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(撮影 福田光孝先生)
 

視覚ではなく、聴覚ではなく、もっと体感に近い感覚。

作品が語りかける世界を、からだの中心で深く味わう感覚。

作品が生まれでる過程に、静かに包まれている感覚。

 

作品には、そのときの心の有りようが、転写されている。

だから、数千年を経ても、その波動に巻き込まれ、なだれこんでくる感覚に、感銘を受けるのだと感じている。

 

◆常に進化

◆作品をきく

 

***

 

◆常に進化

 

房仙先生のお稽古に、同じパターンはない。毎回ちがう。


たとえば、2月の冒頭では、私が出席した.2年間のお稽古では、一度もやったことのない「古典の臨書」に全員が挑戦した。

競書誌に掲載されている王鐸の「山呑呉楚猶新燕。寺趁」の中から「新」を書いてみようということになった

 

「さあ、みんな、一枚書いて」と言われ、書き始めたものの、書き順すらわからない。


「左目でお手本を見て、右目で半紙をとらえ、同じように書いていくのよ」
と言われても、動かしている筆は、お手本と同じ比率で、半紙の上に展開できず、バランスもめちゃくちゃ。

 

臨書
(2月のお稽古) 

毎月、いかにお手本を見て書いていないか、書く訓練をしてこなかったかが、誰に言われなくても、自分ではっきりわかる。

読み方すらわからず、字とも思えない古典の文字を臨書することは、お手本を見ていなくても、脳の記憶で漢字を書いてしまい、そのことに気がつかない行書の課題とちがって、左目と右目を使って〈しっかり見て書く〉訓練になると思った。

 

では、しばらくは、お稽古が始まる前に、一文字の臨書をすることが定番になったか? というと、そういうわけでもない。

 

なお、先月からは、お稽古の前に課題のお手本を受け取り、家で書いて持ってくるようになった。

 

生徒が書いてきた作品数点をホワイドボードに掲示し、どれが一番よい波動を放っているかを感じて、選ぶ練習をしたり、できていないところ、わかっていないところを先生が見て、御指導の方法を、ひらめかれたりする。

 

2日目のお稽古では、生徒が書いてきた中から、一番よいものを先生が選び、ひとり一枚ずつ、ホワイドボードに掲示した作品によって、公開添削が行われた。

 

BlogPaint

 

多くの生徒の作品の対比によって、御指導が受けられるので、とてもわかりやすかった。

 

そして、てのひらで筆の動きを大きく再現することによって、筆の面の使い方を確認するレクチャー。


舞のように優雅な動きで、指さきまで美しく表現する生徒や、手首が固いために、ぎくしゃくしていて、間違ってはいないのに、なぜかおかしく見えてしまう生徒など、教室は笑いに包まれた。

 

(くるりん、くるりん)

 

BlogPaint

(撮影 古谷 翠仙さん)
 

あやふやだった点が明確になり、スムーズにてのひらを動かせるようになることで、面の使い方がしっかりと記憶でき、筆をうまく使えるようになることを実感した。

 

今回は、曲がり角の部分だけだったが、点画すべての筆の動きを、てのひらでレクチャーしていただけたらと思う。自分でやってみると、けっこうあいまいなところがあり、それが、作品にエネルギーを注入できない箇所だとわかったからだ。
 

◆作品をきく

 

添削や清書作品を、先生に提出するときには、裏面の左隅に日付と書いた順番を記入するよう、以前から言われている。

 

提出した作品が返送されてくると、どれが選ばれたかを、裏の数字で確認する。

最後に書いた作品が選ばれていれば嬉しいが、添削のときに選ばれていた作品を超えられないこともあり、そのときは、とてもがっかりする。

 

自分のパターンを知ることが大切だと、先生はおっしゃっている。

 

たくさん書いたほうがよくなる傾向なのか、たくさん書くとダメになるので、最初の一枚を集中して書いたほうがいい傾向なのか。

朝書くほうがいいのか、夜のほうがいいのか。

教室で書くほうがいいのか、家で書くほうがいいのか。

 

そういうことを教えていただいているときに、先生が、ポロリとおっしゃった言葉が、心に残っている。

 

大きな展覧会などに向けた作品づくりをしているときは、日付とともに、そのときの状況を小さくメモしていたとおっしゃったのだ。

 

たとえば、天気とか。たとえば、そのときの心情とか。

どういうときに、その作品が生まれたか、のちにヒントとなるようなことを。

 

その話を聴いたとき、書が、情景や心象を封じ込めたフィルムのように思えた。

フィルムを映写機にかけるように、作品が生まれ出る景色がまわりはじめ、心にとどく感覚がひらいたように感じた。

 

視覚ではなく、聴覚ではなく、もっと体感に近い感覚。

作品が語りかける世界を、からだの中心で深く味わう感覚。

作品が生まれでる過程に、静かに包まれている感覚。

 

房仙会で書道を学びはじめ、大切なのは、清書作品ではなく、それを書くまでの過程や、書いているときの心の有りようだと思うようになった。

 

作品には、そのときの心の有りようが、転写されている。

だから、数千年を経ても、その波動に巻き込まれ、なだれこんでくる感覚に、感銘を受けるのだと感じている。

 

毎月のお稽古も、清書ではなく、それを書くまでの過程が大事なのだと、気づいていなければもったいない、と思う。

 

お手本を見て、初めて書いた一枚のおぼつかない感覚を経て、お稽古の場で師に手を取っていただき、御指導を受け、仲間たちの声を聴きながら、教室というエネルギーの渦巻く場で書く感覚。

 

次に、自宅で書く感覚。

職場や家庭で、日々揺れ動く感情の中、気持ちを整え、半紙に向き合う時間を持つ。

書こうとしても、教室で書いていたようには書けず、ぐるぐると思考ばかりが働いて、思うように筆が動かず、素直になれない感覚。

 

添削指導の朱墨から、見えていなかったものに気づく感覚。

 

『白羊』の結果に一喜一憂し、仲間の昇級・昇段に心が動くことも。

喜びだけでなく、複雑な感情に揺れることも。

再び、半紙に向き合い。清書を仕上げていくことも。

 

その結果、満足のいく作品が書けたとしても、書けなかったとしても、最初の一枚から最後の一枚までの、毎月の心の有りようが、学びであり道。

 

書道がすごいのは、その全てが目に見え、残っているという奇跡だ。

それを、どう使っていくのか。

 

房仙先生は、いつも、

 

「書いたときのことを覚えている? いい作品が書けても、それを書いたときのことを記憶していなきゃ、なんにもならないんだよ」

 

とおっしゃっている。

 

記憶していなければ、再現できない。

どんなふうに、感情の揺れを克服し、乱れた気持ちを整え、素直になって、無になって、その線が生まれたか。

 

その過程を記憶して、意図的にその環境を作り出せるようにならなければ、書道にも、人生にも、応用できない。

 

今年の年頭に、世阿弥の「三つの初心」のことを書いたのは、お稽古で、房仙先生がおっしゃっているのは、このことだと思ったからだ。

お手本は、そのときどきの「初心」に向き合わせてくれるもの。

踏みはずしてはいけない道を照らすもの。

今、必要なものにつながることができるもの。


社中展作品のお手本が、もうすぐ届きます。

浜田えみな