September 15, 2021

中国流「罪と罰」のバランス

wowowで放送中の『山河令』。10話まで進んだ。
ファンタジーなので現実感は全く無いけれど中国らしい美しい景色、衣装や調度品、美形の俳優たちの画面に見入っていたら、なんと10話でゴン・ジュン(温客行)がいきなり鬼舞辻無惨になった!
でも無惨サマのままではチャン・ジャーハン(周子舒)と見つめ合って幸せになるラストシーンにはならないと思うので、この先はどうなるのか?


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ところで、この中国ドラマ『山河令』の俳優チャン・ジャーハンが靖国神社で写真を撮ったとか乃木会館の結婚式に出たとか。そういうことで彼の輝かしく花開くはずだったキャリアが断ち切られてしまったそうだ。


罪状は「中国人としての歴史認識が無知」であったこと。なのかな?


私もそこの結婚式に出席したことがあるが、乃木会館は乃木神社に併設された結婚式場で、披露宴会場は洋風仕様だし食事もフレンチ(だったかな?)のフルコース。神社の横の結婚式場で普通の商業施設だった。

お寺や神社や教会に行けば不信心な私でもそれなりに敬虔な気持ちにはなる。それでも殆どの人にとっては(私にとっても)お寺も神社も教会もレストランもホテルも、結婚式の披露宴となれば、どれも同じ結婚式の会場にしか思えない。

なので日本人の私から見たら罪とは思えないのだけれど、中国では乃木神社や靖国神社を訪れるのが罪だというのならば、それは中国の歴史認識なのでどうこう言っても仕方がないことなのかもしれない。ただ彼の人がやってしまった罪に対する罰はあまりにも重すぎるでしょう、としか言えない。

他にも次々と「規制強化」で企業ばかりかゲームや芸能方面まで締め付けられているらしい。
女っぽい男はいかん、とか男の化粧はいかん、とか。
あれもダメこれもダメ!
「そんなこと余計なお世話だい!」とは言えない社会は重苦しい。
中国は今や名実共に世界のトップに顔を並べる国になったのだから「不可不可」と押さえつけるばかりではなく、寛容に罪と罰のバランスも考えてほしいと思う。

刑罰の原典ハンムラビ法典にあるように罪と罰のバランスは「目には目を、歯には歯を」。
歯を折られたくらいで命まで取るな、という同害報復レベルで考えたら、チャン・ジャーハンの罪は歴史の勉強をさせて反省文を書く程度の罰で復活させてあげたらよいのではないかと思う。

みんながみんな観光地や招待されたパーティ会場の歴史や由来まで知っているとは思えないし、必ず調べてから行けと言うのも違うように思う。





yumeria at 20:44|PermalinkComments(0)clip!テレビ 

July 20, 2021

呪われたオリンピック

次々と問題山積みの「呪われたオリンピック」の中でも一際最悪で不愉快極まりない話題を提供してくれた小山田圭吾さん。

「小山田圭吾、生い立ちを語る20000字インタビュー」小中学生時代の経験を振り返る中で、いじめ加害者だったことを自慢げに語るシーン

●でも、いじめてた方だって言ってったじゃん。

「うん、いじめてた。けっこう今考えるとほんとヒドいことをしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)だって、けっこうほんとキツいことしてたよ」

●やっちゃいけないことを。

「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」

●(大笑)いや、こないだカエルの死体云々っつってたけど「こんなもんじゃねぇだろうなあ」と俺は思ってたよ。

「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ。僕はアイディアを提供するだけでさ(笑)」

●アイディア提供して横で見てて、冷や汗かいて興奮だけ味わってるという?(笑)。

「そうそうそう!「こうやったら面白いんじゃないの?」って(笑)」


           引用終わり

・・・・・・・・・・・・・・・・

これ、どこに笑える要素があるのかわからない。
イジメですか?ほとんど犯罪ではないのですか?
笑いながら得意になって話している様子からは、とても反省するタイプとは思えませんが、こういう方は上手く乗り切ってタフに生きていくのでしょうか?



yumeria at 14:57|PermalinkComments(0)clip!雑談・他 

May 02, 2021

デカメロンの時代


14世紀のヨーロッパで黒死病と言われたペストが蔓延した時に書かれたボッカッチョの「デカメロン(十日物語)」という物語集があります。

目には見えない、得体のしれないものに取り憑かれて死んでいく恐怖はウィルスや細菌という概念が無い時代では一際強かったことでしょう。

デカメロンはペストが流行る都会から逃れた10人の男女が、田舎で退屈しのぎに物語を作って互いに聴かせるというものです。


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恋の駆け引きや俗っぽい話の背後に通奏低音の様に死の臭いが漂っていますが、後世の画家はそこに想像力を刺激されたのか、「デカメロン」の話を題材に様々な絵が描かれています。


魔法の庭 
ウォーターハウス
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魔法をかけられた庭
マリー・スティルマン
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イザベルとバジルの鉢
ウィリアム・ホルマン・ハント
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以前書いた「イザベルとバジルの鉢」の記事はこちら↓
http://blog.livedoor.jp/yumeria/archives/50099301.html


絵はそれぞれ魅力的ですが、いずれも死に取り憑かれた影に覆われています。

yumeria at 22:31|PermalinkComments(0)clip!絵画 | 歴史

April 19, 2021

勇気をあたえる!


スポーツ選手や芸能人がよく「勇気を与える」「元気を与える」「感動を与えたい」などと言う。


あたえるって、なぜそんなに上から目線で言えるのか?


「与える」というのは一般的に親が子供に、飼い主がペットに、上役が部下に対して使う言葉で、応援してくれた人たちに対して、選手が勇気を与えたい、なんて使うものではないと思う。  


過剰な敬語も慇懃無礼とは思うけど、上から目線で「感動を与えたい」なんてことは言われたくはないな。
一気に応援する気持ちがしぼんていってしまう。

yumeria at 19:49|PermalinkComments(0)clip!雑談・他 

January 05, 2021

陳情令

2021年が明けて5日経ちました。
2020年は日本中が未曾有の経験をした一年でしたが、明けてもますます混迷の道を進んでいる気分です。どうなってしまうんでしょう?

でもそんな中、ちょっと大げさかもしれませんが、コロナで家にいる時間が長い時に、タイミング良く見始めたドラマ『陳情令』にストレスと退屈な日々を救われました☆
ステイホームでコロナ鬱になりそうなところ、このドラマのおかげで束の間楽しく過ごたというのは過言ではないので、WOWOWに多謝♪

WOWOWの回し者ではないけれど番組紹介はこちら。
WOWOW『陳情令』相関図もあり


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字幕も良いけれど中国のドラマは元から中国語も吹き替えなので日本語での吹き替えも聴いてみたい。今の再放送が終わって、評判が良ければまた最初からやってくれるかもしれません。

『陳情令』
時代はいつなのか、古代中国ファンタジーですが、主役の二人が本当に麗しい。
同じ内容のアニメもWOWOWでほぼ同時にやっていたけれど、実写版ドラマの生身の俳優の方がCGアニメよりもケチのつけようがないくらい綺麗ってすごくないですか?

そして主役以外の俳優も実に多彩な方向に綺麗。衣装も綺麗。
強いて言えば中国歴史ドラマ初心者の私には最初ロン毛のカツラが妙に気になって、髪の生え際が(特にもみ上げ辺り)が違和感ありまくり。その辺はしばらく見ていると慣れてきましたが。

さらに言えば、昔の中国なので一人の人に字や敬称や名前が沢山あって、記憶力が悪い私にはなかなか強敵でした。藍忘機、藍湛、含光君、藍二兄、等々まだあったかな?これで一人分。
主役のウェインはカッコよくてかわいい人。ランジャンはクールで寡黙な麗人。ランジャンの美しさはちょっと別格でした!

全部で50話もあり、登場人物も多いので処々話が理解できなくなるため、見終わってまた一話から再チェック。
そうすると気が付かなかった伏線や目立たなかった脇役の意外な役割に気が付いたり2度楽しめました。

優しくて上品な藍湛(ランジャン)の兄上、私のお気に入り。

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ラストで誰よりも一番どん底に落ちてた兄上。幸せになっていただきたいものです。



ブロマンスということで、友情表現は程良くマイルド。
Close contactは薄めに仕上がっています。

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追記

高村薫の「李歐」という小説を十数年前に読みました。当時はまだブロマンスという言葉はなかったけれど今思えばこれはもうブロマンスど真ん中の小説です。

内容紹介-amazonより

『惚れたって言えよ――。美貌の殺し屋は言った。その名は李歐。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに22歳。しかし、2人が見た大陸の夢は遠く厳しく、15年の月日が2つの魂をひきさいた。

とめどなく広がっていく夢想のどこかに、その夜は壮大な気分と絶望の両方が根を下ろしているのを感じながら、一彰は普段は滅多にしないのに、久々に声に出して李歐の名を呼んでみた。それは、たっぷり震えてかすれ、まるで初めて恋人の名を呼んだみたいだと、自分でも可笑しかった。――本文より』

この小説を読んだ当時、吉田一彰の役をやれそうな俳優はなんとなく数人想像できたものの、中国人で22歳くらいでクールな美貌の俳優なんて全く知らないし思いつきませんでした。なんと言っても「美貌」ですからね。近寄りがたい麗人レベルの人じゃないと。と思ったものです。

そして「陳情令」の王一博を見ていて、この人の李歐を見たいと思いました。

昔も今もカッコいいとかイケメンとか言える人はたくさんいると思いますけど、これほど李歐にピッタリの俳優はちょっと見当たらないかも。

刹那の「時分の花」が大人になり過ぎないうちにぜひ。 というわけでワン・イーボーの李歐に一票!

まあ、ここで私が呟いても無理に決まっていますけど、こっそりリクエストしておきます♪



と、この記事を書いていて、思い出したことが……
もう20年も前、今は無きヤフー掲示板の世界史カテに「中国美男美女列伝」というトピックがありました。その当時中国史が全く解っていない私はトピ主さんが教えてくれる西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃などの中国美男美女史を読みながら、中国にも美しい人がこんなにいるのね〜、なんて軽く思っていました。
でも今になって確信します。この人達は絶対に桁違いの美しさだったに違いないって。
そりゃ中国は国土は広いし人も多いから人口比で。

陳情令を見ていたらそう思わずにはいられませんでした。



yumeria at 23:57|PermalinkComments(0)clip!テレビ 

April 01, 2019

マダムX

世界史を彩る美男美女
ヴィルジニー・ゴートロー(ピエール・ゴートロー夫人)  
1859-1915

印象派の画家ジョン・シンガー・サージェントの代表作「マダムX」のモデルとして後世に名を残すことになった美貌の女性ピエール・ゴートロー夫人ヴィルジニー。
フランス系アメリカ人としてルイジアナ州で生まれ育ったヴィルジニーは父親が亡くなった後、母や兄弟と共にフランスへ移り、パリの銀行家ピエール・ゴートローと結婚しました。

人目を惹く美貌でサロンの話題となったヴィルジニーに惹かれた画家サージェントは、彼女に頼み込んで様々なポーズをとらせ習作を重ねた後、1884年にこの絵を描きあげました。

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マダムX
1884.ジョン・シンガー・サージェント

絵はモデルの名を伏せ、匿名の『マダムX』として発表されました。
しかし大胆でセクシーなドレスを着てポーズをとる女性は誰が見ても人妻のヴィルジニー・ゴートロー。というわけで、この絵は発表されるやパリ社交界の一大スキャンダルとなり、彼女の家族からも批判を受け、公開を取り下げざるを得ない状況になってしまいました。

高慢な印象さえ与える美貌のヴィルジニーですが、タイトルを見ても彼女自身の名前ではなく夫の名前を冠した「ピエール・ゴートローの夫人」と伝えられているところなど、まだ女性が夫に隷属しているものだという当時の時代背景が感じられます。
この絵を取り巻くスキャンダルから逃れるように、サージェントは翌年パリからロンドンへ移っています。
肖像画や風景画を数多く描いたサージェントの作品の中でも「マダムX」は特に高く評価され、現在メトロポリタン美術館に飾られて人気作品となっています。縦2メートル横1メートル以上のキャンバスに等身大に描かれた大作です。


イザベッラ・デステ

世界史を彩る美男美女
イザベッラ・デステ  1474−1539

北イタリア、フェラーラ公国のエステ家出身でパドヴァのマントヴァ侯爵フランチェスコ・ゴンザーガ夫人。激動のルネサンス期の中を生き抜いた現実的な合理主義者として知られています。非常に美しい才女で政治力もあり、また確かな審美眼の持ち主のパトロンとして芸術家を保護しました。 

イザベッラは夫フランチェスコがヴェネツィアに捕らわれていた時も釈放されるまで国を守り冷静に対処しています。 それなのに…夫のマントヴァ侯はイザベッラの大嫌いだったルクレツィア・ボルジア(弟アルフォンソの妻)の不倫相手ともいわれているのです。

現在でも色々な分野で功績のあった女性に彼女の名が付いたイザベッラ・デステ賞が贈られています。


マノン・バレッティ

世界史を彩る美男美女
マノン・バレッティ  1740−1776

マノン、バレッティはイタリアの女優シルヴィア・バレッティの娘で、1757年当時カサノヴァと婚約をしていました。
カサノヴァといえば評判のプレイボーイで、この頃まだ27歳くらいの青年でしたがヴェネツィア、ナポリ、ローマと転々としながら恋の遍歴を重ねていました。

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マノン・バレッティの肖像
ジャン=マルク・ナティエ 1757 
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

この絵は華やかなロココの時代のパリに滞在中のカサノヴァが、生き写しの肖像画を描くという評判のナティエに、当時恋人だったマノンの姿を描くよう依頼したものです。

その後カサノヴァとの婚約を破棄したマノンは35歳も年上の建築家と結婚しました。

マリ・デュプレシ

世界史を彩る美男美女
マリ・デュプレシ 1824−1847

アレクサンドル・デュマ・フィス(1824−1895)の小説とヴェルディ(1813−1901)のオペラで有名な『椿姫』。その主人公ヴィオレッタのモデルでデュマ・フィスに愛された娼婦マリ・デュプレシです。
1824年、マリはノルマンディの貧しい行商人の子として生まれました。幼い頃に親戚に預けられて育ちましたが、12歳の時その親戚の老人に犯されてしまいます。その後は女工、洋裁店などを転々としながら娼婦となりました。

その日暮しだったマリの生活が一変したのは、ある青年貴族との出会いでした。 ナポレオン3世の外務大臣をしていたグラモン卿は偶然抱いた16歳の娼婦マリを気に入り、愛人としてリヴォリ街に館を与え、教育をつけました。 綺麗なドレスを身に付けた彼女はダンスやピアノなどを教えられ、美しい女性に生まれ変わったのです。 その頃から妙な咳に悩まされるようになったマリは療養の為に温泉を訪れています。

その地で、彼女はドイツの貴族スタックベルグ伯と知り合います。 伯爵は死んだ娘の面影を宿すマリに、娼婦などはやめてまっとうな生活が出来るようにしてやろうと持ちかけました。 スタックベルグ伯の援助でマリは淑女のような身のこなし方や、話し方、衣装の選び方まで教育を受けています。
しかし一生困らないほどの金額を与えるから娼婦を辞めるようにという伯爵の進言は受け入れませんでした。 まだ若いマリは刹那的な遊びに身をまかせ、多くの男性との快楽を求める方を選んだのです。

デュマ・フィスがマリを見初めたのもこの頃のことです。その頃のマリはスタックベルグ伯の援助で非常に贅沢な生活をしていて、貧しいデュマ・フィスの手が届くような存在ではありませんでした。
遠くから眺めているだけだったマリとデュマ・フィスが関係を持つようになったきっかけはヴァリエテ座で知人に紹介された後の事でした。 デュマ・フィスは同名の大デュマの庶子で私生児として育ち、マリ同様不幸な生い立ちでした。 共に二十歳の彼らは互いに愛し合うようになったのです。

しかしマリ一人をひたすら愛するデュマ・フィスに対し、マリは決して娼婦の仕事をやめようとはしませんでした。 いくら愛しても他の男の元へいってしまうマリ。 豪華な生活をする為のお金も快楽も捨てられないマリに対して、耐えられなくなったデュマ・フィスはとうとう自分から別れを切り出したのです。

しかしデュマと別れた後、マリの豪華な生活を支えていたスタックベルグ伯は没落し、マリは病の体で借金に追われ、ますます娼婦稼業に明け暮れるようになってしまいます。
マリが最後に人前に姿をあらわしたのは1848年の冬のこと。 沢山あったドレスはすでに借金のカタに持ち去られ宝石も無くなったマリは、黒いドレスに、いつも身に付けていた椿の花だけを胸に飾りあらわれました。
そして、その日の夜から喀血に苦しんだマリは翌日ひっそりと世を去ったのです。 23歳の若さでした。

マリの死後、彼女の部屋にあった一切の物は競売にかけられ、彼女のかつての愛人達は思い出に浸りながら、昔、自分が贈ったそれらの品々を買い戻していきました。
マリが死んだ1年後、デュマ・フィスは小説『椿姫』を発表しました。 その中のマリはデュマ・フィスの望み通り、娼婦に身を落としながらも清純に生き抜く薄幸な女性として描かれたのです。 この小説が5年後にはヴェルディのオペラとなり、デュマ・フィスは一躍有名になり、マリも人々の記憶に残る存在となりました。


ラクシュミー・バーイー

世界史を彩る美男美女
ラクシュミー・バーイー  1835?−1858

1857年5月10日、英国支配下のインドで、東インド会社のインド人傭兵シパーヒー(セポイ) による反乱が起きました。
このインド大反乱(1857年 シパーヒーの反乱・セポイの乱) は1858年には英国軍に鎮圧され、東インド会社は解散。インドは英国の直轄領となりヴィクトリア英国女王(在位1837−1901)がインド皇帝を称すことになりました。
この反乱に荷担した罪により、ムガル帝国の17代皇帝バハードゥル・シャー2世はビルマへ流刑となり、中世から続いてきたインドのムスリム国家ムガル帝国は滅亡しました。

この動乱の中に、今もインドの英雄と慕われている美女戦士ラクシュミー・バーイーがいました。 ラクシュミー・バーイーはインドの小国の一つジャーンシー国の王と結婚し子供が生まれています。しかしその後国王は亡くなり、彼女がジャーンシー国の女王となりますが、英国のインド総督ダルフージーによる藩王国取り潰しなどの強圧的な政策により、国は英国の干渉下におかれてしまいます。
そして、ラクシュミー・バーイーはその頃に起きたインド大反乱1857年(セポイの乱)に呼応して国軍を率いて蜂起したのです。 彼女は男装して数十騎の騎馬隊の先頭にたち、自ら銃を取り勇敢に戦いましたが、1858年、英国との戦いの中で戦死しました。
知的で魅力的なものごしと、卵形の顔に整った美しい目鼻立ちの女性でした。


管理人・ユメリアです。
竜涎香

竜涎香・1880
ジョン・S・サージェント

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