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目に見えないものを感じる力は、本能のようなものだと感じる。

本能は、今を生き抜く決断だから、〈今〉しかない。

 

〈今〉と、〈過去〉や〈未来〉をつなぐものが、表現することなのだと思う。

 

★魅せる

★波動

 

***

 

★魅せる

 

昇級・昇段試験作品を提出してから、初めてのお稽古だ。

あんなに集中して、あんなに書き切った、達成感と感謝とパッション。
失速しないうちに先生の御指導を受けたくて、お稽古の日が待ち遠しかった。

 

先生が、次の課題の筆使いを、どんなふうに教えてくださるのか。

手をとってくださる感覚に、意識をとぎすませたい。感じたい。

しっかり記憶して、練習したい。御指導を受けたい。書きたい。

 

ところが、房仙先生は、「波動」を感じる練習をするという。

 

「誰か、家で書いてきた人、いる?」

 

誰もいなかった。

 

「じゃあ、まだ、何も指導していないけど、今から2枚、すぐに書いて」

 

教室に困惑が広がっているのがわかる。

 

〈指導を受けないまま、2枚書く〉

 

指示されたのは、それだけだ。

しかし、生徒の行動は、さまざまだった。

 

私は、先生から言われて、すぐに書いた。

御指導を受けていないので、完成度は求められていないと思い、さっさと書いた。

うまく書けるわけがないし、清書用の紙ではもったいないと思い、練習用の紙に書いた。

 

すると、先に提出された作品を見ていた先生が、

 

「練習用の紙に書いている人がいる」

 

と、つぶやかれたので、思わず、

 

「先生、私も練習用の紙に書きました。直したほうがいいですか?」

 

と、席から叫んでしまった。先生の答えは、

 

「だめ。そのまま出しなさい。2枚書きなさいと言われたとき、みんなの前で見せる作品なら、いい紙に書こうという判断ができない時点でダメ」

 

「はい……」

 

私が提出したのは3人めだった。

書道に限らず、魅せることに無頓着で、プレゼンテーション能力のまるでない、ぬるい自分の姿勢を、思い知らされた気がした。

 

2枚書くだけなので、みんなも次々に提出するだろうと思っていたのに、誰も続かない。

ええっ? と思って、まわりをみまわすと、まだ書いている。

 

(そんなに、しっかり??)

 

またもや、なんの緊張感も持っていなかった自分の意識の低さを思い知らされた。

 

〈自分を魅せることに、もっと貪欲に〉

 

★波動

 

今月の波動を見る訓練は、同じ生徒が指導を受ける前に2枚書いたものをホワイトボードに貼って、どちらがよい波動かを判断するというものだった。

 

米子校で、書道のことは何もわからない入会当初の頃は、100%当たっていたのに、2年経つと、まったく当たらなくなった生徒がいると、房仙先生がおっしゃった。

 

「考えたら、ダメなんだよ。考えた時点で、波動は止まるからね」


「波動はね、軽いほうがいいの。あ、軽い! あかるい! だから、明るく見えるほう」


「先に書いたのは、どっち?」


「習っていないときは、一枚目のほうが、手本を集中して見ているので、よく書ける傾向がある」

「添削のときは、裏に日付と番号を書いておいて、書いた順番に並べる。めくるたびに、だんだん下手になるのは、ダメ。添削のときは仕方ないけど、清書のときは絶対ダメ。下手になった作品は外す」

 

「波動」と言われても、よくわからないけれど、明るく見えるほうはどちらかと訊かれれば、なんとなくわかるような気がする。

 

しかし、自分が書くときにとらわれているのは、筆使いや、形、バランス、緩急、渇筆、などだから、自分で清書作品を選定するときは、波動を感じるというより、部分的な仕上がりを見比べてしまっていると感じる。

 

考えた瞬間に、止まってしまうという波動。

 

(生きた波動を感じられたことが、果たして、あるだろうか?)

 

そんなことを思っていると、先日、フェイスブックのコメント欄に、波動について書かれた房仙先生の言葉を見つけた。

 

〈私は波動を書道で探求してきて、それを教えてきました〉

 

この言葉に、それまで感じていた「波動」の概念を、根本から覆された。

私は、〈書いたもの(書道作品)に波動が宿る〉と、思っていたのだ。

 

だとしたら、「書道を波動で探求した」と表現するのではないだろうか。

房仙先生は「波動を書道で探求した」と書いていらっしゃる。

 

最初にあるのが、「書道」ではなく、「波動」だと。

 

房仙先生が、生徒ひとりひとりのお手本を書けるというのは、こういうことなのだと、腑に落ちた。

 

〈生徒の波動を、書道で表現している〉

 

これまで、お手本は「魂」であるとか、「少し先の未来の自分」とか、そのときに受けとった言葉で書いてきた。

つまりは、「波動」だったのだ。

 

書道をすれば、見えないものが見えるようになると、房仙先生は、常々おっしゃっている。


見えない「波動」が、目に見える「墨跡」と「紙」の中に、生け捕りにされているのだと思った。

 

房仙先生の揮毫や、書の作品に感動するのは、その中に封じ込められた「波動」が息づいているからだ。

 

昇級・昇段試験のお稽古で、房仙先生が、

 

「それは、ただ、書いているだけ! エネルギー注入する!」

 

と、生徒に御指導されている声が、耳に飛び込んできて、直感で大事な言葉だと感じ、忘れないようにメモをしたことを思いだした。

今やっと、あの御指導の言葉の意味がわかった。

 

〈エネルギーを注入する〉というのは、〈波動を注入する〉ということ。

〈波動と繋がる〉
〈波動を書く〉

 

それが、表現するということだ。

 

目に見えないものを感じる力は、本能のようなものだと感じる。

本能は、今を生き抜く決断だから、〈今〉しかない。

 

〈今〉と、〈過去〉や〈未来〉をつなぐものが、表現することなのだと思う。

 

浜田えみな

 

つづきます。次は、12月大阪校(2)~夢を叶える力~