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書けたり、書けなかったり、わかったり、わからなくなったり、そういうことを繰り返しながら、進んでいく。

 

◆二けたなんてありえない

◆魂の添削

◆朱のお手本

◆おかげさまの心

◆返し縫い

 

***


◆二けたなんてありえない

 

いきなり自分で書けと言われているのでは、ない。

お手本を見て、お手本どおりに、書く。

 

書き方は教えていただける。

手を取って、筆の流れを感じさせていただける。

先生が書きながら説明をしてくださっている動画も配信されている。

紙の上では隠れて見えない線も動きも、ぜんぶ教えてくださっている。

 

わかるまで、何度だって見ていい。

ズームアップもスロー再生も思いのままだ。

隠し事は、何もない。

こんなに全部、丸見えにしてくださっているのに、なぜ、同じようにできないのだろう?

 

たとえば、お手本には、こめられていているが、自分の力量ではくみとれないもの、再現できないものがある、ということは、わかる。

先生だって、書けてたまるかと思っていらっしゃる。

 

でも、お手本をしっかり見て、角度や余白に注意をして、可能な限り形に近づくことは、できるはずではないのか。

同じ筆、同じ紙、同じ墨で書いてくださったお手本。

左に置いて、そのままそっくり、右に書くだけなのに。

 

書けない。できない。

悔しいを通りこして、情けない。

 

なぜ?

 

それが、「我」なんだと、不意に思う。

つかめない、その輪郭。

 

たしか、房仙先生は、

 

「一枚書いたら、お手本と、どこがちがうか、比べるんだよ」

 

とおっしゃっていた。

さっそく比べてみる。

 

横線どうしの間隔や角度、交わっている場所の比率や余白の形が、ちがう。

 

(何も気にせず、書いていた)

 

ちがうと思ったところに注意しながら、お手本に近づくように書いてみる。

書けたら、比べる。

 

やってみたら、わかった。

一枚書くたびに、ちがいを確認すると、常に修正する場所が見つかる。

当然、その一枚は清書候補ではなくなる。

 

清書候補に成り得るのは、新しく書く一枚だけ。

その一枚も、お手本と比べたとたん、すぐにボツになる。

 

(作品が、出来上がらない!)

 

練習とは、こういうことだったのだ、と、わかった。

いままで、私は何をやってきたのだろう?

 

たとえば、房仙先生からは、添削や清書を送るときの留意点として、提出作品に日付と書いた順番を、記入するようにと御指導されている。

恥ずかしながら、私は、二けたの数字を入れた記憶がある。

 

二けたの数字を書いたということは、つまり一度も見直しをせず、がむしゃらに書いて、積み上げた半紙が十数枚、ということだ。

なんという、紙と時間の浪費。

 

房仙先生は、

 

「書いた時のことを覚えていないとダメ」

 

ということも、よくおっしゃっている。

選ばれた作品を見たときに、それを書いたときのことが思い出せないようでは、その成果を次に活かすことができないから、もったいない、あるいは意味がない、ということだと思う。

 

でも、社中展作品ならともかく、毎月の提出作品を書いたときの記憶なんて、ほとんどなかった。

そもそも、二けたの半紙を積み上げている時点で、一枚ずつの記憶など、あるはずがない。

そういう書き方では、ダメだったのだとわかった。

 

なせなら、一枚ごとに、お手本と突き合わせ始めると、ちがいを修正するという、明確な目的があるので、どのように気をつけて書いたかが、ちゃんと記憶に残っている。

 

前回の添削で、

「これ以上書けないというところまで書いてたら送ってください」

と、房仙先生に御指導を受けたが、それは、こういう過程を含めてのことだったのかもしれない、と感じた。

 

かたちの上では直すところがない、という域まで達しているもの。

どこに気をつけて、どう書いたかを、しっかり記憶しているもの。

その中で、甲乙つけがたく、どれがいいか、選べないもの。

 

そういうレベルに達した作品に、通し番号をつけるのだと、悟った。

もちろん、そのような域には達したことがない。

 

かたちすら、同じに書けない。

 

いっそ、美術の時間にやった模写のように、方眼を使って確認してみようかとすら、思う。

見れば見るほど、答は目の前にあるのに。

どうして書けないのか。

 

(それが「我」です)

 

という声が、聴こえてくる。

 

◆魂の添削

 

添削が返ってきた。

なんと、真っ赤。

 

できないなりに、これまでよりは、かなりしっかりお手本を見て、角度やバランス、余白などに気をつけたつもりだったのに、房仙先生が朱墨で御指導してくださったのは、まったく気に留めていなかった箇所の角度やバランス、長さや強さだった。

 

間違えているとも思わず、間違えたまま、書き続けていた箇所。

それが、いくつもある。

 

房仙先生がフェイスブックのコメント欄で、

 

~ところが嘘をついているつもりなく生きている人も多い

その人達がやっかいだ~

 

と、書いていらした言葉が、聴こえてくる。

 

自分では全く気付かず、考え違いをしていたり、礼を欠いたりしていること。

指摘されて気がつくならまだしも、指摘されても気がつかないこと。

 

そのことを、戻ってきた真っ赤な添削を見て、実感した。

どれも、気づいていなかった点ばかり。

 

添削前の半紙に隠れていた、無自覚な傲慢さや、非常識さ、自己中心な点が、真っ赤な添削で浮き堀にされている。

 

半紙に、そのまま投影されている。

 

生身の人間に、朱墨を入れるように添削をしても、受け入れられる人ばかりではない。

 

でも、書道の添削は、見れば御指導の正しさが一目瞭然だ。


半紙の上に投影されたものを見つめ、人生の学びを考察し、受け入れるサイクルができると、御指導によって、磨かれていく実感が生まれる。

 

なぜなら、書いたものには、魂が宿っていると感じるから。

 

お手本というご自身の魂をなぞらせて、生徒の魂を、磨く。

 

そんな、唯一無二の御指導を、受けられる毎月のお稽古が、今、真に必要だとわかる。

 

房仙会を離れていった人は、気がついているだろうか。

向き合えないのは、房仙先生ではなく、自分自身の魂だということに。

 

◆朱のお手本

 

真っ赤な添削のほかに、真っ赤なお手本が入っていた。

これまでは、あまりじっくり見たことがなかった。

朱墨で書かれた五文字は、インパクトが大きすぎて、ちょっとひるんでしまうのだ。

 

でも、今回は、ちがった。

真っ赤な添削で直されている点を頭において、真っ赤なお手本を見ていると、文字が浮き上がってくることに気がついた。

 

黒い墨で書いたものよりも、筆の流れや、強弱がわかりやすい。

 

押さえているところと、軽くしているところがわかり、文字から、書いている速度さえも、立ち上ってくるような気がして、眺めていると、身体が弾んでくる。

 

裏をかえすと、押さえているところと、軽くしているところが、さらに明確になった。

 

濃度を薄くしてコピーをとると、まっ赤なお手本は、水墨画のような濃淡が出て、さらにくっきりと、筆の流れの緩急が感じられることが、わかった。

 

そこで初めて、これは、お手本ではないのだ、と思った。

 

(まるごと、添削)

 

今まで、二回ほど、添削の時に、朱墨で書かれたものが同封されていたことがある。

そのときは、わからなかった。

 

墨が手元になかったので、添削用の朱墨で、お手本を書いてくださったのだと思っていた。

朱墨のお手本は、目がチカチカして見にくいので、墨で書いてくれたほうがいいのに、などと思っていた。

 

(もったいない!!)

 

なぜ、先生が朱墨で書いてくださっていたのかが、わかっていなかった。

息づかいまで再現できそうなほどの〈まるごと添削〉の御指導を、まったく活かせていなかった。

 

(もったいない!!)

 

半年間、進級できなかったのは、当然だ。

 

真っ赤なお手本をいただいたことで、お手本の裏側を見ることを覚えた。

ものすごく、よくわかる。

それまでは、表側だけを、お手本と突き合わせて比べていたが、自分で書いたものの裏側を、お手本の裏側と比べることもやるようにした。

 

房仙先生は、

「ぶつかる」

という言い方をされる。

 

最初のころは、力いっぱい書けばいいのだろうか? と思っていたが、いろいろな文字のいろいろな個所で、先生がそうおっしゃるのを聴いていると、必ずしもそうではないことが感じられたが、では、どうしたらよいのか? ということがわからず、混乱した。

 

物理的に力をこめるというよりは、「氣」をこめるという感覚が近いのではないかと、今は思っている。

 

「氣」とか、「エネルギー」とか、「波動」というものは、房仙先生に手をとっていただいたときに、記憶しなければならないと受けとめているが、毎月のお稽古では、その状態まで、自分を高めることが難しい。

先生にお会いできるのは、月に一度だからだ。

 

社中展や、昇級・昇段試験の時に、格段に成長できるのは、コマ数が倍に増えたお稽古が二か月に渡るため、先生に手をとっていただくときの感度を高め、自分のキャパシティを、どんどん大きくできるからだと思う。

 

だとしたら、ふだんのお稽古でも、そうなれるよう、意識しよう。

 

◆おかげさまの心

 

過去最高にお手本を見て、表だけでなく裏まで見比べて、意識も高まり、留意もして、動画も何度も見て、書いた枚数も多いのに、十一月の課題に、成果は出せなかった。

 

本来は、書くほどに完成度が増すと思うのだが、一周回って振り切って、マイナスで終わってしまった、という感じ。

 

清書を書くにあたって、文字のかたちや、筆の流れ、緩急、エネルギーを注入するポイントなどは、動画や、添削の御指導で、かなり頭に入れた、と思う。

それなのに、いざ、清書を書こうとしたとたん、墨と筆に、悩まされた。

 

夜に書くので、暖房をつけはじめたこともあり、どんどん部屋の乾燥が進んで、みるみる墨の状態が変わり、筆が重く、動きにくくなっていく。

そこで、水を加えるのだが、この加減が難しく、信じがたいほど、にじむ!

前日までと、同じように書いているのに、ものすごく太くなる!

 

しかたがないので、墨を足す。筆でよくこねる。

すると、筆にどれだけの墨がふくまれているのか、わからなくなる。


少し放置していると、また、乾燥が進んで、墨が粘ついて重くなる!

水を加えると、にじむ!

 

というわけで、仕上げる気は満々なのに、墨と筆の機嫌がとれないまま、締切を迎えてしまう。

 

〈おかげさまの心を持て〉

 

ということだな、と思った。

 

自分の力だけでは、どうすることもできない多くのもの、見えない力に、私たちは支えられ、護られて、生きている。生かされている。

 

そのことに、感謝の気持ちを持つことを、決して忘れてはいけないのだと。

 

ものすごく練習したのに、一周回ってマイナスになった作品しか提出できなかったが、逆の場合もある。

自分の実力では、とても出せないような線を、墨と筆と紙は、出してくれる。

 

おかげさまの心。

 

◆返し縫い

 

ものすごく練習したのに、一周回ってマイナスになった作品しか提出できなかったおかげで、

 

「書けないときは、成長するときです」

 

と、おっしゃっていた房仙先生の言葉を、実感できた。

 

筆がうまく動かなくなり、確かに書けていた線が出せなくなって、苦労しているとき、お稽古で、房仙先生が、できない人はこういうふうに書いたらいい」と、御指導されていたことを、とつぜん思いだした。

やってみたところ、うそみたいに、ちゃんとできた。

 

普通に書けていたときは、なぜ、そういうやりかたをするのかが、よくわからず、やってもやらなくても同じではないのだろうか? などと、不遜なことを感じながら書いていたのだ。

 

(そうだったのかー。やったー。わかったー)

 

と思ったら、うれしくて、正座で書きながら、ぴょんぴょんはねた。

 

書けたり、書けなかったり、わかったり、わからなくなったり、そういうことを繰り返しながら、進んでいく。

 

一歩進んで、二歩戻ったら、返し縫いができる。

戻った分だけ、返し縫いで進めば、そこから、ほどけることはない。

 

目標への道は、返し縫い。

ゆっくり、しっかり。

 

浜田えみな