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『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』長谷川三郎監督単独インタビュー、シネルフレ掲載分で書ききれなかった完全版をご紹介します。福島さんと出会うきっかけや、映画化した動機、最初撮影を申し出たときの菊次郎さんとのエピソードなど、長谷川監督の”福島菊次郎を届ける”覚悟をヒシヒシと感じました。
━━━どのようにして福島さんと出会ったのが、きっかけを教えてください。
一番最初に福島さんにお会いしたのは今から3年前の2009年夏でした。ある方から伝説の報道写真家福島菊次郎さんが瀬戸内海の町に暮らしていらっしゃると。当時は米寿で、胃ガンをわずらっていたため、本当にちゃんと話を伺えるのは今が最後のチャンスかもしれないと言われたので、お会いしてみようと思いました。

私は1970年生まれで、福島さんが精力的に写真を残された60年代や70年代、安保や学生運動や三里塚といった現場を直接知りませんし、福島さんがそういう時代にたくさんの写真を発表されたこともリアルタイムでは知らなかったんですよ。ですが、福島さんが撮った写真を見たときに衝撃を受けまして、僕らが知らなかったニッポンがここにあるんだと思い知らされたんです。本当に被爆者の人の声が聞こえてくるみたいな、学生運動や三里塚で闘っている人たちの怒りの声が聞こえてくるみたいな。今も福島さんの言うところのニッポンの嘘が覆い隠されたその後に生まれてきた世代なので、自分の足元にこんな歴史が埋まっていたんだな。なおかつ、声を上げてきた日本人がいたんだなということに大きな衝撃を受けました。しかも、その写真は真正面から日本の人たちと向き合って撮ってきた。苦しみとか怒りをストレートに受け止めている、どんな写真家なんだろうと思ったのが最初のきっかけです。

僕はドキュメンタリーの仕事をやっているので、人を撮っていらっしゃり、これだけ圧倒的な仕事を残していらっしゃる福島菊次郎さんに出会いたいなと思ったのがきっかけです。先輩からは、カメラを武器にして、敵をだましてでも潜入して撮ると。家を焼かれたり、暴漢に襲われても屈しないで、撮影し続けたというエピソードを聞いたので、どれだけ怖い人なんだろうと緊張して行ったのですが、お会いしてみると本当にチャーミングなお人柄で、その人柄に一発で魅了されてしまったのが正直なところですね。この人を撮りたいな。福島菊次郎という人間を知りたいなというのが一番大きなきっかけですかね。

━━━今まで撮る側であった福島さんに取材を申し入れたとき、どんな反応をされたのでしょうか。
「僕みたいな独居老人を撮って、絵になるのかい。」と最初に言われましたね。でも、とてつもなく魅力的だったんですよね。年金を拒否されて、でも三食はちゃんと自分で作って、ユーモアを交えながら日々の暮らしを過ごしていらっしゃる。その一方で90歳になっても全く引退せずに、今のニッポンに自分が何をメッセージとして残せるのかを真剣に考えて、日々原稿を書かれたりされている。その生き方を見たときに、どうやって人は最後まで生きるのか、自分の仕事をなしていくのかということを、教えられたような気がして、その日常も見つめたいなということも大きくありました。

「福島さんを撮らせてください。」と言ったときに、「合い鍵を渡すから、何でも撮っていいよ。」といきなり渡してくれました。それは、挑戦だと思ったんですよ。おまえたち何を撮るんだという、人を撮ってきた福島さんだからこそだと思うのですが。毎日アパートの鍵を開けて、「おはようございます。」と言うところから始まって(笑)。その中で、病気も患っていらっしゃったので自分の老いとか、「ちょっと気分が悪くて、もどしちゃったんだよね。」とフラフラの青い顔で朝起きられたりしていて、そういう自分の老いていく様も隠さずにさらけ出してくれたので。でもその中で写真家として自分に何ができるのか。写真家として最後にどのような人生を貫けるのかを、あきらめないで日々を過ごされていた様子を見て、福島さんのすごさを改めて感じましたね。

━━━最初、福島さんを撮りたいと思ってお会いになった時から、映画を作ることを念頭に置いていたのですか。
テレビドキュメンタリーだと企画書を出して、ある程度放送枠が決まった中で撮影チームを組んで進めていくのですが、実は初めての経験なのですが、福島さんのやってきた仕事とその証言を残したいという勝手な使命感にとらわれて「撮ろう」ということで進めていき、出先は決めていなかったです。テレビなのか映画なのかと考えていたときに、僕はテレビは本籍地だと思ってますし、大事なメディアだと思っていますが、福島さんの見つめてきたニッポンは今のメディアではあまり扱えないタブーも含まれているので、それをストレートに伝えたい。自分自身が伝えるのに責任を持って出したいと思ったときに、映画という形がいいのではないかと。さらに撮っていく中で、福島さんが撮影してきた戦後のニッポンというものに劇場の暗闇、大スクリーンで向き合ってもらって、そのことを見てくださった観客の方に持ち帰ってもらいたいと思ったんですね。あまり過剰な説明はしたくないと考えたときに、観客との共同作業で作品が完成する映画という場で、福島菊次郎に出会ってほしいと思うようになりまして、途中の段階で映画にしようと決めました。

━━━監督が意図された「暗闇のスクリーンで福島菊次郎の写真と向き合う」ことは、非常に衝撃的かつ、これこそ今の日本人が出会うべき人であり写真だという想いに駆られました。
僕はテレビのドキュメンタリーを作ってきたので、どうやって視聴者をザッピングする中でいざなって、分かりやすく伝えていくのかというところで闘ってきた人間なので、爆弾みたいな福島さんが撮ってきたニッポンをどうやって届けるのかと。でも信じようと思ったんです。観てくださる人は絶対最後まで目をそむけないで向き合ってくれるのではないか。観終わった後、何かを獲得してくれるのではないかと、今の日本人たちを信じたいと思って作りました。

また、それを包み込んでくれる福島さんの日常や魅力的な人柄があったので、「これはいける」と思ったんです。

━━━監督が福島さんを背負っている光景から作品がはじまりますが、どのような意図があったのでしょうか。
結果的にですが、僕らの態度表明になっていますね。もう90歳になって、もちろんカメラを持てば野生動物のように現場を駆け回る菊次郎さんなんですが、階段を上るのがちょっと苦手でいらっしゃるようで、その福島菊次郎を今の世の中に届けるという、心中と言ったら大げさですがそういう気持ちで福島さんを背負わせていただきましたし、福島さんを世の中に届けたいと思ったので、そういう気持ちで映画の最初のシーンに使わせていただきました。僕の距離感が表れているんじゃないでしょうか。書生みたいなものでしたから。

本当にドキュメンタリーだと、作家が挑発して相手を怒らせながら引き出していったりするじゃないですか。ドキュメンタリーのディレクターが持っている作家性や主張みたいなものを取材相手にぶつけて、その化学変化を見せていくというような、たとえば原一男さんとか森達也さんとか、そういうドキュメンタリーのやり方があると思うのですが、僕はできないんですよね。その人のことが好きになって、その人の近くにいたい。魅力を伝えたいということから、それは僕の持っている気質だと思うんですけど、それでいいと思ったんですよね。ただ変に客観的なナレーションをあてるのは止めようと思ったんです。「敗戦直後の広島はこんな時代でした。」「安保闘争はこういうことが原因で起きたんです。」とか「そのとき福島菊次郎はこの現場にいたんです。」とか、客観的なナレーションを当てるのを止めたんです。

福島菊次郎が見た戦後って正直言うと賛否両論があると思うんですよ。でも、その目線に寄り添ってみようと、そこから見えてくるものがあるんじゃないかと撮っていくうちに思うようになって、距離感ゼロでいこうと思いました。
距離感ゼロという距離感でいこうと思ったんです。田原さんも書いてくださいましたけど、これだけ批判精神もなく、福島菊次郎にのめりこんでいったと。僕も福島さんに取り付かれちゃったんでしょうね。一緒に福島まで行きましたし。

━━━最初、福島さんに撮影許可を得て、合い鍵をもらってから、どの段階で写真について語っていただけるようになったのですか。
撮影をどういう形で進めていこうかと考えまして、まず福島さんが撮ったニッポンを見て感じようというところから始まったんですね。東京から山口県の柳井までは新幹線の山陽本線を乗り継いで6時間ぐらいかかるんです。下手な外国より遠いのですが、毎回写真集を持って行って、「今回はピカドンの話を聞こう。」と伺って、写真を一枚一枚めくりながら、その現場で起こった話を聞くというようなスタイルでやっていたんですよ。

福島さんは、本に書かれていることなんですけれど、自分が戦後60年以上撮ってきた写真は25万枚で、それをシャッタースピード500分の1秒で撮ったとしたら、自分の25万枚はどれだけの時間の長さで定着しているのかを計算されたことがあって、すると20分ぐらいなんですよ。20分しか残せてないんだなと福島さんは思われて、実は一枚の写真を撮るにはそこには映っていない被写体と出会う時間だったり、自分の想いがあって、それを言葉として残したいとおっしゃっていて、その考え方がすごいなと思って福島さんの写真を見ながら、その証言を聞くことで立体的に戦後が丸ごと浮かび上がるのではないかと思って、そのことをまずやろうと毎回通いましたね。一回の柳井で4、5日滞在させていただいて、じっくりお話を聞くと。また補聴器を取り替えるといえばちょっと見たいなと思って行ったりとか、健康診断があるからと行ったり、日常は大事だなと思って通いましたね。

━━━カメラマンよりステテコのゴムを替える方が難しい仕事だと冗談を言うシーンを見て、なんて素敵な人なんだろうと思いました。
そうなんですよ。女性スタッフもいたのですが、皆菊次郎ファンになってましたね。菊次郎さんは本当にもてます。それは変な話ではなく、優しさがあるからなんです。ウーマンリブのテーマで撮影された米津さんが話されていたんだけれど、菊次郎さんに会ったとき言葉を交わさなくても人の痛みが分かる、目を見てるだけで分かってくれたというヒューマニズムというか優しさがあって、その人たちのためにカメラを武器にして国や大きなものと闘っていたのだと思うので、本当にマネできないですよね。

━━━火事の最中フィルムのネガを運び出したり、「自慢の父」と語る長女のエピソードに、身近の愛すべき人を大事にする人でもあったことが伺えました。
菊次郎さんはよく長女の話をされるんですが、どんな方なんだろうと思って最後にお会いできたときに、娘さんを見て一発で分かりましたね。こんな素敵な女性を育て上げたんだなという、言葉よりも父のことを語っている娘の典子さんを見た時に思いましたね。自分も最近子どもが生まれたばかりなんですけれど、こんな風に自分のことを語ってくれる子育てができるのかなと。
どういうあれですかね。結果的に福島さんに突き動かされて作っていったので、最後完成した今、どうやって今の日本に届けるのか取材を受けながら考えているのですが、色んなメッセージがあるなと思っていて。特に『ニッポンの嘘』ってタイトルは福島さんからいただいたんですけれど。

━━━このタイトルを聞いただけでも、ゾクッとします。今は一般の市民ですら、国や政府を信じられなくなっていますから。
福島さんはブレてないですよね。今思えばなのですが、福島さんが撮られてきたニッポンを見た時に、心がザワザワしたんです。それは、多分ウソが覆い隠された後に僕が生まれて、漂白された日本で育ってきたので、過去の三里塚で声を上げている人とつながれないまま、今生きている訳じゃないですか。そのときにザワザワして、僕はそこに映っているニッポン人に誇らしさを感じたんですよね。怒りの声を上げていたりとか、闘っているニッポン人に。そのことは届けたいと思ったんです。今の日本人は心の中でマグマを持っていて、でもそのことは表に出せないと思っているわけじゃないですか。

━━━言っても何もかわらないといった諦めでしょうか。
それでも菊次郎さんは声を上げ続けているわけじゃないですか。それは、例えば今官邸前のデモに集まってきたり、声を上げたいけれどどうしたらいいか分からない若い人たちに言いたいですね。日本には、この国と闘い続けてきた男がいる、福島菊次郎に会いに行ってほしいという気持ちですね。もう一つ年配の方もメッセージを受け止めて下さっていて、「元気をもらったよ。」と言う方が多いんですよね。まだまだ僕にやれることがあるのではないかとおっしゃる方が多くて、特に福島さんが生きてこられた60年代、70年代に学生運動のデモにも参加した、その中で社会を作ってきて、老いを迎える方もいらっしゃるわけです。90歳になってもまだ闘っている菊次郎さんの姿は大きな力になるのではないかと感じるんですよね。