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Hey you bastards, I'm still here!

安全地帯35周年 in 日本武道館

安全地帯結成35周年! 

その記念公演が日本武道館で開催され、11月24日のステージを堪能させていただきました。西側一階席の二列目。100回近く日本武道館へ行った僕の感覚で言わせてもらうなら、武道館の場合は格闘技でもコンサートでもアリーナより一階席の方が見やすいと思います。もちろん、アリーナ前方の方がいいに決まってますが、アリーナ数列目以降なら一階席の方が嬉しいですね。なので、ステージに近い一階席前方のチケットが取れたのはラッキーでした。

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安全地帯の武道館公演は2010年10月6日以来です。あのときは「安全地帯完全復活」を謳い文句に全国ツアーを行ったものの、玉置の体調不良などが重なり、地方会場で観客に暴言を吐いたりサポートメンバーとの対立や離脱があるなど、お騒がせ状態の中での武道館ライブでしたが、今回は実に綺麗な形で35周年のステージを作りあげてくれました。2010年の騒動後は会場からお客さんが減り、神奈川県民ホールでは二階席が封鎖され、一階席すら空席が目立つほどファン離れが顕著になったりもしましたが、今回はステージ裏まで開放しての武道館フルサイズ仕様で立ち見までギッシリの超満員。ファンが離れてしまった時期を知っている私にはそれだけで感無量です。

IMG_4649日本武道館というのは世界にも類を見ない独特の会場です。その名の通り元々は武道競技の専用会場として作られたので音響などはコンサートホールに比べればかなり落ちますが、八角形の座席配置がアリーナを取り囲むような空間はコンサートホールでは味わえない別物の雰囲気を作り出してくれます。通常のコンサート会場よりもイベント感が増すのです。ステージ上でのアーティストの演奏は他の会場と同じでも、独特の座席配置と観客数の多さがイベント性を強め、それは少なからずアーティストたちの演奏やパフォーマンスにも影響を与え、普段とは別のスペシャルな感性や表現力を引き出してくれるに違いありません。

最近の玉置浩二はシンフォニック・コンサートでのオーケストラとのコラボレーション・ライブに比重を置くようになっています。それによって、玉置浩二の「歌声」の本質とか「芯」の部分が鮮明になっていただけに、ロックバンドとして日本武道館のステージに立てば、どうしてもロックそのものが持つイベント性と、会場が作り出すイベント感覚に飲み込まれる部分があって、歌声の「芯」の部分には触れにくくなってしまうようにも感じてしまうのですが、イベント性が高まったことによって、外側に向けて広がる「歌魂」の領域の広さを実感できたような気もします。

人間と言うのは誰しも「個」としての領域を持っています。そこに個人の才能や価値観や人格が「芯」として存在しているのですが、その人の生き様や経験や人間関係がその周りに新たな領域を広げてゆくのではないでしょうか。

玉置浩二の才能の「芯」の部分を純粋に実感するとしたらシンフォニックやアコースティックのような形式とか、ライブハウスなどの狭い会場で聴いた方がいいのかも知れません。けれど、安全地帯としての玉置浩二を体感するとしたら、やはりロックバンドのライブに相応しいステージこそが理想的。イベント性を強めてくれる日本武道館は安全地帯としての玉置浩二の領域を体感するのに理想的な空間だったのではないでしょうか。

360度全方向に向けて広がる武道館の空間に、安全地帯としての玉置浩二の領域があって、観客もその中に全方向から溶け込んでゆくように思えたのです。一体感とか共有感といった言葉では収まりきらないほどの融合体験。そこで、「安全地帯は玉置浩二」であると同時に「玉置浩二は安全地帯」であるということをヒシヒシと実感させてもらいました。

プロならば、どんなステージだろうが常にレベルの高い演奏ができなくては駄目ですが、会場の広さや形によって演奏そのものが変わってゆくのも当然です。イベント性が強くなれば歌唱力や演奏力の劣る人のステージでもそれなりにショーとして成立させられる場合はあります。ライティングや演出による視覚効果が聴覚を曖昧にしてしまえるのです。舞台演出の技術が発達すると才能が見えにくくなって、音楽そのものの芸術的レベルは落ちやすくなります。

けれど、「芯」のしっかりしたアーティストは、演出効果すらも自分の領域に取り込んで、ライティングや演出効果を更なる高みへと押し上げてくれます。

IMG_4652安全地帯のステージはそれほどイベント性が豊かではありませんが、日本武道館の空間を最大限に生かした上で、ロックバンドとして、ロックシンガーとしての「芯」の部分を確かなに手ごたえで表現してくれました。

テクノロジーの進化は、文化芸術を発展させる一方で、芯を持たない「見せかけだけの才能」を徒に持ち上げることもできてしまうため、気づかないうちに日本の音楽業界のレベルを下げてしまう危険性もあります。日本武道館に掲げられた「V」は、バンド名の「安全地帯」であると同時に、レベルを下げてしまう危険性に満ちた音楽業界における「安全地帯」を象徴しているように感じたのです。

聴き慣れた曲ばかりでも、日本武道館で聞けばそれはやっぱり日本武道館だけのものになります。すべての曲がスペシャル感を漂わせてくれるのです。安全地帯メンバーは気負うことなく、武道館の空間に身を任せつつ普段通りの実力を発揮するだけでいいのです。

あ、武沢豊の青い帽子だけはスペシャルでしたけど(笑)

オープニングは『ワインレッドの心』。最初は武道館の音響と玉置浩二の歌が完璧に寄り添ってはいないような感じも受けたのですが、歌えば歌うほど磨かれてゆくのが玉置浩二の声。今回も一曲ごとに歌声が洗練されてゆき、歌声や表情が若々しくなるのですから驚きです。具体的にどんな効果が表れているのかはわかりませんが、やはりシンフォニックでのオーケストラ(楽器)と寄り添うような歌を身に着けたことで、玉置浩二の「芯」が太さを増していて、それが安全地帯としてのステージにも生かされているような気がしました。

玉置浩二は安全地帯メンバーの演奏に寄り添い、サポートメンバーの演奏に寄り添い、演奏家たちは玉置浩二の歌に寄り添う。そして、観客は彼らのステージに寄り添い、彼らもまた観客一人一人の世界と寄り添う……。そんなステージでした。

演出効果として武道館に舞い降りた「V」マークの印刷されたハートは、まさしく「心の中の安全地帯」を象徴していました。私たちは、安全地帯と同時代を生き、その凄さを味わうことによって、レベルの高い音楽世界を感覚として知ることができます。心の中に安全地帯の音楽が沁み込んでいれば、本物とそうでないものとを聞き分けられるはずなのです。そうでないものを全否定する必要はありませんが、本物を知ることで魂の領域は豊かさを伴って広がり続けるはずです。

そして、何よりも純粋な実感として私のハートに刻まれたのは……。

安全地帯の曲はどれもこれも素晴らしい!

それに尽きるのです。

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ふらり一人旅・馬籠宿

妻籠宿から馬籠宿まではバスで30分ほど。時間に余裕があれば3時間ほどハイキングを楽しみたいところですが、残念ながら時間がありません。妻籠宿を12時47分に出発して、馬籠宿に着いたのは13時15分。

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馬籠宿の方が観光客は圧倒的に多いのですが、妻籠に比べるとやや人工的な印象が強いですね。倉敷や鎌倉の観光名所と似たムード。妻籠よりもやや表面的な感じを受けるのです。

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それでも、やはり風情はありますね。

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坂道の宿場なので登りは結構きついし、雨や雪の日だと結構大変かもしれません。

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15時55分発の中津川駅行きバスまで2時間40分。これだけの時間があればかなりのんびりできます。この時間になると観光客は一気に減って、お店も徐々に看板を下ろし始めます。

中津川駅に着いたのは16時20分。19時10分発の特急しなので名古屋に着いたのは18時5分でした。


妻籠も馬籠も一度は訪れていただきたい名所の一つ。

できれば晴れの日で、あまり観光客でにぎわっていない方が街そのものの風情が楽しめると思います。妻籠の脇本陣奥谷で芸術的な採光を見たいなら、妻籠を先に回るべきでしょう。

ふいに一人旅を思いつき、たまたまこの日を選んで、理想的な天候だったのは実にラッキーでした。

いいことありそうです♪

ふらり一人旅・妻籠宿

一人旅に出かけました。

前夜は名古屋に泊まり、翌朝9時発の特急しなので中津川駅まで行き、普通列車に乗り換えて南木曽で下車。一日に数本しかないバスに乗って妻籠宿という日程です。妻籠宿に着いたのは10時47分でした。

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前日まで雨で肌寒かったのに、一転して快晴で気温も上昇。観光客もまばらで妻籠宿の風情が引き立ちます。

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日本文化と歴史の奥ゆかしさがほんのりと感じられる街並みです。

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脇本陣奥谷の落ち着きと風格。

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芸術的な採光。

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晴れた日だけ拝める光が厳かな気分にしてくれます。

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この後に馬籠宿にも行ったのですが、個人的には妻籠の方が断然オススメです。

ちなみに……欧米の観光客はみなさん真夏と同じ服装でした。


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12時47分発の馬籠宿行きバスまで2時間。

ゆっくりと妻籠宿を堪能できました。

「ふらり一人旅・馬籠宿」へ続く……。

10月です

今年もあと三ヶ月。

最近どーも、人生の居心地が悪い。

妙にイライラする事が多い。なんか窮屈。意欲が沸かない。何もかもが退屈。

原因はすべて自分にあるんだけど……。



ふらりと一人旅でもしたい気分。

「行雲流水」

「雲水行脚」


そんな言葉に惹かれる今日この頃。

いずれにしても、体調が良くなきゃ話にならん。


残り三ヶ月。
2017年を楽しもうではないか!

9月は今年も病院通いで終了

白内障の術後2週間で新たな症状が……

術後すぐに起きた水晶体の濁りと眼圧上昇が収まってホッとしていたら、今度は視界が別のボヤけ方をする。漠然と景色を見ている分には気にならないが、文字を読むと右目の焦点が合わない。病院でで視力を測ると、術後は矯正視力が1.2だったのに、0.7まで下がっている。全体的にモヤーッとしているというか、薄い膜がかかっているというか……。医師の診断ではレンズを入れた水晶体に問題はなかったが、念のために網膜の断層写真を撮ったところ……網膜に「むくみ」があった。

「すぐに処置をしましょう。注射をします」と言われたので待っていると、いきなり手術室に連れていかれ、手術着を着せられ、頭にはキャップ、口にはマスク。完璧な手術態勢。手術台に寝かされると、下瞼の内側から注射針をズブズブと差し込まれ……。点眼麻酔をしているとは言え、針が目の中に入ってゆく感覚はわかる。注入したのはステロイド剤だとか。

2日後、診察に行くと視力は1.0まで回復。断層写真ではむくみがかなり治まっている。医師の説明によると、白内障の術後1ヶ月ぐらいで網膜がむくむ場合があるらしく、2週間でむくんだのはかなり早くて異例らしい。術後に汚水の排出をしたり、眼圧降下剤を使用した影響も考えられるとか。とにかく、このままむくみが収まり、これ以上の症状が現れないことを望むのみ。

9月はそのほかに左下腹部の違和感と痛みで内科も受診。エコーとCTも受けた。肝臓にやや異変はあったようだが、すぐに処置が必要なほどの異常は見当たらなかった。

2年前の9月も病気三昧だったけど、9月に色々あるのはなぜ? 子供の頃は正月に必ず病気やけがをすることで有名だったけど……?

でも、今までの経験からすると、病気や怪我で悩まされた後は良いことも起こってきたと思うので、10月以降の復活と幸運に期待するとしよう。

白内障手術

数年前に左目の白内障手術は経験していて、手術は簡単だし、術後に特に問題もなかったので、今回の右目に関しても特に不安はなかったのに…………今回は術後に厄介なことが……。

9月9日。

朝7時45分に受付を済ませると、その日の一番目の手術だったので8時には手術室へ。麻酔医やや看護師が何人もいるのが心強い。

点眼による麻酔のみですぐに執刀。痛みはなかったが、レンズを入れる時に多少の圧迫感があるのは前回と同じ。10分も経たないで終了。「きれいに終わりましたよ」と医師に声をかけられ、右目もクリアになっている。黄色く淀んでいた曇りはどこにもない。

そのまま帰宅するが、途中で視界が何となくぼんやりしてきた。手術時の散瞳薬でしばらく視界がボヤけるのは何度も経験しているのでそれだろうと思い帰宅。ところが、時間と共にぼんやりどころではなく視界全体が白く濁り始めた。しばらく様子を見ているとほぼ真っ白に! 術後の注意書きを読んでみると、いくつかの症状が書かれていて、その際はすぐに連絡するようにと指示もある。筆頭に書かれていたのが、「急に視界が真っ白になったとき」。まさにこれ。眼科に電話をしたら、すぐに来てくださいとのこと。

ほぼ見えなくなった右目で歩くのはかなりつらかつたが病院へ。

手術中に僅かなゴミなどの汚れが付着することは珍しくなくて、それはちゃんと排水口から流れ出るものらしいが、僕の場合は眼圧が上がり、黒目がむくんでしまったため、その排水口が詰まってしまったとのこと。眼圧は40以上。正常値は20以下だからヤバい。

すぐに点滴と投薬と点眼で眼圧を下げ、医師が棒のようなもので溜まった濁り水をピュッと押し出すと一瞬でクリアになった。わずかな汚れでも水晶体に溜まれば視界は真っ白になってしまうらしい。

安心して帰宅。

ところが、しばらくすると徐々に視界が白くなってゆき、三時間後には再び真っ白。またまた電話をしてから眼科へ。医師によると汚れがきれいに排出しきらないと何度か同じようになるとのこと。ふたたび、チョンチョンと棒で押し出してもらえばすぐにクリア。

ところがところが、帰宅するとまたまた同じ症状。もう眼科はクローズしているので、あきらめて寝る。医師は夜中になっても朝までに排出されると言っていたのでその言葉を信じるしかない。けれど、眼圧が上がると頭痛がひどくなる。片頭痛のようなイヤ〜な頭痛。寝ることもできず、悶々とした時間を過ごすしかない。


9月10日。

明け方近くになってようやく眠りに落ち……朝になって目を開けたら、視界はクリア! 医師の言う通りだった。眼科に行くとまだ眼圧は30あるが、汚れそのものはなくなっているとのこと。

9月11日
眼科へ。眼圧は14にまで下がっていてひと安心だが、まだ眼圧降下剤を飲んでいてその数値だから薬が切れると上がる可能性はある。視力も矯正で1.2まで回復。手術前は矯正しても0.5だった。いやな曇りも消えたし、薄黄色く見えていた視界もクリア。ずつと悩まされていた眩しさもかなり軽減されている。

9月13日

昨夜で眼圧降下剤が終わり、17時に眼科へ。薬を飲まなくなって24時間近く。眼圧は17.眼底も水晶体も異常なし。次回の診察は17日。眼圧が正常値なら問題はなさそうである。

8.30 玉置浩二 in みなとみらいホール

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心で感じるというよりも、脳が認識するというよりも、もっともっと奥深い部分に沁み込むようなステージでした。

人間の「芯」の部分にまで到達するような歌声。

涙が止まりませんでした。こんなに泣けたのは初めてだと思います。どうしてこんなにも泣けるのか、僕自身の「芯」からゆっくりと滲み出すような涙。それはやっぱり、優しさに触れたからに他なりません。

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玉置浩二は会場の広さや音響の質を見極め、オーケストラの微妙な旋律を聞き分けることによって、その瞬間瞬間にとって理想的な「歌声」をコンマ何秒かで選択できる本物のアーティスト。会場と観客が作りあげる空気への配慮、演奏家たちが奏でる「音」への限りないリスペクトがあればこそ。

それはやっぱり無上の「やさしさ」。

その優しさに包まれて、一曲一曲がまさに「極上」の仕上がりを見せる。だから、会場が変わり、オーケストラが変われば、聴き慣れた曲でも常に新しく感じられるのかもしれません。一曲ごとに指揮者が感動の面持ちで玉置に拍手を贈る。演奏家たちも幸せそうな顔をしている。「音」に対して敏感で、「音楽」と共に生きている彼らにとっても、玉置浩二の歌声は、身体の「芯」から共感し得る「音」なのかもしれない。だから、オーケストラの演奏にも心がこもる。

真の音楽家たちだけが織り成せる本物のシンフォニー。

そして、至高の芸術空間。


『清く正しく美しく』では少年少女合唱団のコーラスをしっかりと生かすようにコントロールされた玉置の歌声が「やさしさ」そのものになりました。何度も聞いた曲だけれど、今までで最高の『清く正しく美しく』でした。最近は頻繁に歌われている『サーチライト』も、聴き慣れた親しみやすさを失うことなく新鮮な曲として「芯」に沁み込むのです。そして、最も心揺さぶられたのは『行かないで』。ずっと好きな曲で、いつもしみじみと聞き惚れるのですが、今日のこの一曲には最初から最後まで涙が途切れませんでした。オーケストラの幾重にも折り重なった音との「やりとり」が「やさしさ」の純度を高めるからなのでしょうか。


シンフォニックを始めたころには感じられた玉置自身の戸惑いやぎごちなさはもうどこにもなくて、現時点ではこれ以上などあり得ないと思えるほどの到達点。非の打ち所のない完成形。それでも、次のライブではもっともっと凄い玉置浩二と出会えるような気がします。玉置浩二には「行き着くところ」があるのだろうかと思わずにいられないのです。

まさしく、無限の才能。

今宵は「芯」までやさしくなれました。


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しあわせ

ここ一ヶ月の間に、学生時代の友達にいくつもの「しあわせ」をもらい続けている。

報われることの少ない仕事をしている僕にとって、彼らにその仕事の成果を喜んでもらえることは本当に幸せなこと。

関西に住む中学時代の同級生たち。

関東に住む高校時代の同級生たち。

みんなが同じような言葉と笑顔で温かく包んでくれる。

長い間会わなかった空白の時を経て再会した彼らとの「つながり」に心から感謝しよう。

僕は本当に「いい学生時代」を過ごせたんだなぁ……と、この歳になって心から実感できることに感謝しよう。

みんな、ありがとう。

こんな気持ちになれたのも今まで生きてきたから。

その意味をかみしめよう。

そして、僕が何度も挫折を味わいながら今の仕事を続けてきたことの意味をかみしめる。


そして……。

僕を支え続けてくれて、この仕事をさせてくれている「大切な人」に心から感謝している。

ありがとう。

そう言えることが、やっぱり、しあわせ。

また一人逝ってしまった……

高校の同級生が亡くなった。

卒業以来まったく会わなくなっていたけれど、数年前から交流が再開していただけに残念でならない。

最後に会ったのは2年前の夏に開催した同窓会。

別れ際、幹事をしていた僕のところへきて、「ありがとう」と微笑んだ彼の顔は瞼に焼き付いている。

「じゃあまた」

同じ言葉を交わして別れた。

「じゃあまた」

もう会えなくなるなんて思ってもいなかった。

あの日、高校時代にクラスで作った8ミリ映画を一緒に観ることができたのがせめてもの救いか……。

今はまだつらすぎて無理だけど、そのうち一人静かにその映画と向き合って、映画の中にいる17歳の彼と言葉を交わそう。

いろんな想いはあるけれど、やっぱり贈るとしたらこの言葉。

「じゃあまた!」

玉置浩二ショーは最高でショー

最高でした!

今回はテレビではめったに聴けない曲が並びました。音楽番組の場合、限られた時間内で幅広い層の視聴者にアピールすることがどうしても重視されるので、多くの人が知っているヒット曲や代名詞的な曲がリストアップされがちなため、ファンからすると「またその曲やるの?」「もっといい曲がいっぱいあるのに」と思ってしまうことも多々あります。ファン歴が長ければ長いほど、或いはアルバムを聴きこんでいる時間が長ければ長いほど、一般的には知られていない曲も「名曲」になるし、「代表曲」にもなり得ます。けれど、そうでない人にとっては聴き慣れた曲こそが「名曲」であり、コンサートでもやっぱり有名な曲の方が盛り上がるし、ヒット曲が聴けたから満足と言う人も少なくはないと思うのです。

だからこそ、テレビの音楽番組で今回のような選曲が実現したことに驚きと喜びを感じると同時に、この選曲で番組を構成した番組プロデューサーには拍手を贈りたくなるのです。

ひとつには、玉置浩二ショーが不定期ながらもレギュラー化してきたことと、玉置浩二の歌なら例え有名な曲でなかったとしても絶対にクォリティが下がることは無いことを番組スタッフも認識し始めたからではないか……などと勝手に想像しております。番組そのものが、玉置浩二をもっと貪欲に知りたがっているのではないか……と思わせるほどに、番組自体が進化と共に深化の方向に向かってゆくのを印象付けるような構成でした。小野リサをゲストに迎えてのコラボなんて、まさに「深さ」を感じさせるステージでした。

玉置浩二がそこにいて、玉置浩二が歌う。それさえあれば番組としてブレることがないということなのかもしれません。

一般の認知度は低くても、ファンにとっては聴きなれた名曲たちですが、テレビ番組のスタジオ演奏で聴くと新鮮ですね。玉置浩二自身が新しくなったような錯覚に陥りそうでした。曲が変われば歌い方も変化する。変化はやはり進化であり新化。過去の曲をノスタルジアでのみ再生しないところは先日のスティングも同じでしたが、やはり一流のアーティストには絶対的な表現領域というものがあって、その中でなら可能な限りアレンジを加えることができるものなのでしょう。

ひとつひとつの曲は別物であり、それぞれの曲が有している絶対的な「世界」というものを、玉置浩二の歌声が丁寧に表現してくれることを改めて思い知らされました。『最高でしょ?』を久々に聴いて、その変幻自在な世界観に心躍らせながら、玉置浩二の「過去の作品」にも「現在進行形」の新しさを感じずにいられませんでした。

トークには安全地帯メンバーが集結。いやぁ、みなさんアーティストとして本当にカッコいい。飾る必要のない年相応のカッコよさってやつですね。「安全地帯=玉置浩二」であることは紛れもない事実ですが、やはり、メンバー全員が揃うことで「安全地帯」というバンドの絶対性が見えてきますね。玉置が抑えた調子で歌う『ワインレッドの心』は安全地帯だからこその「世界」。ドゥービー・ブラザーズの曲を気持ちよさそうに歌う玉置浩二なんて……それこそ、最高でしょ? 『安全地帯ショー』もたまにはやってほしいですね。

紅白初出場の時の映像を見ながら、玉置はさりげなく自然に自分の歌を「うまいね」とつぶやきました。それがまったく嫌味に聞こえないのは、当時からすでに完成された歌声であったことはもちろんですが、自分が歌っているという自意識をさりげなく捨て去って、純粋な「歌」として耳を傾けられるだけの感性を有しているからに他なりません。

歌だけでなく、トークにも説得力があるのは、個性や価値観が単に言葉として見栄えよく並んでいるからではなく、すべてが音楽を通じて培われてきたものだからでしょう。言葉だけをもっともらしく紡ぐことのできる人はたくさんいます。でも、玉置浩二の言葉には常に「音楽」が重なり合っていて、彼の演奏や歌声の説得力が自然とにじむから、説教臭さや啓蒙とは無縁の「哲学」が生れ得るのではないでしょうか。

最後に亡くなられたかまやつさんの曲をアカペラで静かに歌いました。それだけで百万語を費やすよりもはるかに豊潤な「想い」が伝わってきます。

やっぱり玉置浩二は最高でしょ?

6.8 STING in 日本武道館

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6年ぶりの日本公演。前回はオーケストラ・バージョンによる重厚感あふれるステージだったが、今回はロック・テイスト満載のステージで、スティングの魅力と凄さがシンプルに凝縮されていた。

歌声は前回よりも若返ったのではないかと思うほどの「伸び」に「コク」と「まろやかさ」が熟成ブレンドされていた。

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フラッシュは禁止ながら演奏中の写真撮影はOKとのこと。今までは厳禁だっただけに驚いた。飲食もOK。観客サイドが最低限のマナーを守れるのなら規制緩和は望ましい。

今回のツアーはスティングの息子ジョー・ヘフナーも参加。父親譲りの声とセンスで自分の歌を3曲披露。更に、彼の友人たちのバンドもミニ・ライブで4曲を演奏した。スティング目当ての観客にとっては長すぎる前座だったが、休憩が入ってリセットできたため二部構成のショーだと思えばお得感はある。

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スティングのステージは「圧巻」の一言。ポリス時代の曲に始まり、ソロの名曲や新曲を交え、休憩なしに20数曲を一気呵成に歌い上げる。何というエネルギー! 何と言う完成度! ポリス時代から現在に至るまでの曲が、絶対的なスティング・サウンドとして一つに融合しているのだ。

しかも、単なるノスタルジアだけで過去の名曲たちに観客を向き合わせるのではなく、進化と深化を同時進行させながら〈新しい曲〉として聴かせてしまうのだから恐れ入った。

アーティストの中には、アレンジや歌い方を悪い方に変えてしまう人がいて、「昔の方が良かったなぁ」「昔に戻ってくれないかなぁ」等と思ってしまうことも少なくないが、スティングのステージには「こうあるべきスティング」というものがしっかりと確立されている。スティングという絶対的な「器」の上に、旬の食材で調理された料理が載せられてゆくようなイメージを掻き立てられるのだ。昔からのファンを決して置きざりにすることなく、常に「今」のステージとして堪能させるのだから凄い。

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『Shape of My Heart』では息子とのデュエットも披露。同じ声質だから見事に重なり合う。今まで聴いたことのない『Shape of My Heart』がそこに生まれた。亡くなったデヴィッド・ボウイの『Ashes to Ashes』を織り込んで、さりげないリスペクトを捧げてみせるのも粋だ。

『Desert Rose』から『 Roxanne』へのドラマティックな高揚感には全身が震えた。ひとつひとつの曲がそれ自体の完成度を高めつつ、ショーとしての絶対的なシンフォニーを構成して行く。ライティングの演出もシンプルではあるが、曲との一体感が見事に計算されていた。ギターのドミニク・ミラーも息子をギタリストとして参加させ、親子共演によるギター・セッションで魅了する。バンドそのものの重厚感は文句なしだ。

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アンコールの三曲はクライマックスで高揚しまくった観客の感情をやさしく、やさしく、鎮めながら、余韻の恍惚へと誘う絶妙の選曲。『Every Breath You Take』は観客たちの掲げるスマホ・ライトが会場にゆらめき、ステージとの一体感を視覚化した。

ラストの『Fragile』 は最高級のディナーの後で頂く、まろやかなコーヒーのように安らぎを与えてくれた。

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外国人アーティストのライブに行くと必ず思うのは、歌詞の意味や、言葉の紡ぎ方には理屈としても感覚としても理解しがたい部分がどうしても付き纏うということ。楽曲のすべてを味わいつくせないもどかしさは払拭しきれない。けれど……。その分だけサウンドに対する意識がより鮮明になるのかもしれない。言葉以外の純粋な「声」とか「呼吸」とか楽器の存在とか……。歌詞との一体感は味わえなくても、言語によるコミュニケーションを超えた「音」の世界の純粋性とは触れあえるのかもしれない。わからない部分があるからこそ、より純粋に感じられる部分もあるのではないだろうか? だからこそ、英語の歌詞をすべて感じ取りながらスティングの音楽を堪能してみたいとも思う。

そんなことを想えばこそ、一度でいいから日本語がわからない外国人になって、玉置浩二のライブと向き合ってみたくなる(笑)。言葉とは無縁な世界で聴く玉置浩二の「音楽」はどんな音色を奏でるのだろう?

叶わぬ夢と戯れつつ、スティングのステージを記憶にとどめ、心は8月30日の「玉置浩二 in 横浜みなとみらいホール」へ向けて飛翔する。

同窓会

5月6日は小学校の同窓会だった。

先生を招いての本格的な同窓会は卒業以来はじめて。

一昨年の高校、昨年の中学につづいて三年連続で幹事をやった。

一年ごとに三つの時代を遡ってゆく感覚も悪くない。

今までの経験から、同窓会の場合、声をかけた人の3分の1が集まればOK。今回は半数近くが集まった。僕が通った小学校は当時から人数が少なくて二クラスしかなかったので、みーんな顔見知りで仲が良かった。ご高齢の先生方もご健在で、喜んで出席してくれた。

連絡先の分からなくなっている人もかなりいて、ここ数か月は私立探偵のように所在確認に動き回ったものだ。そこにはいくつものドラマも生まれた。すでに亡くなっている友達も何人かいた。もっと早く同窓会を開いておけばよかったと悔やまれるけれど、今この年齢になったから出来た部分もあるし、今だからこその必然性も見えてきた。もちろん、連絡を取っても素っ気なかったり、昔のことは覚えていないから出席しないと答える人もいた。親の介護で身動きが取れない人や、自身の健康がすぐれなくて出席できない人もいる。

人生それぞれ……。悲喜こもごも。 だからこそ、再会できた人たちに感謝する。

途中で転校して行った懐かしい友達にも連絡が取れたのは奇跡的だった。二度と会えないと思っていただけに感動も一入だった。子供の頃しか知らないからタイムスリップしたような感覚。

インターネットの力を思い知らされもした。

集まった人たちはみんな本当に嬉しそうだった。直前まで不安と緊張で出席をためらっていた人も、「本当に呼んでくれてありがとう。来てよかったよ」と笑顔を見せてくれた。みんな風貌や生活環境は大きく変化したけれど、会って話せばすぐにあの頃に戻ることができる。

三年連続で各時代の同窓会を開いたことで、その実感は確かなものになった。

同窓会が終わってもメールやラインで繋がり合える時代に感謝しよう。何十年も会わなかったのに、自然体ですぐに友たち関係が復活できることの喜び!

同窓会は本当に楽しい。

開催までには色々あったし、幹事同士でもめたりもした。どれだけの人が集まるのかと不安もあった。

けれど、やっぱり同窓会をやってよかった。

涙と笑いに満ち溢れた一日に心から感謝したい。

腐敗政権と首相夫人の暗躍

kinkanshoku今見ると断然タイムリーで面白いのが1975年に公開された日本映画『金環蝕』。原作は石川達三。1965年に表面化した九頭竜川ダム工事を巡る汚職事件の顛末が見事に描かれている。

ダム工事の不正入札に関わった建築会社と与党政治家たち。予算委員会での質疑応答。複数の証人。損得勘定。虚偽発言。裏切り。汚職の裏で暗躍していた首相夫人の存在……。

今まさに現実のニュースで報道されているような場面が次から次へと描かれているのだ。もちろん現在進行形の事件とこの映画で描かれた事件の性質は異なるし、現実の方には汚職など皆無なのかも知れませんが、いくつもの場面に「同じ匂い」を感じ取ってしまうのです。

映画としての脚色があるとは言え、元になったのはれっきとした現実の政治スキャンダル。過去にこうしたことが国民の知らないところで行われていたという事実は、それが再び起こる可能性もゼロではないということを突きつける。

この映画の面白さが40年経った今も色褪せていないのは、政治と金の問題が普遍的だからに他ならない。政治は金で動く。金は政治を動かせる。そこには「嘘」が生れ、重なり合う。そして、権力に逆らった者は容赦なく葬り去られる……。

凄い映画だ。

最近はこんなふうに堂々と政治の腐敗を描くことのできる、骨太で性根の据わった日本映画が皆無になった。

報道の自由度ランキングで72位の国じゃ望むべくもないのでしょうが……。

ナントカ夫人

森友学園問題は国会議員のレベルの低さとみっともなさばかりを浮き彫りにしているのが面白い……という以外にはどーでもいいのですが、ひとつだけ気になるのは「首相夫人」なる女性の「在り方」ですね。首相夫人がこの問題に全く関わっていないとしても、色んな所で「首相夫人」の肩書で何かをやっているのは事実。

戦国時代のそのまた昔から、権力者の奥方が持ってしまう「特別な権力」というのは変わりませんなぁ。今は民主主義の世の中なので、「権力」などと言うと語弊もありそうですが、民主的な権力のもつ「表面化されざれる怖さ」というのは認識する必要があると思うのです。

それは夫人自身がどんなに「肩書き」を否定しようとしてもついてまわるもの。

首相夫人に限った事では無くて、「社長夫人」など「〇〇夫人」に対してへつらう習性は誰にでもありますが、政治家の奥方に特別な力を与えてしまうのは権力側のみならず、それを利用したりへつらったりする人たちの罪として考え直すべきではないかと思うのです。

忖度って言葉がやたらと飛び交っていますが、そこに「権力」の陰がちらついたなら、それはもう「忖度」ではないと思うのです。やっぱりそこには目に見えない「圧力」が生まれるもの。それを「忖度」として一括りにしようとするのは日本人の悪い癖。純粋な忖度とそうでない忖度とは全く異なるものではないでしょうか。

首相はとりあえず、いくつかの選挙によって選ばれた存在ですから好むと好まざるとに関わらず、「国民が選んだ権力者」になるのですが、「首相夫人」なる存在はまったく民主的には選ばれていない人。その違いはハッキリさせるべきだと思うのです。「首相の妻」だからと言って、「〇〇先生」と呼ぶこと自体どうかと思います。「奥さん」でいいではないですか。

「首相夫人」の肩書を使うことなく個人として活動するのは構わないと思いますが、現実的にはむりでしょうし、その肩書きを必要としてしまう多くの「庶民」がいるということにこそ問題があるのではないでしょうか。「首相夫人」を公的なものとして規定すべきだとの意見もありますが、どーなんでしょうねぇ。それでいいのでしょうか? 大臣の任命権が首相にはあるのだから首相夫人も首相の選んだ女性として認めるべきなのですか?

とにかく、巷に氾濫する「ナントカ夫人」たちの存在は、御本人の人格とは別のところで厄介なものになりがちなのでございます。

訃報・渡瀬恒彦

dscn2162また一人、70年代東映アクション映画の熱気を象徴する映画俳優が姿を消した。あの時代、東映映画に横溢していた「不良性感度」を体現する役者の一人だった。

日活のスターだった渡哲也の弟であるが、それを意識することも、意識させることもなく、渡瀬恒彦の個性を確立できたのは、東映B級映画が有していた猥雑さにドップリと浸かり、身体を張って危険なアクションをやり続けたからに他ならない。菅原文太や松方弘樹ほどのスター性はなく、どちらかと言えばバイプレイヤー的な存在だったけれど、文太や松方のようなスター俳優と、東映の底辺を支えていた川谷拓三ら大部屋俳優たちとの中間に位置することによって、大物ヤクザとチンピラの中間領域で生きるアウトローを演じてみせた。

『仁義なき戦い』を筆頭に数々の「実録ヤクザ映画」でも、チンピラの兄貴分的な役柄を演じたらこの人の右に出る俳優はいなかった。チンピラと幹部クラスのヤクザの中間点だ。その微妙な立場であがく男の鬱屈した暴力衝動を体現できる稀有な俳優だったのである。『実録外伝・大阪電撃作戦』で演じた狂犬みたいなヤクザは何度見ても惚れ惚れする。

危険なスタントも自分で演じ、『北陸代理戦争』では走るジープから落ちて重傷を負ったため降板を余儀なくされたこともあった。その時代の代表作とも言える『狂った野獣』『暴走パニック・大激突』でも、今の日本映画では絶対に見る事の出来ない「映画俳優のリアルな肉体演技」をスクリーンに焼き付けてみせた。

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東映アクション映画が衰退する頃、渡瀬恒彦は松竹映画『事件』に出演した。『砂の器』などで知られる野村芳太郎監督の傑作中の傑作である。この作品で渡瀬が演じたのは、松坂慶子が演じるホステスの優柔不断なヒモ。東映映画で刷り込んだ「ワル」の匂いを松竹的日常描写と見事に融和させ、その年のキネマ旬報助演男優賞を受賞して、東映映画の枠にとらわれない「映画俳優」としてステップアップ、松竹人情喜劇『神様のくれた赤ん坊』では「ワル」の匂いを感じさせない演技で主演男優賞にも輝いた。夏目雅子と共演した『時代屋の女房』では東映時代とは別人のような「優しさ」によって、もうひとつの渡瀬恒彦らしさを印象付けたが、渡瀬恒彦の「脇で光る魅力」を再確認させたのが『男はつらいよ・夜霧にむせぶ寅次郎』である。

detail_poster33渡瀬が演じたのはサーカスでオートバイの曲芸を披露する男。ヤクザ的な怖さと女たらし的な甘さを持ち合わせた男を演じることによって、国民的人気シリーズに一度だけ「東映やくざ映画」の匂いを持ち込んでみせた。それによって、寅さんのキャラクターの基本でもある「テキヤ=やくざ稼業」として生きるアウトローの匂いを見事に引き出して見せたのである。

『男はつらいよ』は単なる人情喜劇ではない。発想の根源には「任侠ヤクザ映画の喜劇版」という前提があり、寅さんは社会から逸脱した「ヤクザもの」として設定されていたのである。シリーズを重ねるうちに、そのアウトロー的な部分が薄れてしまい、寅さんは「お人好しのバカな男」だったり、「人情味あふれるフェミニスト」の部分ばかりがクローズアップされてしまうが、渡瀬の演じるアウトロー的な男と対峙した時の寅さんには、ヤクザものが宿命的に有している「怖さ」の部分をそこはかとなく感じさせたのである。それは、寅さんと対峙するアウトローの危険な匂いを渡瀬恒彦が体現していたからに他ならない。

脇役の使命の一つは、主役の「在り方」を明確にすることである。渡瀬は天下の渥美清を相手にそれをやってみせた。やはり渡瀬恒彦は「天下の名脇役」だったのである。

その後、日本映画そのものが軟弱で浅薄になり、絶滅への道を辿り始めたことにより、渡瀬恒彦の魅力を生かせる映画も激減してゆく。松方弘樹に続いて渡瀬恒彦が亡くなり、東映映画が最もギラギラしていた時代が一気に遠ざかって行く……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

アカデミー賞授賞式のハプニング

WOWOWで生放送された今年のアカデミー賞は随所に盛り込まれたトランプ大統領ネタが面白かった。メリル・ストリープをあれだけユーモラスにいじれるのはアメリカなればこそだし、生中継でトランプ大統領にツイートしてみせる自由さも羨ましい限り。ハリウッド・スターたちが自分に関して呟かれている一般人のツイッターを読み上げてゆく映像にも笑わせてもらった。

ショーとしての完成度は言うまでもない……と思っていたら、最後の最後に前代未聞のズッコケぶり。作品賞発表の際にプレゼンターのウォーレン・ベイティが見せた戸惑いはリアルだった。なのに、その戸惑いを勘違いしてしまったフェイ・ダナウェイの「機転」が誤発表という前代未聞のハプニングを引き起こしてしまったのは、男と女の感覚の違いを見せつけたという意味でも面白かった。名作『俺たちに明日はない』で共演した二大スターが久々の「共演」でこんな落ちを生むとは!

間違いとも知らずにステージで大喜びしていた『ラ・ラ・ランド』関係者たちの愕然とした表情も生々しかった。プレゼンターのスピーチまでしっかりと台本構成されているアカデミー賞だけに、こうしたハプニングは起こりにくいはずなのに、それが起きてしまうところに生放送の怖さと面白さはある。

象徴的だったのは、ハリウッド白人系映画の典型みたいな『ラ・ラ・ランド』の受賞が取り消され、純然たる黒人映画の『ムーンライト』にスポットライトが当たった事。昨年のアカデミー賞では黒人の受賞者がいないということで批判を浴びただけに、このハプニングは「神様の悪戯」みたいにも思えたし、白人多数派の『ラ・ラ・ランド』の関係者がいつの間にかステージから消えて、『ムーンライト』の黒人関係者がステージを占領していたのが印象的だった。

アメリカの歴史は白人と黒人の歴史でもあり、白人が掴んだ栄冠が間違いで、黒人たちの栄冠が正しかった……と考えればかなり意味深かも知れない。客席で涙を拭っていたサミュエル・L・ジャクソンの姿が印象的だった。

さて、このハプニングに対しては誤認ツイートも飛び交っていた。ミスが起きたのは受賞作品の記載されたカードを担当者が間違ってプレゼンターに渡したからで、ベイティの戸惑いが上京を如実に物語っているのだけれど、ツイッターなどでは「プレゼンターが読み間違えた」と勘違いしている人も多く、中には「最低の演出」だとか、プレゼンターの悪質なジョークだと怒っている人までいた。ツイッターを通しての事実誤認はこうして拡散してゆくのだろう……と思っていたら、その日の夕方のテレビでも堂々と「プレゼンターが作品名を読み間違えた」と言い切っているニュース番組があって唖然とした。事情を知らない視聴者は、プレゼンターのミスとして鵜呑みにしかねませんよ。確かに、オカシイと思った時点でベイティがスタッフに確認すればよかったのだから、彼のミスと言えなくもないのですが、キー局のニュースはそこをしっかりと伝えてくれないと困ります。

やっぱり、日本のマスコミってのはいい加減なのかな? ツイッター・レベルの報道しかできないと思われても反論できませんよ。自分たちで確かめるということをしていないのか、正確に伝えようと言う意識がないのか、伝達能力に欠けるのか……。最近のテレビ番組を見ていると、明らかに日本語の使い方が変と思われる場面がたびたびあるのも事実。こんなテキトーなマスコミが報道する「真実」なんて、どこまで信じていいのやら……。

映画の題名と方言

ウイル・スミス主演の『素晴らしきかな、人生』を観ました。作品に対する辛口批評はいずれ「キネマの方舟」に掲載するとして、気になったのは日本語題名の付け方。これは明らかにフランク・キャプラの名作『素晴らしき哉、人生』そのもの。『哉』を『かな』と日本語にしてあるのが余計に確信犯的。ちなみに、『素晴らしき哉、人生』を『素晴らしきや人生』だと読み間違えている人がいましたっけ……。

今までにも過去の作品の題名をそのままパクる例や似たような題名をつけることは結構あったのですが、今回のようなオリジナリティ溢れる日本語題名を安易に流用するのは感心できませんなぁ。昨年も『君の名は』という過去の名作の題名をパクったようなアニメがヒットしたそうですが、『君の名は。』と『。』を付ければ別もの……みたいな感覚はどうもねぇ。そのうち、『風と共に去りぬ。』とか『ローマの休日。』とか『明日に向かって撃て。』なんて題名まで出てきそうな勢いですなぁ。

映画にしても小説にしても、題名そのものに著作権の適用を望みたいと思うのは、作家の多くが題名を考えるのにも苦心しているはずだからなのです。僕も自分で創作する時は、絶対に過去の作品と同じものは避けたいと思うし、似たような題名になるのも厭だから何日も悩んだりします。題名の良し悪しで書いてゆく作品の質まで変わることがあるのです。要するに、題名も「作品」だからです。

外国映画の場合は日本語題名をつけるのが慣例のようになっていて、過去には優れた日本語題名も多くありました。原題とは明らかに違っていても、作品内容を日本語感覚で的確に言い表した題名を見ると「芸術性」すら感じたものです。一時期、英語の原題をそのままカタカナ表記するだけの安易なネーミングが氾濫し過ぎたことはあって、それはそれでどうかとも思うのですが、やっぱり「パクリ」って思えるのはよくありません。

さて、『素晴らしきかな、人生』を観た劇場では某アニメ映画の予告編をやっていて、どうやら舞台は岡山県倉敷市の下津井あたりで、台詞も岡山弁らしいのですが……。この岡山弁らしきセリフに倉敷出身の僕は違和感ありまくりでした。東京のタレントが使う嘘くさい大阪弁とか、外国映画に出てくるヘンな日本人が使うカタコトの日本語を聴いた時と同じような感覚。

方言なんて他県の人には「雰囲気」が伝わればいいのだから、正確に喋らせる必要はないと考えるのも間違いではないし、方言にこだわり過ぎると意味すら理解不能になる場合もあるのですが、方言の持つイントネーションとか「間」というのは、その風土や県民性を表しているものなのです。ゆえに、台詞における方言のリアリティというのはかなりデリケートな問題ではあります。

ま、これはリアリティがとーのこーのというようなものではなく、単なるマンが映画なのですからどーでもいいことなのかも知れません。方言の持つ心地よさを客観的に表現することの難しさや意義はわかっているつもりだし、僕自身関西圏以外の方言を使った映画を観た時には、そのリアリティなんてわからないのですから何とも思わないのは確かです。でも、やっぱり「本物」を知っていると、なんか嘘くせぇーなーと思ってしまうよなぁ〜ってことなのです。

文句を言うんなら映画を観てからにしねぇ……と岡山弁で叱られそうですが、「観るつもりやこぉねぇーけぇー」ということで。

ちなみに、地方発信の「ご当地映画」なるものが粗製乱造される時代になってかなり経つのですが、「ご当地自己満足映画」だけが徒に氾濫しているとしか思えず……。それもまた、枯れ木も山の賑わいとなればヨシなのかなぁ? なんかイヤだなぁ。

浮かぶ要塞島(燃えよドラゴン)

キネマ旬報の1973年8月上旬号に面白い記事を見つけた。

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公開予定の外国映画を簡単に紹介したページの端に『浮かぶ要塞島』というタイトルの映画が……。写真を見れば『燃えよドラゴン』であることは一目瞭然。

16602595_1629629827345362_1133922189647165531_n日本での初公開はその年の12月。アメリカでの公開は8月。キネ旬の「8月上旬号」はその前に発売され、記事の入稿は二ヶ月ぐらい前だと思われるので、まだどんな作品なのかもよくわかっていなかったのだろう。紹介記事にも「香港を舞台に現代の戦争を描く異色作」と書いてあるだけ。「現代の戦争」って何のこっちゃ?

何よりも、二枚の写真にブルース・リーが写っていないのだから、ブルース・リーがまったく知られていなかったということでもある。

『燃えよドラゴン』の日本題名が正式決定する前に、『ドラゴン登場』の仮題で紹介されていたのは知っていたが、それ以前に『浮かぶ要塞島』として紹介されていたのは知らなかった。僕の知る限りでは『燃えよドラゴン』が紹介された記事の中では最も古いものではないだろうか。

もしも、『浮かぶ要塞島』のタイトルで公開されていたとしたら……と想像してみるが、まったくピンとこない。公開当時、『燃えよドラゴン』の大ヒットを受けて、日本でもそれまで輸入すらされなかった香港製の功夫映画が矢継ぎ早に公開されたが、功夫というものに馴染みが無かったため、「カラテ映画」と呼ばれることになったりもした。一部では「ドラゴン映画」と呼ばれることもあって、このジャンルの映画には「ドラゴン」の言葉をつけたタイトルがつけられたものだ。それも『燃えよドラゴン』のタイトルがあればこそ。『浮かぶ要塞島』で公開されていたら、その後に公開された「カラテ映画」のタイトルもまったく別物になっていたのだろうか?

危険なのはトランプよりマスコミかも?

トランプ大統領の言動を全面的に支持するわけではありませんが、基本的には選挙運動の時にやると言ったことを実行しているところがあって、それはそれで有言実行な部分もあるわけで、どこぞの国の政党みたいに選挙公約を実行しないのとどっちがいいかと言えば答えは簡単。「やりますよ」と言ったことをやるにも、方法についての是非はありますが、「やりますよ」と言っておきながら、なーんもやらない政治家が多すぎるから、トランプの「やっちゃうスタイル」が何となく気持ちよかったりもするわけです。「やらない」と誓ったことをやってしまうのもダメですけど、政権発足一ヶ月足らず。マスコミその他が先読みし過ぎるのも間違いの元になりかねません。

マスコミ(特にアメリカ。そして、追随する国の)としては選挙前にあまりにも偏向的なトランプ批判を繰り広げたため、大統領になったからと言ってすぐに論調をひっくり返すわけにもいかないのでしょうが、マスコミ側にもどこかに驕りがあるような気がしてなりません。

マスコミに批判精神は必要です。これまたどこぞの国のように盲信的に「政権ヨイショ」をするのと比べれば、どっちらがマシなのかは一目瞭然なのですが、最近のマスコミのトランプ報道は何だか「2ちゃんねる」の発言レベルみたいに思えてしまうのです。七か国限定の入国制限も、マスコミによっては「禁止」だったり「停止」だったりとバラバラ。いつのまにやら「イスラム教徒の入国禁止」にしちゃうようなマスコミすら見かけますよね。七か国以外にイスラム教徒の多い国はたくさんあるのです。七か国を過激な国として設定したのオバマ政権だし……。もちろん、それによってテロとは無関係の人が犠牲になったりもするのですが、入国審査を見直すためのプロセスとしては必要な部分もあるような気はします。

司法長官代理の解任にしても、普通にどの国の政権もやっていますよね。日本だって政権の方針に真っ向対立する閣僚が現れたらどうなることやら? 都知事選ですら揉めたわけですから。

トランプが気に入らないというのは感情的によ〜くわかりますが、入国制限にしても、トランプが大統領令に署名したことで、それが憲法や司法の観点からどうなのか……という議論をまな板の上に乗せることができたという事実は見逃すべきじゃないと思うのです。言うだけでなーんもしない政治家たちに比べれば遥かに働いていると思うんですけど? トランプ騒動には、オバマが言うだけでやらなかった「チェンジ」ゆえの副作用って側面もあるのじゃないでしょうか。

トランプに対するアレルギーを見ていると集団ヒステリーのように思える瞬間もありますが、ほぼ半分の国民が指示している大統領(権力)に対して堂々と反論を掲げられるマスコミや反対派国民の姿には羨望の眼差しを向けたくもなります。極めて正常な民主主義。

金持ちは気に食わん? 僕にもそんな感覚があるのを否定はしませんが、本当に大金を持っている人は強いですよ。金では動きませんから。厄介なのは中途半端に小金をもっている政治家。そいつらが一番タチが悪い。中途半端だからケチ。欲も深い。欲が深けりゃお金で動く。そんなチンケな政治家や官僚を腐るほど抱えている国の方が目に余りませんか? もちろん、大金を持ったものが「お金」と同じ感覚で権力を弄ぶ危険性もあります。金で動く人を金で動かせてしまうわけですからね。

トランプが真の大統領になれるかどうかは、そこがポイントでしょうね。本当に国の利益の為に動けるか? 個人や特定団体の利益だけを最優先するような、セコい政治家と一線を画すことができるのか?

僕は昔から、「政治家は無償でも働ける人がなるべきだ」と思っていて、理想としては議員の給与は最低賃金でもいいよと言い切れる人こそ現れてほしいのです。ではトランプは真逆か? かなり極論になりますが、有り余る資産は逆に「無償」を可能にするのではないか……などと思ったりもするのです。「政治は稼ぐための手段じゃない」と言い切れる貧しく正しく美しい政治家と、「金は腐るほどあるから政治で儲けようとは思わない」と言える金持ち政治家。真逆だけど結果は同じになる……のかも?? やっぱり、厄介なのはそのどちらでもない、中途半端なゼニ儲け主義者たちでしょ? トランプ大統領が、「私は大統領としては無給で働く」などと宣言すればカッコいいんですけどね〜。

トランプの自国第一主義をとやかく言うのも簡単ですが、日本だって結局のところはトランプが日本に不利益をもたらさないかと心配しているだけでして、日本を優遇してくれれば文句言わなくなるんじゃないの? やっぱり、自国第一主義は公言しないだけで世界中の基本になっているのは事実。自国の利益をまったく考えなければ、政治的なトラブルなんて起きないわけですから。

グローバリズムをもっともらしく掲げている人たちも、本当にグローバルな視点を持っているのかどうかは大いに疑問。自分の利益を前提としたグローバリズムじゃないのですか?

繰り返しますが、トランプがすべて正しいなどとは思っていません。「アメリカの正義」ってやつがしばしば間違った方向に進んできたことは歴史も証明しています。でも、偏向報道に同調したり、偏見だけで真に有益なものを見誤るのはよくないと思うのです。立ち位置や価値観や生活環境で視点が変わるのは当然。マスコミにはもっと大局的かつ客観的に「真実」を報道してもらいたい……と言いたいだけなのです。

誰でも自分が詳しいジャンルだとか、好きな有名人に対する偏向報道に腹を立てた経験はあると思います。マスコミの批判とか偏向報道、それに同調する「世間」の意見に「何も分かってない」と言い切りたくなったことはあるはず。もっとちゃんと伝えてよ……と。その時の感覚を、自分が良く知らないジャンルの報道にも照らし合わせてみる事は必要だと思うのです。

世の中を間違った方向に導き、戦争を起こしてきたのは、人々が同調圧力に呑み込まれてしまったからではないでしょうか? 

マスコミは必要です。でも、マスコミなりの「権力」というものもあるのです。トランプ報道だけではなく、「我々が言うのだから正しいのだ。なぜわからないんだ?」と頭ごなしに言われているように感じることが多い今日この頃なのです。 「マスコミが言ってたから」「あの著名人や有識者が言ってたから」を参考にするのを絶対的に否定はしませんが、「でも、どうなのかな?」という意識だけは常に持ち続けた方がいいと思うのです。

トランプ大統領はそれを見極めるための好材料。本当に暴走の危険があれば徹底的に批判すべきですが、今はマスコミの勇み足にみえてしまうのです。

アカデミー賞の表彰式で何人のスターがトランプについて言及するのか楽しみです。特に司会者は大変でしょうね。触れないわけにいかないのがアメリカの国民性ですから。どんなユーモアでいじるのかな?
でも、そういう「自由」があるだけニッポンよりはマシかも知れませんね。

訃報・松方弘樹

日本では二度と現れる事のなくなった「映画俳優」という職業だけが放つ独特の「匂い」を漂わせていた生粋の役者でした。子供の頃から東映やくざ映画の熱狂的ファンだった僕にとって、この人は「映画」を象徴するスターの一人でした。70年代当時、鶴田浩二や高倉健のような重厚さはまだなかったけれど、修羅場で生き抜くタフな男の「野性」と「したたかさ」をこの人ほど自然体で醸し出した役者はいませんでした。

『仁義なき戦い』シリーズ五部作のうち三本に出演。シリーズものとしてストーリー的にもつながっているのに、松方弘樹は三度とも別人として登場。三人がいずれも別人に見えたから大したものです。実に器用な役者でもあったわけです。それぞれの人物を演じきり、キャラクターに合った形で最後は全く違う死に方を見せてくれました。

凄味、狂気、ダンディズム、熱情と冷徹、狡猾さ、あがき、弱さ……。相反するいくつもの「人間性」を軽やかに演じる事の出来る人でした。

松方


衝動的な欲望だけで生きるチンピラから、知性溢れる権力志向の強いヤクザまで、どんなタイプの男でも演じられる人でした。『893愚連隊』の有名な台詞にある通り「ネチョネチョ」と生きる男の狡さと逞しさ。『大阪電撃作戦』『北陸代理戦争』『沖縄やくざ戦争』での権力に屈せざる男の生き様。『脱獄広島殺人囚』『暴動島根刑務所』でみせた圧倒的な野性と執着心。『暴力金脈』での軽妙洒脱。『お祭り野郎』『テキヤの石松』でのコミカルさ。『県警対組織暴力』での狂気と悲哀。『日本の首領』での知性と苦悩……。時代劇では何と言っても『柳生一族の陰謀』でしょう。顔に痣がある吃音の将軍役ではコンプレックスゆえの権力志向を見事に表現していました。

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歳と共に渋みを増すと同時に男の哀愁を無言のままに漂わせるようにもなり、「悲劇俳優」として鶴田浩二の後を継ぐことのできる唯一の「映画俳優」として熟成するのを期待していましたが、ご存じの通り、本当の意味での「映画」が日本に存在しなくなってしまったため、この人の実力を発揮できる場所もなくなってしまいました。

残念です。

本当に大好きな「映画俳優」でした。代表作を一本だけ選ぶとするなら、個人的には『北陸代理戦争』を挙げさせて頂きます。

「映画俳優」と呼ぶにふさわしかった「本物」が本当にあと数人になってしまいましたね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

ゆめ2歳♪

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ゆめは1月8日で満二歳になりました。

正月明けに少し体調を崩したり、ドライアイになりやすい目をしていますが、それ以外はとても元気です。

体重は1.9圈

これからも宜しくお願いします。

本年もよろしくお願いします

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2017年、平成29年が始まりました。

そうですか、平成になって30年近くが経ち、21世紀になって16年ですか……。過ぎて行く年月に対する感覚がますます鈍くなっているようで、最近は新年とか年明けなんてものも特別なものとして感じなくなっております。

いつものように日が暮れて夜が明ける。

その繰り返し。

動物や草木を見ているとつくづくそう思うのです。

自分にとっての「新しさ」とは一瞬一瞬の「きっかけ」であり、その「きっかけ」にどう向き合い、どう対処して行くかということに他ならないのではないかと思ったりするのです。

当ブログの更新率は低下の一途を辿っておりますが、これからも心の赴くままに細々と書いてゆく所存です。

とりあえず……。

今年は安全地帯結成35周年。

色々と楽しみです。


映画はあまり観なくなるかもな〜。

自分にとって「映画らしい映画」がめっきり減って来たので刺激にならないのですね。昔の映画とじっくり向き合った方が刺激にも勉強にもなるということを痛感した2016年だったので。

とにかく、理数系アトラクション動画と小演劇スタイルに毒された「ホームムービー」が多すぎる。それが当たり前になりつつある世の中に迎合できればラクなのでしょうが………………無理のようなので。

映画を観なくなる分、自分自身の表現や創作というものに時間を費やせと……天の声として受け止めるのもいいでしょうか。

今年も心の奥底で叫び続けるのはこの言葉です。

Hey you bastards, I'm still here!


玉置浩二ショー

玉置の名曲も安全地帯メドレーも圧巻でしたが、今回の白眉はやはり竹原ピストルとのコラボによる『カリント工場の煙突の上に』。

玉置と竹原の、それぞれに「語り合っている感じ」が素敵でした。

歌詞、あるいは詩というものは「情景」を言葉にするものだと思うのです。ややもすれば、歌詞という名の言葉だけを諳んじるような歌手が多い中で、玉置浩二も竹原ピストルも、歌詞に刷り込まれた「情景」をしっかりと「語っていた」と思うのです。

言い換えれば、魂で情景と向き合っているということかもしれません。

玉置浩二の凄さは「確認」でしたが、竹原ピストルの凄さは「発見」でした。

いや〜素晴らしかった! 

Salyuとのコラボも悪くはありませんでしたが、楽曲が少々くどい……なんて言うと、ファンの方からお叱りを受けそうですが、個人的に桜井の歌詞は昔からなんとなく好きになれないのですね。これは感覚的なものだけでなく、僕の価値観に照らし合わせた理屈の上でもそうなので、どうしようもないですね。悪いとは思わないけど、好きになれないってことは誰にでもあるはず。生き方の上での「違和感」みたいなものだともいえるでしょうか……。ソリが合わないとでも言いましょうか……。

だから余計に玉置や松井五郎の歌詞が純粋に身に染みるのでしょう。玉置自身はsalyuの曲を好きだと言っているのに、玉置を好きな僕はこの曲が好きになれないわけですから、不思議なものです。


来年は安全地帯35周年と玉置浩二ソロ30周年ということで両方のツアーをやるとか。我々にとっては最高に贅沢な2017年になりそうですが、くれぐれも無理をなさらないでくださいね。

玉置浩二〜AMOUR〜inかつしかシンフォニーヒルズ

今ツアー3度目の会場は昨年の『故郷楽団ツアー』以来2度目となる「かつしかシンフォニーヒルズ」。横浜からは京急線で直行できるため1時間ちょいの距離である。住宅地を通り抜けたところにあるクラシックコンサート向けのコンパクトなホールだ。

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曲目や曲順はほぼ同じだから3度目ともなれば厳密な意味での新鮮さは無い。が、ライブは生もの。演奏はステージごとに微妙に違うだろうし、会場や座席の位置が変わればこちらの意識や感覚も変わる。前回の国際フォーラムは二階席からステージ全体を俯瞰する形だったのでやや距離があったが、今回は前から5列目のほどよい位置。ステージ全体ではなく、それぞれのアーティストをカット割りで追ってゆくような「映像感覚」が伴うのだ。

主役は紛れもなく玉置浩二だから、視覚的には玉置浩二の表情を中心に目で追うことになる。『サザンウインド』で客席にウインクしてみせる瞬間もハッキリと見えるから視覚効果は抜群。玉置浩二越しのアーティストたちの表情も適度に印象付けられる。視覚によって切り取られると、それぞれの楽器の音もより鮮明に聞こえて来るような気分になるのだ。二階席から俯瞰で見おろす場合の玉置浩二の「歌」とアーティストたちの「演奏」はひとつに溶け合っていたが、その「ロングショットの一体感」とはまったく別のグルーヴ感を味わうことができる。

多くの人が感じたと思うが、今ツアーの玉置浩二の「歌」は盤石の安定感。休憩を挟む構成や、厳選された曲数が今の玉置浩二にはピッタリなのだろう。気負うことなく、無理をせず、凝縮された「最高の今」を表現している感じがする。それを本人も楽しんでいるから、観客も安らぎに包まれる。

玉置浩二の歌はテクニカルである。それでいて、ナチュラルである。風や木々のざわめきや波の音は、何かを表現することなど意識してはいない。それは自然のままにある。けれど、その音が絶えず変化しながらその瞬間の「今」を実感させる。

玉置浩二の歌もそれである。

玉置浩二の「今」は長い年月の積み重ねの結果である。そして、結果でありながらも「途上」にあることを感じさせてくれる。絶え間なき進化(=前とは違うもの)を実感させられるのだ。盤石の安定感を持ちながらも、その進化を確かな手応えで印象付けてくれるのだ。

以前のステージとの比較は、例えば映像化されたものを比べることで可能にはなるのだろうが、大切なのは聴いた人の「感覚の記憶」である。その生なましい「人間の情感」こそが、繊細な進化を感覚として印象付ける。

一時代を築いたミュージシャンたちにとって「全盛期」は「過去」になることが多い。「全盛期」の定義づけは人それぞれだろうし、最も売れていた時期のことを指すのであれば、玉置浩二にとっても安全地帯として爆発的に売れていた時を指すのかも知れないが、アーティストにとっての「全盛期」はもっと別の次元にある。若い頃に比べれば声質は明らかに変化している。ファンの中には昔の声の方が良かったと思う人もいるだろう。そう感じる事も決して間違いではない。「安全地帯の玉置浩二の方が好き」というのも同じだ。

玉置浩二も歳をとった。それは事実だ。けれど、歳を取ったからこその深い味わいというのもある。『ワインレッドの心』などを聴くと、若い頃の方がセクシーなのかも知れない。若々しくて生々しい男と女のエロスが浮かび上がっていた。それが今はもっと大人の、もっと上品な「艶」を感じさせてくれるのだ。その「艶」がもっと人間的な『愛』を醸し出すのだ。

「若さゆえの魅力」が失われるのは仕方ない事だが、歌そのものに「喪失感」をおぼえる事は無い。失ったのではなく進化したのだと確信を持って言えるからだ。失っただけで終ってしまう多くの表現者がいるのは事実だ。

安全地帯の『ワインレッドの心』と玉置浩二の『ワインレッドの心』は明らかに違う。それでいて、一つのものなのだ。一本の木に例えるなら、「生い茂った葉」と「太い幹」のようなものかも知れない。樹木は生い茂った緑の葉がその瞬間の若さや生命力を感じさせるが、太い幹にはもっとどっしりとした、悠久の生命力が感じられるように……。

今宵は『メロディ』の前に、『清く正しく美しく』の出だしを付け加える小粋なアレンジ。枝葉の中に別の色づきをした葉を見つけるような感覚を味わえた。

シンフォニック・コンサートをひとつの転機として玉置浩二はひとつの完成形を得たと思う。けれど、太い幹の成長と共にままだまだ新たな枝葉を見せてくれるに違いないとの確信を我々は得た。

「今の玉置浩二」を味わえたこの喜びと共に、今ツアーの玉置浩二を「記憶」にとどめよう。

来年は安全地帯35周年!

安全地帯の玉置浩二はどんな枝葉を見せてくれるのだろう? 

メンバー全員の気持ちはもちろんだが、「安全地帯」という音楽史にとって重要なバンドと、不世出の天才歌手の35年目を、より多くの音楽関係者やイベント関係者の方々に支援してもらいたいものである。

玉置浩二と安全地帯は日本が誇る純粋無垢な「芸術」であり「文化」なのだから。

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金沢散歩

二日目の金沢は快晴。青空に雲ひとつなく暖かい。

金沢観光の定番とも言える金沢城と兼六園へ。ホテルから歩いて行けるのがやっぱり嬉しい。

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ランチは兼六園の食事処で「治部煮ラーメン」。あ、やっぱり金箔が! ラーメンまで金箔入りなんざぁ、さすが加賀百万石。金箔も薬味なのでしょうか?? でも……おいおい、意外と美味しいぞ♪

観光地のラーメンなんて普通は食えたものじゃないんだが、治部煮がしっかりしているし、麺のコシもなかなかのもの。金沢の治部煮ラーメン侮るなかれだ。ま、1200円はお高いが、これだけ美味しけりゃ、観光地値段に金箔増しということで納得しても損は無い?

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ゆっくり歩いて西茶屋街へ。東に比べるとかなりコンパクトな街並みだ。

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ここでは、らくがんの有名店『諸江屋』で食べたぜんざいが絶品! おもちを自分で焼いて、運ばれてきた小豆に入れて食べるのだが、この小豆がとーーーんでもなくウマイ! 小豆だけは自分でもしょっちゅう煮るほどウルサイつもりだけど、ここの小豆には正直唸りましたよ。上品で淑やか。小豆そのものが持っている自然な甘みを引き出せばこその味。

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金沢は和菓子の宝庫ですねぇ。

中田屋のうぐいす豆のきんつばをお土産に買いました。きんつばが苦手な人にも「おいしい」と素直に頷いていただけました。

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金沢散歩

IMG_1415先日、一泊二日で金沢へ行ってきた。一昔前は「北陸」と聞けば遠い場所のように感じていたけれど、北陸新幹線が開通したおかげで距離的にも気持ち的にもグッと近くなった。北陸新幹線で最も早い「かがやき」に乗れば、東京から金沢まで2時間30分。東京から神戸へ「のぞみ」で行くような感じだ。

到着してすぐにランチ。とにかくおいしい寿司が食べたかったので、旅行前に評判の名店を予約しようとしたがやはり満席。そこで、金沢グルメの人が「意外と知られていない名店」として上げている店を予約した。それが日航ホテルの中にある『弁慶』というお店。

IMG_1418まず気に入ったのが店の造りだ。入った瞬間に上品な佇まいであることがわかったが、何よりも気に入ったのはカウンター越しに中庭が見える造り。こういう店は今まで知らない。寿司を握る職人さんの背後に木々が見えるのは風情があっていい。

職人さんも素晴らしかった! 優しく優雅で繊細な指先の動きを惚れ惚れと見つめてしまいましたよ。あんなふうに握られる寿司はさぞかし美味しいだろうなぁと、感覚的に伝わって来るのだ。

握られた寿司は溜息がでそうなほどの美しさ。すぐにでも食べたいと思わせるのに、食べるのがモッタイナイとも思わせる。

そして味は……掛け値なしに最高級! 大きさも形もネタもシャリの食感もすべてが完璧! 


何よりも個人的に「来たぁぁぁ!」と思ったのは、客に醤油を使わせない事。カウンターには醤油も醤油皿もないのである。ネタに合わせた微妙な味付けが施されているので、醤油などつける必要がないと言う事だ。

僕は元々、醤油というものをほとんど使わない。冷奴も刺身も寿司も絶対に醤油は使わない。素材の味をそのまま楽しみたいからだ。そんな僕にとって、寿司店の醤油や醤油皿は目障りなものでしかなかったから、ついに理想のお店に来たぁぁぁという感じなのである。

勿論、ネタには味付けがしてあるので素材そのままではないのだが、その味付けは素材を理想的なまでに引き出すような上品さと丁寧さ。

「これが本物のお寿司というものですよ」

声を大にして言いたいくらい。

下の写真は「のどぐろ」。軽く炙ってあるのも魅力。

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その後は定番の近江市場、東茶屋街、武家屋敷を散策。主要観光地に歩いて移動できるのが嬉しいね。

ブラブラ、ノンビリ。街そのものの風情を愉しむ。

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東茶屋街では、お茶屋さんの名残を留めた『志摩』で静かに和菓子を頂いた。

何だかホ〜ッとする。

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夜は金沢で「行列ができる居酒屋」と評判の『いたる』へ。開店前から行列ができていたけど予約しておいたので即入店。のどぐろの塩焼きが絶品でした。

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その後はホテルのバーで一杯。こちらもバーカウンター越しに夜景が望めるおしゃれな造り。

カクテルに細工を施した金箔が浮かんでいるのが金沢チック。

加賀百万石テイストですね。

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初めての金沢。薄曇りで肌寒かったけれど、大いに満喫して駅前のホテルへ。

部屋から見た夜の金沢駅。


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トランプ勝利

アメリカ国内の社会状況にそれほど関心があるわけでもなく、新大統領によって日本の政治や経済がどう動くかなんてことについては無知蒙昧な私でして、単純にイメージとして好きか嫌いかで判断するとしても、判断材料はマスコミの偏向報道しかないわけで、もっと単純に感覚的なもので判断するなら、金持ちと政治家と権力者が嫌いな私にはヒラリーもトランプも同じ穴のナントカ的に僅差もなくて、政治家は政治と経済の手垢にも塗れているけれど、経済の手垢にしか塗れていないトランプの方が少しはマシなのかと思う瞬間もあったりなかったりで、民主党候補としてヒラリーと競り合ったバーニー・サンダースなら全面的に支持したいと思っていたので、ヒラリーが負けたことにもそれほどの驚きはございませんでしたが、トランプ勝利がヒトラーを支持した過去のドイツ民主主義の二の舞になるかならぬかはアメリカ国民の判断力だけでどうなることでもなく、トランプ政権にどんな閣僚が雁首を並べるかが重要なのと、そこに経済優先主義の魑魅魍魎たちがどう絡んで来るかが決め手なわけでして、日本の片隅で資本主義経済の枠組みから僅かにはみ出しながら清く正しく貧しく暮らしている私なんぞにはどーすることもできないわけですが、トランプ勝利でひとつだけハッキリしたことは、日本のマスコミ報道(アメリカの報道も日本のマスコミを通してしか伝わらないので、「日本の」と言わせていただきます)および、テレビ番組でアメリカ社会を語るような、したり顔の「有識者」の言葉などまったくいい加減だったということがわかったことで、マスコミ主導型の理数系社会的な多数の論理にも綻びが見えたと言うことにのみ快哉を叫びたくなったわけで、トランプ政権に追従するにせよ抵抗するにせよ、マスコミが作る「絶対多数」に踊らされて操り人形にだけはなりませぬよう心して清く正しく美しく生きて行きたいと思いつつ……今も玉置浩二の歌を聞いております。

『サワコの朝』の玉置浩二

『清く正しく美しく』を弾き語りながら思わず「グッときて」しまう玉置浩二を見て、「いいなぁ〜」と思った。

自分が作った曲と詞。何度も何度も歌って来たはずなのに、ほんの数フレーズを歌っただけでグッと来てしまう姿に、あぁ、芸術なんだなと思った。

作り手が自分の作品に感動できる姿を僕は美しいと思う。

なかなかそうはいかないものだ。

口さがない言い方をすれば「自己満足」ということにもなるけれど、自分がまず最大限に感動できる作品を創り上げられなければ他人を感動させる事などは出来ない。商売によってパッケージ化されるに従って、作り手の自己満足は芸術的観点から語られることを奪われ、「お客さんを意識した作品」というフレーズのまやかしに踊らされてしまう。

もちろん、優れた作品には自己と他者の距離を近づけるだけの力がなくてはならないのだけれど、その真理を徒に商売としてふりかざし、「他者の存在」ばかりを主張する輩がクリエイティブな業界には跳梁跋扈しがちなのだ。「自己満足」とか「自己陶酔」なんて言葉は否定的な意味合いとして使われてしまうものだけれど、真に才能あるクリエイター(=芸術家)の自己満足や自己陶酔にふれることこそが芸術の味わいであり、理屈を超えた感動とのふれあいになるのだ。

だからこそ、『清く正しく美しく』を歌いながらグッときてしまう玉置浩二に僕は心から感動したのである。

阿川佐和子が言うように、実に道徳的なフレーズの並んだメッセージ・ソングなのに、嫌味も説教臭さとは無縁のような純粋さで心地よく胸に沁みこんでくるのは、他者に向けたメッセージが完璧に自己完結しているからであり、玉置浩二の純粋無垢な「きもち」が言葉とメロディに変換されているからである。

他者の存在、他者との距離、自己の抑制、自己の放擲……。

何かを表現しようとすればどうしてもそんなものに「余計な必然性」を感じて惑わされてしまいがちだけど、自分が「グッと来るもの」を作り出す事の純粋さこそが全てに勝るのかも知れない。

そう思わせてくれた朝のひとときでした。

昭和レトロなやきそば屋

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横浜の阪東橋界隈にある「磯村屋」。

店構えも店内も昭和の匂いが残る懐かしさ。

入口のそばに年季の入った鉄板があって、とても愛想のいいおばあさんが二人でやきそばを焼いている。

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メニューを見て驚いた。

やきそばしかない! 

おでんはあるけど、普通はお好み焼きもやっている店がほとんどじゃないだろうか? 本当にやきそばの専門店なのだ。

しかも……や、安い!

一番お高い三色やきそばの大盛りでさえ400円!

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なのでそれを注文。玉子と肉は定番だけど、ポテト入りは珍しいかも。量もしっかり大盛り!

店の雰囲気にマッチした素朴で懐かしい味。

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あーー、ホッとする。

子供の頃はこんなお店がいたるところにあったなぁ……。

しばしノスタルジアと戯れる。

400円なのはわかっているけれど、千円札を出して600円が戻ってきた時はちょっぴり感動してしまった。

お釣りをくれたおばあちゃんの、「ありがとう。お気をつけてね」の一言に胸がジーン。

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国慶節の中華街

本日は横浜中華街の国慶節パレード。今年に入って、中華街のパレードは3度目。なのに来週は雙十節でまたまたパレードがあるとか。中華街はちょっとしたテーマパークですね♪

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中華街でチャーハンと言えば清風楼。シウマイの名店ですが、ここのチャーハン(品名はヤキメシ)はおそらく中華街一。素朴な味ですが、中華街を良く知る人はみなさんナンバーワンだと言いますね。ラーメンもイケます。赤いシナチクの色が次第に溶け込んで、食べ終わる頃にはスープが赤く染まるのです。今日はシウマイは食べませんでした。

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食後のお茶なら悟空茶荘。様々な中国茶を楽しめます。先日、「マツコの知らない世界」で藤竜也が紹介していたお店ですね。本日は番組でも紹介された「八宝茶」を頂きました。リラックスできます。

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玉置浩二〜AMOUR〜in東京国際フォーラム

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前回の昭和女子大・人見記念講堂は一階の前の方の席でしたが、今回は二階席の真ん中あたり。どちらもファンクラブ先行で買ったのにこの差は何?とは思うものの、同ツアー2度目ということでたまには二階席もいいだろう……と割り切ったところ、二階席で遠くから眺めるステージにもそれなりの良さがあることに改めて気づかされました。

ひとつには視点が固定されるということ。前の方に行けばいくほど玉置浩二に近付くわけで、そうなると必然的に玉置浩二ばかりを視線が追うことになります。時にはバックの奏者たちを見たりもするし、とにかく視点が安定しない。例えるならば、映画でアングルやサイズが変わるのと同じですね。玉置を見つめていたとしても、歌いながら動き回るので必然的に〈視線〉と言う名のカメラも動き続けます。そこにモンタージュ効果が生じるので、受け手側の感覚の中で楽曲もそれに合わせて微妙に変化するわけです。

ところが、二階席からステージを見つめていると視点はほとんど動きません。もちろん、玉置浩二が動くのに合わせて微妙な視線誘導は為されているのですが、基本的にはロングショットで据えっぱなしにした固定カメラの映像ということになります。ゆえにスタティックな印象が強まるのですね。それは、「落ち着き」と言い換えてもいいかもしれません。しかも、二階席からだとステージ全体を見下すことになります。これは景色を見る時にも言えるのですが、同じ景色でも、「見上げる景色」「同じ目線の高さで見つめる景色」「見下す景色」では印象も大きく異なります。遠くの景色を見下す時はこちらの気持ちもゆったりと大らかになります。視覚が安定することによって、聴覚が研ぎ澄まされるかどうかはわかりませんが、とにかく落ち着いて玉置浩二の歌を聴いている感覚が強まったような気がしました。空間の広さを視覚で体感できるのもいいですね。一階席だと歌が前面から広がってくる感じですが、二階席からだと下から湧き上がってくるような感覚ですね、同じ曲でも聴く場所によって微妙に変化するのです。そして、これはライブでしか味わえない感覚なのです。

2度目なので曲も曲順もわかっているから安定感はさらに増します。前回は「生きる事の心地よさ」を再認識させてくれましたが、今日のライブは「ただそこにいることの心地よさ」に包まれた感じです。とにかく気持ちいいのです。ふわふわ宙を漂っているような感じ。シンフォニックでもそうでしたが、玉置浩二の歌に落ち着きがあるからなのでしょう。体と心がピタリと重なり合っている感じ。第一部を『遠泳』で締めくくり、その曲の余韻を崩さないようにスーッとステージから消えて行く玉置浩二の姿の何とシンプルで美しい事か!

セットリストがわかっているからか、前回よりも更に時間が短く感じられました。本当にちょっと長め一曲を聴いたような感じです。もっともっと聴きたいと思ってしまうのも確かですが、そこに「余韻の心地よさ」が生まれるのですね。今ツアーは玉置浩二の楽曲と歌が与えてくれる「余韻」を心地よく味わうツアーなのかも知れません。

今ツアーはあと一回、11月17日の「かつしかシンフォニーヒルズ」にも行く予定です。こちらの座席は未定ですが、どの席からでも心地よくなれるのは、やっぱり玉置浩二の「歌」だから。

同期交流

近年やたらと中学・高校時代の友人たちとの交流が復活しているのですが、同窓会では同じ学校に通いながらまったく接点の無かった人も少なくはありません。

高校時代は同じクラスになったこともなく、話したこともなく、存在すら知らなかった人なのに、「同期」というカテゴリーの中では時が経てば「知人」になるのですね。そんな中で、高校在学中もジャンル的にまったく別の人でしかなかった人と同期会で少しずつ話すようになり、先日は二人だけで飲みに行く仲にまで発展。

高校卒業以来、真逆のような人生を歩んできたし、何十年もアカの他人でしかなかったのに、3時間も二人でじっくりと話せば、今までのイメージとは違った面も見えてきて、意外と人間のタイプとしては似通っていたのかも知れないと思ったりするから不思議です。

不思議だし、「人生って面白い」って思えてくるのです。

勿論、昔から何となくそりが合わなかった奴とはやっぱりそりが合わなかったりもするし、ずっと仲良く交流を続けてきた友だちとそりが合わなくなることもあるのですが、年を取って微妙に変化する人間関係がプラスの要素として感じられるのは嬉しいものです。

玉置浩二 〜AMOUR〜in人見記念講堂

昭和女子大・人見記念講堂。

初めて訪れる会場でほぼ一年ぶりの玉置浩二ライブを堪能。ツアーとしてのソロ・コンサートも昨年の『故郷楽団』以来だ。シンフォニックを始めてからの玉置浩二は「歌うこと」に専念することによって「歌い手」としての感性に磨きをかけてきた。オーケストラとの「調和」によって「歌声」の純度を高めてきた。その結果、ロックバンドのボーカリストとしての最高峰を極めた男は、あらゆるジャンルの音楽を含めた「歌い手」としての頂きにまで到達し得た。

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ゆえに、バンド・ボーカルとしての「やんちゃな弾け方」とでも言うような部分は影を潜めた感はある。「洗練された大人の玉置浩二」が前面に出るようになったため、昔からのファンの中には「堅苦しさ」を感じてしまう人もいるのだろう。実際、シンフォニックからの流れを見続けていると、安全地帯としての玉置浩二が恋しくなる瞬間があることは否定できない。

玉置自身はどうなのだろう? そろそろ「やんちゃに弾けるステージ」に戻りたいのではないか……などと思ったりもするのだが、今回も「シンフォニックからの玉置浩二」をギュッと凝縮し、ブルーノートなどで行われるライブハウス・ショーのようにコンパクトでシンプルな雰囲気を取り入れたステージになっていた。安全地帯メンバーの矢萩や六土も今回はステージの奥の方で他の演奏家たちと横並び。玉置浩二との間に微妙な距離が置かれているから、バンドの時のような融合感はない。が、玉置浩二の「歌」の純度を高めるためのほどよい距離なのかも知れない。

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一発目の曲は『サーチライト』。テレビドラマの主題歌だったので、最近の玉置ソングではもっとも世間的認知度の高い曲だ。それでも観客は立ちあがらない。これはブルーノートやシンフォニックで出来上がった「大人の雰囲気」。バンドと一体化して盛り上がるのではない。

それでも、我々はスーッと玉置浩二の歌に吸い寄せられてゆく。その自然さ。これこそが芸術の力だろう。本当にスーッと溶け込むように吸い寄せられて、あっと言う間に玉置浩二と演奏家と観客とがひとつに溶け合ってしまう。あとはただひたすら玉置浩二の「音楽」に身を委ねるだけでいい。バンド・ボーカルとしての玉置に対する郷愁もどこかへ消える。玉置浩二の「歌」は聴く者の心の中に渦巻いている様々な想いを撹拌させることによって純度の高い澄明さへと導いてくれるのだ。

僕の心は最近かなり荒んでいる。人間を信じられなくなっている。信じようとした「世界」がどこにも存在しないことを体感して虚無に襲われている。落ち着ける場所が無い。自分のリズムが狂っている……。それは昨日今日の刹那的な感覚ではなく、何年にもわたって蓄積されたものだから根腐れも相当なものだ。そんな精神状態ではたとえどんなに美しいものに触れても、素晴らしいものと向き合っても、どこかしら虚しさをひきずるものだ。正直に言うならば、今日のコンサートにもいつものような期待感は沸き上がって来なかった。心の中にポッカリと空いてしまった空洞には虚しい風が吹き抜けるだけだ。いつも以上に冷めた目で、いつも以上に批判的で……。

けれど、玉置浩二の歌に吸い寄せられてしまえばすべては撹拌される。人間不信とか自分の世界の喪失などというものは精神の奥深いところにあって、他者には触れ得ないもののはずだ。けれど、それらは世俗の垢でしかない。「生活」とか「お金」とか「仕事」とか……。世俗の基準に照らし合わせることで生まれる脆弱な懊悩でしかないのだ。

玉置浩二の歌に吸い寄せられ、自身の内部にある懊悩が撹拌されてしまえば、後に残るのは純度の高い「魂」のみ。それが希求するものは何か? 玉置浩二の歌に吸い寄せられながらハッキリわかったことがある。

「生きる心地よさ」に他ならないと。

それがあるから生きていけるのだと。

優れた芸術はそれを与えてくれる。或いは思い出させてくれたり気付かされたりする。人によっては具体的な「感動」や「勇気」や「共感」だったりするだろう。それらはすべて生きることに対する気持ちを前向きにしてくれるものだ。そこには必ず「生きる事の心地よさ」があるはずだ。生きる事は辛い。苦しい。社会と向き合う事や人間関係はとかく厄介なものだ。けれど、生きることの「喜怒哀楽」には常に「心地よさ」が寄り添っている。人によってはそれに気付けなかったり、気付く瞬間があまりにも短かったりするから、心地よくない現実に惑わされてしまいがちなのだけれど、心地よさを味わう感覚は人間に備わった本能なのだ。息をする。ものを食べる。寝る。話す。動く。人間の基本的な本能の端々に心地よさは寄り添っているのだ。生きていることが心地よいと感じられなければ「生命」は途絶えてしまっただろう。

玉置浩二の歌には「魂」がある。「魂」とは世俗的な計算や打算にまみれた様々な「事情」に影響されないものを指す。玉置浩二が持って生まれたもの。言葉をメロディに乗せて紡いでゆく才能。その魂が純度を高めれば高めるほど、そこには生きる事の心地よさが滲み出し、溢れ出し、それに触れた者を包み込む。

玉置浩二は魂の赴くままに歌っているだけなのだろう。「歌いたいから歌う」「歌うことが楽しいから歌う」……。そのシンプルな情動こそが「魂」を形作る。

唯一無二の玉置浩二の才能が、本能としての心地よさと呼応して、その歌詞、その旋律、その音が最も理想的とするところへと迷うことなく導いて行く。純度の高い一音一音が連なり、絡まり合い、いくつもの複雑な世界を作り出してゆくのに、それが不思議とシンプルで澄明で美しいのだ。

15分の休憩を挟むのもシンフォニック以来のスタイル。一気呵成に歌い続ける玉置浩二も魅力的だが、このゆとりがあるからこその「味」はある。無理をすることは無い。ただ自然に魂の赴くままに……。玉置浩二が心地よく歌うからこそ、我々はそこに「生きる事の心地よさ」を感じるのだ。今日の玉置浩二は一言もしゃべらなかった。挨拶すらなかったし、喋ろうとする瞬間さえなかった。シンフォニックよりも少し前のコンサートはそうだった。ただ歌う。それだけで完結するステージの心地よさ。

聞き慣れた曲や他の歌手に提供した曲に新曲を交えて玉置浩二は歌い続ける。玉置浩二の音楽センスによって生まれた曲だからメロディは似通っている。人間にとって「心地よさ」とはとっても自然な感覚だから、多くの場合それはどんどん過ぎ去ってしまう。もしかしたら、最高に心地いいものほど「素通り」してしまうのかも知れない。けれど、本当に心地のいいものは一瞬にして体内に沁みこみ、細胞の隅々を一巡してから通り抜けて行く。素通りしたように感じるだけで、スーパースローで再生して見れば、決して素通りしていないことがわかるはずだ。

すべての曲が玉置浩二の歌声によって甲乙付け難く心に響くのだが、そんな中で特に心地よく興奮したのは……意外にも『じれったい』だった。繰り返し聞いている曲なのに、とんでもなく新鮮だった。アレンジの良さ。そのグルーヴ感。それらが相まって初めて聴く曲のように思える瞬間さえあった。玉置と矢萩が顔を見合わせた時の楽しそうな表情も印象的だった。

心地よく生きたい。

誰もがそう願う。その心地よさの実感を玉置浩二は常に「愛」として表現する。「AMOUR」とフランス語にしたのはカッコよすぎるけれど、その言葉にもやっぱり「心地よさ」がある。

生きることの心地よさ……。

今回のツアーはそれを教えてくれる。

今日の座席は前から数列目のど真ん中。次回は東京フォーラムの二階席。客席の位置で印象がどう変わるのか……楽しみだ。

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同窓感謝

この夏、故郷で中学の同窓会を開催したのです。

大々的な同窓会は13年ぶり。

今回は幹事の一人として連絡先のわからない人を探しまくって、音信不通だった人と何人か連絡を取ることができました。

その甲斐あってか、中学卒業以来の再会を果たし合った人も多くいて、「探してくれてありがとう」「呼んでくれてありがとう」と言ってもらえたのが何よりのご褒美。話してみると遠い昔の些細なひとコマを鮮明に覚えている人がいて、「えーっ、そんなことよく覚えてるなぁ」と感心したり感動したり。

あの頃の自分がどう見られていたのかを再確認したり、その時のイメージが今も変わらないと言われて妙に勇気づけられたり……。

みんな笑顔で、昔のままの呼び名で語り合う。


うん、同窓会っていいものですよ。

来た人はみんな、そう言い合ってましたから。


残念なのはこの13年間で5人の同窓生が亡くなっていたこと。前の同窓会の時には笑い合っていた人がもうこの世にはいない……。年を取ると13年なんてアッと言う間なのに、やっぱりそれなりの年月が経ってしまったと言うことなのですね。

だからこそ、同窓会はいいものなのです。

同窓会なんて面倒くさい。どうせ誰も覚えていないよ……と、考える人もいるのは事実だし、中学時代にいい思い出の無かった人もいるだろうから、一概には言えないのだけれど、そう思いつつも来てみたら、中学時代に戻れて感動したって、来た人はほぼ100%そう言いますね。

同窓会はいいものです。

いろんな自分と向き合えます。

感謝感謝の一日でした。

夏時風物

猛暑が続いております。

この夏のお祭りやイベントの写真をいくつかアップしておきます。

7月は恒例の川崎大師・風鈴市。
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つづいて横浜の神奈川新聞花火大会。1時間で15000発は壮観。今まで見たことのない、夜空でネオン状に変化する花火はスゴかった。花火の進化形を見た瞬間です。動画゛しゃないとその凄さが伝わらないのが残念です。大桟橋に豪華客船「飛鳥供廚停泊中だったので、風景的にも一味違いました。


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現在、赤レンガ倉庫で開催中のイベントでは広場に南米の川が出現。周りには砂浜が作られていてリゾート気分を満喫できます。

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没後20年

pct_atsumi_main28月4日は名優・渥美清の命日でした。

亡くなって20年になります。

もうそんなに経つのか……というのが率直な感慨です。

20年の歳月にまるで実感が無いのです。

若い頃の20年はとんでもなく長い歳月だったのに、年と共に歳月の感覚は曖昧になってゆくのでしょうか? それとも、時代そのものがドラスティックに変化していないからでしょうか? 

確かに、この20年でITは飛躍的な発展を遂げています。

けれど、それ以外の分野では20年前と大差がないような気もします。

政治と金の問題は相変わらず不透明なままだし、福祉や社会保障制度、税金や年金の問題など、寧ろ悪い方向にねじ曲がったり、後退しているようにも思えます。

芸能界なんてどん底で停滞しまくって腐敗臭すら漂っていますね。

20年と言えば、生まれた赤ん坊が成人になるだけの歳月です。けれど、それが社会の成長とはリンクしないのですね。

変わらないものの大切さや美しさは勿論あって、それは守るべきものですが、守る必要の無いものが歪んだ価値観で守られてきたのがこの20年なのかも知れません。

少なくとも日本映画の場合はそう断言していいでしょう。

渥美清の死と共に『男はつらいよ』シリーズも幕を閉じました。日本映画が真に日本映画らしくあった時代の最後の象徴を失って20年……。寅さん映画とその「時代」をリアルタイムで知っているのは、30代以上の人になってしまったのですね。

それは、すっかり変わってしまった20年を意識させるはずなのに、実際はそうではないから不思議な感覚なのでしょう。

渥美清と『男はつらいよ』を喪った時から、映画と共に生きてきた僕の「時代」が歩みを止めてしまったのかもしれません。

自他歪曲

相模原の障害者施設で起きた殺人事件は現代社会の様々な問題点を孕んでいるとは思うのですが、何よりも思うことは、誰かの人生が「幸せ」か「不幸せ」か、生きる価値があるかないかを、他人がとやかく言う事ではないと言う事です。

他人と比較した時に「貧しい」とか「不健康」だとか、「地位や名声」が無いとか、「苦労」が多いとか、「家族や恋人や友人」がいないとか……そんなことで優劣を決めたがるのが人間ですが、そんなものはその人なりの人生における「幸福」を判断する材料にはならないということです。

多くのものを有している人は、持たざる者と自分を比べて自己満足に浸るでしょう。確かに、「持たざる者」が「有する者」を羨むこともあるでしょう。

けれど、他人に判断できることではないのです。

犯人が最も憎んでいたのは「持たざる自分」だったのかも知れません。だから、勝手な判断で、自分より「劣る者」を設定して、その人たちを不幸と決めつけ、「殺してあげる」という結論に至ったのかもしれません。

「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったそうです。民族の血を優秀な遺伝子だけで守るために、他民族や障害者を排除しようとしたナチスの思想。

思想と言うのは、哲学であれ宗教であれ、常に「自分主義」。他者のため……などと尤もらしい事を語っていても、それを信じない者は間違っていると決めつけてしまったなら、その時点でナチスの思想と大差はないのです。

人は自分と考え方や価値観の違う他者を排除することで安心したいものなのです。

それが殺人とか暴力に繋がらなかったとしても、多くの人にはそういう部分があります。残念ながら、それが生物すべてに与えられた本能だからなのでしょう。けれど、人間には理性や知性が与えられました。本能を生かしながら、本能とは別の価値観を育てる機会が与えられたと言う事です。

けれど、やっぱり、この世の中は「有する者たち」の「罪」で穢されている部分も大きいのです。「持たざる者」との格差を広げることで、自分たちの間違った価値観による幸福を独占しようとしているのです。

だから、この事件の犯人の行為も許される……なんてことは絶対的に無いのですが、彼の行為がそのまま世界に横行するテロリストの論理と同じであり、テロ行為そのものであることも頭に入れておかなくてはなりません。

彼のような人たちが、テロ組織に集うのでしょう。

そして、彼らの「個」としての理想や価値観だけがテロを生むのではなく、そこには必ず「格差」の歪みに落ち込んだ人たちのあがきが存在するのです。

テロリストや犯罪者の行為は絶対的に許してはなりません。全否定すべきです。が、格差を生み、自分たちのために格差を守ろうとする人たちの「罪」にも我々はしっかりと目を向けなくてはならないのです。

その「二つの犯罪」の狭間で、精一杯生きている多くの人々がいます。

何よりも許せないのは、そんな人々の「笑顔」を奪う事なのです。

今回の事件で被害に遭われた障害者の方々の「笑顔の写真」を見るたびにそう思うのです。

この世はどうして、すべての人の笑顔で満たされないのでしょうか?

他人を歪め、自分を歪めれば、世の中は歪み続けるしかないのです。

一体全体

今年のトレンドとして異様な盛り上がりを見せているのかな……「ポケモンGO」。

でも、ダメだ。こういう盛り上がり方。ゲーム自体は別にいいです。それをみんなで楽しむのもね。でも、同じ場所で同じ方向を向いてスマホを弄る人たちは、「光景」として不気味かなぁ……。「みんな一緒に右むいてぇ」というのが子供の頃から嫌いなタチなので、「ブーム」ってものにほとんど乗っかって来なかった僕は、みんなが同じものに群がるのを見るとどうしても背を向けたくなってしまいます。ただのあまのじゃく……だけどね。

ちなみに、高校の時、担任教師が進路指導の際、僕の親に対して、「**くんは、他人がこっちへ向きなさいと強引に首を右へ向けたら、絶対に左へ首を向けますからねぇ」と苦笑していそうな。自分が受験したい大学しか絶対に受けないから指導しても仕方ないって諦めてました。

同じ場所で同じものを見つけて同じ喜びに浸る……。平和なんだろうけど、その平和が妙な連帯意識や排他性に繋がらなきゃいいですね。

ま、そんなこたぁ、愉しんでいる人たちには別次元の戯言でしょう。確かに、これを応用すれば有効利用できる部分もあるだろうし、ゲームの世界を飛び越えて社会的な有益性を生むこともできるとは思いますよ。

そのうち、落ちてるゴミを拾ってくずかごに捨てたら特別モンスターがゲットできるとか……やれればいいよね。

けど、楽しむだけでは終わらないのも世の常。やっぱり、事故とか違反とか多くなるでしょうね。悪用する人もいるだろうし……。

自分は大丈夫と思っていても、巻き添えを食うってこともありますしね……。そこんところは被害者にならなきゃ分からん部分も多いわけでして……。楽しんでるのに水を差すやつはどっかへ消えろーなんて言わない人が多い事を望むばかりでございます。

でも……裁判所とか原発にまでポケモンが出現するように作ってあるってマジ? それはさすがにまずいでしょ。ゲームのシステムについては全くの無知なんですけど、どこに出現させられるかをゲーム開発者側が操作できるとしたら……これはかなりマズイ。開発や運営側のモラルと品性も問われそうですなぁ。やっぱり、いずれは、出現場所の許可を取ってからってことにならざるを得ないと思いますけど、何か問題が起きてから……の対処はやめてね。ゲームを楽しんでる人を操って楽しむ……なんてのは二流SF小説の世界で十分ですから。

一人暮らしの老人に優しくしたらモンスターをゲットできる……とかならいいですけど。

任天堂がオッペンハイマーにならないように……と祈るばかりです。

一体感を全体主義に利用しようなんて悪だくみをするやつに、付け入る隙を与えないようにしなくちゃね。

自分がやりはじめると、自分のやってることは正しいと思っちゃうもので、かくいう私もそうであることは否定しませんが、だからこそ、ブームに取り込まれないうちは、冷めた目でいることも必要なんだよ……と自戒したいとは思うのです。

トランボ

6107トランボ久々に魂を揺さぶられる映画だった。

果たしてお前には誇り得る信念があるのか?

守り通せるアイデンティティがあるのか?

映画を見ながら何度も何度も自問自答を繰り返さずにいられなかった。


自分は何ひとつ持ち合わせていないのではないか……。


泣けた。

心から泣けた。

単にいい映画、優れた映画に対する感動ではない。

ある種の「啓示」だ。

何千本もの映画を観続けているとそんな感覚はなかなか味わえない。

久々の映画による「啓示」。


一人の脚本家が脚本を書き続けることで、「世間」と「時代」と「多数」を相手に戦い抜いた姿に魂を揺さぶられた。

自分に出来る事。

ただそれだけで戦い抜いたダルトン・トランボという男。

戦いであるという認識も意志も持たず、当たり前のようにシナリオを書き続けることですべてを証明した男。

彼が最晩年に脚本を書いたスティーブ・マックイーン主演の『パピヨン』はわが生涯におけるベスト3映画であり、ラストシーンの決めゼリフは私にとって映画史上最高の台詞である。

そして、この映画を観た今、『パピヨン』の台詞がトランボ自身の魂の叫びであったことを知る。だからこそ、あの叫びはわが胸にも突き刺さったまま永遠に抜けはしない。

当ブログのタイトルにも書いてあるその台詞。

「Hey you bastards, I'm still here!」

この台詞を堂々と叫ぶことができるなら、いつ死んでも惜しくは無い。

そのために生きる。

それでいい。

貶斥自滅

都知事選は色んな意味で「みっともない」人たちを浮き彫りにしてくれますなぁ。

注目されている三人の候補者はみなさんマイナス要素で「いい勝負」。自信たっぷりに「尤もらしい事を言ってる私ってステキ」……とばかりに自己陶酔しちゃってる候補者なんて、何か言うたびに私なんぞは「バカじゃないの」と思ってしまうんですけどね。その「自己満足陶酔型候補」に対して妙に遠慮がちな候補者もねぇ……。党派的思惑って醜いなぁ。だからって、曖昧な演説でこれまた自分の価値を貶めそうな候補者も何だかなぁ……。

でもねぇ、マスコミ的には一人だけを攻撃しているみたいなのが癪に障りますなぁ。過去のスキャンダルとかほじくり返すやり方ってなんか姑息。そんなこと言ってたら、過去にスキャンダルだらけだった某県の元知事なんてどーよ。でもって、その本人がやたらとこの候補者を攻撃しているってのも……情けないやね。あんまりやりすぎると、やってる方がバカに見えて来ませんか? これまた自己陶酔型。やればやるほど自分の底の浅さを露呈するだけで、しょせん**って思われてオシマイ。他人を貶して自滅しませんように。

だがまてよ、これって、もしかして……「褒め殺し」の逆バージョンかも?  「貶して貶して逆に生かす」みたいな。そんな高度な戦略をお持ちならスゲェかも。でも、やっぱり、今のところは他人を貶しているつもりなのに自分を貶めてるって感じしかしませんやね。敵を「貶斥」しようとして自滅しちゃった……なんてお笑い芸人的にはアリだけどね。

そりゃもちろん、批判される部分が多いからだよ……てな言い分にも耳は傾けなくちゃいけませんが、選挙ってのがいつの時代も他の候補者を批判することでしか自分や自分の指示する人を持ち上げられないってところがみっともないと思うわけ。相手の駄目なところをいくつもあげて、徹底的に貶めて、貶めた相手より優位に立つってのがどうにもじれったい。もっと、自分の主義主張に絶対的な自信を持って選挙戦を戦える「できる候補者」はいないものなのでしょうか。公平性の欠片も持ち合わせていないマスコミは三人の候補者しかとりあげませんが、ほぼ無視されている候補者の中にこそ、もっとしっかりした「できる人」がいるのかも知れないぞ……と思わずにいられないわけです。

庶民の指導者たるべき人たちがこうなのですから、子供のいじめをなくそうなんて言っても土台無理な話でございます。

座頭市が世間に背を向けて、「嫌な都政だなぁ」って呟きそうな結末にならないことを祈るのみでごぜぇやす。

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