ローマ皇帝変人史

December 06, 2018

エラガバルス

ローマ皇帝変人史 23

エラガバルス  203−222.3.11
インペラトル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・ピウス・フェリクス・アウグストゥス・プロコンスル

 エラガバルスもしくはヘリオガバルス、またはサルダナパルスという名で呼ばれるこのローマ皇帝が一般的にどの程度知られているのか定かではありませんが、知ってる人は知っている、歴代ローマ皇帝中一番の色物的存在といっていいでしょう。
エラガバルスは14歳で皇帝になり、様々な猟奇的ともいえる逸話を残してわずか18歳で周囲から見放され、体を切り刻まれてテヴェレ河に捨てられました。

 彼は世襲の役職であるエメサ(シリア)の神官をしている時に、祖母のユリア・マエサに担ぎ出され皇帝の座に着きました。
祖母ユリア・マエサはカラカラの母ユリア・ドムナの妹にあたります。彼女はカラカラを殺して皇帝になったマクリヌスを追う為に、エラガバルスはじつはカラカラの庶子であったという噂を流し、軍人に人気があったカラカラの威光を利用し、軍を掌握してマクリヌス追討に成功しました。
カラカラ→エラガバルス→アレクサンデル・セウェルスとシリア系の母を持つ皇帝が繋がったことになります。

 こうしてシリア人のエラガバルス、本名ウィリウス・アウィトゥス・バシアヌスは「無敵の太陽神エラガバルス」の司祭長でありながらローマ皇帝となったのです。
皇帝即位の約一年後、初めてローマ入りしたエラガバルスをローマ市民は驚愕をもって迎えました。金糸銀糸で織ったきらびやかなシリア風の長い服と輝く宝石類に身を飾り立てたエラガバルスと共に、エメサの神殿から運んできたご神体の「黒い石」がローマ入りしたのです。

 天から降ってきたと信じられていた「黒い石」は底が丸みを持ち、てっぺんは尖った円錐形の、さしずめ巨大なおにぎりのような形で、表面に線やでこぼこがあったといいます。まもなくこのご神体はパラティヌスの丘に建てられた太陽神信仰の神殿「エラガバルス神殿」に恭しく祀られ、毎朝牛や羊の生贄が捧げられることになりました。
神殿への毎朝の巡行では、エラガバルスは脱毛した全身に香料をすり込み、顔には白粉、アイシャドー、頬紅、口紅で厚塗りの化粧をし、豪華なシルクの衣装と宝石に身を包んで、楽隊の演奏と共に大勢の女とダンスを踊りながらの一団で向かったのです。

 これが年に一度の太陽神祭典ともなると行列の規模もさらに大きくなり、別の太陽神殿へ向かう「黒い石」は宝石で飾られた6頭立ての馬車に乗せられて、砂金が敷かれた道を運ばれたといいます。
その際、石の前を行くエラバルスは石に尻を向けないよう馬車の席に後ろ向きに座るという奇妙な姿だったそうです。古代ローマは多神教で、異教に対してそれほど排他的ではなかったものの、この太陽神を最高神にしようとするエラガバルスに元老院は当惑と反感を隠せませんでした。

 古代の史書も、ギボンのような後世のローマ史研究家も、また現代の(主に)男性の書く古代ローマ史の記述も彼については一貫して変態扱いをしているようです。
同性愛自体は古代ローマではことさら問題視されてはいませんでしたが、彼は皇帝の身でありながら少年の役割であるはずの女性的受け身を好んだ為、当時のローマでもそれは慣習として許されない性癖でした。
エラガバルスは男と結婚したばかりではなく、皇帝になった直後から死ぬまでに3人の女性とも結婚しています。その他男女問わず片っ端から数え切れない肉体関係がありましたが、本来の彼は限りなく同性愛者だったようです。
 エラガバルスについては異常で堕落の極みのような逸話ばかりが目立ち、古代ローマの中でも代表的な退廃皇帝といわれています。

 現代の倫理観をもってすると、彼に女装癖があったり、また女の体になるため性器を切り落とそうとしたというような(性同一性障害だった可能性がある)記述をもって彼を非難したり貶めることはできません。
ただし、それらのことを抜きにしてもエラガバルスは皇帝として何一つ有益な事はしていないといっていいばかりか猟奇的で変態人間だったのは事実で、たとえ性向がどうであろうとローマ皇帝として、それ以前の一人の人間として愚かだったといわれても仕方がありません。

彼のエピソードをいくつか挙げてみると…
・神殿内に飼っている猛獣に切り落とした男性器をエサとして与えたり、生贄として少年を与えていた。
・町の娼館で女に客を取らせ商売し、また自ら娼婦として男性客の相手をした。
・公共浴場では女風呂に入り、痴態の参考にする為に女性を観察した。
・部下に命じ、公共浴場や波止場で屈強な男を探させ、宮殿内に連れ込んでは相手をさせた。 …etc…
史書はエラガバルの行状があまりにも露悪的なので、これでも詳しく書くことは控えているのだと記述しています。

heliogabalus

「ヘリオガバルスの薔薇」 1888.アルマ・タデマ

 この絵はエラガバルスが宴会に招待した客を薔薇の花で殺したという逸話から描かれたものです。
客の頭の上に張った回転する幕の上に大量の薔薇の花を乗せておき、その幕を切って花を一気に落とし客を窒息させて殺したというのですが…
カリグラの船の橋などを思い出しても、遊びとはいえやることが想像を絶する規模であったローマ皇帝のことですから何トンもの薔薇の花を用意させたのでしょう。
想像ではありますが花だけではなく幕の重みや支柱が倒れた為に下敷きになったということがあったのかもしれません。 いずれにしても、とても美しい絵ですが、この絵の花のような状態で人が埋まって死ぬとは考えられないので、果たしてどんな分量の花だったのかと考えてしまいます。

 エラガバルスは4年に渡り皇帝の座にいましたが、その間司祭長として太陽神信仰を広めようとした以外は、豪華な宴会と怪しげな遊びと男漁りばかりの日々を送り、皇帝としての公務は祖母と母親が取り仕切っていました。
その実力者の祖母がエラガバルスの狂態を見かねて、もう一人の娘ユリア・ママエアの息子アレクシアヌス(アレクサンデル・セウェルス)を後継者に据えたのは彼が即位した3年後の221年でした。

 アレクシアヌスはエラガバルスの1歳年下の従兄弟で、エラガバルスと正反対の真面目で実直な性格の少年でした。 そんなアレクシアヌスの人気が上がるにつけ、危機感を覚えたエラガバルスはアレクシアヌスの抹殺を企て親衛隊に襲撃を命じます。しかし、すでにエラガバルスに呆れ果て見放していた親衛隊はアレクシアヌスの殺害に向かうどころか逆にエラガバルスに襲い掛かったのです。
こうして母親と共に殺害されたエラガバルスの遺体は首を落とされ、市内を引き回された後テヴェレ河へ投げ捨てられたのです。

賢帝や愚帝、残虐な皇帝は様々な名前が挙がると思いますが、このエラガバルスのような皇帝はなんと形容したらよいのか……
彼がエメサの神官として、または一人の普通の少年として生きられたら、女装をして男を愛そうがゲテ物喰いだろうが人生をまっとうできたかもしれません。
また祖母ユリア・マエサの傀儡として従順にしていれば、もう少し長く生きることも出来たでしょう。
巨大な力を持つローマ皇帝として存在するにはあまりにも短絡的であったエラガバルスは、己の欲望を満たすことのみに生きてしまった結果、元老院、軍、市民、そして肉親からも見放され18年の生涯を終えたのです。
そして、たった4年の在位中にこれだけの逸話を残したエラガバルスは他の誰も及ばないほどの色情狂皇帝として名前が残ってしまったのです。 しかし好きなように振る舞い、やりたいことだけをやって死んでいったエラガバルス自身は楽しい一生だったのかもしれません。



エラガバルスについて(当ブログの過去記事)
http://blog.livedoor.jp/yumeria/archives/50041451.html

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November 19, 2018

マクリヌス

ローマ皇帝変人史 22

マクリヌス 164−218
 インペラトル・マルクス・オペリウス・セウェルス・マクリヌス・アウグストゥス・ピウス・フェリクスプロコンスル

対パルティア戦に備えメソポタミアで越冬中だったカラカラを暗殺した首謀者のマクリヌスは、その時カラカラの親衛隊長という職にありました。
殺害実行者のマルティアリスが護衛兵に殺された後、無関係を装い嘆き悲しむ様を貫き皇帝位に付いたマクリヌスは、属州ユダヤ・カエサリア(パレスティナ)の騎士階級出身のムーア人で、元老院議員を一度も経験していないまま皇帝となったのです。

元々法律家としての教育を受けていたマクリヌス、本名マルクス・オペリウス・マクリヌスは軍事よりも事務に長じた人物で、カラカラの父セプティミウス・セウェルス帝の時代に出世を遂げた人物でした。
ギボンよればマクリヌスによるカラカラ殺害の原因は、占い師の「アフリカ人の親子がカラカラから皇帝を奪い帝位につく」という占いの結果を書いた手紙が、カラカラの手元へ届く前に側近のマクリヌスの眼に留まり、猜疑心の強いカラカラに殺される前に先手を打ったということです。

カラカラという皇帝は軍隊に非常に人気があり、いっぽうで元老院には忌み嫌われていた為、皇帝位についたマクリヌスはどちらを尊重するかという複雑な立場に身を置かれます。
結局マクリヌスは、パルティアに和解金を支払って戦線を放棄し、軍隊に対してカラカラが与えていた特典と報酬を削った為、軍隊の不満は「マクリヌス憎し」に向かい一気に高まってしまいました。そこに目をつけたのがカラカラの母ユリア・ドムナの妹ユリア・マエサでした。
マエサはドムナ、マエサ姉妹の故郷エメサ(シリア)で神官を務めている孫のウィリウス・アウィトゥス・バシアヌス(エラガバルス)を、じつはカラカラの落とし子であったと偽ってマクリヌス追討の陣頭に立て参戦を布告したのです。

この結果、才女ユリア・マエサの読み通りクーデターは成功し、軍に見放されたマクリヌスはアンティオキアへ敗走、パルティアへ向かった9歳の息子デイアドゥメニアヌスと共に反乱軍の手により捕らえられてしまいました。
結局マクリヌスは連れ戻され、カッパドキアで処刑されました。1年2ヶ月あまりの短い皇帝でした。



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November 09, 2018

カラカラ

ローマ皇帝変人史 21

カラカラ  188.4.4−217.4.8 
     インペラトル・カエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥス

ゲタ    189.3.7−211.12.?
     インペラトル・カエサル・プブリウス・セプティミウス・ゲタ・アウグストゥス



カラカラ帝は歴代ローマ皇帝の中でも特に残酷で暴力的な皇帝として伝えられています。結果として確かにそうであったといえるでしょう。
カラカラは稀に見る残酷な皇帝として殺害されることになるのですが、少年期のカラカラは決して異常な残酷さなどは持っていない、明るく健康的な普通の少年だったのです。
では、なにが彼をそうさせたのか。カラカラの軌跡を追ってみたいと思います。

カラカラとゲタ兄弟の父セプティミウス・セウェルス帝が二人の息子に
「兄弟仲良くせよ。兵士に金を与えろ。それ以外のことは何もするな」 
と言い残してブリタニアで息を引き取った後、兄弟は同格の共治帝という名目で統治をスタートさせました。
しかし幼い頃からそれぞれの家臣団も巻き込んで張り合い、敵意を顕わにしてきた二人の関係は、すでに修復不可能なほど険悪になっていました。

カラカラが生まれた時に付けられた名前はルキウス・セプティミウス・バシアヌス。 ところがアフリカのレプテイス・マグナ(現リビア)生まれのフェニキア人だったセウェルス帝が、賢帝の誉れ高い故マルクス・アウレリウス帝との繋がりがあるかのように見せるため、195年、カラカラをアントニヌス家の養子として改名させマルクス・アウレリウス・アントニヌスと名乗らせたのです。
カラカラというのは彼が好んで身に付けていたフード付きの長いマントのことで、この服の名称が彼の通称となったのです。

カラカラを語る時、まず彼が皇帝として初めに行ったことが弟ゲタ殺しであったことは避けて通れません。
そして、それがカラカラを暴力的な皇帝と位置付ける事例の全ての要因となってしまったのです。
当初は宮殿の内部を二つに分け、出入り口をそれぞれ別にするなどして、二人はなんとか共存を図ろうと努力した形跡はあります。しかし互いの反目は宮殿を分けたくらいのことでは収拾がつかない状態になっていました。
そして最終案として兄カラカラはボスフォラス海峡を境に帝国の西を、弟ゲタは東を分割統治し、完全に離れて共存しようという案が浮かびました。
これは可能な案として二人共実行を考慮したようです。 しかしこの案も、彼らの母親ユリア・ドムナの
「帝国を分割するどもってのほか。それならば私も殺して二つに分ければよい」 
という強い反対で潰され、切羽詰ったカラカラは弟殺しを決行することになったのです。

ともあれ、毒殺を恐れて警戒心が強くなっているゲタはカラカラの招待に応じるはずもありません。そこでカラカラは母親を利用します。
彼は弟との和解を図りたいので二人を晩餐会に招待して欲しいと母ユリア・ドムナに頼み、母の館ならばと安心して出向いてきたゲタに襲いかかったのです。 茫然自失の母の胸に逃げ込んだゲタは「母上助けてください」 といいながら息を引き取りました。(211年12月)
ユリア・ドムナのコイン リンク古代ローマ 表はユリア・ドムナ、裏はカラカラとゲタです。

元々彼らの父セウェルス帝には兄弟二人を共同統治者にするつもりは無く、カラカラ一人を皇帝にするつもりであったものを、ユリア・ドムナの「弟のゲタにも皇帝位を与えてやりたい」 という発言で二人の皇帝が即位することになり争いが激化した経緯も見え、どの子も同じように可愛いという母親の愛がかえって不幸な結果を招いたといえなくないようです。

ゲタを抹殺し単独で皇帝となったカラカラは、弟の陰謀にかかり殺されるところであった為にやむなく返り討ちにしたと言い逃れをしています。
この後、復讐を恐れるあまりに異常な残酷さで弟の側近達を皆殺しにしますが、刃は側近や親衛隊ばかりか、ゲタに好意的だった元老院議員や属州の総督など総数2万人あまりの大量虐殺に及んだのです。故マルクス・アウレリウス帝の娘コルニフィキアなどはゲタの死に涙する母ユリア・ドムナを見てもらい泣きをしただけで殺され、その他この粛清のどさくさに紛れ、父の命令でいやいや結婚していた妻フルウィア、兄弟の元教師、従兄弟なども殺害してしまいました。

そんなある日のこと、カラカラが戦車競争を観戦中に市民を巻き込む事件が起きています。
戦車競技は赤白青緑の組があり、それぞれにファンがついているのですが、カラカラは常に青の応援をしていました。その青の騎手に対し過激な野次が飛ばされると、激昂したカラカラが暴言を吐いた男を捕らえて殺すよう兵士に命じたのです。
しかし大勢の観衆の中、どの男がそうなのかを特定できるはずも無く、兵士達は手当たり次第に観衆を殺してしまったのです。この理不尽な虐殺事件はローマ市民からも非難の声があがり、そんなこんなで、やがてローマに居辛くなったカラカラは二度と帰らぬ旅にと出発することになったのです。

この頃ライン・ドナウ方面ではゲルマン人の勢力が、東からはササン朝ペルシャが攻め込む勢いを見せていました。 213年、カラカラはまずゲルマニアに出向き、ドナウ流域の戦闘に勝利します。続く214年、東方へ進んだカラカラはダキア、トラキアを通過し、215年にはシリア地中海沿岸のアンティオキアからエジプトのアレクサンドリアへ入城しました。
カラカラは以前からアレクサンダー大王の強烈な信奉者で、自らを大王の生まれ変わりだと自称し、顔半分をアレクサンダー、もう半分をカラカラ自身という奇妙な肖像画まで描かせていたほどでしたから、アレクサンドリア到着直後は市民の歓待を受けて機嫌良く過ごしていたようです。

ところがその後、突然カラカラが豹変しアレクサンドリア市民を大量虐殺してしまうのです。
この原因をはっきり特定できる資料は無いのですが、どうやらアレクサンドリア市民の辛らつな揶揄に対して激昂したカラカラの報復攻撃だったという説があるようです。
いずれにしてもカラカラの命を受けたローマ兵は、始め青年達を一ヶ所に集めて虐殺し、さらに一般市民たちを手当たり次第に惨殺していったのです。その数およそ数千人といわれ、街は惨たらしい死体で埋め尽くされ、カラカラはその様子をセラピス殿堂から見物していました。

弟を殺した罪の意識と、その後の大量殺人による不安感から、この頃のカラカラは剣を手にした父親と弟に追われる幻に悩まされていましたから、すでに精神の均衡を失っていたと思われます。 215年12月からアレクサンドリアに滞在し大勢の市民を殺したカラカラは、翌216年春アンティオキアへ戻ると対パルティア戦に突入します。
そして、このパルティア戦の中、エデッサ(イラク) からカッラエ(トルコ) へ移動したカラカラは、密かに帝位を狙っていた親衛隊長マクリヌスと、カラカラに私怨を持つ百人隊長マルティアリスの共謀により暗殺されました。
その殺され方というのが、腹痛に襲われたカラカラが野原で生理現象を実行している最中に、さり気なく近寄ったマルティアリスに背後から剣を突き刺されたというのですから…なんとも。
29年間の短い生涯でした。

逃げ出したマルティアリスは護衛に殺され、無関係を装い嘆き悲しむ振りをする親衛隊長マクリヌスは、パルティア軍が迫っている危機を利用して急きょ皇帝位に就いたのです。
ローマを離れて4年。やっと首都に戻ったカラカラの遺骨はハドリアヌスの霊廟に安置され、神として祀られました。。


明るい普通の少年が野獣のような暴虐皇帝になり果て、やがて殺されたわけですが、あえて言えば弟を殺した罪の意識にさいなまれ精神的なダメージから異常な幻におびえるカラカラは、元来は至極まともな人間だったのではないでしょうか。 古代ローマ皇帝に限らず親子兄弟を殺した権力者は歴史上に大勢います。 これが親戚、血縁者を殺したとなると、古今東西数え切れないほどの人数になることでしょう。ネロは母親を殺した後、刺客を送られたから殺した、とカラカラと同じような言い訳をしています。
父親や弟の亡霊に悩み、際立って精神的ダメージが大きかったカラカラはいかつい顔に似合わない気の弱さと肉親に対する愛情を知っていた、いたって普通の感性の人間で、それ故皇帝としては繊細すぎた、ともいえると思います。

残酷なだけで全く取り柄が無い人物であるかのように語られることが多いカラカラですがそうでもありません。
212年には帝国内の全自由人にローマ市民権を与えるという「アントニヌス勅令」 を発布し、税制改革をし、通貨の改変を行うなど政治的努力をしています。
また戦場では兵士と共に寝起きし食事を取り、自ら重労働にも加わり徒歩で行軍もし、ということから兵士達に好かれ、軍隊からは圧倒的に支持されていたのです。そしてカラカラといえばなんといっても有名なのは浴場。大理石とモザイクで飾られた巨大なカラカラ浴場は現在でもローマの町に威容を誇っています。


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November 04, 2018

セプティミウス・セウェルス

ローマ皇帝変人史 20

セプティミウス・セウェルス  145.4.11−211.2.4   
インペラトル・カエサル・ルキウス・セプティミウス・セウェルス・ペルティナクス・アウグストゥス

セプティミウス・セウェルスはペルティナクス帝が殺され、ローマで皇帝位が売りに出されディディウス・ユリアヌスとスルピキアヌスが競りで争っていた頃、高地パンノニア(ハンガリー)の総督をしていました。

時を同じくしてシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスも皇帝の座を狙い名乗りをあげ、これらの軍がローマへ進軍を開始したのです。ローマに最も近かったセウェルスはアルビヌスと同盟を結び一気にローマへ進撃を開始しました。その為ユリアヌス帝は元老院から見放されて殺害され、元老院はあわただしくセプティミウス・セウェルスを皇帝にするという決議をしました。ニゲルはその頃東部で軍団に支持をされ皇帝の宣言をしていました。セルウェスはアルビヌスをとりあえず味方につけておくために、皇帝の実権を分け合うという意味合いで『カエサル』の称号を与えました。この時期のローマ帝国には事実上3人の皇帝が存在したことになります。

セプティミウス・セウェルスとペスケンニウス・ニゲル(193−194)、クロディウス・アルビヌス(193−197)の3人。

ローマへ入城したセウェルスがただちに行ったのは、ペルティナクス帝の殺害者たちの処分でした。彼はペルティナクス帝の仇を討つという名目でペルティナクス帝殺害に加わった関係者を処刑し、親衛隊をローマから追放処分にしました。

次にセウェルスが着手したのは、他の二人の皇帝僭称者、ニゲルとアルビヌスの処分でした。まず彼はシリアへ攻め込みニゲルを倒しています(194年)。セウェルスはニゲルを攻めている間、アルビヌスにカエサルの称号を与え自分の後継者にするという約束をして同盟を成立させていました。しかしセウェルスには元よりそんな約束を守るつもりは全く無く、197年、ガリアでアルビヌスも殺されました。ギボンは『衰亡史』の中でセウェルスについて

「セウェルスは裏切る為に約束し、ただ滅ぼすためにへつらった。自身の利益のみに忠実な彼の良心は、常に彼を不利益な拘束から解放した」 と述べています。

ニゲルやアルビヌスへ対する残虐や裏切り、彼らの家族に対する無慈悲さと、彼らを支持していた元老院議員の粛清などはセウェルスの性格をあらわにしています。197年の対パルティア王国戦では陥落させたパルティアの首都クテシフォンを破壊し、男は殺され、女と子供10万人を奴隷にしました。

このような独裁的で残酷な性格を指摘されるその一方で、セウェルスは現実的で有能な皇帝でもあり、騎士階級の重要なポストへの登用、親衛隊の再編、兵士への優遇措置などで軍隊から絶大な支持を得ています。

セプティミウス・セウェルスはアフリカのレプティス・マグナ生まれのフェニキア人で、皇帝としては帝国史上初のアフリカ出身者でした。そのため老齢になっても言葉からアフリカ訛りが抜けず、彼の姉妹にいたってはラテン語を話すことすら出来なかったそうです。

セプティミウス・セウェルスと最初の妻パキア・マルキアナには子供がいませんでした。そして2度目の妻はシリアの神官の娘ユリア・ドムナでした。ユリア・ドムナはシリアのエメサにある神殿の祭司長ユリウス・バシアヌスの娘で、エメサ王家の子孫でした。ユリア・ドムナが星占いで「この娘は王と結婚する」 という予言をされていたことを知ったセウェルスがユリアを妻に迎えたのです。ユリア・ドムナはルキウス・セプティミウス・バシアヌスとプブリウス・セプティミウス・ゲタという二人の息子を産みました。このルキウス・セプティミウス・バシアヌスこそ次の皇帝カラカラその人です。

じつは、195年、セプティミウス・セウェルスは皇帝特権で魔法を使っています。というのはアントニヌス朝とのつながりを主張して、故マルクス・アウレリウス帝の養子を名乗ったのです。そして後継者の長男セプティミウス・バシアヌス(カラカラ)をマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改名させたのです。しかし故マルクス・アウレリウス帝との繋がりを強調すると、かのコンモドゥスとは義兄弟ということになってしまいます。前出のコンモドゥスはすでに死後公敵宣言をされ、記憶の抹消の刑に処されていました。それではセウェルス帝自身の権威に傷がつくということで、コンモドゥスの公敵宣言は取り消され死後神格化するという荒技がされたのです。

二人の息子カラカラとゲタは父帝の権威をバックに野放図な生活に陥り、兄弟仲もおよそ良いとはいえない状態になっていきますが、それに関しては次のカラカラ帝の項にまわすとします。

202年、カラカラはセウェルス帝の命令で親衛隊長プラウティアヌスの娘と結婚させられました。しかしカラカラはこの結婚を非常にいやがり、新妻とその父親をひどく憎みました。そしてカラカラは結婚3年後、プラウティアヌスが皇帝とカラカラの暗殺を企てたとする秘密文書を捏造して、ついに彼を陥れ、プラウティアヌスは死刑に、その娘で妻のフルウィアをリパリ島へ追放したのです。カラカラはよほどフルウィアに対して憎しみを持っていたのか、その後皇帝になった時に彼女を処刑しています。

プラウティアヌスとセウェルス帝は少年時代からの友人で、同性の恋人同士だったという噂がありました。プラウティアヌスとフルウィアに対するカラカラの異常なまでの憎しみに何か因縁めいたものさえ感じるほどです。

やがて老いを感じ通風の持病に悩まされていたセウェルス帝は、208年、それまでどの皇帝も実現できなかった全ブリタニアの支配を志し、息子達を伴って出兵します。遠征は途中まで成功していましたが、戦線が長くなり、また長期化するに従い、ブリテン島の制圧は不可能になっていきました。ブリタニア支配に関心がなく、病のセウェルス帝を持て余したカラカラは父帝を『厄介者』と考え、行軍中に殺そうとし、失敗したことがあるといいます。209年には弟のゲタにも『アウグストゥス』の称号を与え、兄弟を同格の皇帝に位置付け、死後の布石を敷いたセウェルス帝は、ついに征服を果たせぬまま211年2月ヨークで亡くなりました。最後に「兄弟、仲良くせよ」 と言い残したそうです。このセウェルス帝の遺言はカラカラが皇帝位についてまもなく、空しく破られることになってしまいます。

子供のことでは並みの父親のように悩みを抱えていたセウェルス帝ですが、彼は実質上の皇帝を3人も殺しています。家族と親しい友人には寛容で情け深い反面、敵対するものには非常に厳しく残酷な面を剥き出しにした人物でした。



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ディディウス・ユリアヌス

ローマ皇帝変人史 19

ディディウス・ユリアヌス  
インペラトル・カエサル・マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス・アウグストゥス
133.1.30−193.6.1

ペルティナクス帝が惨殺された後、ローマ史上前代未聞の事態が始まりました。ペルティナクスを殺した兵士達が皇帝候補者を見つけられない状況の中、兵舎の中で皇帝位の競売が行われたのです。

皇帝位が売りに出され、競りにかけられることを親衛隊は公表し、二人の立候補者が立てられました。一人はペルティナクスの妻の父親スルピキアヌス、そしてもう一人がディディウス・ユリアヌスだったのです。 ディディウス・ユリアヌスの方が高い値段をつけたこともありますが、スルピキアヌスがもし皇帝になれば親衛隊はペルティナクス帝殺害の責任を問われるだろうという兵士達の思惑もあったのでしょう。 ユリアヌスは北イタリアのミラノで生まれ、ゲルマニア総督などを歴任し順調にキャリアを積みあげてきました。競りで皇帝になったとはいえ能力が劣っていたわけでもなく妥当な選択であったのです。

こうして193年3月、皇帝の地位をお金で買ったディディウス・ユリアヌス帝ですが、2ヶ月後にはなんとも哀れな末路が待っていました。

話は前後しますが、ペルティナクス帝が惨殺されローマで皇位が売りに出されていた頃、ディディウス・ユリアヌス、スルピキアヌスの他にも3人の属州総督、すなわち高地パンノニア(ハンガリー)の総督セプティミウス・セウェルス、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが皇帝の座を狙って名乗りをあげていました。 これらの総督に率いられた軍がローマへ向かい進撃を開始したという報がもたらされるとユリアヌス帝は哀れにも親衛隊と元老院に見捨てられ、側近からも見放されて、たった一人でいるところを殺されてしまったのです。
帝政史上初の競りで皇帝位を買った珍しいローマ皇帝です。

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管理人・ユメリアです。
竜涎香

竜涎香・1880
ジョン・S・サージェント

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