【あ】 『鮑(あわび)の片思(かたおも)い』

       『鮑の片思い』

鮑の殻は二枚貝の片側だけのように見え、いつももう片方の貝を求めているということから、一方からだけ恋い慕うこと。片思い。
同:●磯の鮑の片思い
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源五郎たちが追加の酒を買い込んで帰ってきたとき、まだ昼にもなっていないというのに、五六蔵たちはかなりご機嫌になっていた。後発(こうはつ)の八兵衛と熊五郎もそれなりに酔っているようだった。
襖(ふすま)を開けた源五郎に、「弟子とはいえ客は客ですよ。いつまで待たせるつもりっすか」と、毒づこうと口を開いた五六蔵だったが、その隣りにあやがいるのを見て、何も言えずあんぐりと口を開けたまま仰(の)け反(ぞ)った。

>八:こいつぁあ魂消(たまげ)た。おい、新年から仏さんの御利益(ごりやく)があったぞ。
>三:ああ、神様仏様。おいらこれからは、ちゃあんと信心(しんじん)します。
>四:仏さまをかい? 神さまをかい?
>熊:そんなことどっちだって良いんだよ。それより親方、どこまであやさんを追っ掛けてったんです?
>源:別に追っ掛けてった訳じゃねえ。偶々(たまたま)会ったんだ。
>五六:ほんとですかい?
>源:当たり前ぇだろう。
>熊:ほうら言ったじゃねえか。仏さまも偶には気の利いた計らいをなさるってもんだ。
>八:気の触れた計らいじゃなきゃ良いがな。

>源:手前ぇら俺のことを出汁(だし)にしてやがったな。
>八:当ったりぃー。
>源:こいつ、抜け抜けと。・・・まあ良かろう、正月だしな。それより、誰か二助を呼びに行っちゃ呉れねえか?
>五六:へい、そんじゃあっしが。
>熊:そんなに酔っ払ってちゃ無理だろう。おいらが行ってくらあ。
>八:お前だって迎(むか)え酒が覿面(てきめん)に出てやがるぜ。
>三:それじゃあっしが行きやしょう。このぐれえの酒なら素面(しらふ)も同然でやすから。
>源:でえじょうぶなんかい?
>五六:こいつん家(ち)は先祖代々皆ぃんな笊(ざる)だそうですから。
>三:へい。お使いぐれえなんでもありやせん。・・・唯(ただ)ね、親方、確認させて貰いてえんですが、二助さんの住まいへはどう行きゃ良いんです?
>八:なんでえ、方向音痴も先祖代々か?

酔いが浅いうちにと、源五郎は淡路屋太郎兵衛のことを掻い摘(つま)んで話した。
察しの良い熊五郎は今朝あやの話に出てきた「親分さん」と同一人物だということに気が付いたが、秘密の計画に障(さわ)りがないように、敢えて知らん振りを決め込んだ。八兵衛の方は、案の定、まったく気付いていないようだった。

>熊:その、蛇みてえな権の字ってのが気に食わねえですね。似たようなのを何人か知ってますが、どいつもこいつも一筋縄じゃいかねえ外道(げどう)ばっかりだ。
>八:お前ぇ、お咲坊のことが心配なんだろう?
>熊:何言い出しやがる。おいらは真面目(まじめ)に言ってんだぞ。
>八:かっかするとこ見ると益々怪しいぞ。
>五六:なんですかい? 兄いがこのお嬢ちゃんにほの字なんですかい?
>咲:お嬢ちゃんじゃなくて、お咲。子供扱いしないで。
>五六:こいつは失礼しやした。暫(しばら)く黙っていやす。
>熊:こんなお転婆娘、蛇の方が逃げてくってもんよ。
>咲:酷(ひど)ぉい。熊の馬鹿。
>八:なんでえ、もう尻の下に敷かれてやがる。
>熊:お前らなあ、面白半分で囃(はや)すような話じゃねえだろう。
>あや:でも、満更でもないって顔してますよ。
>熊:あやさんまでそんなことを言う・・・

>源:太郎兵衛のことはまた後で、素面になったとき話すことにして、新しい樽を開けることにしようぜ。
>五六:待ってやした。あやさんもお咲ちゃんもぐいっとやっておくんなさい。
>八:お前ぇ暫く黙ってるんじゃなかったのか。
>五六:良いじゃねえですか、新年会は無礼講(ぶれいこう)。
>熊:いくら無礼講でも、お咲坊に酒は拙(まず)いだろうよ。
>五六:子供扱いしちゃ嫌だって言うもんで、つい。
>熊:それとこれとは話が違うだろう。
>五六:ははあ、兄さん、相当きてますね。
>熊:なに抜かしてやがる。くだくだ言ってねえで黙って飲んでろ。
>八:五六蔵よ、お前ぇみてえのを唐変木(とうへんぼく)って言うんだ。他人の恋路(こいじ)は温かく見守ってやるのが人情ってもんじゃねえかよ。
>熊:だからな、八、恋路だとかなんだとか、そういうことじゃねえんだって。
>八:なんだ遊びか? いたいけなお咲坊を騙(だま)すのは良くねえな。
>五六:兄いも罪なお人だねぇ。
>熊:だから、なんでもねえんだっての。
>五六:お咲ちゃんにも聞いてみましょうよ。 なあお咲ちゃん、兄いのことどう思ってるんです?
>咲:熊なんかだぁいっ嫌い。
>八:あららどうしましょう。五六蔵が熊の恋路をぶち壊しやがった。

>四:八兄い、こう言うじゃあありませんか、障害が高いほどふたりの恋は燃え上がる。
>八:なんでえ四郎、居たのか。あんまり大人しいんでもう帰っちまったかと思ったぜ。
>四:へい、いろんな消息(しょうそく)を集めるには聞きに回るのが一番ですから。
>八:ほう。だけどな、熊の恋路の消息を集めたってなんの得にもならねえぞ。
>五六:違(ちげ)ぇねえ。
>四:そんなの分かりませんよ。2・3年後、お咲ちゃんが「何とか小町」って呼ばれてて、男どもがわんさか押し掛けるようになってねえとも限らりませんから。
>咲:小父(おじ)さん、見た目は暗そうだけど、良いこと言うね。
>四:「小父さん」はないでしょう。花も実もある三十路(みそじ)前なんですから。
>咲:ご免なさい。浮かれるだけしか能(のう)がなさそうな唐変木よりずっと大人に見えたんだもの。
>五六:あっしのことですかい? 大人気(おとなげ)なかったですかい?
>八:最初ははぐれてて、今度は浮かれてて、次はなんだ? うらぶれてなきゃ良いがな。
>五六:ひゃあぁ、こいつぁあ手厳(てきび)しい。