CIMG2244

卒業ではなく、終わりなく共感しつづけたい。

ずっと成長しつづけたい。

 

◆文鎮が飛ぶ?

◆師匠と先生

◆共感か卒業か

 

***


◆文鎮が飛ぶ?

 

夏に開催された房仙会書道展の懇親会のスピーチで、その生徒さんが子どものころ、

 

〈房仙会書道教室は、文鎮が飛ぶと噂があった〉

 

というセンセーショナルなエピソードを聴いた。

 

(やはり!)

 

と思ったのは、私だけなのだろうか。

 

そのあと、「文鎮なんて、飛ぶわけないですよね」って、にっこり微笑まれたので、

 

(ええっ とぶやろ?)

 

と、つっこんだのは、私だけだったのだろうか。

 

文鎮は飛ばないかもしれないけれど、文鎮より重いものが飛び交うのを、何度も見た。


房仙先生が投げかける問いは、文鎮よりも重い。

だから、涙があふれるし、涙が笑顔に変わるし、感動があるし、人生が変わるのだと思う。

 

その重さは、愛なのだと、わかるようになった。

 

世の中には、文鎮より重い、悪意を投げる人もいるかもしれないが。

 

◆師匠と先生

 

房仙先生のことは、「先生」とお呼びしている。

私たちのことは「生徒」と呼んでくださる。

三島の古くからの生徒の中には、「お弟子さん」と呼ぶほうがふさわしいと思えるかたもいる。

 

なんとなく違いを理解しているつもりになっている「師匠と先生」、「弟子と生徒」って、本当は、どのような意味の違いがあるのだろうと思い、インターネットで検索してみた。

抽出された記事を、参考までに読んでいくと、なるほど! と思うものがたくさんあった。

 

要旨を箇条書きにすると、

 

師匠は「生き様」で道を示す。

先生は「知識」で生き方を教える。

 

師匠は知っていることを「伝える」(見て覚えろ)。

先生はプログラムで「教える」

 

どうやら、師匠には、教える義務はないらしい。主体は、弟子にあるという。

一見、不親切に思われるが、弟子の主体性を尊重した〈愛ある接し方〉だというのだ。

 

弟子には、それぞれの個性があり、好きなことも、嫌いなことも、得意なことも、苦手なことも、学びや気づきを得ることも、習熟の速度も違っている。

 

つまり、

 

〈学びを自分のものとする意欲や能力の主体は、弟子にあり、師匠は、その弟子の個性に合わせて、その軌道を照らし、導くためのヒントを与えることしかできない〉

 

それが、無償の愛。そして、

 

〈師にとっての最大の歓びは、弟子が自分を超えること〉

 

(房仙先生やん!)

 

まさに、房仙先生は、「師匠」だったのだ。

 

◆共感か卒業か

 

腑に落ちたことは、まだある。別の記事では、こんなふうに例えられているのを見つけ、(おおーっ)と、声が出た。

 

先生は、自動車教習所の教官

師匠は、現役F1ドライバー(師匠自身も自分自身と闘っている)

 

先生と生徒は、卒業する関係

師匠と弟子は、共感する関係(師匠と弟子の関係には終わりがない)

 

(房仙先生やん!)

 

房仙会のすごいところは、房仙先生が、現役F1ドライバーでありながら、教習所の教官でもあることだ。

だから、勘違いをする人がいる。

 

公道を走りたい人は、教習所に行けばいい。

知識とプログラムで規定通りに教えてもらって、ハンコをもらって卒業すればいい。

 

私は、サーキットを走りたい。

そんなこと、これまでは思ったこともなかったけれど、房仙先生と、房仙会の仲間と出逢って、そう感じるようになった。

 

雪の揮毫(※)はすごかった。

 

卒業ではなく、終わりなく共感しつづけたい。

ずっと成長しつづけたい。

 

それが、師匠の歓びであるなら。

仲間と、わかちあえるなら。

 

浜田えみな

※ 雪の揮毫(2018/1/28 山形にて) → ★★★