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高校在学時代にバンドコンテストで優勝、CDデビューを果たし、プロミュージシャンを目指して上京した増田壮太。その後体調を崩して実家に戻り、増田とバンドを組んでいた冨永蔵人と、彼らを撮影していた太田信吾監督の3人で、ドキュメンタリー映画を作る方向に動き始める。しかし2010年12月、増田は自殺し、突然この世を去ってしまう。友人であり、一緒に映画を作ることを目指していた増田の遺言に書かれていたのは「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」という言葉だった。

今年の東京国際映画祭(TIFF)で『解放区』が上映され話題を呼んだ太田信吾監督の長編初監督ドキュメンタリー、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』。胸のざわめきを覚えるこの作品で、太田監督自身が被写体となることもあれば、フィクションパートでは自らが仮面をかぶり、死後の増田を演じて強烈な印象を残す。

インタビューで実際にお会いすると、非常に物静かで、穏やかささえ感じるような太田監督。一緒に映画を作っていた仲間であり、かつての憧れの先輩でもある増田を自殺で失ったからこそ、増田だけでなく、世の中の自殺をみつめ、フィクション部分でその想いが舞台劇のように語られるのだ。

増田、バンドを組んでいた蔵人、そして太田監督の夢と現実との間で葛藤する群像劇のようでもある、プロミュージシャンを目指した増田を巡る物語。太田監督に、何とも言えない余韻を残す本作について話を伺った。

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―――増田さん、(富永)蔵人さんとの出会いについて教えてください。
増田壮太は高校の2つ上の軽音楽部の先輩で、僕が入学したときにはCDを出してデビューをしており、高校中退していたのにもかかわらず、部室に入り浸って曲を作っていました。僕らの世代から見れば、若くして世に出た憧れの存在でした。一方、富永蔵人は僕と同級生で悪ふざけをするような仲間でした。話をするようになったのは大学に入ってからです。2006年の12月頃にミクシィのメッセージで、周りから僕が大学で映画をやっていることを知った増田から、ライブをしてYoutubeにアップしたいので、映像を撮りに来てほしいとお誘いをもらったのです。尊敬していた先輩だったので、是非やらせてほしいと、そこから付き合いが始まりました。

―――ライブ映像の撮影を依頼されてから、継続して増田さんを撮ろうと思ったのはなぜですか?
最初はライブ映像を撮って編集をしていたのですが、だんだん僕のモチベーションが厳しくなってきました。ライブも高校時代に観ていた時と比べると、あまりカッコいいとは思えなくなってしまいましたし。頻繁にライブ映像を依頼される一方で、彼は芸術全般に色々な知識があり、僕の方からインタビューを撮らせてもらったこともありました。僕の方から映画にならないかと、漠然と考えてはいたのですが、この人だけではしゃべっているだけの映像になってしまうと一旦棚上げしているうちに、しばらく会わない時期が続いたのです。

ある日、増田が東京で体調を崩し、実家に戻る引っ越し要員で駆り出されることがあり、増田と縁のなかった蔵人を連れていったのです。対照的だと思っていた二人が音楽の話で意気投合したり、病気だと思っていた増田が蔵人と接することで明るくなっていくのが面白くて。増田が「実家に帰る負け犬」と引っ越しの時に語るシーンがありますが、むしろ負けたのではなく勝ったのではないかと思うような勢いが二人にあったのです。

ちょうど大学時代、僕もボランティアで地域を盛り上げる活動をしていたので、夢を追って上京し、挫折したら失敗だという価値観を変えられないかと思っていた時期でもあったのです。これは映画になるのではないかと、そこで初めてピンときた感じです。

―――撮り続けていた増田さんや蔵人さんに対し、映画にすると太田監督が伝えたときの反応は?
半信半疑でしたね。僕が「海外の映画祭に行きましょうよ」と言うと、「そんなの、できるのかよ」と冷やかされましたし、増田は僕の前の映画(引きこもりをテーマにしたキュメンタリー『卒業』)を観ていたので、「暗い映画ではなく、ハッピーな映画を撮ってくれよ」と言っていましたね。「ハッピーエンドにしないと、俺は許さない」とも言っていたので、みんなそれぞれ自分たちなりのやり方で音楽を成功させていくというのがゴール地点であり、そこに向かって撮っていこうと決めました。

―――増田さんや蔵人さんを撮影するうちに、ギャラを要求されたり、太田監督自身も映画を撮ることが難しくなる局面が訪れますが、その時は本当に映画を投げ出すつもりだったのですか?
僕の部屋で二人に「映画の一本ぐらい撮ってみろ」と問い詰められるシーンは、実は台本がありました。増田自身、僕に対して「あいつばかりカメラで人の痛いところばかり撮り、自分は何もさらけ出さない」と蔵人に相談していて、「あいつ、もう殺してしまおうぜ」というメールを送ったそうです。それに対して蔵人が「あいつならやりかねないから、太田君は逃げた方がいい」とびっくりして連絡してきたので、僕も怖くなりながら逃げる訳にもいかないので、それを演技の中でやれば増田も冷静に見てもらえるのではないかと思いました。僕の方から「台本を書いてくれれば、その通り演じるので、僕のみっともないところを映す場面を撮りましょう」と提案し、増田が書いた脚本を元に5回ぐらい撮り直しました。一人暮らしも脚本の設定です。

―――その後、増田さんと蔵人さんは別々の道を歩み始め、蔵人さんは長野県・天龍村に移り住みます。地元の人の温かさに触れる蔵人さんと、都会でどんどん疲弊していく増田さんが非常に対照的に映し出されていました。
ゆくゆくは二人が何かを生み出すのではないかと期待していたのですが、徐々に価値観の違いが顕著になり、増田は蔵人だけではなく、他の人とも人間関係をこじらせることが多発し、僕は撮影しながら心配もしていました。バンドメンバーからも少し浮いた存在で、家の中でも居場所がなく、ライブの飛び込み営業でも聞き入れてもらえなかったり、ライブをしてもお客さんが少ない。どんどん自分は一人だと思い詰めていったような気がします。

―――増田さんの自殺を知ってから、太田監督の中でどんなプロセスを経てその死を受け止めていったのでしょうか?
最初は彼に対する怒りというか、信じられない部分が大きかったです。どこかで自分のことを客観視できる人だと思っていましたから。人生の方がむしろ色々なドラマがあることを受け入れてもらいたかった。もし、本当に死んでいるのだとしたら、残念だし、許せないと思いました。初めて聞いたときは、そういう形でお客さんを呼んで、お葬式の会場でライブを始めようとしているのではないかとか、集客のための口実ではないかと疑っていました。

―――増田さんの遺書に「映画を完成させてね」と書かれていたそうですが、その言葉がなくても、この作品を作っていたと思いますか?
難しかったでしょうね。お葬式の時も、僕はすごく撮りたい気持ちがありました。お葬式は色々なドラマがありますから、映像を撮る者としては「撮らなければ」と思い、カメラも持参しましたし、弟さんにも前日に許可を得たのです。ただ、ご両親が僕のことをどう思っているのか。最後まで増田の一番近くにいる人間でしたし、撮影したことで、彼が撮影をどこか意識して死んだのではないかという罪悪感があり、ご両親のことを考えるとカメラを持ち出すことすらできなかったです。

お葬式が終わり、ご両親から連絡をいただき、増田の遺書に映画を完成させてほしいと書かれていることを知り、これは映画を完成させてもいいのかな、むしろやるべきなのではないかと思いました。自分がやりたいというより、増田が完成させてほしがっているのではないかと。また、自殺という形での息子の死を隠したいと思うご両親は多いと思うのですが、増田のご両親は息子の存在をもっと知ってほしいと思っていらっしゃいました。だから、映画を作るべきだと徐々に気持ちがシフトしていきましたね。

―――映画を作るにあたっては、ドキュメンタリー映像に加え、フィクション部分を全編に渡って散りばめていますが、どのような考えでフィクションを織り交ぜた構成にしたのですか?
露骨な言葉で自殺してしまった人に言葉を投げかけたかったのです。ただ観察して、それを繋いだだけでは、そこに対する自制心は生まれません。ただ自殺した人を見つめて、こういう人生もあったのかで終わると思うのです。振り返ったり、問いかけたりすることを徹底的にやりたかったので、そのためにはフィクションパートが必要でした。自殺した人はまとめて一つに見られてしまいますが、その中にも本当に狙って死んでいった人もいれば、今の政権への反対を表明するためにビデオカメラで自分が燃える様子を撮りながら動画で流す人もいます。また、ちょっとしたその日の感情で飛び込んでしまう人もいますし、自殺する人にも色々な層があるということを顕在化させるために必要だったのです。

―――ラスト近くでも、フィクションパート撮影中の自殺騒動や、その後路上で撮影隊との激しいぶつかり合いがあり、観終わって心がざわつきました。これらはどういう意図で挿入したのですか?
ラストは人が自殺をする過程、本当にちょっとした行き違いや、どんどん糸が絡まってしまう感覚で追い詰められてしまう様子に臨場感を与えたかったのです。観ている人に対して、「もっとこうしたらいいのに」「なんで、そうなっちゃうの」というツッコミを入れてほしいという期待を込めて入れています。

―――増田さんの音楽が全編に渡って登場します。冒頭の『落日』から始まり、様々なライブ風景も挿入されていますが、音楽の使い方について教えてください。
一番最初の『落日』は、冒頭フィクションパートの自殺を語る場面です。「自由にやさしく穏やかに死ねたらいい」という歌詞は、増田自身が意図的に、自分の美意識で死を選んだということを描くためにも、この曲がリアリティーを持たせてくれるだろうと思い、選びました。

―――一方、ラストではハッピーエンドで終わった後に、増田さんと蔵人さんの二人が撃海辺でパーカッションを叩きながら、楽しそうに歌っています。終盤のざわつくシーンとは真逆の非常に穏やかなエンドクレジットでした
ハッピーエンドは観てもらえた人や、映画を作った僕ら自身が、これからの人生をハッピーエンドにしていかなければいけないということだと思います。映画がハッピーかそうでないかは、過ぎ去ってしまったことなので、どちらでもいいのです。ただ、その中でも僕が幸福感を抱いていたのがエンドクレジットの海のシーンです。海岸から波がぶつかりあう、なんともいえない音がして、それに合わせて増田と蔵人が自然とリズムを撮りはじめました。変に自分の自意識にがんじがらめにならずに、地球の深い音を聴けたのは神秘的な体験でした。人間の生活の中で考えることのちっぽけさから、離れることができたような時間で、それは生きていく上でもっと壮大な次元があるのだと感じることができました。

―――増田さんの死を乗り越え、本作を作ることで太田監督が表現したかったことは?
一つのメッセージを伝えたいということはなく、むしろ映画は総合芸術としてのメディアなので、それではダメだと思うのです。自分たちの宣伝や活動のために一つだけのメッセージが内在したドキュメンタリーを作ってしまうと、他の人を排除してしまったり、対立が生まれてしまいます。そうではなくて、対立の中で生まれる議論、それを生み出す場を作り出すのが大事ではないでしょうか。

―――増田さんや蔵人さんとの出会い、また本作を作ったことで太田監督ご自身の中で何か変化はありましたか?
色々なことに思い詰めなくなった部分はあります。あとは、音楽のあり方ももっと色々なやり方があっていいと思いました。増田が目指していたJ-POPだけでなく、色々な音楽を実際に聴くようにもなりましたし、音楽ではないけれど波の音や、自然の声を聞くことも意識がいくようになりました。

―――『わたしたちに許された遠く別な時間の終わり』というタイトルをつけた理由は?
逆説的に「終わり」ということで、終わってしまったとも言えますが、映画の中と僕たちの生きている現実とどちらがドラマチックかといえば、現実の方がドラマチックです。知らない人たちとの出会いの中で変わっていくことの方が、絶対にドラマチックです。そう考えるとまだ「終わっていない」のではないかともいえるし、「終わったのか?」と自分に問いかけられるようなタイトルでもあるなと思います。


『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
(2012年 日本 1時間59分)
監督:太田信吾 出演:増田壮太、冨永蔵人、太田信吾他
2014年12月13日(土)〜第七藝術劇場、立誠シネマ、2015年1月9日(金)〜神戸アートビレッジセンター