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(撮影 岡田 理津子さん)

 

「文字」は「線」と「点」でできている。

「文字」を読んでいる限り、「線」と「点」しか見えないのだと思った。

 

「形」として観たときに、何が見えるだろう?

 

〈余白?〉

〈ほかにも、何か?〉

 

見えなかったものに、会いに行こう。

 

◆読んだらダメ

◆見えないものが見えてくる

◆眺めておいて

◆ひらがなに還ること

◆先生のお言葉

 

***


◆読んだらダメ

 

「写真を撮るみたいにページを記憶するの!」

 

という房仙先生の言葉を読んで、(もしかしたら……)と感じていたことが、(きっとそうだ)に変わった。

 

〈形〉を網膜に焼き付けるのだ。

〈読まないこと〉

 

どこかで、似たようなことを聴いたことがある、と思った。

印刷原稿の校正だ。

「読まずに、一字一字、確認すること」と教えられた。

 

なぜなら、読んでしまうと、少しくらい字が抜けたり、順番が入れ替わっていても、脳が持っている単語の知識や文脈から、脳が予測認識してしまうからだ。

 

原稿との違いを、スルーしてしまう。

 

お手本を、文字として読んでしまうと、これと同じことが起こるのだと思った。

お手本が表現しているものを見ずに、自分のイメージで書いてしまう。

 

〈文字〉に関して、脳はとても、おおらかなのだ。


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たとえば、○△□を紙に書き、「同じ形ですか?」と質問したとき、「はい」と答える人はいないと思う。


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 でも、○△□の枠いっぱいに同じ文字を書き、「同じ字ですか? なんと読みますか?」と質問すると、ほとんどの人が「はい」と答え、それがどんな形であっても、読めると思う。読もうとする力が働く。

 

〈形〉として認識すると、○△□は明らかに違うのに、〈文字〉として認識すると、形の違いに対する意識が消えている。

 

しっかり見て書いているつもりなのに、お手本どおり書けない理由。

それは、お手本を、〈形〉ではなく〈文字〉として捉えているからではないかと、感じた。

だから、ぬるい。ゆるい。あまい。

そういえば、私は〈見る〉ではなく〈読んで〉いることに気がつく。


小さなころから、本が読むことが好きで、文章を書くことが好きで、そればかりやってきた私にとって、「あ」は、「あ」という形ではなく、「あ」という文字だ。

46文字すべてが、そう。

 

全部、読んでいた!

 

ひらがな講座のあいだ、私はずっと、お手本を「文字」として読み、捉えていたのだと思う。

お手本の「形を見る」のではなく、「文字を読んで」しまっている。

 

すなわち、○△□の形に書かれていても、その違いを見ることなく、すべてが同じ文字だと認識してしまう、アバウトでファジーな脳〉が優位になっていた。

 

すると、自分の中にある、すでに「文字」としてしみついた字形の感覚が、無意識に呼び出されてしまう。

 

〈お手本の素晴らしさに対する意識が、上書きされ、消えてしまう〉

 

お手本を見ながら書いているのに、自分の癖が出てしまうというのは、そういうことなのだと思う。

 

また、「文字」として認識すると、線にばかり注意が向き、線を書いている〉という意識が強い。

「形」として認識すると、線は余白の輪郭〉となり、浮かび上がってくる世界が違ってくると感じる。

 

〈「文字」ではなく「形」として捉える〉

 

そうすると、見えないものが見えてくる。

 

◆見えないものが見えてくる

 

「書道をすると、見えないものが見えるようになります」と、房仙先生は、よくおっしゃっている。

 

御指導を受けるうちに気がついたのは、お手本の中に折りたたまれた筆の動きだった。

一本の線、一つの点の中の、始筆、送筆、収筆の筆の動きは、房仙先生のお言葉を借りると「自然そのもの」だそうだが、初心者の私にとっては、魔法のような筆の動きは、驚きと感動の連続だった。

 

そして、ひらがな講座を受講して、さらに見えていなかった世界があることを知った。

 

ひとつの文字を、

 

〈文字〉として読むとき。

〈形〉として観るとき。

 

脳に記憶されるイメージと、再現しようとするイメージには、どんな変化が現れるのか。

 

〈これから、実践し、体験していく〉

 

行書を1年9ケ月書いてきて、気がつけずにいた。

お手本を見ているつもりなのに、お手本どおりにならないのは、注意力と技術力が足りないからだと思っていた。

 

まさか、カメラのレンズを〈文字を読む用〉から〈形を見る用〉に、変えなければいけなかったとは

 

ひらがなだったから、わかったのだと思う。

 

一筆の線だけなのに、どうしてできないのか?

筆ではなく、4Bの鉛筆なのに、どうしてできないのか?

講座の時間に打ちのめされ、自宅練習をしても、まだ書けない現実。

 

〈四の五の考えるのではなく、まるごと記憶するしかないのではないか?〉

 

と思いはじめたときに、三島校の菊地香奈子さんが、フェイスブックで投稿されていた、古典臨書のお稽古の様子の記事が、タイムラインに飛びこんできた。

 

「写真を撮るみたいにページを記憶するの!」

 

という先生のお言葉。

そのお言葉で、気がつくことができた。

 

それ以前に、私が抱いていた

 

〈まっしろに まっさらに〉

 

というイメージは、間違ってはいなかったと思う。

でも、

 

〈脳が持つ「文字」の記憶やイメージをすべて消去して、お手本を「形」として記憶する〉

 

ということに至っていなかった。

 

「文字」は「線」と「点」でできている。

「文字」を読んでいる限り、「線」と「点」しか見えないのだと思った。

 

「形」として観たときに、何が見えるだろう?

 

〈余白?〉

〈ほかにも、何か?〉

 

見えなかったものに、会いに行こう。

 

◆眺めておいて

 

昨年の12月に、1月の課題のお手本が同封されていたときに、どのように準備したらいいかを、房仙先生にお尋ねしたときに、返ってきた言葉は、

 

「書かなくていいの。眺めておいて」

 

だった。

 

〈眺めておいて〉

 

という指示について、私は、まったく見当違いのことをしていた。
お手本を、〈形として眺めた〉のではなく、〈文字として読んで〉いたのだ。

 

先生がおっしゃったのは、

 

〈形を網膜にしっかり焼き付けて、筆使いを指導したら、すぐに書けるように準備しておきなさい〉

 

ということだったのではないかと、今、思う。

 

では、上記の言葉で、先生が指示してくれたら、果たしてできたか? というと、たぶんダメだっただろう。

やはり、私は、形を見ているつもりで、文字を読んでいたと思う。

 

なぜなら、小さいころから、読書が好きで、息をするのと同じくらい、頭の中に言葉が生まれていて、日記や詩や作文や手紙やメモとして、書き残してきた私にとって、「文字」を「形」として認識したことは、なかったと感じるからだ。

 

今思えば、「文字」を「形」として捉えるための訓練が、小学校での「書写」の時間だったのかもしれないが、そのころから、すでに本が大好きだった私は、授業の真意が全くわからず、好き勝手に、お手本とは似て非なる文字を、書写のノートに書いていたと思う。

 

それでも、私より字の下手な子どもはいっぱいいたので、先生に、「お手本を見てきちんと書きなさい」などと、言われた記憶がない。どちらかと言えば、ほめられていた。

その結果が、今なのだから、小学校の教育課程を、きちんと修得していなかった代償は大きい。

ほかにも、こんなことが、たくさんあると思うと、傲慢に生きてはいけないと自省する。

無意識に行われていることは、本能や、生まれもつ能力のほかに、小さいころからの体験によって、運動神経や感覚神経の回路ができ、必要なときに脳が判断して、自動的に回路を切り替えるのだと思うが、あまりにも文章が好きだった私は、文字をかたちとして観る回路が、退化したのだろうと想像する。


房仙先生や、書道の才能がある人は、こんなややこしいことを考えなくても、無意識にできているのだと思う。

逆に、脳が、文字を文字として認識する力が弱いと、読書が苦手だと感じる人もいるかもしれない。

 

ともかく、書道の上達のためには、文字を「文字」ではなく「形」として認識する回路が、必要なのではないかと、推測を立てた。

行書のお稽古では、気がつけなかった。 


◆ひらがなに還ること

 

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(撮影 古谷 翠仙さん)

気がついたのは、お手本が

 

〈ひらがな〉

 

だったからだ。

 

行書の課題が書けないことの要因は、たくさんある。

筆と墨を使うので、技術的な問題にばかり意識が向いていた。

 

ところが、房仙流46文字ひらがな講座」で使うのは、鉛筆だ。

書く文字も、小学一年生で習う「ひらがな」だ。

誤解を恐れず言えば、お手本を見れば、すぐに書けると思っていた。

 

なのに、書けない。

 

鉛筆の線が、お手本どおりにならないなんて。しかも、ひらがななのに!

どういうことだろう? と、パニックになった。

 

〈何か根本的な別の要因があり、それを解決しなければ先に進めない〉

 

と、本気になった。

 

文字認識が強く、お手本を形として捉えられない、私のようなタイプの人にも、もっとほかの問題がある人にも、

シンプルだからこそ、〈見えないもの〉に気づかせてくれる「房仙流46文字ひらがな講座」。

 

ひらがなに還ることは、基礎に還ること。

基礎が崩れていては、その上に何も築けない。

 

だから、今、房仙先生が封印を解いてくださったのだと思う。

 

生徒ひとりひとりが、基礎に還るために。

 
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(撮影 向井 美貴さん)

自分の言葉で、疑問を持ち、本気で答を求めようとすれば、フェイスブックの投稿で発信される記事も、過去にいただいたお言葉も、すべてがつながっている。


そのことが、体験できる。

 

答だと思ったことが、そうではなく、結果に結びつかないこともあるかもしれない。

でも、道は続いている。

導いてくれる師と、仲間がいる。
そのことを信じられなくて、何を信じるのだろう。

 

文字を文字ではなく、形として、記憶すること。

その形を、紙の上に再現するために、手を動かすこと。

今まで、無意識に動いていた回路を閉じて、新しい回路を作ること。


そんなことができるのかどうか、やったことがないからわからない。

そもそも、そんな回路があるのかどうかも、わからない。

 

でも、ひらがなだから、結果がすぐ目に見える。

できなかったら、試行錯誤すればいい。

 

ひらがなが、お手本どおり書けなくて、毎月の漢字や、ましてや臨書ができるわけがない。

だから、今。

 

見えないものを見る眼を養う。

これまで、見ていなかった世界に飛びこむ。

自分を作ってきた基礎を見直していく。
 

そのための、ひらがなだと感じる。

 

◆先生のお言葉

 

お手本どおりに書けない原因が、

 

〈お手本をどんな視点で捉えているか? という脳の動き〉

 

に関係があるのではないかと気づくことができたのは、二日目のお稽古の冒頭で、房仙先生が伝えてくださったお言葉のおかげだ。

 

その言葉が、ずっと振動していて、音叉のような働きで、次々に共鳴するものを引き寄せたのだと感じる。

 

先生から、全文を掲載してもよいと許可をいただいたので、下記に記します。

読むほどに、これからのお稽古につながる、深いお言葉だと感じます。

書道のみならず、人生における全てのことにも。

 

***

 

お手本を見ても書けない。

それは自分の持っている潜在意識(あるとすると)それを削除しないといけないと思うのです。

 

手本を見る、文字を見るという行動は最初はどこでするか?

脳なんです。

自分の過去のイメージがダブルのです。 そこを捨てないとならないのが最初の訓練です。

 

全て自分の脳が感じたことを、手本とダブらせ新たなイメージとして書いていきます。

運動神経に由来すると考えてきました。 咄嗟の判断力もそうですが。

運動神経の働きで筆を持ち書くという行動ができないところからのお稽古が始まるのです。

 

脳の癖を先ず取り去ることから始めましょう。

人は知らぬ間に癖を身につけます。 それが個性かもしれませんが。

書道では、その癖が元のイメージを消さず 上達しないことにつながります。

だったら消しましょう。

 

それには素直になることが大切だとわかるでしょう。

 

***

 

福田房仙先生 ありがとうございます。

 

浜田えみな