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左側にお手本を置き、右側に書く。

左目でお手本を見て、右目で書く。

両輪が同じ方向を向いているように。

導いてくださる軌道に、進んでいくように。

 

◆両輪であること

◆スイミーのように

 

***


◆両輪であること

 

今年の八月、房仙会書道展懇親会で、保護者代表のかたから、先生と子どもの生徒と保護者の関係を、子どもが「車体」で、先生と保護者を「車の両輪」にたとえたスピーチを聴いた。

 

先生と子どもが同じ方向を向いているのに、保護者が反対の方向を向いたり、止まろうとしていては、車は動かない。両輪(先生と保護者)が共に同じ方向を向いていなくては、車体(子ども)は動くことができない、という内容だった。房仙先生が、いつもおっしゃっていることだそうだ。

 

普通の書道教室とはちがう「房仙イズム」にとまどい、ダメダメな保護者だったというそのかたが、どのように変わっていったか、子どもがどのように成長したかということを、入会した日のエピソードから、ユーモアたっぷりにお話してくださった。

 

房仙先生から、「子どもの生徒を教えるのをやめようと考えたことがある」ということは、お稽古のときに伺ったことがあったが、当の保護者の口から「親が自分勝手、わがままでやってられないと言われた」と聴くとは思わなかったので、驚いた。

 

そして、そのことを反省した、そのかたが、両輪が同じ方向を向くように心がけた結果、足枷が外れて動きだした子どもは、書道以外でも大きく躍進し、輝いていると、房仙先生への感謝あふれるスピーチをされていた。

 

〈指導者と保護者が、子どもの両輪であること〉

〈指導者と保護者が別の方向を向くと、子どもの前進を妨げること〉

 

走馬灯のようによぎる数々のことがある。
私もまた、ダメダメな保護者だった。

 

両輪のエピソードは、長男が小学校のときに所属していた、ドッジボールのオフィシャルチームでの、コーチ・監督と自分との在り方や、中学校の陸上クラブの顧問と自分との在り方や、進学校だった高校の各担任と自分との在り方を思い起こさせ、指導者との両輪になりきれなかった自分、そのことに気がつかなかった自分のおろかさに、気づかせてくれた。


ふりかえれば、長男が所属したどのコミュニティも、全国大会をめざし、全国優勝をねらうレベルの団体だった。

仲良しドッジのチームとはちがう。優勝を目指さないクラブとはちがう。全員が難関国立大学を目指さない高校とはちがう。


今年、春夏連覇を達成した大阪桐蔭高校の特集番組で、アナウンサーが、「全国優勝するチームは、全国一練習する」ということと、その練習光景を伝えていた。

 

房仙会もそうだ。全国優勝レベルの書道教室だ。

全国一練習する。全国一活動する。


〈親の常識をはるかに超えた奇跡が、指導者と両輪になることで、子どもの軌跡になる〉

 

そのことが、わからなかった。

子どもの片側の車輪になって一緒に進むことができる、貴重な時間を手放してしまったことも。


十年以上も前から、何度も繰り返していた愚かさに、気づかせてくれた房仙イズム。

 

お稽古の時間だけが学びではない。

活動を通じて関わる人たちすべてから、学びを受け取ることができる。

 

それ以来、何をするときも、両輪のイメージを持つくせがついた。

 

◆スイミーのように

 

房仙会を車体とすると、片方の車輪が房仙先生、片方が生徒

同じ方向を向いていなければ、房仙会は前に進まない。

 

ところが、先生は、あまりにも偉大だ。

先生が、サーキットを走るF1マシンのタイヤなのに、生徒が公道を走る軽自動車のタイヤでは、どこも走れず、前にも進めない。

 

では、生徒が全員、足並みそろえてF1レベルになれるのか? 

なりたいのか、なりたくないのか? 

なりたいけどなれない人は足枷なのか? 

 

……ということを考え出すと、そもそも、房仙先生と出逢ったことや、書道家としての素地もない私に、貴重なお時間を使ってご指導をしてくださっていること自体が、ありえないことのように思え、どうしたらいいのかが、わからなくなってしまう。

 

そんなときに、10月30日に房仙先生が投稿されたたブログ「房仙イズムを少しだけ覗いてみませんか」を読ませていただいた。

そして、先生が片方の車輪になって進ませようとしているのは、「房仙会という車」ではなく、「生徒という車」なのかもしれないと思った。

 

「生徒という車」を、ひとりひとりが輝く未来に向けて走らせる、その片側の車輪に、先生はなってくださっているのだ! と。

 

先生が片側の車輪であることを、常に感じさせてくれるのが「お手本」だとわかった。


左側にお手本を置き、右側に書く。

左目でお手本を見て、右目で書く。

両輪が同じ方向を向いているように。

導いてくださる軌道に、進んでいくように。


いっそう、「お手本」がかけがえのない宝物になる。
 

それとともに、これまで、房仙会は大きな船だというイメージがあり、生徒は助け合って船を動かすクルーだと感じていたけれど、一隻の大きな船ではなく、スイミーの物語のように、

〈生徒ひとりひとりの小さな船がたくさん集まって、大きな船を形作っている〉

というイメージが、浮かんできた。

 

先生が広島で揮毫された「一秒」と「命」のように、

〈今、今、今、毎瞬のすべてで、房仙イズムを意識することで、かたちづくられている大きな集合体〉

みんなの力、みんなの想い、ひとつひとつは小さくて、ささやかでも、F1マシンじゃなくて軽自動車でも、自転車でも、徒歩でも、それが、重なり、継続していくことで、大きな大きな力になる。

 

それが房仙会。

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そう思うと、気負わず、おちこまず、あきらめず、継続することで、自分の小さな思いも、房仙会をささえるウロコになって、みんないっしょに、大きな海を泳いでいけると感じて、

(やっていこう!)

と思うことができ、すっきりした。

 

小さな自分でも。

 

浜田えみな

 

福田房仙先生のブログ記事 → ★★★
『スイミー 小さなかしこいさかなの話』 作:レオ・レオニ 訳:谷川俊太郎