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Hey you bastards, I'm still here!

映画の題名と方言

ウイル・スミス主演の『素晴らしきかな、人生』を観ました。作品に対する辛口批評はいずれ「キネマの方舟」に掲載するとして、気になったのは日本語題名の付け方。これは明らかにフランク・キャプラの名作『素晴らしき哉、人生』そのもの。『哉』を『かな』と日本語にしてあるのが余計に確信犯的。ちなみに、『素晴らしき哉、人生』を『素晴らしきや人生』だと読み間違えている人がいましたっけ……。

今までにも過去の作品の題名をそのままパクる例や似たような題名をつけることは結構あったのですが、今回のようなオリジナリティ溢れる日本語題名を安易に流用するのは感心できませんなぁ。昨年も『君の名は』という過去の名作の題名をパクったようなアニメがヒットしたそうですが、『君の名は。』と『。』を付ければ別もの……みたいな感覚はどうもねぇ。そのうち、『風と共に去りぬ。』とか『ローマの休日。』とか『明日に向かって撃て。』なんて題名まで出てきそうな勢いですなぁ。

映画にしても小説にしても、題名そのものに著作権の適用を望みたいと思うのは、作家の多くが題名を考えるのにも苦心しているはずだからなのです。僕も自分で創作する時は、絶対に過去の作品と同じものは避けたいと思うし、似たような題名になるのも厭だから何日も悩んだりします。題名の良し悪しで書いてゆく作品の質まで変わることがあるのです。要するに、題名も「作品」だからです。

外国映画の場合は日本語題名をつけるのが慣例のようになっていて、過去には優れた日本語題名も多くありました。原題とは明らかに違っていても、作品内容を日本語感覚で的確に言い表した題名を見ると「芸術性」すら感じたものです。一時期、英語の原題をそのままカタカナ表記するだけの安易なネーミングが氾濫し過ぎたことはあって、それはそれでどうかとも思うのですが、やっぱり「パクリ」って思えるのはよくありません。

さて、『素晴らしきかな、人生』を観た劇場では某アニメ映画の予告編をやっていて、どうやら舞台は岡山県倉敷市の下津井あたりで、台詞も岡山弁らしいのですが……。この岡山弁らしきセリフに倉敷出身の僕は違和感ありまくりでした。東京のタレントが使う嘘くさい大阪弁とか、外国映画に出てくるヘンな日本人が使うカタコトの日本語を聴いた時と同じような感覚。

方言なんて他県の人には「雰囲気」が伝わればいいのだから、正確に喋らせる必要はないと考えるのも間違いではないし、方言にこだわり過ぎると意味すら理解不能になる場合もあるのですが、方言の持つイントネーションとか「間」というのは、その風土や県民性を表しているものなのです。ゆえに、台詞における方言のリアリティというのはかなりデリケートな問題ではあります。

ま、これはリアリティがとーのこーのというようなものではなく、単なるマンが映画なのですからどーでもいいことなのかも知れません。方言の持つ心地よさを客観的に表現することの難しさや意義はわかっているつもりだし、僕自身関西圏以外の方言を使った映画を観た時には、そのリアリティなんてわからないのですから何とも思わないのは確かです。でも、やっぱり「本物」を知っていると、なんか嘘くせぇーなーと思ってしまうよなぁ〜ってことなのです。

文句を言うんなら映画を観てからにしねぇ……と岡山弁で叱られそうですが、「観るつもりやこぉねぇーけぇー」ということで。

ちなみに、地方発信の「ご当地映画」なるものが粗製乱造される時代になってかなり経つのですが、「ご当地自己満足映画」だけが徒に氾濫しているとしか思えず……。それもまた、枯れ木も山の賑わいとなればヨシなのかなぁ? なんかイヤだなぁ。

浮かぶ要塞島(燃えよドラゴン)

キネマ旬報の1973年8月上旬号に面白い記事を見つけた。

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公開予定の外国映画を簡単に紹介したページの端に『浮かぶ要塞島』というタイトルの映画が……。写真を見れば『燃えよドラゴン』であることは一目瞭然。

16602595_1629629827345362_1133922189647165531_n日本での初公開はその年の12月。アメリカでの公開は8月。キネ旬の「8月上旬号」はその前に発売され、記事の入稿は二ヶ月ぐらい前だと思われるので、まだどんな作品なのかもよくわかっていなかったのだろう。紹介記事にも「香港を舞台に現代の戦争を描く異色作」と書いてあるだけ。「現代の戦争」って何のこっちゃ?

何よりも、二枚の写真にブルース・リーが写っていないのだから、ブルース・リーがまったく知られていなかったということでもある。

『燃えよドラゴン』の日本題名が正式決定する前に、『ドラゴン登場』の仮題で紹介されていたのは知っていたが、それ以前に『浮かぶ要塞島』として紹介されていたのは知らなかった。僕の知る限りでは『燃えよドラゴン』が紹介された記事の中では最も古いものではないだろうか。

もしも、『浮かぶ要塞島』のタイトルで公開されていたとしたら……と想像してみるが、まったくピンとこない。公開当時、『燃えよドラゴン』の大ヒットを受けて、日本でもそれまで輸入すらされなかった香港製の功夫映画が矢継ぎ早に公開されたが、功夫というものに馴染みが無かったため、「カラテ映画」と呼ばれることになったりもした。一部では「ドラゴン映画」と呼ばれることもあって、このジャンルの映画には「ドラゴン」の言葉をつけたタイトルがつけられたものだ。それも『燃えよドラゴン』のタイトルがあればこそ。『浮かぶ要塞島』で公開されていたら、その後に公開された「カラテ映画」のタイトルもまったく別物になっていたのだろうか?

危険なのはトランプよりマスコミかも?

トランプ大統領の言動を全面的に支持するわけではありませんが、基本的には選挙運動の時にやると言ったことを実行しているところがあって、それはそれで有言実行な部分もあるわけで、どこぞの国の政党みたいに選挙公約を実行しないのとどっちがいいかと言えば答えは簡単。「やりますよ」と言ったことをやるにも、方法についての是非はありますが、「やりますよ」と言っておきながら、なーんもやらない政治家が多すぎるから、トランプの「やっちゃうスタイル」が何となく気持ちよかったりもするわけです。「やらない」と誓ったことをやってしまうのもダメですけど、政権発足一ヶ月足らず。マスコミその他が先読みし過ぎるのも間違いの元になりかねません。

マスコミ(特にアメリカ。そして、追随する国の)としては選挙前にあまりにも偏向的なトランプ批判を繰り広げたため、大統領になったからと言ってすぐに論調をひっくり返すわけにもいかないのでしょうが、マスコミ側にもどこかに驕りがあるような気がしてなりません。

マスコミに批判精神は必要です。これまたどこぞの国のように盲信的に「政権ヨイショ」をするのと比べれば、どっちらがマシなのかは一目瞭然なのですが、最近のマスコミのトランプ報道は何だか「2ちゃんねる」の発言レベルみたいに思えてしまうのです。七か国限定の入国制限も、マスコミによっては「禁止」だったり「停止」だったりとバラバラ。いつのまにやら「イスラム教徒の入国禁止」にしちゃうようなマスコミすら見かけますよね。七か国以外にイスラム教徒の多い国はたくさんあるのです。七か国を過激な国として設定したのオバマ政権だし……。もちろん、それによってテロとは無関係の人が犠牲になったりもするのですが、入国審査を見直すためのプロセスとしては必要な部分もあるような気はします。

司法長官代理の解任にしても、普通にどの国の政権もやっていますよね。日本だって政権の方針に真っ向対立する閣僚が現れたらどうなることやら? 都知事選ですら揉めたわけですから。

トランプが気に入らないというのは感情的によ〜くわかりますが、入国制限にしても、トランプが大統領令に署名したことで、それが憲法や司法の観点からどうなのか……という議論をまな板の上に乗せることができたという事実は見逃すべきじゃないと思うのです。言うだけでなーんもしない政治家たちに比べれば遥かに働いていると思うんですけど? トランプ騒動には、オバマが言うだけでやらなかった「チェンジ」ゆえの副作用って側面もあるのじゃないでしょうか。

トランプに対するアレルギーを見ていると集団ヒステリーのように思える瞬間もありますが、ほぼ半分の国民が指示している大統領(権力)に対して堂々と反論を掲げられるマスコミや反対派国民の姿には羨望の眼差しを向けたくもなります。極めて正常な民主主義。

金持ちは気に食わん? 僕にもそんな感覚があるのを否定はしませんが、本当に大金を持っている人は強いですよ。金では動きませんから。厄介なのは中途半端に小金をもっている政治家。そいつらが一番タチが悪い。中途半端だからケチ。欲も深い。欲が深けりゃお金で動く。そんなチンケな政治家や官僚を腐るほど抱えている国の方が目に余りませんか? もちろん、大金を持ったものが「お金」と同じ感覚で権力を弄ぶ危険性もあります。金で動く人を金で動かせてしまうわけですからね。

トランプが真の大統領になれるかどうかは、そこがポイントでしょうね。本当に国の利益の為に動けるか? 個人や特定団体の利益だけを最優先するような、セコい政治家と一線を画すことができるのか?

僕は昔から、「政治家は無償でも働ける人がなるべきだ」と思っていて、理想としては議員の給与は最低賃金でもいいよと言い切れる人こそ現れてほしいのです。ではトランプは真逆か? かなり極論になりますが、有り余る資産は逆に「無償」を可能にするのではないか……などと思ったりもするのです。「政治は稼ぐための手段じゃない」と言い切れる貧しく正しく美しい政治家と、「金は腐るほどあるから政治で儲けようとは思わない」と言える金持ち政治家。真逆だけど結果は同じになる……のかも?? やっぱり、厄介なのはそのどちらでもない、中途半端なゼニ儲け主義者たちでしょ? トランプ大統領が、「私は大統領としては無給で働く」などと宣言すればカッコいいんですけどね〜。

トランプの自国第一主義をとやかく言うのも簡単ですが、日本だって結局のところはトランプが日本に不利益をもたらさないかと心配しているだけでして、日本を優遇してくれれば文句言わなくなるんじゃないの? やっぱり、自国第一主義は公言しないだけで世界中の基本になっているのは事実。自国の利益をまったく考えなければ、政治的なトラブルなんて起きないわけですから。

グローバリズムをもっともらしく掲げている人たちも、本当にグローバルな視点を持っているのかどうかは大いに疑問。自分の利益を前提としたグローバリズムじゃないのですか?

繰り返しますが、トランプがすべて正しいなどとは思っていません。「アメリカの正義」ってやつがしばしば間違った方向に進んできたことは歴史も証明しています。でも、偏向報道に同調したり、偏見だけで真に有益なものを見誤るのはよくないと思うのです。立ち位置や価値観や生活環境で視点が変わるのは当然。マスコミにはもっと大局的かつ客観的に「真実」を報道してもらいたい……と言いたいだけなのです。

誰でも自分が詳しいジャンルだとか、好きな有名人に対する偏向報道に腹を立てた経験はあると思います。マスコミの批判とか偏向報道、それに同調する「世間」の意見に「何も分かってない」と言い切りたくなったことはあるはず。もっとちゃんと伝えてよ……と。その時の感覚を、自分が良く知らないジャンルの報道にも照らし合わせてみる事は必要だと思うのです。

世の中を間違った方向に導き、戦争を起こしてきたのは、人々が同調圧力に呑み込まれてしまったからではないでしょうか? 

マスコミは必要です。でも、マスコミなりの「権力」というものもあるのです。トランプ報道だけではなく、「我々が言うのだから正しいのだ。なぜわからないんだ?」と頭ごなしに言われているように感じることが多い今日この頃なのです。 「マスコミが言ってたから」「あの著名人や有識者が言ってたから」を参考にするのを絶対的に否定はしませんが、「でも、どうなのかな?」という意識だけは常に持ち続けた方がいいと思うのです。

トランプ大統領はそれを見極めるための好材料。本当に暴走の危険があれば徹底的に批判すべきですが、今はマスコミの勇み足にみえてしまうのです。

アカデミー賞の表彰式で何人のスターがトランプについて言及するのか楽しみです。特に司会者は大変でしょうね。触れないわけにいかないのがアメリカの国民性ですから。どんなユーモアでいじるのかな?
でも、そういう「自由」があるだけニッポンよりはマシかも知れませんね。

訃報・松方弘樹

日本では二度と現れる事のなくなった「映画俳優」という職業だけが放つ独特の「匂い」を漂わせていた生粋の役者でした。子供の頃から東映やくざ映画の熱狂的ファンだった僕にとって、この人は「映画」を象徴するスターの一人でした。70年代当時、鶴田浩二や高倉健のような重厚さはまだなかったけれど、修羅場で生き抜くタフな男の「野性」と「したたかさ」をこの人ほど自然体で醸し出した役者はいませんでした。

『仁義なき戦い』シリーズ五部作のうち三本に出演。シリーズものとしてストーリー的にもつながっているのに、松方弘樹は三度とも別人として登場。三人がいずれも別人に見えたから大したものです。実に器用な役者でもあったわけです。それぞれの人物を演じきり、キャラクターに合った形で最後は全く違う死に方を見せてくれました。

凄味、狂気、ダンディズム、熱情と冷徹、狡猾さ、あがき、弱さ……。相反するいくつもの「人間性」を軽やかに演じる事の出来る人でした。

松方


衝動的な欲望だけで生きるチンピラから、知性溢れる権力志向の強いヤクザまで、どんなタイプの男でも演じられる人でした。『893愚連隊』の有名な台詞にある通り「ネチョネチョ」と生きる男の狡さと逞しさ。『大阪電撃作戦』『北陸代理戦争』『沖縄やくざ戦争』での権力に屈せざる男の生き様。『脱獄広島殺人囚』『暴動島根刑務所』でみせた圧倒的な野性と執着心。『暴力金脈』での軽妙洒脱。『お祭り野郎』『テキヤの石松』でのコミカルさ。『県警対組織暴力』での狂気と悲哀。『日本の首領』での知性と苦悩……。時代劇では何と言っても『柳生一族の陰謀』でしょう。顔に痣がある吃音の将軍役ではコンプレックスゆえの権力志向を見事に表現していました。

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歳と共に渋みを増すと同時に男の哀愁を無言のままに漂わせるようにもなり、「悲劇俳優」として鶴田浩二の後を継ぐことのできる唯一の「映画俳優」として熟成するのを期待していましたが、ご存じの通り、本当の意味での「映画」が日本に存在しなくなってしまったため、この人の実力を発揮できる場所もなくなってしまいました。

残念です。

本当に大好きな「映画俳優」でした。代表作を一本だけ選ぶとするなら、個人的には『北陸代理戦争』を挙げさせて頂きます。

「映画俳優」と呼ぶにふさわしかった「本物」が本当にあと数人になってしまいましたね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

ゆめ2歳♪

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ゆめは1月8日で満二歳になりました。

正月明けに少し体調を崩したり、ドライアイになりやすい目をしていますが、それ以外はとても元気です。

体重は1.9圈

これからも宜しくお願いします。

本年もよろしくお願いします

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2017年、平成29年が始まりました。

そうですか、平成になって30年近くが経ち、21世紀になって16年ですか……。過ぎて行く年月に対する感覚がますます鈍くなっているようで、最近は新年とか年明けなんてものも特別なものとして感じなくなっております。

いつものように日が暮れて夜が明ける。

その繰り返し。

動物や草木を見ているとつくづくそう思うのです。

自分にとっての「新しさ」とは一瞬一瞬の「きっかけ」であり、その「きっかけ」にどう向き合い、どう対処して行くかということに他ならないのではないかと思ったりするのです。

当ブログの更新率は低下の一途を辿っておりますが、これからも心の赴くままに細々と書いてゆく所存です。

とりあえず……。

今年は安全地帯結成35周年。

色々と楽しみです。


映画はあまり観なくなるかもな〜。

自分にとって「映画らしい映画」がめっきり減って来たので刺激にならないのですね。昔の映画とじっくり向き合った方が刺激にも勉強にもなるということを痛感した2016年だったので。

とにかく、理数系アトラクション動画と小演劇スタイルに毒された「ホームムービー」が多すぎる。それが当たり前になりつつある世の中に迎合できればラクなのでしょうが………………無理のようなので。

映画を観なくなる分、自分自身の表現や創作というものに時間を費やせと……天の声として受け止めるのもいいでしょうか。

今年も心の奥底で叫び続けるのはこの言葉です。

Hey you bastards, I'm still here!


玉置浩二ショー

玉置の名曲も安全地帯メドレーも圧巻でしたが、今回の白眉はやはり竹原ピストルとのコラボによる『カリント工場の煙突の上に』。

玉置と竹原の、それぞれに「語り合っている感じ」が素敵でした。

歌詞、あるいは詩というものは「情景」を言葉にするものだと思うのです。ややもすれば、歌詞という名の言葉だけを諳んじるような歌手が多い中で、玉置浩二も竹原ピストルも、歌詞に刷り込まれた「情景」をしっかりと「語っていた」と思うのです。

言い換えれば、魂で情景と向き合っているということかもしれません。

玉置浩二の凄さは「確認」でしたが、竹原ピストルの凄さは「発見」でした。

いや〜素晴らしかった! 

Salyuとのコラボも悪くはありませんでしたが、楽曲が少々くどい……なんて言うと、ファンの方からお叱りを受けそうですが、個人的に桜井の歌詞は昔からなんとなく好きになれないのですね。これは感覚的なものだけでなく、僕の価値観に照らし合わせた理屈の上でもそうなので、どうしようもないですね。悪いとは思わないけど、好きになれないってことは誰にでもあるはず。生き方の上での「違和感」みたいなものだともいえるでしょうか……。ソリが合わないとでも言いましょうか……。

だから余計に玉置や松井五郎の歌詞が純粋に身に染みるのでしょう。玉置自身はsalyuの曲を好きだと言っているのに、玉置を好きな僕はこの曲が好きになれないわけですから、不思議なものです。


来年は安全地帯35周年と玉置浩二ソロ30周年ということで両方のツアーをやるとか。我々にとっては最高に贅沢な2017年になりそうですが、くれぐれも無理をなさらないでくださいね。

玉置浩二〜AMOUR〜inかつしかシンフォニーヒルズ

今ツアー3度目の会場は昨年の『故郷楽団ツアー』以来2度目となる「かつしかシンフォニーヒルズ」。横浜からは京急線で直行できるため1時間ちょいの距離である。住宅地を通り抜けたところにあるクラシックコンサート向けのコンパクトなホールだ。

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曲目や曲順はほぼ同じだから3度目ともなれば厳密な意味での新鮮さは無い。が、ライブは生もの。演奏はステージごとに微妙に違うだろうし、会場や座席の位置が変わればこちらの意識や感覚も変わる。前回の国際フォーラムは二階席からステージ全体を俯瞰する形だったのでやや距離があったが、今回は前から5列目のほどよい位置。ステージ全体ではなく、それぞれのアーティストをカット割りで追ってゆくような「映像感覚」が伴うのだ。

主役は紛れもなく玉置浩二だから、視覚的には玉置浩二の表情を中心に目で追うことになる。『サザンウインド』で客席にウインクしてみせる瞬間もハッキリと見えるから視覚効果は抜群。玉置浩二越しのアーティストたちの表情も適度に印象付けられる。視覚によって切り取られると、それぞれの楽器の音もより鮮明に聞こえて来るような気分になるのだ。二階席から俯瞰で見おろす場合の玉置浩二の「歌」とアーティストたちの「演奏」はひとつに溶け合っていたが、その「ロングショットの一体感」とはまったく別のグルーヴ感を味わうことができる。

多くの人が感じたと思うが、今ツアーの玉置浩二の「歌」は盤石の安定感。休憩を挟む構成や、厳選された曲数が今の玉置浩二にはピッタリなのだろう。気負うことなく、無理をせず、凝縮された「最高の今」を表現している感じがする。それを本人も楽しんでいるから、観客も安らぎに包まれる。

玉置浩二の歌はテクニカルである。それでいて、ナチュラルである。風や木々のざわめきや波の音は、何かを表現することなど意識してはいない。それは自然のままにある。けれど、その音が絶えず変化しながらその瞬間の「今」を実感させる。

玉置浩二の歌もそれである。

玉置浩二の「今」は長い年月の積み重ねの結果である。そして、結果でありながらも「途上」にあることを感じさせてくれる。絶え間なき進化(=前とは違うもの)を実感させられるのだ。盤石の安定感を持ちながらも、その進化を確かな手応えで印象付けてくれるのだ。

以前のステージとの比較は、例えば映像化されたものを比べることで可能にはなるのだろうが、大切なのは聴いた人の「感覚の記憶」である。その生なましい「人間の情感」こそが、繊細な進化を感覚として印象付ける。

一時代を築いたミュージシャンたちにとって「全盛期」は「過去」になることが多い。「全盛期」の定義づけは人それぞれだろうし、最も売れていた時期のことを指すのであれば、玉置浩二にとっても安全地帯として爆発的に売れていた時を指すのかも知れないが、アーティストにとっての「全盛期」はもっと別の次元にある。若い頃に比べれば声質は明らかに変化している。ファンの中には昔の声の方が良かったと思う人もいるだろう。そう感じる事も決して間違いではない。「安全地帯の玉置浩二の方が好き」というのも同じだ。

玉置浩二も歳をとった。それは事実だ。けれど、歳を取ったからこその深い味わいというのもある。『ワインレッドの心』などを聴くと、若い頃の方がセクシーなのかも知れない。若々しくて生々しい男と女のエロスが浮かび上がっていた。それが今はもっと大人の、もっと上品な「艶」を感じさせてくれるのだ。その「艶」がもっと人間的な『愛』を醸し出すのだ。

「若さゆえの魅力」が失われるのは仕方ない事だが、歌そのものに「喪失感」をおぼえる事は無い。失ったのではなく進化したのだと確信を持って言えるからだ。失っただけで終ってしまう多くの表現者がいるのは事実だ。

安全地帯の『ワインレッドの心』と玉置浩二の『ワインレッドの心』は明らかに違う。それでいて、一つのものなのだ。一本の木に例えるなら、「生い茂った葉」と「太い幹」のようなものかも知れない。樹木は生い茂った緑の葉がその瞬間の若さや生命力を感じさせるが、太い幹にはもっとどっしりとした、悠久の生命力が感じられるように……。

今宵は『メロディ』の前に、『清く正しく美しく』の出だしを付け加える小粋なアレンジ。枝葉の中に別の色づきをした葉を見つけるような感覚を味わえた。

シンフォニック・コンサートをひとつの転機として玉置浩二はひとつの完成形を得たと思う。けれど、太い幹の成長と共にままだまだ新たな枝葉を見せてくれるに違いないとの確信を我々は得た。

「今の玉置浩二」を味わえたこの喜びと共に、今ツアーの玉置浩二を「記憶」にとどめよう。

来年は安全地帯35周年!

安全地帯の玉置浩二はどんな枝葉を見せてくれるのだろう? 

メンバー全員の気持ちはもちろんだが、「安全地帯」という音楽史にとって重要なバンドと、不世出の天才歌手の35年目を、より多くの音楽関係者やイベント関係者の方々に支援してもらいたいものである。

玉置浩二と安全地帯は日本が誇る純粋無垢な「芸術」であり「文化」なのだから。

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金沢散歩

二日目の金沢は快晴。青空に雲ひとつなく暖かい。

金沢観光の定番とも言える金沢城と兼六園へ。ホテルから歩いて行けるのがやっぱり嬉しい。

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ランチは兼六園の食事処で「治部煮ラーメン」。あ、やっぱり金箔が! ラーメンまで金箔入りなんざぁ、さすが加賀百万石。金箔も薬味なのでしょうか?? でも……おいおい、意外と美味しいぞ♪

観光地のラーメンなんて普通は食えたものじゃないんだが、治部煮がしっかりしているし、麺のコシもなかなかのもの。金沢の治部煮ラーメン侮るなかれだ。ま、1200円はお高いが、これだけ美味しけりゃ、観光地値段に金箔増しということで納得しても損は無い?

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ゆっくり歩いて西茶屋街へ。東に比べるとかなりコンパクトな街並みだ。

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ここでは、らくがんの有名店『諸江屋』で食べたぜんざいが絶品! おもちを自分で焼いて、運ばれてきた小豆に入れて食べるのだが、この小豆がとーーーんでもなくウマイ! 小豆だけは自分でもしょっちゅう煮るほどウルサイつもりだけど、ここの小豆には正直唸りましたよ。上品で淑やか。小豆そのものが持っている自然な甘みを引き出せばこその味。

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金沢は和菓子の宝庫ですねぇ。

中田屋のうぐいす豆のきんつばをお土産に買いました。きんつばが苦手な人にも「おいしい」と素直に頷いていただけました。

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金沢散歩

IMG_1415先日、一泊二日で金沢へ行ってきた。一昔前は「北陸」と聞けば遠い場所のように感じていたけれど、北陸新幹線が開通したおかげで距離的にも気持ち的にもグッと近くなった。北陸新幹線で最も早い「かがやき」に乗れば、東京から金沢まで2時間30分。東京から神戸へ「のぞみ」で行くような感じだ。

到着してすぐにランチ。とにかくおいしい寿司が食べたかったので、旅行前に評判の名店を予約しようとしたがやはり満席。そこで、金沢グルメの人が「意外と知られていない名店」として上げている店を予約した。それが日航ホテルの中にある『弁慶』というお店。

IMG_1418まず気に入ったのが店の造りだ。入った瞬間に上品な佇まいであることがわかったが、何よりも気に入ったのはカウンター越しに中庭が見える造り。こういう店は今まで知らない。寿司を握る職人さんの背後に木々が見えるのは風情があっていい。

職人さんも素晴らしかった! 優しく優雅で繊細な指先の動きを惚れ惚れと見つめてしまいましたよ。あんなふうに握られる寿司はさぞかし美味しいだろうなぁと、感覚的に伝わって来るのだ。

握られた寿司は溜息がでそうなほどの美しさ。すぐにでも食べたいと思わせるのに、食べるのがモッタイナイとも思わせる。

そして味は……掛け値なしに最高級! 大きさも形もネタもシャリの食感もすべてが完璧! 


何よりも個人的に「来たぁぁぁ!」と思ったのは、客に醤油を使わせない事。カウンターには醤油も醤油皿もないのである。ネタに合わせた微妙な味付けが施されているので、醤油などつける必要がないと言う事だ。

僕は元々、醤油というものをほとんど使わない。冷奴も刺身も寿司も絶対に醤油は使わない。素材の味をそのまま楽しみたいからだ。そんな僕にとって、寿司店の醤油や醤油皿は目障りなものでしかなかったから、ついに理想のお店に来たぁぁぁという感じなのである。

勿論、ネタには味付けがしてあるので素材そのままではないのだが、その味付けは素材を理想的なまでに引き出すような上品さと丁寧さ。

「これが本物のお寿司というものですよ」

声を大にして言いたいくらい。

下の写真は「のどぐろ」。軽く炙ってあるのも魅力。

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その後は定番の近江市場、東茶屋街、武家屋敷を散策。主要観光地に歩いて移動できるのが嬉しいね。

ブラブラ、ノンビリ。街そのものの風情を愉しむ。

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東茶屋街では、お茶屋さんの名残を留めた『志摩』で静かに和菓子を頂いた。

何だかホ〜ッとする。

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夜は金沢で「行列ができる居酒屋」と評判の『いたる』へ。開店前から行列ができていたけど予約しておいたので即入店。のどぐろの塩焼きが絶品でした。

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その後はホテルのバーで一杯。こちらもバーカウンター越しに夜景が望めるおしゃれな造り。

カクテルに細工を施した金箔が浮かんでいるのが金沢チック。

加賀百万石テイストですね。

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初めての金沢。薄曇りで肌寒かったけれど、大いに満喫して駅前のホテルへ。

部屋から見た夜の金沢駅。


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トランプ勝利

アメリカ国内の社会状況にそれほど関心があるわけでもなく、新大統領によって日本の政治や経済がどう動くかなんてことについては無知蒙昧な私でして、単純にイメージとして好きか嫌いかで判断するとしても、判断材料はマスコミの偏向報道しかないわけで、もっと単純に感覚的なもので判断するなら、金持ちと政治家と権力者が嫌いな私にはヒラリーもトランプも同じ穴のナントカ的に僅差もなくて、政治家は政治と経済の手垢にも塗れているけれど、経済の手垢にしか塗れていないトランプの方が少しはマシなのかと思う瞬間もあったりなかったりで、民主党候補としてヒラリーと競り合ったバーニー・サンダースなら全面的に支持したいと思っていたので、ヒラリーが負けたことにもそれほどの驚きはございませんでしたが、トランプ勝利がヒトラーを支持した過去のドイツ民主主義の二の舞になるかならぬかはアメリカ国民の判断力だけでどうなることでもなく、トランプ政権にどんな閣僚が雁首を並べるかが重要なのと、そこに経済優先主義の魑魅魍魎たちがどう絡んで来るかが決め手なわけでして、日本の片隅で資本主義経済の枠組みから僅かにはみ出しながら清く正しく貧しく暮らしている私なんぞにはどーすることもできないわけですが、トランプ勝利でひとつだけハッキリしたことは、日本のマスコミ報道(アメリカの報道も日本のマスコミを通してしか伝わらないので、「日本の」と言わせていただきます)および、テレビ番組でアメリカ社会を語るような、したり顔の「有識者」の言葉などまったくいい加減だったということがわかったことで、マスコミ主導型の理数系社会的な多数の論理にも綻びが見えたと言うことにのみ快哉を叫びたくなったわけで、トランプ政権に追従するにせよ抵抗するにせよ、マスコミが作る「絶対多数」に踊らされて操り人形にだけはなりませぬよう心して清く正しく美しく生きて行きたいと思いつつ……今も玉置浩二の歌を聞いております。

『サワコの朝』の玉置浩二

『清く正しく美しく』を弾き語りながら思わず「グッときて」しまう玉置浩二を見て、「いいなぁ〜」と思った。

自分が作った曲と詞。何度も何度も歌って来たはずなのに、ほんの数フレーズを歌っただけでグッと来てしまう姿に、あぁ、芸術なんだなと思った。

作り手が自分の作品に感動できる姿を僕は美しいと思う。

なかなかそうはいかないものだ。

口さがない言い方をすれば「自己満足」ということにもなるけれど、自分がまず最大限に感動できる作品を創り上げられなければ他人を感動させる事などは出来ない。商売によってパッケージ化されるに従って、作り手の自己満足は芸術的観点から語られることを奪われ、「お客さんを意識した作品」というフレーズのまやかしに踊らされてしまう。

もちろん、優れた作品には自己と他者の距離を近づけるだけの力がなくてはならないのだけれど、その真理を徒に商売としてふりかざし、「他者の存在」ばかりを主張する輩がクリエイティブな業界には跳梁跋扈しがちなのだ。「自己満足」とか「自己陶酔」なんて言葉は否定的な意味合いとして使われてしまうものだけれど、真に才能あるクリエイター(=芸術家)の自己満足や自己陶酔にふれることこそが芸術の味わいであり、理屈を超えた感動とのふれあいになるのだ。

だからこそ、『清く正しく美しく』を歌いながらグッときてしまう玉置浩二に僕は心から感動したのである。

阿川佐和子が言うように、実に道徳的なフレーズの並んだメッセージ・ソングなのに、嫌味も説教臭さとは無縁のような純粋さで心地よく胸に沁みこんでくるのは、他者に向けたメッセージが完璧に自己完結しているからであり、玉置浩二の純粋無垢な「きもち」が言葉とメロディに変換されているからである。

他者の存在、他者との距離、自己の抑制、自己の放擲……。

何かを表現しようとすればどうしてもそんなものに「余計な必然性」を感じて惑わされてしまいがちだけど、自分が「グッと来るもの」を作り出す事の純粋さこそが全てに勝るのかも知れない。

そう思わせてくれた朝のひとときでした。

昭和レトロなやきそば屋

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横浜の阪東橋界隈にある「磯村屋」。

店構えも店内も昭和の匂いが残る懐かしさ。

入口のそばに年季の入った鉄板があって、とても愛想のいいおばあさんが二人でやきそばを焼いている。

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メニューを見て驚いた。

やきそばしかない! 

おでんはあるけど、普通はお好み焼きもやっている店がほとんどじゃないだろうか? 本当にやきそばの専門店なのだ。

しかも……や、安い!

一番お高い三色やきそばの大盛りでさえ400円!

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なのでそれを注文。玉子と肉は定番だけど、ポテト入りは珍しいかも。量もしっかり大盛り!

店の雰囲気にマッチした素朴で懐かしい味。

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あーー、ホッとする。

子供の頃はこんなお店がいたるところにあったなぁ……。

しばしノスタルジアと戯れる。

400円なのはわかっているけれど、千円札を出して600円が戻ってきた時はちょっぴり感動してしまった。

お釣りをくれたおばあちゃんの、「ありがとう。お気をつけてね」の一言に胸がジーン。

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国慶節の中華街

本日は横浜中華街の国慶節パレード。今年に入って、中華街のパレードは3度目。なのに来週は雙十節でまたまたパレードがあるとか。中華街はちょっとしたテーマパークですね♪

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中華街でチャーハンと言えば清風楼。シウマイの名店ですが、ここのチャーハン(品名はヤキメシ)はおそらく中華街一。素朴な味ですが、中華街を良く知る人はみなさんナンバーワンだと言いますね。ラーメンもイケます。赤いシナチクの色が次第に溶け込んで、食べ終わる頃にはスープが赤く染まるのです。今日はシウマイは食べませんでした。

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食後のお茶なら悟空茶荘。様々な中国茶を楽しめます。先日、「マツコの知らない世界」で藤竜也が紹介していたお店ですね。本日は番組でも紹介された「八宝茶」を頂きました。リラックスできます。

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玉置浩二〜AMOUR〜in東京国際フォーラム

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前回の昭和女子大・人見記念講堂は一階の前の方の席でしたが、今回は二階席の真ん中あたり。どちらもファンクラブ先行で買ったのにこの差は何?とは思うものの、同ツアー2度目ということでたまには二階席もいいだろう……と割り切ったところ、二階席で遠くから眺めるステージにもそれなりの良さがあることに改めて気づかされました。

ひとつには視点が固定されるということ。前の方に行けばいくほど玉置浩二に近付くわけで、そうなると必然的に玉置浩二ばかりを視線が追うことになります。時にはバックの奏者たちを見たりもするし、とにかく視点が安定しない。例えるならば、映画でアングルやサイズが変わるのと同じですね。玉置を見つめていたとしても、歌いながら動き回るので必然的に〈視線〉と言う名のカメラも動き続けます。そこにモンタージュ効果が生じるので、受け手側の感覚の中で楽曲もそれに合わせて微妙に変化するわけです。

ところが、二階席からステージを見つめていると視点はほとんど動きません。もちろん、玉置浩二が動くのに合わせて微妙な視線誘導は為されているのですが、基本的にはロングショットで据えっぱなしにした固定カメラの映像ということになります。ゆえにスタティックな印象が強まるのですね。それは、「落ち着き」と言い換えてもいいかもしれません。しかも、二階席からだとステージ全体を見下すことになります。これは景色を見る時にも言えるのですが、同じ景色でも、「見上げる景色」「同じ目線の高さで見つめる景色」「見下す景色」では印象も大きく異なります。遠くの景色を見下す時はこちらの気持ちもゆったりと大らかになります。視覚が安定することによって、聴覚が研ぎ澄まされるかどうかはわかりませんが、とにかく落ち着いて玉置浩二の歌を聴いている感覚が強まったような気がしました。空間の広さを視覚で体感できるのもいいですね。一階席だと歌が前面から広がってくる感じですが、二階席からだと下から湧き上がってくるような感覚ですね、同じ曲でも聴く場所によって微妙に変化するのです。そして、これはライブでしか味わえない感覚なのです。

2度目なので曲も曲順もわかっているから安定感はさらに増します。前回は「生きる事の心地よさ」を再認識させてくれましたが、今日のライブは「ただそこにいることの心地よさ」に包まれた感じです。とにかく気持ちいいのです。ふわふわ宙を漂っているような感じ。シンフォニックでもそうでしたが、玉置浩二の歌に落ち着きがあるからなのでしょう。体と心がピタリと重なり合っている感じ。第一部を『遠泳』で締めくくり、その曲の余韻を崩さないようにスーッとステージから消えて行く玉置浩二の姿の何とシンプルで美しい事か!

セットリストがわかっているからか、前回よりも更に時間が短く感じられました。本当にちょっと長め一曲を聴いたような感じです。もっともっと聴きたいと思ってしまうのも確かですが、そこに「余韻の心地よさ」が生まれるのですね。今ツアーは玉置浩二の楽曲と歌が与えてくれる「余韻」を心地よく味わうツアーなのかも知れません。

今ツアーはあと一回、11月17日の「かつしかシンフォニーヒルズ」にも行く予定です。こちらの座席は未定ですが、どの席からでも心地よくなれるのは、やっぱり玉置浩二の「歌」だから。

同期交流

近年やたらと中学・高校時代の友人たちとの交流が復活しているのですが、同窓会では同じ学校に通いながらまったく接点の無かった人も少なくはありません。

高校時代は同じクラスになったこともなく、話したこともなく、存在すら知らなかった人なのに、「同期」というカテゴリーの中では時が経てば「知人」になるのですね。そんな中で、高校在学中もジャンル的にまったく別の人でしかなかった人と同期会で少しずつ話すようになり、先日は二人だけで飲みに行く仲にまで発展。

高校卒業以来、真逆のような人生を歩んできたし、何十年もアカの他人でしかなかったのに、3時間も二人でじっくりと話せば、今までのイメージとは違った面も見えてきて、意外と人間のタイプとしては似通っていたのかも知れないと思ったりするから不思議です。

不思議だし、「人生って面白い」って思えてくるのです。

勿論、昔から何となくそりが合わなかった奴とはやっぱりそりが合わなかったりもするし、ずっと仲良く交流を続けてきた友だちとそりが合わなくなることもあるのですが、年を取って微妙に変化する人間関係がプラスの要素として感じられるのは嬉しいものです。

玉置浩二 〜AMOUR〜in人見記念講堂

昭和女子大・人見記念講堂。

初めて訪れる会場でほぼ一年ぶりの玉置浩二ライブを堪能。ツアーとしてのソロ・コンサートも昨年の『故郷楽団』以来だ。シンフォニックを始めてからの玉置浩二は「歌うこと」に専念することによって「歌い手」としての感性に磨きをかけてきた。オーケストラとの「調和」によって「歌声」の純度を高めてきた。その結果、ロックバンドのボーカリストとしての最高峰を極めた男は、あらゆるジャンルの音楽を含めた「歌い手」としての頂きにまで到達し得た。

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ゆえに、バンド・ボーカルとしての「やんちゃな弾け方」とでも言うような部分は影を潜めた感はある。「洗練された大人の玉置浩二」が前面に出るようになったため、昔からのファンの中には「堅苦しさ」を感じてしまう人もいるのだろう。実際、シンフォニックからの流れを見続けていると、安全地帯としての玉置浩二が恋しくなる瞬間があることは否定できない。

玉置自身はどうなのだろう? そろそろ「やんちゃに弾けるステージ」に戻りたいのではないか……などと思ったりもするのだが、今回も「シンフォニックからの玉置浩二」をギュッと凝縮し、ブルーノートなどで行われるライブハウス・ショーのようにコンパクトでシンプルな雰囲気を取り入れたステージになっていた。安全地帯メンバーの矢萩や六土も今回はステージの奥の方で他の演奏家たちと横並び。玉置浩二との間に微妙な距離が置かれているから、バンドの時のような融合感はない。が、玉置浩二の「歌」の純度を高めるためのほどよい距離なのかも知れない。

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一発目の曲は『サーチライト』。テレビドラマの主題歌だったので、最近の玉置ソングではもっとも世間的認知度の高い曲だ。それでも観客は立ちあがらない。これはブルーノートやシンフォニックで出来上がった「大人の雰囲気」。バンドと一体化して盛り上がるのではない。

それでも、我々はスーッと玉置浩二の歌に吸い寄せられてゆく。その自然さ。これこそが芸術の力だろう。本当にスーッと溶け込むように吸い寄せられて、あっと言う間に玉置浩二と演奏家と観客とがひとつに溶け合ってしまう。あとはただひたすら玉置浩二の「音楽」に身を委ねるだけでいい。バンド・ボーカルとしての玉置に対する郷愁もどこかへ消える。玉置浩二の「歌」は聴く者の心の中に渦巻いている様々な想いを撹拌させることによって純度の高い澄明さへと導いてくれるのだ。

僕の心は最近かなり荒んでいる。人間を信じられなくなっている。信じようとした「世界」がどこにも存在しないことを体感して虚無に襲われている。落ち着ける場所が無い。自分のリズムが狂っている……。それは昨日今日の刹那的な感覚ではなく、何年にもわたって蓄積されたものだから根腐れも相当なものだ。そんな精神状態ではたとえどんなに美しいものに触れても、素晴らしいものと向き合っても、どこかしら虚しさをひきずるものだ。正直に言うならば、今日のコンサートにもいつものような期待感は沸き上がって来なかった。心の中にポッカリと空いてしまった空洞には虚しい風が吹き抜けるだけだ。いつも以上に冷めた目で、いつも以上に批判的で……。

けれど、玉置浩二の歌に吸い寄せられてしまえばすべては撹拌される。人間不信とか自分の世界の喪失などというものは精神の奥深いところにあって、他者には触れ得ないもののはずだ。けれど、それらは世俗の垢でしかない。「生活」とか「お金」とか「仕事」とか……。世俗の基準に照らし合わせることで生まれる脆弱な懊悩でしかないのだ。

玉置浩二の歌に吸い寄せられ、自身の内部にある懊悩が撹拌されてしまえば、後に残るのは純度の高い「魂」のみ。それが希求するものは何か? 玉置浩二の歌に吸い寄せられながらハッキリわかったことがある。

「生きる心地よさ」に他ならないと。

それがあるから生きていけるのだと。

優れた芸術はそれを与えてくれる。或いは思い出させてくれたり気付かされたりする。人によっては具体的な「感動」や「勇気」や「共感」だったりするだろう。それらはすべて生きることに対する気持ちを前向きにしてくれるものだ。そこには必ず「生きる事の心地よさ」があるはずだ。生きる事は辛い。苦しい。社会と向き合う事や人間関係はとかく厄介なものだ。けれど、生きることの「喜怒哀楽」には常に「心地よさ」が寄り添っている。人によってはそれに気付けなかったり、気付く瞬間があまりにも短かったりするから、心地よくない現実に惑わされてしまいがちなのだけれど、心地よさを味わう感覚は人間に備わった本能なのだ。息をする。ものを食べる。寝る。話す。動く。人間の基本的な本能の端々に心地よさは寄り添っているのだ。生きていることが心地よいと感じられなければ「生命」は途絶えてしまっただろう。

玉置浩二の歌には「魂」がある。「魂」とは世俗的な計算や打算にまみれた様々な「事情」に影響されないものを指す。玉置浩二が持って生まれたもの。言葉をメロディに乗せて紡いでゆく才能。その魂が純度を高めれば高めるほど、そこには生きる事の心地よさが滲み出し、溢れ出し、それに触れた者を包み込む。

玉置浩二は魂の赴くままに歌っているだけなのだろう。「歌いたいから歌う」「歌うことが楽しいから歌う」……。そのシンプルな情動こそが「魂」を形作る。

唯一無二の玉置浩二の才能が、本能としての心地よさと呼応して、その歌詞、その旋律、その音が最も理想的とするところへと迷うことなく導いて行く。純度の高い一音一音が連なり、絡まり合い、いくつもの複雑な世界を作り出してゆくのに、それが不思議とシンプルで澄明で美しいのだ。

15分の休憩を挟むのもシンフォニック以来のスタイル。一気呵成に歌い続ける玉置浩二も魅力的だが、このゆとりがあるからこその「味」はある。無理をすることは無い。ただ自然に魂の赴くままに……。玉置浩二が心地よく歌うからこそ、我々はそこに「生きる事の心地よさ」を感じるのだ。今日の玉置浩二は一言もしゃべらなかった。挨拶すらなかったし、喋ろうとする瞬間さえなかった。シンフォニックよりも少し前のコンサートはそうだった。ただ歌う。それだけで完結するステージの心地よさ。

聞き慣れた曲や他の歌手に提供した曲に新曲を交えて玉置浩二は歌い続ける。玉置浩二の音楽センスによって生まれた曲だからメロディは似通っている。人間にとって「心地よさ」とはとっても自然な感覚だから、多くの場合それはどんどん過ぎ去ってしまう。もしかしたら、最高に心地いいものほど「素通り」してしまうのかも知れない。けれど、本当に心地のいいものは一瞬にして体内に沁みこみ、細胞の隅々を一巡してから通り抜けて行く。素通りしたように感じるだけで、スーパースローで再生して見れば、決して素通りしていないことがわかるはずだ。

すべての曲が玉置浩二の歌声によって甲乙付け難く心に響くのだが、そんな中で特に心地よく興奮したのは……意外にも『じれったい』だった。繰り返し聞いている曲なのに、とんでもなく新鮮だった。アレンジの良さ。そのグルーヴ感。それらが相まって初めて聴く曲のように思える瞬間さえあった。玉置と矢萩が顔を見合わせた時の楽しそうな表情も印象的だった。

心地よく生きたい。

誰もがそう願う。その心地よさの実感を玉置浩二は常に「愛」として表現する。「AMOUR」とフランス語にしたのはカッコよすぎるけれど、その言葉にもやっぱり「心地よさ」がある。

生きることの心地よさ……。

今回のツアーはそれを教えてくれる。

今日の座席は前から数列目のど真ん中。次回は東京フォーラムの二階席。客席の位置で印象がどう変わるのか……楽しみだ。

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同窓感謝

この夏、故郷で中学の同窓会を開催したのです。

大々的な同窓会は13年ぶり。

今回は幹事の一人として連絡先のわからない人を探しまくって、音信不通だった人と何人か連絡を取ることができました。

その甲斐あってか、中学卒業以来の再会を果たし合った人も多くいて、「探してくれてありがとう」「呼んでくれてありがとう」と言ってもらえたのが何よりのご褒美。話してみると遠い昔の些細なひとコマを鮮明に覚えている人がいて、「えーっ、そんなことよく覚えてるなぁ」と感心したり感動したり。

あの頃の自分がどう見られていたのかを再確認したり、その時のイメージが今も変わらないと言われて妙に勇気づけられたり……。

みんな笑顔で、昔のままの呼び名で語り合う。


うん、同窓会っていいものですよ。

来た人はみんな、そう言い合ってましたから。


残念なのはこの13年間で5人の同窓生が亡くなっていたこと。前の同窓会の時には笑い合っていた人がもうこの世にはいない……。年を取ると13年なんてアッと言う間なのに、やっぱりそれなりの年月が経ってしまったと言うことなのですね。

だからこそ、同窓会はいいものなのです。

同窓会なんて面倒くさい。どうせ誰も覚えていないよ……と、考える人もいるのは事実だし、中学時代にいい思い出の無かった人もいるだろうから、一概には言えないのだけれど、そう思いつつも来てみたら、中学時代に戻れて感動したって、来た人はほぼ100%そう言いますね。

同窓会はいいものです。

いろんな自分と向き合えます。

感謝感謝の一日でした。

夏時風物

猛暑が続いております。

この夏のお祭りやイベントの写真をいくつかアップしておきます。

7月は恒例の川崎大師・風鈴市。
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つづいて横浜の神奈川新聞花火大会。1時間で15000発は壮観。今まで見たことのない、夜空でネオン状に変化する花火はスゴかった。花火の進化形を見た瞬間です。動画゛しゃないとその凄さが伝わらないのが残念です。大桟橋に豪華客船「飛鳥供廚停泊中だったので、風景的にも一味違いました。


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現在、赤レンガ倉庫で開催中のイベントでは広場に南米の川が出現。周りには砂浜が作られていてリゾート気分を満喫できます。

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没後20年

pct_atsumi_main28月4日は名優・渥美清の命日でした。

亡くなって20年になります。

もうそんなに経つのか……というのが率直な感慨です。

20年の歳月にまるで実感が無いのです。

若い頃の20年はとんでもなく長い歳月だったのに、年と共に歳月の感覚は曖昧になってゆくのでしょうか? それとも、時代そのものがドラスティックに変化していないからでしょうか? 

確かに、この20年でITは飛躍的な発展を遂げています。

けれど、それ以外の分野では20年前と大差がないような気もします。

政治と金の問題は相変わらず不透明なままだし、福祉や社会保障制度、税金や年金の問題など、寧ろ悪い方向にねじ曲がったり、後退しているようにも思えます。

芸能界なんてどん底で停滞しまくって腐敗臭すら漂っていますね。

20年と言えば、生まれた赤ん坊が成人になるだけの歳月です。けれど、それが社会の成長とはリンクしないのですね。

変わらないものの大切さや美しさは勿論あって、それは守るべきものですが、守る必要の無いものが歪んだ価値観で守られてきたのがこの20年なのかも知れません。

少なくとも日本映画の場合はそう断言していいでしょう。

渥美清の死と共に『男はつらいよ』シリーズも幕を閉じました。日本映画が真に日本映画らしくあった時代の最後の象徴を失って20年……。寅さん映画とその「時代」をリアルタイムで知っているのは、30代以上の人になってしまったのですね。

それは、すっかり変わってしまった20年を意識させるはずなのに、実際はそうではないから不思議な感覚なのでしょう。

渥美清と『男はつらいよ』を喪った時から、映画と共に生きてきた僕の「時代」が歩みを止めてしまったのかもしれません。

自他歪曲

相模原の障害者施設で起きた殺人事件は現代社会の様々な問題点を孕んでいるとは思うのですが、何よりも思うことは、誰かの人生が「幸せ」か「不幸せ」か、生きる価値があるかないかを、他人がとやかく言う事ではないと言う事です。

他人と比較した時に「貧しい」とか「不健康」だとか、「地位や名声」が無いとか、「苦労」が多いとか、「家族や恋人や友人」がいないとか……そんなことで優劣を決めたがるのが人間ですが、そんなものはその人なりの人生における「幸福」を判断する材料にはならないということです。

多くのものを有している人は、持たざる者と自分を比べて自己満足に浸るでしょう。確かに、「持たざる者」が「有する者」を羨むこともあるでしょう。

けれど、他人に判断できることではないのです。

犯人が最も憎んでいたのは「持たざる自分」だったのかも知れません。だから、勝手な判断で、自分より「劣る者」を設定して、その人たちを不幸と決めつけ、「殺してあげる」という結論に至ったのかもしれません。

「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったそうです。民族の血を優秀な遺伝子だけで守るために、他民族や障害者を排除しようとしたナチスの思想。

思想と言うのは、哲学であれ宗教であれ、常に「自分主義」。他者のため……などと尤もらしい事を語っていても、それを信じない者は間違っていると決めつけてしまったなら、その時点でナチスの思想と大差はないのです。

人は自分と考え方や価値観の違う他者を排除することで安心したいものなのです。

それが殺人とか暴力に繋がらなかったとしても、多くの人にはそういう部分があります。残念ながら、それが生物すべてに与えられた本能だからなのでしょう。けれど、人間には理性や知性が与えられました。本能を生かしながら、本能とは別の価値観を育てる機会が与えられたと言う事です。

けれど、やっぱり、この世の中は「有する者たち」の「罪」で穢されている部分も大きいのです。「持たざる者」との格差を広げることで、自分たちの間違った価値観による幸福を独占しようとしているのです。

だから、この事件の犯人の行為も許される……なんてことは絶対的に無いのですが、彼の行為がそのまま世界に横行するテロリストの論理と同じであり、テロ行為そのものであることも頭に入れておかなくてはなりません。

彼のような人たちが、テロ組織に集うのでしょう。

そして、彼らの「個」としての理想や価値観だけがテロを生むのではなく、そこには必ず「格差」の歪みに落ち込んだ人たちのあがきが存在するのです。

テロリストや犯罪者の行為は絶対的に許してはなりません。全否定すべきです。が、格差を生み、自分たちのために格差を守ろうとする人たちの「罪」にも我々はしっかりと目を向けなくてはならないのです。

その「二つの犯罪」の狭間で、精一杯生きている多くの人々がいます。

何よりも許せないのは、そんな人々の「笑顔」を奪う事なのです。

今回の事件で被害に遭われた障害者の方々の「笑顔の写真」を見るたびにそう思うのです。

この世はどうして、すべての人の笑顔で満たされないのでしょうか?

他人を歪め、自分を歪めれば、世の中は歪み続けるしかないのです。

一体全体

今年のトレンドとして異様な盛り上がりを見せているのかな……「ポケモンGO」。

でも、ダメだ。こういう盛り上がり方。ゲーム自体は別にいいです。それをみんなで楽しむのもね。でも、同じ場所で同じ方向を向いてスマホを弄る人たちは、「光景」として不気味かなぁ……。「みんな一緒に右むいてぇ」というのが子供の頃から嫌いなタチなので、「ブーム」ってものにほとんど乗っかって来なかった僕は、みんなが同じものに群がるのを見るとどうしても背を向けたくなってしまいます。ただのあまのじゃく……だけどね。

ちなみに、高校の時、担任教師が進路指導の際、僕の親に対して、「**くんは、他人がこっちへ向きなさいと強引に首を右へ向けたら、絶対に左へ首を向けますからねぇ」と苦笑していそうな。自分が受験したい大学しか絶対に受けないから指導しても仕方ないって諦めてました。

同じ場所で同じものを見つけて同じ喜びに浸る……。平和なんだろうけど、その平和が妙な連帯意識や排他性に繋がらなきゃいいですね。

ま、そんなこたぁ、愉しんでいる人たちには別次元の戯言でしょう。確かに、これを応用すれば有効利用できる部分もあるだろうし、ゲームの世界を飛び越えて社会的な有益性を生むこともできるとは思いますよ。

そのうち、落ちてるゴミを拾ってくずかごに捨てたら特別モンスターがゲットできるとか……やれればいいよね。

けど、楽しむだけでは終わらないのも世の常。やっぱり、事故とか違反とか多くなるでしょうね。悪用する人もいるだろうし……。

自分は大丈夫と思っていても、巻き添えを食うってこともありますしね……。そこんところは被害者にならなきゃ分からん部分も多いわけでして……。楽しんでるのに水を差すやつはどっかへ消えろーなんて言わない人が多い事を望むばかりでございます。

でも……裁判所とか原発にまでポケモンが出現するように作ってあるってマジ? それはさすがにまずいでしょ。ゲームのシステムについては全くの無知なんですけど、どこに出現させられるかをゲーム開発者側が操作できるとしたら……これはかなりマズイ。開発や運営側のモラルと品性も問われそうですなぁ。やっぱり、いずれは、出現場所の許可を取ってからってことにならざるを得ないと思いますけど、何か問題が起きてから……の対処はやめてね。ゲームを楽しんでる人を操って楽しむ……なんてのは二流SF小説の世界で十分ですから。

一人暮らしの老人に優しくしたらモンスターをゲットできる……とかならいいですけど。

任天堂がオッペンハイマーにならないように……と祈るばかりです。

一体感を全体主義に利用しようなんて悪だくみをするやつに、付け入る隙を与えないようにしなくちゃね。

自分がやりはじめると、自分のやってることは正しいと思っちゃうもので、かくいう私もそうであることは否定しませんが、だからこそ、ブームに取り込まれないうちは、冷めた目でいることも必要なんだよ……と自戒したいとは思うのです。

トランボ

6107トランボ久々に魂を揺さぶられる映画だった。

果たしてお前には誇り得る信念があるのか?

守り通せるアイデンティティがあるのか?

映画を見ながら何度も何度も自問自答を繰り返さずにいられなかった。


自分は何ひとつ持ち合わせていないのではないか……。


泣けた。

心から泣けた。

単にいい映画、優れた映画に対する感動ではない。

ある種の「啓示」だ。

何千本もの映画を観続けているとそんな感覚はなかなか味わえない。

久々の映画による「啓示」。


一人の脚本家が脚本を書き続けることで、「世間」と「時代」と「多数」を相手に戦い抜いた姿に魂を揺さぶられた。

自分に出来る事。

ただそれだけで戦い抜いたダルトン・トランボという男。

戦いであるという認識も意志も持たず、当たり前のようにシナリオを書き続けることですべてを証明した男。

彼が最晩年に脚本を書いたスティーブ・マックイーン主演の『パピヨン』はわが生涯におけるベスト3映画であり、ラストシーンの決めゼリフは私にとって映画史上最高の台詞である。

そして、この映画を観た今、『パピヨン』の台詞がトランボ自身の魂の叫びであったことを知る。だからこそ、あの叫びはわが胸にも突き刺さったまま永遠に抜けはしない。

当ブログのタイトルにも書いてあるその台詞。

「Hey you bastards, I'm still here!」

この台詞を堂々と叫ぶことができるなら、いつ死んでも惜しくは無い。

そのために生きる。

それでいい。

貶斥自滅

都知事選は色んな意味で「みっともない」人たちを浮き彫りにしてくれますなぁ。

注目されている三人の候補者はみなさんマイナス要素で「いい勝負」。自信たっぷりに「尤もらしい事を言ってる私ってステキ」……とばかりに自己陶酔しちゃってる候補者なんて、何か言うたびに私なんぞは「バカじゃないの」と思ってしまうんですけどね。その「自己満足陶酔型候補」に対して妙に遠慮がちな候補者もねぇ……。党派的思惑って醜いなぁ。だからって、曖昧な演説でこれまた自分の価値を貶めそうな候補者も何だかなぁ……。

でもねぇ、マスコミ的には一人だけを攻撃しているみたいなのが癪に障りますなぁ。過去のスキャンダルとかほじくり返すやり方ってなんか姑息。そんなこと言ってたら、過去にスキャンダルだらけだった某県の元知事なんてどーよ。でもって、その本人がやたらとこの候補者を攻撃しているってのも……情けないやね。あんまりやりすぎると、やってる方がバカに見えて来ませんか? これまた自己陶酔型。やればやるほど自分の底の浅さを露呈するだけで、しょせん**って思われてオシマイ。他人を貶して自滅しませんように。

だがまてよ、これって、もしかして……「褒め殺し」の逆バージョンかも?  「貶して貶して逆に生かす」みたいな。そんな高度な戦略をお持ちならスゲェかも。でも、やっぱり、今のところは他人を貶しているつもりなのに自分を貶めてるって感じしかしませんやね。敵を「貶斥」しようとして自滅しちゃった……なんてお笑い芸人的にはアリだけどね。

そりゃもちろん、批判される部分が多いからだよ……てな言い分にも耳は傾けなくちゃいけませんが、選挙ってのがいつの時代も他の候補者を批判することでしか自分や自分の指示する人を持ち上げられないってところがみっともないと思うわけ。相手の駄目なところをいくつもあげて、徹底的に貶めて、貶めた相手より優位に立つってのがどうにもじれったい。もっと、自分の主義主張に絶対的な自信を持って選挙戦を戦える「できる候補者」はいないものなのでしょうか。公平性の欠片も持ち合わせていないマスコミは三人の候補者しかとりあげませんが、ほぼ無視されている候補者の中にこそ、もっとしっかりした「できる人」がいるのかも知れないぞ……と思わずにいられないわけです。

庶民の指導者たるべき人たちがこうなのですから、子供のいじめをなくそうなんて言っても土台無理な話でございます。

座頭市が世間に背を向けて、「嫌な都政だなぁ」って呟きそうな結末にならないことを祈るのみでごぜぇやす。

我慢自虐

あなたたちがストレスの蓄積を感じるのは、やっぱり我慢していることが多いからなんだろうね。

世の中には我慢しなきゃいけないことが沢山あるんだよ。


でも、生きる事は耐える事だって言い切るのも無責任な気がするね。

ずっと我慢し続けていることを我慢できなくなったら……どうなるの?

生きる事が耐える事だとしたら、耐えないことは生きる事に背を向けるってこと?


「我慢するのはやめる!」


そう宣言したら、今あるものをすべて捨てなくちゃいけないのかな?

我慢して耐えて、自分を失う方がいいのかな?

全てかゼロか……の発想に固執することはないとも思うけど……。


IMG_0381守りたいものがあって、そのために我慢をしているの?

我慢することで得られる幸せがあるの?


我慢している……と思うだけで、自分がますます被害者のように感じられて、意味もなく誰かのせいにしたくなったり、何かのせいにしなきゃいられなくなってくるとしたら、それはとても悲しくて、切なくて、虚しいから……責任はすべて自分に舞い戻ってくるしかない。


我慢しなくなった自分の姿に憧れはあるの?

他人を傷つけるよりは自分を傷つける方がマシなのかな?

自虐は結局我慢のどん底。だったら、加虐に走る方がいい?


だからって、テロリストたちのロジックに近づくのはごめんだよ。彼らが我慢し続けてきたことを頭ごなしに否定はできないけど、やっぱりテロはよくないよ。


僕にはまだまだ罪の意識があるからね。

だから、我慢し続けるしかないのだろうね。


でも、もしも、明日、人生が終わるとしたら……その我慢をやめるのかな?



マルティン・ルターは言った。


「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

繰り返し、繰り返し、その言葉を呟いていると、自然に涙があふれてくるのはなぜだろう。

僕には植えるだけの価値あるリンゴの木があるのだろうか?

我慢の土の中で腐ることなく伸びて行くだけの根っこはあるのだろうか?

結局、最も押しつぶされたくないものに押しつぶされて呼吸をふさがれてしまうだけ?


唯一の救いは眠りたいと言う欲求。

疲れているんだよ。

ただ、疲れ果てているだけなんだ。

明日、世界が滅ぶのではなく、眠っている間に滅びてしまっているのかも知れないのだ。

いつ死ぬか分からない。いつ終わるか分からない。そこで残した言葉はいつだって遺書になり得るのだ。

だから、消さずにおこう。

それが唯一の存在証明になるかも知れない。






終焉受容

天皇陛下の生前退位が報道されて俄かに「平成の終焉」が取り沙汰されているご様子。今年で平成が終わるわけではないだろうが、年号の変化は日本における「時代」の切り取り方を明確にしてくれる。平成の時代においては一昔前の「昭和」が郷愁と憧憬を込めて語られているが、新たな年号の時代が始まると平成はどんなイメージで語られるのだろう?


平成になってからの28年間、もちろんいい事も沢山あったのだけれど、僕にとっての平成は「停滞」とか「後退」といったマイナスなイメージが強い。或いは「過ぎ去るだけの時代」か。


平成が始まったのは西暦で言えば1989年。なるほど、80年代の終わりが昭和の終わりと重なるわけか……。ならば実にわかりやすい。80年代は色んなものが完成した年代。そこから大切なものがどんどん失われていった。


日本映画も平成の幕開きと共に質的に衰退の一途を辿ってきた。最近は映像技術の進歩によって見映えだけは整っているようだが、どれもこれも似たり寄ったりのテレビドラマ風に均一化されてしまった。映画的スケールの大作ですら妙にテレビドラマ的。個人的には平成を日本映画の歴史における「空白の期間」として位置付けたいのだが、年号が変わっても質的な軌道修正が為されない限り、平成という時代によって括りきれなくなってしまう可能性は大きい。

平成と共に葬り去るべきものは沢山ありすぎるので、思い切って断捨離した方がいいに決まっている。


本日、日本国内で唯一VHSのビデオデッキを生産し続けてきたメーカーが生産終了に踏み切ったようだ。昭和から平成を跨いで隆盛を誇ったビデオデッキの生産終了がこの時期に決定したのも象徴的だろう。ちなみに、僕の家に初めてVHSのビデオデッキがやってきたのは……1978年(昭和53年)の秋だったはず。あの時から、自宅で映画を所有する時代が始まったわけだ。確か三菱製のデッキで、デッキ上部がカシャッと開くタイプだった。開いた時のモーター音と機械的な匂いは今でもハッキリ覚えている。



都民じゃないので都知事選については傍観者でしかないのだけれど、枡添問題から辞任にかけてのテレビ報道は「知名度に頼ることなく……」を強調していたけれど、立候補から告示までの報道を見ていると、結局のところ知名度優先でしか報道しないのはアンタたちでしょうが……と言いたくなってしまう。参院選もそうだったけど、テレビ報道に公平性なんてものは望んじゃいけないってことでしょうねぇ。



ウインカーによる右左折の合図を出さないワースト県に岡山が選ばれたそうだ。と言っても、日本人の大好きな「数による曖昧なパーセンテージ」での根拠の乏しい統計なんだけど、それでも我が故郷の岡山が選ばれたのはかなり意外。そもそも、岡山県民てぇやつは、融通の利かない頭の固いクソまじめな人が多くて、一般的な規則やら交通ルールを遵守することでいい子ぶるのがお好きだと思っていただけに……、へぇ、時代が変わったのでしょうか? 優等生の岡山県民も少しずつ不良中年化してきたのかな? 真面目ぶってたやつがグレるとタチ悪いぜぇ。面白みの乏しい真面目体質が終焉するのであれば容認したいけどね……。いや、そうではなくて、のほほーんとしてるところがあるから、ウインカーを出さなくても、なぁなぁで何とかなるってことかも?

ということで、本日の気まぐれ雑感でしたぁ。最近は放置することが当たり前になっていたブログですが、これからはこういうパターンで埋めて行くとしますか。

飽きたら潔く閉鎖します♪

無名のプロこそが必要です

日本のレベルがどんどん下がってゆくようにしか思えない。

世の中に蔓延する「数」の論理に惑わされて、レベルの低いものを高めようとはせず、レベルの低いものに合わせることで均一化を図ろうとする輩の吹き溜まり。


民主主義の名を騙る独裁政治が増長するのは数字に騙される人々が多いから。

ナチスを選んだのもヒトラーを選んだのも「民主主義」だった。

でも、当時のドイツにはそれが最善だったから。正しい選択だと多くの人が思ってしまったから。

その蒙昧さ。


かつての日本でも、軍国主義が国民を不幸にしたという「結果」を語るのは正しいことだけれど、軍国主義が日本を救うと信じられていた時代が確かに存在したのも事実。

歴史は常に間違ったものを選択してきた。

そのことに気付くのはいつも不幸な目に遭った後。

人間は後悔を重ねることでしか歴史の過ちを見極めることができないということ。



自由を振りかざすのは、自由な思想が怖いから?

民主を唱えるのは、「民主」であっては困るから?

まさか……。

「自由」に「民主」を操る「党」ではないことを祈るしかない。



それにしても……。

日本のあらゆる「現場」から本物のプロがどんどん追い出されてゆくのを実感させらる。

だから、政治のプロなんて幻想なのかな。

高額な報酬を貰いながら大して働きもしない国会議員たちなんかより、無償で町内会の世話役に奔走しているオッサンやオバチャンたちの方が遥かにプロだよ。

本当はね、無償でも働く意志のある人が政治家にならなきゃいけないの。政治はボランティアではないって言うけれど、本質はボランティアであるべきなの。議員なんて最低賃金でいい。金が欲しいのなら、世の中の最低賃金を議員報酬に合わせるべきなの。

あくまでも本質はね。理想だよ。

でも、その本質の部分が根腐れしてるから情けないんだよ。

プロって、「有名」とはイコールじゃないんだよ。もちろん、プロだから有名になるってのは本質。でも、有名だからプロとは言えない人が目に余るのだね。

無名のプロこそが今の日本では重宝されなきゃいけないよ。

政治も文化もアマチュアレベルで百均化。

有名なアマチュアに動かされる国の「後悔」は、いつ身に染みるのかな?

身に染みなきゃそれでいいって?

まぁね、昭和歌謡の名曲『東京ブルース』って歌にね、

♪どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙して欲しかった〜

って歌詞があるけど、騙されていることに気付かない人が一番シアワセなのかもね。

口のうまい人に騙され続けるのが幸せなのかな?


でも、それでいいのかな?

本当に、それでいいの?


とにかく……これ以上、不幸な日本人が増えませんように。

数字に振り回されない賢民が一人でも多くなることを願って……。

願うだけじゃなくて、何ができるのか覚悟を決めなきゃいけない分岐点。

せめて、多くの人が後悔した時、過ちに手を貸さなかった日本人だったとは胸を張りたいよね。

日本映画・幻すぎた企画

映画の企画は湯水のごとく溢れてはあっけなく蒸発するものだが、これまでキネマ旬報で「製作予定」として発表されながら実現しないまま消えた幻の企画の中から、海外スターの出演をぶち上げたものの、どう考えてもムリと思えるものをいくつか紹介しよう。

1970年に企画されていたのが『ギャング』。内容はわからないが、高倉健とフランス俳優リノ・ヴァンチュラを共演させる予定だったらしい。

『青い目のサムライ』は小國英雄と橋本忍の脚本で、出演がスティーブ・マックイーン、アラン・ドロン、三船敏郎! 1977年の企画だから、ギャラが安いからと『地獄の黙示録』の主役を断ったマックイーンにオファーするのは無謀の極。彼のギャラだけで当時の日本映画は何十本も作れてしまう。三船とドロンは『レッドサン』で共演済みだし、『レッドサン』のチャールズ・ブロンソンをマックイーンに置き換えて……といった思いつきレベルの企画なんだろうけど、マックイーンとドロンの共演なんてハリウッドでも実現率は低かっただろう。大風呂敷を広げるにもほどがある。アラン・ドロンにはもう一本、菅原文太との共演で『スーパーゴリラ』という企画があった。これについては、2013年の当ブログで紹介済みなので省略します。


1990年の企画もキョーレツすぎる。萬屋錦之介主演で予定されていた『ジョン万次郎・アメリカを発見した男』の共演者にはショーン・コネリー、ジョージ・ケネディ、ショー・コスギの名前が並んでいました。

その上を行く無謀な企画が『ゾルゲ事件』。主演が『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドって……。しかもこれ、日・ソ・独・伊・英・仏・米・中の合作というからスゴイ。地球規模の合作映画を日本主導で作るなんて……バブル時代ゆえの傲慢不遜な発想か? バブルが弾けて企画も弾けたみたいですけど。

その後もバブルの名残ゆえに資金繰りのアテでもあったのか、1992年にはいくつかの国際的スケールの企画が挙がっている。『ゴールデン・サムライ』は『タワーリング・インフェルノ』や『キングコング』などの超大作でハリウッドのヒットメーカーになったジョン・ギラーミンが監督予定。但し、主演が加藤雅也って……急にレベルダウンしてますけど……。

監督も出演者も未定ながら、『周恩来とキッシンジャー』という興味をそそる企画もあった。日本映画が他国の政治家の物語をどう料理するつもりだったのだろう?

 『三蔵法師』は言うまでもなく、孫悟空に出てくる僧侶を主人公にした企画だが、何とこの三蔵法師の役に予定されていたのがケビン・コスナー! コスナーは監督もやる予定だったというからオドロキ。前年に監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブス』がアカデミー賞作品賞を受賞したばかりだから、監督・主演のギャラだけでも日本の映画会社がひとつぐらい潰れそう。コスナーと言えば、『幸福の黄色いハンカチ』のハリウッド・リメイクの監督・主演としても何度か名前が挙がっていましたっけ。おかしいのが、猪八戒役に元力士の小錦。

国際的スケールとしても首を傾げたくなるのが『敦煌』。1988年に西田敏行主演で映画化されるまで、この企画は何度となく「準備中」として発表されていたけど……。題名は同じでも、まったく別のストーリーだったのかな? 最初の企画は1984年。主演が郷ひろみとアグネス・チャンてのを見ても、あの壮大な歴史大作とは別物のような……。その後、改めて発表されたキャストが……郷ひろみとナディア・コマネチって……。コマネチ?えっ、あの有名なルーマニアの妖精と言われた体操選手のコマネチ? ビートたけしのギャグのつもり? わからない……。「敦煌」っていうより、「混沌」だな〜。

元スポーツ選手で名前が挙がっていたのはジャネット・リン。札幌オリンピックのフィギュアスケートで活躍し、日本では「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれてCMにも出た人。札幌五輪の2年後に彼女の名前が映画出演としてお目見えしたわけだが、何と、その映画のタイトルは……『男はつらいよ・拝啓車寅次郎さま』。えっ? ええっ? 寅さんのマドンナ役??  次の寅さんのマドンナ役は誰なのか……ってのは映画界の風物詩みたいになっていて、色んな女優の名前が取り沙汰されたものだが、ジャネット・リンのマドンナは最高級のブッ飛び方。勿論、こんな企画が実現するはずもなく、その年の寅さんは、『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』という題名で製作され、マドンナ役には2度目の登場となる吉永小百合が選ばれた。寅さんと外国人フィギュアスケーターの物語って……想像すると楽しいけどね。寅さんがスケートを始めたりして、さくらやとらやの人々が唖然とするとか(笑)

ここに取り上げてみた「幻すぎる企画」の数々を見ていると、最近のセコすぎるテレビ規格のタレント企画がつくづく貧相に思えてくる。

ただそれだけ

ただ、ゆっくり眠りたい。ただ、ひたすら眠りたい。

ただ、ゆっくり集中したい。ただ、ひたすら集中したい。

ただそれだけ。

昔は望まなくても当たり前のようにできていたのに……。

ただ、ゆっくりと没頭したい。ただ、ひたすら没頭したい。

ただそれだけなのに……。


とにかく……息苦しいのだ。ただひたすら息苦しい。

『デッドプール』みたいに、息苦しさを何度も経験して不死身の肉体が手に入るのならいいけれど、そんなことは無理なので、今はただ、ひたすら、息苦しい。窒息しそうだ。

想像力も想像力も、やる気も集中力もある。

ただ、それをしまってある金庫を開けるために必要な、「衝動」と云う名の鍵が見当たらない。どこかに落してしまったのか? それとも誰かに盗まれたのか……。

その鍵さえ取り戻せれば……すべては変わる。

生きる意味も取り戻せる。

伊勢佐木町に夏が来た

横浜開港記念祭の一環として毎年行われている「みこしコラボレーション」。

神奈川県下21基の神輿が集まって伊勢佐木モールを「ワッショイ!ワッショイ!」。

六月の終わりに夏祭りなんて季節外れなのですが、イベント大好きの横浜は細かいことに拘らないっ!


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この日は真夏のような日差しでどこから見ても「夏祭り」。伊勢佐木モールを闊歩する担ぎ手たちも21組集まれば相当な数。一組50人としても1000人以上の「お祭り野郎」が終結すれば壮観です。


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ブレヒトの演劇論から

キネマ旬報1971年9月上旬号を読み返していたら、監督の森崎東が『三文オペラ』などで知られるドイツの劇作家ブレヒトの考えを引用して、「いい映画」の在り方について語っていた。

森崎氏が語る、「いい芝居」と「悪い芝居」の区別についてのブレヒトの演劇論をまとめると以下のようになる。

例えば……資本家からの弾圧に抵抗したコミュニストが抵抗の果てに感動的な最後を遂げる……といった内容の芝居を作った場合、資本家から搾取されている民衆は感動するだろうが、批判対象のはずの資本家まで感動させてしまう芝居が出来上がってしまうことがある。それだけ人間的な情感に訴える芝居が出来上がったと言うことだ。しかし、ブレヒトはそこに疑問を投げかける。感動した資本家は、「実に感動的な芝居で私自身も感動した。しかし、主人公の抱く思想は間違っている」と言うだろう……と。

つまり、コミュニストの価値観を描く物語なのに、資本家をも「感情的」に感動させてしまうような作品は「悪い作品だ」とブレヒトは断言するわけだ。本当に「いい芝居」とは、資本家が苦虫をかみつぶしたような顔になるようにものでなくてはならない……と。


普通に考えれば、資本家すら感動させる芝居……つまり、万人を感動させる物語こそが素晴らしいと思ってしまいがちだが、立場の違いや思想の違いが厳然と存在する世の中に於いて、それは絶対にあり得ないことなのかも知れない。ゆえに、一方の側の思想や価値観の正しさを訴えるとしたら、対立する者は否定されなくてはならないし、否定された側の人々を感情的にのみ感動させてはならないと言うことになる。感動させてしまうというのは、「感情的」なものでしかなく、「感動」は一時的な心の昂ぶりに過ぎないということだ。いや、感動するということは、そこに人間的な真理が存在しているからである……とロマンチックに語ることは出来るけれど、感動した資本家を搾取される側の民衆に転向させることが出来なければ、その物語に価値は無いのかも知れない。実にリゴリスティックな考え方ではあるが、だからこそ無性に惹かれるのだ。

大衆の多くは情感に流されやすい。例えば、誰かが死ぬ。みんなが泣く。それだけで「いい物語だった」と感じてしまう場合がある。物語の本質とは無関係にだ。そして、本質などはどうでもよく、感情的に涙を誘発することだけが目的のような薄っぺらな物語が氾濫する……。


映画の企画などでもそうだが、「普遍性」とか「万人受け」とか「登場人物への共感」といったものをやたらと気にする人がいる。それは勿論大切な要素ではあるが、そこに拘泥するあまり、どこかで見たような物語になったり、「またそのパターンか」とウンザリするような結末になることも少なくは無い。「普遍性」とか「万人の共感」なんてことをもっともらしく掲げる人たちは、当たり前のように、一度受けた(つまりヒットした)作品のコピーを作ることに躍起となる。そして、巷には劣化コピー作品が溢れてゆく。それは作品のみならず、役者の領域にまで侵食して、似たような容貌の役者、似たような演技しかできない「役者もどき」が堂々と主役を演じたりもする。そして、「劣化コピー作成業」の人たちが我が物顔でメジャーを気取るようになる……。芝居、映画、テレビ、音楽、お笑い……すべてにあてはまることなのだ。

ブレヒトの演劇論とは観点がズレていることを承知の上で書くのだが、ブレヒトの語る「いい芝居」の意味を日本のクリエイターたちは今一度咀嚼する必要があるのではないか。


外国映画の日本語タイトル

以前にもいくつか紹介したが、外国映画のタイトルはそのままカタカナ表記で使用される場合と日本語に訳した場合と日本語でアピールしやすい題名に作り替える場合がある。最近は英語タイトルをそのままカタカナ表記にすることが多くなったが、一昔前は日本語の粋な題名が多く見られた。

また、日本での公開が未定の場合には現在だと英語表記そのままで紹介するのが普通だが、昔はとりあえず公開予定の新作映画を日本語に直して紹介する場合も多かった。その中からいくつかを取り上げてみます。


『星間戦争』

公開決定時には『惑星戦争』になり、結局は英語タイトルをカタカナ表記にした『スターウォーズ』で公開された。もしも、最初の『星間戦争』のままだったら、『星間戦争・フォースの覚醒』になっていたのかな?


『ダーティハリー/掟取締役』

これは『ダーティハリー2』。英語題名は『dirty harry供戮任呂覆『enforcer』なのです。だから「掟取締役」になったんですね。ちなみに『ダーティハリー5』の英語題名は『The Dead Pool』。最近公開されたアメコミヒーローものの『デッドプール』と意味は同じです。


『ファニー・カップル』

これは笑える。英語タイトルは『The Way We Were』。つまり、バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォードが共演した有名な恋愛映画『追憶』のこと。これを『ファニー・カップル』などと命名したのは、ストライサンドがアカデミー賞主演女優賞を獲得した『ファニー・ガール』からの思いつき。前年に『おかしなおかしな大追跡』というドタバタ・コメディにも出演していたので、「ファニー」で売ろうとしたのかな? いずれにせよ、この時は未だレッドフォード主体で考えられてはいないと言う事だろう。それにしても、内容との差がありすぎますなぁ。


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『七パーセントの溶液』

英語題名をそのまま日本語に訳しているけど、日本公開時には『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』になった。欧米ではそのままのタイトルでもシャーロック・ホームズの活躍する原作が思い浮かぶのだろう。『犬神家の一族』にわざわざ「金田一耕助の」と突けないのと同じ。でも、日本では名探偵の名前を冠した方がいいに決まっている。

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『深夜ショー』

日本未公開なんだけど、英語題名は『the late show』。つまり「レイトショー」のこと。なのに、わざわざ『深夜ショー』なんてつけようとしたのは、今のように日本の映画館に「レイトショー」そのものが存在していなかったからかな?


『焼けただれた供物』

英語題名は『burnt offerings』で、意味は『燔祭』……って言い直してもなんのこっちゃわかりませんなぁ。つまり、「焼いて神に捧げる生贄」のことですから、日本語訳も間違いではないけど、結局は『家』というシンプルすぎるタイトルになりました。幽霊屋敷を舞台にしたホラー映画です。

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『地獄のハイウェイ』

英語題名は『damnation alley』。つまり、「地獄と化した路」ですな。原作小説があって、そちらが『地獄のハイウェイ』と翻訳していたのでそのままなんですけど、映画版は『世界が燃えつきる日』といいう仰々しい題名で日本公開されました。

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お寺でヒヤリ

先日、鎌倉のお寺へ行った時のこと。ほとんど参拝客のいない本堂の座敷に上がり、厳かな気分で手を合わせようと思い、小さな賽銭箱(大きめの手提げ金庫ぐらい)に小銭を落とし、用意されている線香に蝋燭で火をつけた。これを賽銭箱の奥にある香炉に立てようとしたところ、線香が半分ほどの長さでポキッと折れて、火のついた方が手前の賽銭箱の中にポトリ……。

慌てて賽銭箱を上から覗き込むと、暗い底の方で赤い火がポツンと灯っているではないか。これはヤバイ…思って本堂の入り口で御札などを売っている人に知らせに行ったら、その人は参拝者の御朱印への記帳で忙しいらしく、「線香が落ちた? 大丈夫大丈夫」と取り合ってくれない。再び賽銭箱の前へ戻ると、中から白い煙が立ち上っているではないか。

やっぱりマズイだろ? 中にお札が入っていたら燃えてしまうし、そのまま賽銭箱炎上にもなりかねない。このまま立ち去るわけにもいかず、寺の入り口まで走り、受付の人に知らせたところ、状況が把握できないらしく、「賽銭箱に線香を入れたんですか?」などと聴いてくる始末。ゆっくり状況を説明してようやく本堂まで確かめに来てくれたら……やっぱり賽銭箱から細い煙が立ち上っている。

受付の人は賽銭箱の投入口を簡単にパカッと取り外した。内心「え、そんなに簡単に開くんだ…」と思いながら覗き込むと、火のついた線香が確かに転がっている。小銭が数個だけで、お札は無かったようだ。受付の人は、「これですね」と火のついた線香をつまみあげて香炉へポトリ。

大事に至らなくて良かったが、もしも、そのままにして立ち去って……賽銭箱が燃え上がったりなんぞしていたら……放火事件の犯人にされていたかも知れなかったわけです。

南無阿弥陀仏

ゆめは元気です♪

横顔美人♪


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ちょっぴり憂い顔。


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ごろ〜ん♪


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興味津々♪


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スマーイル♪


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今年のあじさい寺

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あじさいの季節に鎌倉のあじさい寺(明月院)を訪れるのは久し振りです。

このお寺のあじさいはブルー系で統一されているのです。

ちなみに、『男はつらいよ・寅次郎あじさいの恋』のロケ地になったお寺ですが、カットによって遠くに海が見えているところは成就院からの眺め。二つの寺を編集で同じ寺のように見せていたので、明月院から海は見えません。


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あじさいを堪能した後は七里ヶ浜のイタリアン「アマルフィ・デラセーラ」。平日でもランチタイムは90分待ち。我々の前に25組ほどが待っていましたが、天気も良くて風が爽やかだったので待った甲斐はありました。ここのピッツァは本当においしいのです。

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メディア規制40年

政治権力によるメディア規制とか、報道の不自由化が懸念されているが、そうした動きは今に始まったことではない。

キネマ旬報1975年4月下旬号の「シネマ・プラクティス」のコーナーに書かれた落合恵子さんの文章は、40年前にも似たような雰囲気があったことを伝えてくれているので引用させて頂く。


 「最近、放送を通じて、こんな話題は避けた方が望ましいとか、こんな言葉は使わない方がいいとかいう、タブー条例、禁句集が各放送局の、現場の人間たちにまわってきた」

「政治的、思想的なことのみならず、我々が日常使い慣れている普通の言葉たちにまで、規制のワクが伸びてきているのだ」


落合さんはこう書いた後で保守系政党による管理統制や、資本主義体制を批判したマスコミに対するあからさまな制裁について遠まわしに書いた上でこう続けている。


「今、我々が普段、接しうるマスコミのあらゆる報道にかかわっているマスコミ人間たち(決してジャーナリストなどとは呼べない)は、生きのびんがために、無意識にせよ、どこかで、資本主義体質とうまく協調、妥協しえた人間か、あるいは最初から、マスコミなんてしょせんそんなものよと、太鼓持ちたらんことを決意した人間たちのような気もしてくる」

これらの言葉はそのまま2016年の今もそのまま使えそうだが、40年前に既に言論規制が懸念されていたことを想えば、その体質が連綿と受け継がれてゆく中で、1975年当時すでに懸念されていた「変化」を当たり前の「常識」として認識させられたマスコミ人間たちが、今や上層部としてメディアを仕切っているのであるならば、「報道の自由化」などという理想は机上の空論にしかなり得ないのではないかと憂鬱になってくる。

1975年当時に懸念されていたとしても、その後は「報道の自由」が守られ続けていたではないか……と言われれば、庶民感覚では頷いてしまいそうにもなるけれど、世界の報道自由度ランキングでの日本の評価が下がり続け、2016年は72位にまで落ちていることを見れば、日本のメディア規制が着実に進んでいることを否応なく意識させられる。

石川啄木の胸中



寂寞を敵とし友とし

雪のなかに

長き一生を送る人もあり

ニーチェの言葉

One should die proudly when it is no longer possible to live proudly.

人間は、もはや誇りをもって生きることができないときには、 誇らしげに死ぬべきである。

ヘッセの言葉



神が我々に絶望を送るのは、

我々を殺すためではなく、

我々の中に新しい生命を呼び覚ますためである。

とにかく3

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わが愛しのポルトガルでは、7月から9月にかけて、「アゲタグエダアートフェスティバル」というのを開催しているんだって。 

  ♪ 傘の花が咲〜く

いいなあ、行きたいなぁ。

最初にポルトガルに行かなくちゃと思ったのは、高倉健さんがずーーっと前に、「世界でどこかひとつだけ行くとしたら、ポルトガルを勧めます」と仰ってたから。世界を旅した健さんのお言葉ですから間違いはない。

他にも、世界を色々と旅している人に、一番良かったのは何処ですかと尋ねたら、「ポルトガル」って即答されたってのもある。

要するに行くべきところなわけだ。

ポルトガルに行くために……生きるしかないのだ。
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