは毛皮があるのは良いことでしょうな」 片桐と並んで海を見つつそういった男のように、わかり合えずとも、そうして適当なところへ落とし込んで人と人はつきあっていける。 男の口元で吐き出された呼気が白く濁る。この土地で沈黙は、冷気とともに肌にはりつく。潮気を含んだ空気は、片桐に重量をさせ感じさせた。 見上げるとあおい雲の下に、黒々とした鳥の影が浮かんでいた。 上空の風に身をゆだね、影は飛ぶ。そのままひたすらにまっすぐ進めば、力強いその翼は片桐たちの国にまでとどくであろうと思わせる。しかし影は方角を変え、くるりと空に円を描いて岸に戻ってくる。その土地に住み、その土地に生きるものは、そうして戻って来ざるを得ないのだ。 のしかかる雲は沈みゆく太陽をかくし、にぶい光をはらんでいた。 いくら故郷を慕っても、人は鳥にはなれない。鳥に焦がれる気持ちが、兵たちの間に桐のように立ち籠めはじめている。 「船の上は冷えましょうな」 ふいに片桐は話題を転じた。話しかけられた方も、砂浜に引き上げられた船を見下ろしながらうなずく。 「日ごとに寒さが身に染みますからな。海では殊更でしょう」 温かくしているとよいのだが、と目を細め黙って案じるのは船の上にいる友のことだ。 その男は、片桐がクマを友と呼んだことをあたりまえのように受けいれた唯一の人だった。 片桐は理解されることを求めていなかった。だから思いがけずもたらされた言葉は片桐をひどく驚かせた。 その時の、かくしていたささいな宝物をあばかれた子供のような気恥ずかしさと、しびれるような嬉しさを、片桐は忘れないだろう。 その友人は、案外あぶなっかしいところがあって、片桐に時折保護者のような気分さえいだかせる。暑さ寒さや痛みにどうもにぶい彼は、これぐらいで大丈夫、という範囲を自分の感覚ではなく他者の秤で決めるため、稀にはかりまちがえるのだ。 友人の―加藤嘉明の目は動物の目に似ている。意志を伝える言葉をもたない動物の目に似ている。寡黙な動物の目は鏡のように、目の前にいるものをうつす。動物の目の前に立つものは、そこに自分自身を見る。おのれの願望や、希望や絶望を、そこにうつす。 けれど彼は動物ではないのだから、うつしたものをまねる必要などないはずなのだ。 そのまま動物の毛皮をまとう片桐は、動物の目も毛の生えた足も持ちあわせない。動物のきもちがわかるとも言わない。ただ知り合えば友になることはできる。友になれば、ふれあい、温め合うこともある。そこにおいて、人と獣の区分はそれほど意味をなさない。 片桐はクマを尊敬し、その強さに憧れていた。最期の時にあのような形でむきあうことになったのは、哀しいことであると同時に、憧れた相手に全力でむかう昂奮も片桐にもたらした。 今思いをはせる友人と戦場で相対することになっても、片桐はためらわず全力をつくすだろう。それが片桐に尽くせる礼儀と誠実とでもあった。 だからクマにも全力で挑んだ。しかし後で思えば、あれだけ強かったあのクマがあれほど簡単に片桐の槍をうけたのは、正気を失っていたからだけだったのだろうか。―クマの目を見ても、そんなことは分からなかった。 動物ではない片桐は、けれども人でありながらクマの残片をもっている。 あの時、片桐の肩には、竹槍が引き抜かれたあさい傷があった。片桐とクマと、流す血がまざって、クマの血が傷口から片桐の体内に入った。 敗者の魂が勝者に受け継がれるという思想がある。片桐はその時、クマの一部をうけとったのだ。 だから片桐はクマの毛皮を身にまとう。自分がクマを受け継いだ証に、そして尊敬しこの手で仕留めた強さの名残をとどめんと。 ごく単純な話なのだ。 その一部を身につけることで、その特性を受け継ぐ、昔ながらのまじないとも言えない縁起のようなもの。それが片桐の毛皮だった。毛皮を脱いだところで、クマが片桐の一部なのには変わりがない。目に見えるかたちであるのが毛皮だというだけのことだ。 嘉明は、逆に見えない毛皮を着ているようだ。 動物めいた目をもつ男は、あるいは動物でありたかったのかもしれない。 潮風にべたつく髪も、さむさにひび割れる唇も、日焼けした手もつぶれてひらたくなった爪も、獣に比してあまりに頼りない片桐のそれらすべてと、同じものをもっているのだと、嘉明は気付いているのだろうか。わかっているのだろうか。自分をものとしてしか扱えぬうちは、他者のこともものとして見ているのだと。 けれども最近は、彼も以前より人間じみてきたようだ。人について考えるそぶりを時折見せるようになった。それがどういう方向にいくものか、まだ片桐には分からないが、どこを見ているのか分かりづらい黒目がちの瞳をむける先があるのはよいことだ。 動物の目が鏡なら、嘉明に必要なのは同じ目を持つ人間であるかもしれなかった。 もう一対の目と会ったなら、左馬介はそこに何をうつすのだろうか。その答えがどういうものであっても、片桐は友人としてできることをしてやりたいと思っている。 ともあれ今のところは、心配すべきは別にあった。先日会った嘉明は、随分とすさんだ空気をかもしていた。途中からこちらにきた片桐と違い、もう長くとどまり続けている左馬介はすっかり嫌気がさしているらしい。 「しかしこうはっきりしない天気がつづくと気が滅入りますね。北国の生まれならなれているのかもしれませんが」 片桐と並んで、ぼんやりと海を見ていた男が言った。彼は彼で、海を見て思うところがあるようだ。海の先の故郷でも思いうかべているのかもしれない。 「来たばかりの頃は、まだ海水もぬるかったのですがね」 ぼやくように言う彼も、そう言えば片桐よりは早くにこちらに来ていたのだった。 黒い海がひっきりなしに身震いしては、波を白く泡立たせている。濃い潮の臭いがふいに血なまぐさい記憶と結びついたようで、男は鼻にしわをよせた。 その連想は何故かすんなり片桐の身にものみこめた。それは奇妙なことだった。この海岸が血で染まったのは、片桐が来るよりも前のことのはずだった。 どどう、どどうと海が鳴る。暮れなずむ空は曇天。晴れるきざしは見えない。 これから寒さは、まだまだ厳しくなるだろう。 「もうそれほどに経ちましたか」 「ええ、息子は元気ですが、わたしにはこの寒さがこたえます」 男は苦笑にくちびるを曲げた。 「ご子息ははりきっておいでですね」 「初陣ですからな―…このような戦でも。あれほど気負わずともよいものを」 そういう父親の声に一瞬にがいものがまじった。それは海からの風にすぐにぬぐいさられたが、この戦さに疑問をもつものが少なからずいる現状をうつしていたと言っていい。ずるずると追撃していった戦線はのび、戦況は膠着を見せ始めている。慣れない環境で、兵は疲弊している。 「どのような場でも、ああした前向きさは周囲にもよく働きます。多少気負っているぐらいかわいらしいものではないですか。素直なよいご気性です」 のびた戦線を支える一端を担う片桐は、そう言ってねぎらった。 戦場の不満も、上司の意図も、どちらも理解できる立場にあって、片桐はそれ以上の言及をひかえた。それぞれの場において、発言できる内容にも段階があるのだ。片桐はめったに愚痴を言うような性格ではなかったし、批判をするなら正面から言う人間であった。 「愚息をそこまでかっていただけるとは、ありがたいことです」 「思ったままを申したまでです」 その言葉にうそはない。堅実な実務家の面をもつ彼は、穏やかではあっても弱々しくはなく、その場しのぎのごまかしを言う人間ではない。 華はなくとも根のある男、という評価は、いったい褒めているのかけなしているのか。だれが言い出したともしれず定着している。具体的に竹にたとえたものもいる。それをきいた片桐は「竹にも花はありましょう」となんとも受けとりがたい返答をしただけだった。 根をはりのばすのがおのれの役目なのだろうと、片桐は思っている。 後方担当とはいってもここも敵地である。いつ前線となってもおかしくないのだ。しかし本国で秀吉の膝元にいる石田や、獰猛な虎を狩り又一つその勇名を挙げた加藤を筆頭とする前線のどちらとも役割はちがってくる。 本国との連絡を担うここでは、求められるのは守る力だ。ここが落とされれば前線の兵は本国との繫がりを断たれてしまう。敵地にありながらゆるがず、最前線と本国司令部をとどこおりなく繋ぎ、すみやかな伝達と支援を可能とする。それが前線であり後方指令をかねるここの役割であり、片桐の役目だった。 後方と前方の板挟みとも中継とも言えるこの位置で重要なことの一つが、信用である。途中で情報がねじ曲げられていると疑われはじめれば、伝達どころではなくなり、内部から瓦解する。片桐がその任にあるのは、信頼やら人望やら、或いは任務に私情をはさまない律儀な責任感といったものだけでなく、野望の無さによるところが大きい。人をよけてものし上がろうという覇気がない。片桐にすれば、役目をまっとうすることの方がまずは重要で、その後の評価はそれに比べれば料理のつまのようなものにしか感じないのだ。 そう言うわけで、地味で危機感を抱かれにくい片桐は今日も淡々と己の仕事をしている。 「―いずれ終わりましょう。この戦も」 先程男が言下にこめた思いをなだめるように、片桐はしずかに告げた。 これほど厳しい冬、異郷で、いつまでも戦力を維持できるわけもない。それもわかりきったことだった。だからあとの問題は、いつ終わらせるかだけなのだ。ただ終わらせるわけにも行かないから、あと何度かは大きな戦いがあるかもしれないが、それだけだ。最近咲きはじめた山茶花が次に花を咲かせるのを見ることなく、帰郷の途につくことになるだろうと片桐は考えていた。 「冷えましたね。戻りましょうか」 男の白い手を見て片桐がうながせば、相手もうなずく。槍をふるうのはまたの機会でもよかった。さしあたっての片桐の仕事は、まだしばらくはこちらにあった。