2020年05月04日
私が「えん罪判決の手法」と呼ぶ、論理学的にNGな論理の立て方があります。
「被告人は有罪である」という結論有りきで、証拠を評価し、「だから、こういう事実があったに違いない」と事実認定をねじ曲げ、結論を出すというやり方です。
結果、客観的に存在する事実からは目を背け、結論に反する証拠は、過小評価され、謝った論理が積み重なり、えん罪ができあがる。過去にえん罪と言われた判決は、ほぼ、この構造に陥っているのです。
さて。
マスコミで名前も出されていますし、彼がコメントしたと言うことは、周知の事実と思いますので、実名挙げてもいいと思うのですが、今回のコロナウイルスに関する、政府専門家会議の専門家のお一人である、西浦教授。
彼がどんな人かは、私は全く知りませんが、少なくとも、4月末頃からの彼の発言は、この「えん罪判決手法」を用いています。
「罹患者の数値の動きからして、まだ、人との接触8割減は、6割程度しか達成できていないように思われる」
「実行再生算数は日本では0,5だが、8割減が達成できていない状況では、まだ規制を解除することはできない」
これは「人との接触を8割減少させれば、感染拡大のスピードは加速度的に落ちるはずだ」という「推論」が、真に正しければ成り立つ理屈ですが、問題はこの「推論」が正しいという証明が、何もなされていないこと。
彼の思考は「人の接触8割減で感染は抑えられる」という結論有りきの、逆算思考で、科学者でありながら、大前提を疑うという思考はなさそうです。
爆発的感染が生じる状況においては、接触を8割減少させることで、感染拡大を防げるというのは、正しいのでしょうが、そもそも、日本は爆発的感染を起こしていない。その状況で、人との接触8割減を当てはめることは、果たして有効なのか?
今、検証されるべきは、この点だと思います。
(私個人は、一定程度の感染症が蔓延することは、人間社会の常として、受け入れなければならないと常日頃から思っているので、果たしてここまで大騒ぎしなければならない事態かと言われれば、一貫してノーだとずっと言い続けています)
2020年04月23日
東京都がオーバーシュートの可能性を示唆して以降、かき消えてしまっていますが、おそらく、日本国内の感染者数は、正しい実数が分かっていない問題。
検査対象が限定されているため確かなことは分からないが、3月初めの段階で、すでに10万人単位の方が罹患したと考えてもおかしくないのでは、という推測すら、存在していたはず。
重篤患者が死亡することにスポットが当てられていますが、すでに感染、治癒し、免疫力を獲得しているが、しかし自覚がない人については、おそらく、もう自粛の必要はなくなっていると思われるので、新規患者数を追うだけではなく、免疫獲得したかどうかを確認する検査って、できないもんだろうか?
竹槍もってB29をやっつけると大真面目に意気込む多くの市民を横目に、ばかばかしいと輪に入らなかった少数の人を「非国民」と罵った過去の歴史。
コロナに負けるなと自粛、マスクと躍起になっている社会の状況を、冷めた目で見ている私は、おそらく、過去の時代に引き直せば「非国民」と言われるのでありましょう。
黒柳徹子さんがユニセフ親善大使時代に語っていたことなのですが、どこの国の話かは忘れてしまいましたが、貧困のため、10才そこそこの少女が、生きるために売春をしていたその国は、エイズが蔓延していたと。
彼女が「エイズは怖くないの?」と尋ねると「怖いけど、でも、明日をどう生きればいいか分からないから、仕方がないの」と少女が答えたとか。
コロナに罹患するのは怖いけど、育ち盛りの子どもを抱えて、毎日の生活を健全に過ごすことも大事な家族にとっては、たまの休みに車に乗って、ドライブに出かけることを、私は非難する気にはなれない。
優先順位は、人それぞれ、状況によって違って当然。それが受け入れられないほどに、今の日本は余裕がない。
それって結局、コロナに負けてしまっているんじゃなかろうか。
2020年04月21日
社会学者の古市君が、1か月以上前にテレビで「感染学的に正しいことと、社会学的に正しいことは違う」と言っていた。
私としては、これが一番ストンと腹落ちした。
先の日曜日、爆笑問題太田さんが「コロナに感染すると周りから何を言われるか分からない、これは、正しく畏れると言うことではないと思う」とコメント。
そう、この現象こそが、古市君が言っていた「社会学的に正しくない」現象だと思うのだ。
人間は社会的動物であり、社会の一員として生きる以上、等しく利益も享受する代わりに、等しくリスクも負う。
感染症の蔓延も、社会的動物である人間には、不定期的に訪れるリスクであることは間違いない。
人類に対する脅威は、外在的要因としては「戦争」が挙げられるだろうが、内在的要因は「疫病」であると思う。
ヨーロッパ大陸から冒険家が海を渡って、中南米大陸にたどり着いたとき、原住民を脅かしたのは、武力ではなく、出会ったことのない病原菌やウイルスであったとする鋭い歴史家の考察は、なるほど、と思った私。
いくらヨーロッパが繁栄していたとはいえ、海を渡って上陸した者が、武力だけで彼の地を征服したとは、どうしても考えられず。
話はそれましたが、予防することも大事、一方で、イギリスの首相が発言していたように(それが適切であったかどうかの問題は置くとして)感染して免疫を作ってしまえ、というのは、一面では「感染学的に正しい」と思い当たったりもします。
ヨーロッパのように、感染が爆発的に起こるも、多くの者が免疫力を獲得し、終息を早める方向がいいのか、爆発的感染を回避するために、罹患しないように罹患しないように行動し、長期戦を覚悟しつつ、バランスを保つやり方がいいのか、こうなってくるとその国の事情も手伝い、何が正解かはないとも思います(疫病と闘ってきた歴史の古いヨーロッパならではの考え方も影響しているようにも思います)
となると、最終的に気をつけたいのは、「社会学的に正しさは維持する」ことが、自分たちの社会を守るために大切なことになる、そんなことに行き着いた私です。
コロナに感染した人、医療従事者、その家族が精神的負担を感じてしまう社会にしないことは、今すぐ、自分たちでもできることだと思います