April 01, 2019

マダムX

世界史を彩る美男美女
ヴィルジニー・ゴートロー(ピエール・ゴートロー夫人)  
1859-1915

印象派の画家ジョン・シンガー・サージェントの代表作「マダムX」のモデルとして後世に名を残すことになった美貌の女性ピエール・ゴートロー夫人ヴィルジニー。
フランス系アメリカ人としてルイジアナ州で生まれ育ったヴィルジニーは父親が亡くなった後、母や兄弟と共にフランスへ移り、パリの銀行家ピエール・ゴートローと結婚しました。

人目を惹く美貌でサロンの話題となったヴィルジニーに惹かれた画家サージェントは、彼女に頼み込んで様々なポーズをとらせ習作を重ねた後、1884年にこの絵を描きあげました。

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マダムX
1884.ジョン・シンガー・サージェント

絵はモデルの名を伏せ、匿名の『マダムX』として発表されました。
しかし大胆でセクシーなドレスを着てポーズをとる女性は誰が見ても人妻のヴィルジニー・ゴートロー。というわけで、この絵は発表されるやパリ社交界の一大スキャンダルとなり、彼女の家族からも批判を受け、公開を取り下げざるを得ない状況になってしまいました。

高慢な印象さえ与える美貌のヴィルジニーですが、タイトルを見ても彼女自身の名前ではなく夫の名前を冠した「ピエール・ゴートローの夫人」と伝えられているところなど、まだ女性が夫に隷属しているものだという当時の時代背景が感じられます。
この絵を取り巻くスキャンダルから逃れるように、サージェントは翌年パリからロンドンへ移っています。
肖像画や風景画を数多く描いたサージェントの作品の中でも「マダムX」は特に高く評価され、現在メトロポリタン美術館に飾られて人気作品となっています。縦2メートル横1メートル以上のキャンバスに等身大に描かれた大作です。


イザベッラ・デステ

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イザベッラ・デステ  1474−1539

北イタリア、フェラーラ公国のエステ家出身でパドヴァのマントヴァ侯爵フランチェスコ・ゴンザーガ夫人。激動のルネサンス期の中を生き抜いた現実的な合理主義者として知られています。非常に美しい才女で政治力もあり、また確かな審美眼の持ち主のパトロンとして芸術家を保護しました。 

イザベッラは夫フランチェスコがヴェネツィアに捕らわれていた時も釈放されるまで国を守り冷静に対処しています。 それなのに…夫のマントヴァ侯はイザベッラの大嫌いだったルクレツィア・ボルジア(弟アルフォンソの妻)の不倫相手ともいわれているのです。

現在でも色々な分野で功績のあった女性に彼女の名が付いたイザベッラ・デステ賞が贈られています。


マノン・バレッティ

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マノン・バレッティ  1740−1776

マノン、バレッティはイタリアの女優シルヴィア・バレッティの娘で、1757年当時カサノヴァと婚約をしていました。
カサノヴァといえば評判のプレイボーイで、この頃まだ27歳くらいの青年でしたがヴェネツィア、ナポリ、ローマと転々としながら恋の遍歴を重ねていました。

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マノン・バレッティの肖像
ジャン=マルク・ナティエ 1757 
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

この絵は華やかなロココの時代のパリに滞在中のカサノヴァが、生き写しの肖像画を描くという評判のナティエに、当時恋人だったマノンの姿を描くよう依頼したものです。

その後カサノヴァとの婚約を破棄したマノンは35歳も年上の建築家と結婚しました。

マリ・デュプレシ

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マリ・デュプレシ 1824−1847

アレクサンドル・デュマ・フィス(1824−1895)の小説とヴェルディ(1813−1901)のオペラで有名な『椿姫』。その主人公ヴィオレッタのモデルでデュマ・フィスに愛された娼婦マリ・デュプレシです。
1824年、マリはノルマンディの貧しい行商人の子として生まれました。幼い頃に親戚に預けられて育ちましたが、12歳の時その親戚の老人に犯されてしまいます。その後は女工、洋裁店などを転々としながら娼婦となりました。

その日暮しだったマリの生活が一変したのは、ある青年貴族との出会いでした。 ナポレオン3世の外務大臣をしていたグラモン卿は偶然抱いた16歳の娼婦マリを気に入り、愛人としてリヴォリ街に館を与え、教育をつけました。 綺麗なドレスを身に付けた彼女はダンスやピアノなどを教えられ、美しい女性に生まれ変わったのです。 その頃から妙な咳に悩まされるようになったマリは療養の為に温泉を訪れています。

その地で、彼女はドイツの貴族スタックベルグ伯と知り合います。 伯爵は死んだ娘の面影を宿すマリに、娼婦などはやめてまっとうな生活が出来るようにしてやろうと持ちかけました。 スタックベルグ伯の援助でマリは淑女のような身のこなし方や、話し方、衣装の選び方まで教育を受けています。
しかし一生困らないほどの金額を与えるから娼婦を辞めるようにという伯爵の進言は受け入れませんでした。 まだ若いマリは刹那的な遊びに身をまかせ、多くの男性との快楽を求める方を選んだのです。

デュマ・フィスがマリを見初めたのもこの頃のことです。その頃のマリはスタックベルグ伯の援助で非常に贅沢な生活をしていて、貧しいデュマ・フィスの手が届くような存在ではありませんでした。
遠くから眺めているだけだったマリとデュマ・フィスが関係を持つようになったきっかけはヴァリエテ座で知人に紹介された後の事でした。 デュマ・フィスは同名の大デュマの庶子で私生児として育ち、マリ同様不幸な生い立ちでした。 共に二十歳の彼らは互いに愛し合うようになったのです。

しかしマリ一人をひたすら愛するデュマ・フィスに対し、マリは決して娼婦の仕事をやめようとはしませんでした。 いくら愛しても他の男の元へいってしまうマリ。 豪華な生活をする為のお金も快楽も捨てられないマリに対して、耐えられなくなったデュマ・フィスはとうとう自分から別れを切り出したのです。

しかしデュマと別れた後、マリの豪華な生活を支えていたスタックベルグ伯は没落し、マリは病の体で借金に追われ、ますます娼婦稼業に明け暮れるようになってしまいます。
マリが最後に人前に姿をあらわしたのは1848年の冬のこと。 沢山あったドレスはすでに借金のカタに持ち去られ宝石も無くなったマリは、黒いドレスに、いつも身に付けていた椿の花だけを胸に飾りあらわれました。
そして、その日の夜から喀血に苦しんだマリは翌日ひっそりと世を去ったのです。 23歳の若さでした。

マリの死後、彼女の部屋にあった一切の物は競売にかけられ、彼女のかつての愛人達は思い出に浸りながら、昔、自分が贈ったそれらの品々を買い戻していきました。
マリが死んだ1年後、デュマ・フィスは小説『椿姫』を発表しました。 その中のマリはデュマ・フィスの望み通り、娼婦に身を落としながらも清純に生き抜く薄幸な女性として描かれたのです。 この小説が5年後にはヴェルディのオペラとなり、デュマ・フィスは一躍有名になり、マリも人々の記憶に残る存在となりました。


ラクシュミー・バーイー

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ラクシュミー・バーイー  1835?−1858

1857年5月10日、英国支配下のインドで、東インド会社のインド人傭兵シパーヒー(セポイ) による反乱が起きました。
このインド大反乱(1857年 シパーヒーの反乱・セポイの乱) は1858年には英国軍に鎮圧され、東インド会社は解散。インドは英国の直轄領となりヴィクトリア英国女王(在位1837−1901)がインド皇帝を称すことになりました。
この反乱に荷担した罪により、ムガル帝国の17代皇帝バハードゥル・シャー2世はビルマへ流刑となり、中世から続いてきたインドのムスリム国家ムガル帝国は滅亡しました。

この動乱の中に、今もインドの英雄と慕われている美女戦士ラクシュミー・バーイーがいました。 ラクシュミー・バーイーはインドの小国の一つジャーンシー国の王と結婚し子供が生まれています。しかしその後国王は亡くなり、彼女がジャーンシー国の女王となりますが、英国のインド総督ダルフージーによる藩王国取り潰しなどの強圧的な政策により、国は英国の干渉下におかれてしまいます。
そして、ラクシュミー・バーイーはその頃に起きたインド大反乱1857年(セポイの乱)に呼応して国軍を率いて蜂起したのです。 彼女は男装して数十騎の騎馬隊の先頭にたち、自ら銃を取り勇敢に戦いましたが、1858年、英国との戦いの中で戦死しました。
知的で魅力的なものごしと、卵形の顔に整った美しい目鼻立ちの女性でした。


March 18, 2019

オスマン帝国外伝

宮廷歴史ドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」

タイトルで大体想像つくけれど、愛と欲望の泥沼ハレム! 権力欲と嫉妬が巻き起こすグチャグチャ愛憎劇!
面倒な世界だなあ、ヤダヤダ。
なんて思いながらHuluで見始めたら思いの外ハマってしまいました。
ですが、なんて長いドラマなのでしょう。見られる時間をつぎ込んで見ていますが、見終わる気がしなくなってきました。
第1シーズン48話、第2シーズン79話、続いて第3も第4もあるらしい。という日本では考えられないような超大河ドラマです。

オスマン帝国外伝


オスマン帝国の最盛期を築いた第10代皇帝スレイマン1世の時代。日本で言ったら室町時代後期辺りのイスタンブールのトプカプ宮殿の後宮が舞台です。
言葉に日本と通じる表現があったり、お琴の音色と旋律によく似た音楽が時々流れたりとオリエントの共通点も感じられて面白いドラマです。
後宮の女性たちの衣装とアクセサリーが豪華で美しい。そしてオスマンの男たちも宝石大好きで、前に見た「トプカプ宮殿の至宝展」の豪華キラキラターバン飾りや宝石類を思い出しました。

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古い画像フォルダから探してきたトプカプ宮殿展のフライヤーですが、本当に豪華でした。2007年なのか、う〜ん。そういえばドラマにも出てくる特徴的な形の揺り籠もありました。

トルコ語は全く分かりませんが、この時代、オスマン帝国のスレイマン皇帝たちは自国の首都をイスタンブールと言い、ヴァチカンやローマ、スペインなどオチデントの人たちはコンスタンテイノプルと言い続けてるようです。アレクサンドロスをイスカンダルと言っているしトルコドラマは面白い。

しかしスレイマン1世はオスマン帝国の最大版図を記した偉大な皇帝ですけど、このドラマのスレイマン様は「なんだかなあ!」としか思えない。 怖〜い皇帝妃ヒュッレムに恋をして、手のひらで転がされているおじさんなんですね。


yumeria at 21:07|PermalinkComments(0)clip!テレビ 

February 17, 2019

リムスキー・コルサコフ伯爵夫人

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リムスキー・コルサコフ伯爵夫人 1834−1879

 ロシアの名門リムスキー・コルサコフ家のセルゲイ・ニコライオヴィッチ・リムスキー・コルサコフの妻で伯爵夫人バルバラ・リムスキー・コルサコフ=ドミトリーブナです。
彼女16歳の時(1850年)4歳年上で社交界の人気者セルゲイ・ニコライオヴィッチと結婚し、彼女自身も社交界の花形となりました。 このリムスキー・コルサコフ家は政治家、軍人の他、多くの優れた人物を輩出していて、『スペイン奇想曲』 『シェエラザード』 などを作曲した音楽家ニコライ・アンドレーヴィッチ(1844−1908) もこの一族出身です。

 彼女は持ち前の美貌で、瞬く間に舞踏会の花形となります。 1863年に彼女はフランスに赴きましたが、フランス社交界の舞踏会でも大胆な仮装とその美貌で様々なエピソードを残しました。 彼女の美しさには、美貌を誇ったユージェニー皇后も色を失ったといわれています。 バーバラはそのままフランスに留まり1879年に亡くなりました。


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リムスキー・コルサコフ伯爵夫人
1864.フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター(1805−1873) 
オルセー美術館

追記: 混同しやすいので、念のため、作曲家のリムスキー・コルサコフの奥方ではありません。


ルイーゼ

世界史を彩る美男美女
ルイーゼ(メクレンブルク・シュトュレリッツ公女) 1776-1810

 ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレリッツ。
プロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770-1840)の后。
出身地のメクレンブルクはドイツのバルト海に面した地域で、数度の分裂を経てルイーゼの死後、1815年に大公国に昇格しています。
ルイーゼはその類まれな美貌と強い愛国心で国民から絶大な人気がありました。また夫のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とも終生仲睦まじく暮らし理想の夫婦像と称えられています。

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ルイーゼの肖像画

 ナポレオンに敗れた国を救うため国王の代わりとなって奔走し、厳しい条件を示すナポレオンに「プロイセンの雌豹」と言わせるほどの粘り強い交渉力を見せましたが36歳の若さで病死しました。

 ルイーゼは後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の他に9人の子供を産んでいます。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は玉座のロマン主義者といわれ、ベルリン博物館島にも数多くの美術品を収めさせています。2005年に日本で開催された「世界遺産・博物館島ベルリンの至宝展」にもフリードリヒ・ヴィルヘルム4世のコインなどが出品されていました。

ヴィジェ=ルブラン夫人

世界史を彩る美男美女
ルブラン夫人  1755-1842

 マリー=エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン夫人はフランス革命前から19世紀初頭にかけて活躍したフランスの女流画家です。
父親のルイから絵の教育を受けた彼女は当時の女性としては珍しかった王立美術アカデミ−会員になっています。
 肖像画を得意としたルブラン夫人は1779年にヴェルサイユに招かれました。
ルブラン夫人の気品がある美しい絵はマリー・アントワネットに好まれ、アントワネットや王家の人々の肖像を多数描いています。革命後はイタリアやドイツ、英国などを訪れ、各地で絵を描いていますが、彼女の絵の最盛期は革命前のフランスでした。
ルブラン夫人の絵は華やかで繊細、優美なもので、彼女自身も非常に美しい女性でした。

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自画像 「ヴィジェ=ルブランとその娘」 1786 Oil on canvas. Louvre, Paris, France.

 母子の絵のギリシャ風衣装は当時流行した懐古趣味によるもので、愛らしい娘ジャンヌと彼女自身を描いています。

ココ・シャネル

世界史を彩る美男美女
ココ・シャネル  1884−1971

20世紀を代表するデザイナー。
服のデザインのみならず女性の生活スタイル全般に大きな影響を与えた女性でした。

ココ・シャネル、本名ガブリエル・ボヌール・シャネルは南フランスで生まれ、20世紀初頭からパリで帽子屋を開業し、やがてオートクチュールのドレスメーカーを始めました。

彼女はそれまで体を締め付けていた女性の服からコルセットを取り払い、活動的で斬新なファッションを創りました。 ジャージで作ったドレスやツイード生地のシャネルスーツ、スポーティなジャケットやイミテーションのアクセサリーなど誰も思いつかなかった斬新な素材やスタイルを取り入れ、ファッション界にショックを与えました。

彼女は多くの男性との恋愛や幅広い交友関係でも話題を振りまき、一代で世界中にシャネルの名を広めました。
第一次・第二次世界大戦中は休業しましたが戦後には再開。 80歳をすぎても若々しい行動力と人を惹きつける魅力があり、後進のデザイナーのリーダー的存在でありつづけました。
シャネラーという言葉まである日本では説明無用のシャネルでしょう。
女性のパンツスタイルを初めてファッションとして作ったのも彼女です。


管理人・ユメリアです。
竜涎香

竜涎香・1880
ジョン・S・サージェント

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