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お手本を見るときに、まっさらになるよう、イメージする。

自分の心を、まっさらに、まっしろに、近づけていく。

 

まっさらに。まっしろに。

 

お手本どおりに書けないと気づいたなら、なおさらのこと。

 

〈素直になること〉

  

◆お稽古の背景

◆お手本が同封されていたら

◆時機を考える

◆愛を受けとる

◆素直になること

◆書写と書道のちがい

 

***


◆お稽古の背景

 

房仙会では、年初のお稽古も、ふだんどおりだ。

前月に御指導いただいた、競書誌『白羊』の課題を、家で練習し、添削指導を受け、期日までに清書を提出し、次のお稽古の準備をする。

年初だからといって、書き初めの課題が出されることもなく、自主的に書いた作品を、生徒が持ち寄ることもない。

 

ただ、今回のお稽古にあたっては、ふだんとはちがう点があった。

 

通常は、添削作品が返送されるとき、20日以降であれば、競書誌『白羊』と、その中に掲載されている翌月の課題の参考手本のページ(房仙先生が書いてくださるお手本ではない)を、半紙の大きさに拡大コピーしたものが同封されている。

 

課題は、五文字~六文字の漢詩句なので、コピーを見て、その意味や背景を調べたり、文字のバランスや配置を、自分なりに調整したりする。

 

参考手本として掲載されている文字には、書家の癖など、伝統的な書道の法則から外れている場合があるので、そこに気がついたかどうか、違和感を感じたかどうかを、毎月のお稽古の前に、必ず、房仙先生から問われる。

わからなければ、解説をしてくださる。

 

そうして、書家の癖や、過度な芸術的表現は修正し、中心線や、文字のバランスを整えたものを土台として、房仙先生は、生徒ひとりひとりに「お手本」を書いてくださる。

これは、月に一度しかご指導を受けられない、東京、米子、大阪、米沢校の生徒の特権だという。

 

三島校の生徒は、毎週、お稽古が受けられるので、一週ごとに、御指導を受けながら研鑽を積み、最初からお手本がいただけるわけではないそうだ。

 

このように、三島校と地方校では、清書を仕上げるまでの環境はちがっているが、お手本の重みが、ちがっていてはいけない、と感じている。

 

地方校の生徒は、最初からお手本を書いていただけることが、あたりまえにならないよう、お手本の重さと、御指導に対する感謝の気持ちを忘れずにいること、そして、三島校の生徒が、毎週のお稽古の中で研鑽を重ねながら得ていくものを、月に一度の集中した御指導と添削指導の中で、どのようにして同等に獲得していくかを考慮しながら、与えられた環境の中で、最大限の学びを得ていくことが、求められていると思う。

 

◆お手本が同封されていたら

 

前置きが長くなったが、今回は、12月の添削指導の返送時に、いつものような参考手本のコピーではなく、房仙先生が書いてくださった「お手本」が同封されていた。

 

これは、どういうことなのか?

 

昇級・昇段試験を終え、ふだんの何倍も強化された特別練習で、生徒の集中力と波動が高まっているので、その流れに乗って、今後のお稽古が、バージョンアップするということだろうか?

 

さっそく、先生に、同封されていたお手本について、到着のお礼と共にメールで問い合わせをしたところ、

 

「書かないでいいの。眺めておいて」

 

とのことだった。

 

「たくさん書きなさい」と、御指導される生徒。

「書かない方がいい」と、御指導される生徒。


生徒ひとりひとり、御指導の言葉はちがっている。

 

私は、「書かない方がいい」生徒だ。自分で書くと、我流のくせが出てしまい、たくさん書いてしまうと、そのくせがとれなくなってしまうからだ。

 

お稽古のときは、たいてい、一枚書いたら見せて」と言われる。

 

ところが、生徒は十数名いるので、一枚書いても、先生は、順番に、ほかの生徒の指導をしている途中なので、待っているあいだに…… と思い、つい、続けて書いてしまう。

すると、もっとうまく書いてから見てもらおう! などと欲が出て、どんどん書いてしまう。

そして、夢中になって書いているところに、まわってきた先生から、

 

「なにやってるの! ぜんぜん、ちがう! 一枚書いたら見せてって言ったでしょう」

 

と御指導を受ける(汗)。

 

なので、〈書かないでいい〉と言われた場合、書かないほうがいい。

そう思ったので、書かなかった。

 

ところが、フェイスブックの投稿で、大阪校の二日前に実施されている米子校のお稽古の様子を読むと、生徒のみなさんは、家で書いた作品を持参していることがわかった。

最近のお稽古で、恒例となっている、作品の波動を感じる練習をしているようだった。

 

(やっぱり、書いたほうがいいのだろうか)

 

まだ、二日あるので、大阪校のお稽古までに書くことは可能。

だが、〈書かないでいい〉と言われている。

 

さて、どうするか。

 

どちらにも対応できるよう、書いて持参し、様子を見ようと思った。

 

出したほうがよさそうなら、出す。

出さないほうがよさそうなら、出さない。書いてきたことは封印する。

 

そう決めたのだが、時間の配分が悪く、ブログの投稿が仕上がらなくて、作品を書く時間がなくなり、持参できなかった。

 

教室に入って気がついたのは、机の上に、お手本がある人と、ない人がいることだった。


お手本がないとは、どういうことだろう?

 

◆時機を考える

 

「お手本、持ってない人、どのくらいいるの?」

 

房仙先生が尋ねると、何人かの生徒が手をあげた。

 

今回のお手本は、競書誌『白羊』が、先生の元に届く12月の20日ごろに、添削を受ける作品を提出していた生徒に、指導した作品の返送と合わせて、プレゼントとして同封したとおっしゃった。

 

それより早く提出した生徒は、まだ『白羊』が届いてないので同封されず、房仙会の仕事納め後や、年明けの「房仙会まつり」、米子校のお稽古に出発する直前に届いた添削には、お手本を書く時間がないので同封されず、前月お休みして、添削や清書を提出しなかった生徒についても、返信用の封筒がないので送付されていないことがわかった。

 

添削や清書を提出するには、時機を考えることが必要だと、先生はおっしゃった。

 

いつ出せばよいのか?
 

添削指導を受けとってから、清書を仕上げる時間が必要なので、その余裕を持って、提出しなければならないのだが、自分の都合だけで投函しても、先生が三島にいるときでなければ、見てもらえない。

 

また、百人近い生徒の添削指導をしているので、生徒が一斉に送ったら、すぐに見てもらえるかどうか、わからない。

あまり早く送りすぎても、次号の『白羊』を同封していただけない。

 

となると、順番待ちを考慮に入れても、先生のもとに、20日前後に到着するように送れば、よいのではないかと推測される。

そこに、お稽古や、イベントの日程を重ねあわせて、先生が三島にいる期間に届くよう、配慮して提出すればいいのだと思う。

 

そもそも、先生は、いつ三島にいるのだろう?

 

三島校、東京校、大阪校、米子校、米沢校のお稽古日以外にも、先生が参加するイベントや、出張業務が増えているので、事務局で「房仙カレンダー」とか、「動静表」のようなものを作成し、閲覧できるようにしてもらえないだろうかと、ずっと思っていた。

 

ところが、それは甘えた考えだった。

 

「私が、いつ、何をするかは、フェイスブックに、みんな書いている。フェイスブックを追っかけていたらわかる」

 

と、先生がおっしゃったからだ。

必要ならば、自分で「房仙カレンダー」を作りなさい、ということだ。

 

各校のお稽古日をフェイスブックで調べるか、それぞれのリーダーに確認して、ダイアリーに記入し、次に、食養道学院の講座や、イベントなどの情報を得るたびに、書きこんでいけばいいのだと思う。

 

そういうことがしたい人は、やればいい。

気にしない人は、そのままでいい。

 

「フェイスブックを見ないと、落ちこぼれるけど、そのままで何も感じない人は、それはそれで幸せ。居づらくなって辞めたくなる人は、辞めていい」

 

と、先生はおっしゃった。

 

「お稽古に来れない事情があっても、房仙会で書道を続けるという志があり、軸がしっかりしている人は、たとえ休みが続いたとしても、辞めることなく在籍している」

 

とも。


ちなみに、全員がお手本を持っていたら、すぐに御指導が始められる。

持っていない生徒がいたので、参考手本の修正とバランスの調整のレクチャーから始まった。

 

「それでよかったの」

 

と房仙先生はおっしゃった。持っていない生徒がいたので、その説明ができたと。

 

◆愛を受けとる

 

毎月、お稽古に出席しているのに、どんどん追い詰められるように苦しくなって辞めていく人。

たまにしか来ないのに、とっても清々しい表情の人。

 

明暗を分けるものが、房仙会で書道を続けるというる志の軸なら、私もしっかり、軸を持ちたいと思う。

 

なぜなら、房仙先生の御指導には、まったく分け隔てがないからだ。

毎月、お稽古に出席している人も、半年ぶりの人も、お稽古が始まれば、なんの違いもない。

 

お稽古がはじまるまでの冒頭のお話の中では、知らないことや、わからないことがあるかもしれない。でも、お稽古がはじまれば、そんなことはふっとんでしまう。

 

先生のお手本に向き合い、御指導を受け、とってくださる手から伝わる波動を感じ、集中して書く。

 

どの生徒にも惜しみなく、御指導が降り注ぐ。


その熱意が生徒に伝わる。だから、必死で受けとる。

 

「全員に愛を持っているのに、辞める人は、先生に嫌われているとか、先生が冷たくなったとか言う。それは、自分の心がそう感じているだけ。

何かを人のせいにしない。自分のこととして対処する」

 

心は、とても弱くてずるくて、自分を守るために、いろんな言い訳を用意する。

お手本に向き合えないときは、自分の心が言い訳をしているのだと、気づくことができる。

 

愛を受けとりにいこう。

 
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(神佐 真由美さんが撮影した写真をトリミング)

◆素直になること

 

二日目のお稽古の前に、教壇にいる先生から、出席した生徒にメッセージが送信された。

 

〈なぜ、生徒がお手本を見ても、そのとおりに書けないのか〉

 

房仙先生には、くっきりと視えているが、生徒には全く視えていないことを、脳のメカニズムを使って、わかりやすくひも解いてくださった文章だった。

その解説は、先生がテキストに使用するとおっしゃっていたので、転載することは控えるが、概要を書こうと思う。

 

ずっと、不思議でたまらなかった。

左に置いたお手本のとおり、右の半紙に書くだけなのに、どうして書けないのか。

 

縦線と横線の交わる比率や、斜めの線の角度、線の太細、余白のバランス、すべて丸見えに見せていただいているのに、まったく書けない。

 

渇筆や、とめやはらいの美しさが出せないのは技量の差としても、せめて、形くらいは似せたい。

集中して見ているつもりなのに、まったくできていない。

 

そのことに、書き終わるまで気がつかない。

終わってから、ひとつひとつ、角度やバランスを比べはじめて、あまりのちがいに、びっくりする。でも、何枚書いても、どこかがちがう。

とても、添削に提出することなどできない産物ばかりが、増えていくのだ。

 

それがなぜかということが、先生のメッセージに解説されていた。

私なりの理解は、次のとおりだ。

 

お手本を見ているつもりでも、脳の記憶をまっさらにすることができず、いろんなフィルターがかかったまま、お手本とは異なるものが、イメージとして、脳にインプットされている。

 

この時点で、既にお手本とは別物なので、それをアウトプットしても、お手本どおりにはならない。

 

さらに、自分が今までに身につけた癖や筆法の思いこみが強すぎるので、先生が手をとってくださるときの、微細な感覚を、脳が記憶できない。

 

つまり、インプットするときに歪み、アウトプットするときに曲げられているので、お手本が、半紙の上に正しく再現されないのは当然。

 

ということだと思った。

 

では、どうすればよいのだろう?

 

どんなフィルターがかけられているのか、どんな癖が自分にあるのかを考えていても、しかたがない。

 

まして、フィルターや癖とされるものは、個性であり、魅力かもしれないと、房仙先生は、おっしゃっている。

 

ただ、書道の上達のためには、取り去ることが必要だ〉と、先生は説いてくださったのだ。

 

どうすれば、取り去ることができるのだろう?

 

〈素直になること〉

 

先生は、そう教えてくださった。

 

言葉でわかったつもりになっても、できるものではないと思う。

でも、イメージすることが大切だと、感じる。

 

お手本を見るときに、まっさらになるよう、イメージする。

自分の心を、まっさらに、まっしろに、近づけていく。

 

まっさらに。まっしろに。

 

お手本どおりに書けないと気づいたなら、なおさらのこと。

 

〈素直になること〉

 

◆書写と書道のちがい

 

書いた作品を前方のホワイトボードに貼って、どれがよい波動を発しているかを感じとる訓練をしていると、房仙先生が突然、

 

「あーーーっ いい例が出てきた!」

 

と嬉しそうにおっしゃった。

そして、二枚の作品を並べて掲示した。書いた人は別々だ。

 

「みんな、書写と書道の違い、わかる?」

 

「書写」というのは、「お習字」のことだそうだ。

房仙先生は、右の作品の横に「お習字」と書き、その下に「おさない」と書いた。

左の作品の横には、「書道」と書いた。

 

教育の原点である「書写」は、きれいな字。上手と言われる字。

きれいすぎるものを、ぶち壊そう! と、先生はおっしゃった。

「書道」は、味のある字。上手いと言われる字。波動が伝わってくる字だそうだ。

 

どちらが好きかは好みの問題もあるとおっしゃった上で、

 

「大人は〈書道〉を目指しましょう」

 

と、房仙先生は微笑んだ。

なぜなら、「書道」とは「内面の問題」だからだと。

 

二枚の作品を見ながら、感じたこと。

「書道」とされる作品は、仙人が書いたような文字だ。

太細があり、渇筆があり、エネルギーに満ちた、いぶし銀のような趣がある。

 

「書写」とされる作品は、吏員が書いたような文字だ。

流暢な美しい線。乱れがなく、安定感があり、枠をはみださない慎ましさがある。

 

〈内面の問題〉という、先生の言葉が心に響いている。

〈ぶち壊そう〉という言葉も。

 

8月の鳩居堂での社中展に向けて、

 

〈芸術性を備えた書道が求められる。自分の色を出していく〉

 

と、光孝先生が熱く語ってくださった。

 

内面を磨いて、ぶち壊そう。

 

そういえば、房仙先生の年初のご挨拶は、仏智抜く〉だった。

 

ぶっちぎり。

ぶっち抜く。

ぶっち壊す。

 

見たことのない自分へと、房仙書道が導いてくれる。

 

浜田えみな