4月2

(撮影 福田光孝先生)

社中展作品は、高い山。見たことも、想像したこともない輝き。

先生が、生徒ひとりひとりのために用意してくださるお手本は、しだいに高度をあげて、頂上を目指す。

 

今はまだ、先生にしか見えていない山。

その全貌が見えるまで、練習あるのみ。

 

◆記憶の引出しとインデックス

◆手をとっていただきたい

◆固定観念をはずす

◆師匠の見ている山

 

***


◆記憶の引出し

 

〈書道は記憶力〉

 

手をとっていただいて書くときに、何をどう記憶するか。

 

「見るところはいっぱいある」

 

と、先生はおっしゃっている。

 

何を見ているかで、熟達度がわかると感じたことがある。

昨年の社中展作品に向けてのお稽古で、上級の生徒の作品の揮毫をした先生が、書き終えるやいなや、

 

「軸を見てた?」

 

と、お尋ねになったのだ。

私は筆の先にばかり気をとられ、軸がどのように動いていたかなど、視界にも入っていなかった。

でも、そのかたは、「軸しか見てなかったです」と答えていらした。

 

(レベル高すぎ!)

 

初めてお稽古で手をとっていただくときに私が見ているのは、まだ、筆の穂先だ。

筆のどこを使って書いているか。

どんなふうに筆が動くのか。

見えにくい部分や、線が重なっている部分。

始筆は逆筆なのか。順筆なのか。

終筆はどのように始末をするのか。

速度の変化。緩急のリズム。

 

気になるところがありすぎて、目ばかりひらいて、記憶しようと必死になるけれど、いつも何も記憶できないまま終わってしまい、からまわりしているだけで、どこにも手が届いていない気持ちになる。

 

せっかく手をとってくださっているのに、その感覚を覚える準備ができていない。

受けとる器が小さすぎて、先生の御指導を、とりこぼしている。

無力感と焦りが渦巻いている。

 

(目で見たとおりの記憶しかできないなら、録画と同じ)

(録画のほうが、ずっと性能がいい。画面いっぱいに拡大もできるし、スロー再生もできる)

(手をとっていただいているこの時、記憶すべきことはなんなのか?)

 

録画では、ぜったいにわからないもの。その感覚。

その記憶。

 

私は、感覚による記憶が苦手なので、ふだんは、先生に手をとっていただくことに、びびっている。

 

どうやったら、感覚というものを、忘れないように記憶して、必要なときに取りだせるようにできるのかが、わからないからだ。

経験したことがないことは、つい、後ろ向きになってしまう。

 

言葉によって記憶すること。

言葉によるインデックスで記憶の引出しから取りだすこと。

 

その方法に慣れているせいか、どんなことも、まず言葉に変換する癖がついている。

だから、房仙先生が手をとってくださる感覚も、無意識のうちに、言葉による表現に変えようとしているのだと思う。

 

そんなことをしなくても、感覚で受け取ったまま、自分の筆で再現すればいいし、そうできれば楽だと思うのだが、私は、〈言葉というインデックスを記憶に紐づけたい〉という衝動が抑えられず、その作業を脳内で同時進行させてしまうため、キャリーオーバーになっている。

 

だから、先生が手をとってくださるときに、言葉を添えてくださると、先生の言葉で記憶ができるので、すごく楽だ。

なので、初めて手をとってくださるときは、言葉を添えて説明してくださるとわかりやすいと、先生にお伝えしたことがある。

 

先生は、話をすると横隔膜が動くので、きちんとした字は書けないことを、あらかじめことわった上で、生徒の理解のために、説明しながら書いてくださる。

お稽古が進むと、だまったまま、手をとってくださる。

 

◆手をとっていただきたい

 

そんな、めんどうくさい私が、先生が手をとってくださるのを待ち望む気持ちになることがある。

 

社中展や昇級昇段試験の仕上げの時だ。

 

そのときの、嬉々としてスタンバイしている感じは、水を吸収すると、10倍ほどに膨らむスポンジペーパーのようだと思う。

水が落ちたら、たとえ、ひとしずくでも、みるみるふくらんでいく。

その速度を感じることができるくらい、待ち望んでいるのだ。

 

受けとることに、とぎすまされている。

手をとってほしくて、たまらなくなる。

 

毎月の課題でも、清書を書くころになると、そんな気持ちになる。

 

教室で御指導を受け、家で繰り返し動画を確認し、お手本を見ながら練習を重ね、添削を受け、御指導していただいた点に留意しながら、清書を書くという段階になって、ようやく、

 

(先生に手をとっていただきたい)

 

と切に思う。

 

録画でも、添削でもわからないものが、はっきりするからだ。

 

半紙という舞台の上の、書という軌跡における見えない筆の使い方、スピードやリズム、筆の圧、墨と紙の均衡のようなもの。

その線を出すための、絶妙のバランス。

 

感じとりたい。

 

だけど、先生に手をとっていただくことができないので、わからないままにしか書けない。

 

すなわち、

〈わかっている〉と思ったところは(実際にはわかっていないので)、どんどん〈力強い我流〉になるし、〈わからない〉と思ったところは、ますます〈自信のない我流〉になっていく。

 

お手本をしっかり見ているつもりでも、どこかが違い、何枚書いても、何かが違い、だけど、締切前のそのころには、素の気持ちをとりもどすことができなくなっていて、〈力強い我流〉と〈自信のない我流〉が交錯した作品を、タイムリミットで投函することになる。

 

それを打破するには、さらに指導を受けるしかない!

 

そのことを実践する機会が、4月のお稽古だったのではないかと思う。

 

◆固定観念を外す

 

課題の五文字を目にしたとたん、(書いたことがある!)と思った。

調べてみると、昨年の5月に御指導を受けた作品だった。まだ一年も経過していない。

お稽古のときの動画もあるし、添削も残っている。

 

当時のお手本、添削していただいた作品、清書で返送された作品などは、ファイルに保管してあるので、さっそく取り出してみた。

 

(…………)

(げげ)

 

こんな作品を清書として出したのかという衝撃。

(信じられない)というのが、第一声だった。

 

どんなふうに書いたら、こんなふうになるのか、教えてほしいくらいだと思った。

今の私が見てわかる範囲でさえ、基本的なことができていないと感じる。

 

もう一度、このようなへんな字を書けと言われても書けないかもしれないが、どうしてこのような線になったのかを、推察することはできた。

 

光孝先生が、お稽古のときにまわってこられて、書いた作品を直してくださるとき、しばらく〈無言の間〉があるのだが、(あれは、こういう感覚なのか!)と思った。

 

私は書道をはじめてから、自分の書を上手いと思ったことも、できた! と思ったこともなく、しんどくて苦しい記憶のほうが多いのだが、その私でさえ、

 

(今の自分は、この時よりはうまくなっている)

 

と思えた。

 

落款を押印したものが四枚あったので、清書として送った後、返送されてきたものだとわかるが、清書作品のレベルとは言えないような作品だった。

 

(ほんとうに、これを清書として提出したのだろうか?)

(そもそも、練習をしたのだろうか?)

 

この中から清書を選べと言われても選びようがないと、私の目でも感じるのだから、房仙先生は、さぞがっかりされながら、提出作品を選んでくださったのだろうと想像できた。

 

このとき、私は五級で、半年ほど昇級できなかった暗黒時代の渦中なのだが、たしかに、これでは昇級できないと納得できた。

 

リベンジあるのみだと思った。

一度、練習した字なのだから、現在の級における完成度を目標にしなければならないと思い、さっそく、昨年のお稽古のときの動画を観た。

もう、おなじみになっている法則がくりかえされている。

先生の御指導は、よく理解できた。

 

さらに、初級バージョンで説明しながら、上級バージョンの筆使いを補足してくださっている箇所もあり、それは、今の私では、まだ難易度が高く感じられた。

 

このように、先生の御指導は、初心者から師範までの生徒に、分け隔てなく提供されている。

受けとる器が大きければ、入会間もない生徒でも、どんどん吸収して、上達できるように。

 

器を、大きくすること。


それは、書いていない時間に、育まれるものだと感じている。

たとえば、フェイスブックで、先生やみなさんの感じていることを読んだり、コメント欄から学びを得たり。

仕事をしたり、家族と話したり、テレビを見たり、好きなことをしたり、そんな、いろんなことだ。

 

一年を経て、どのくらい、書けるようになったか試したいと思い、用意されたお手本をしっかり見て、書いた。

 

(げげ)

 

予想では、もう少しうまく書けると思ったのに、ぜんぜんダメだった。

一字目の画数が少ないので、墨のつけかたが難しく、にじんで、きれいな線が出ない。

がっかりした。

 

練習を続けていると、足りないものがわかる。

求めるものが、くっきりとする。

 

(先生は、ここを、どのように書いておられるのだろう?)

(手をとっていただきたい!)

 

平面に表されたお手本でも、筆の動きがわかる動画でも、推し量ることができない、筆と墨と紙が調和するときの重力、バランス、摩擦、スピード感、リズム……。

その線を出すための複数の要件が、揮毫という調べとなり、筆の軸を通じて伝わってくる!

 

そんな期待が高まる。

感じとりたくてたまらなくなる。

手をとっていただける瞬間が、待ちきれない。

待ち構えている。待ち望んでいる。

 

私という器の中に、先生の動きがすっぽり入るスペースができている状態。

初めて御指導を受ける課題のときには、なれないでいた状態。

 

4月のお稽古で、手をとってくださったとき、房仙先生は、その状態をすぐにお感じになられ、

 

「いつもとちがう! 軽い! 筆が自由に動く!」

 

とおっしゃってくださった。

 

(二回目だからです!)

(上達したわけでも、意識が変わったわけでもなく、ただ、二回目だからです)

 

私は、そういう特質なんだと、あらためて思う。

初めてのことは苦手で、経験したことがないことは不安。

何が起こるかわからないことに対して身体が動かない。

順番に積み上げていかなければダメだと思っている。

だから、二回目なら、萎縮せずにできる。自分の望むものに貪欲になれる。

一回目以上のことができる。

 

でも、そんなことを言ってはいられないと、思うようになった。

二回目でできるのなら、一回目からでも、できる方法があるはずだ。

 

〈固定観念を外すこと〉

 

房仙先生の御指導は、今まで、〈そうなんだからしかたがない〉と思っていた固定観念を、〈変えたらどうなるのだろう?〉というチャレンジに変えるミラクルがある。

 

房仙先生は、書道会の既成概念をとりはらい、順番に積み上げていたら二十年以上かかることを、早ければ五年で習得できる技術を、房仙流書道として、惜しみなく指導してくださっている。

 

その御指導方法は、先生と似ているタイプの生徒には、なんのとまどいもないのだと思う。

次に何が起こるかわからないお稽古は、楽しくて、わくわくの連続なのだろうと思う。

でも、私は、房仙会で起こることは、とまどいの連続だった。

お稽古を続けることは、自分の固定観念を変えていくことだった。

 

そのことを、チャンスと感じ、ギフトと感じ、房仙先生のもとでチャレンジできることに、これからも、前向きになろうと決めている。

 

◆師匠の見ている山

 

4月のお稽古で、房仙先生は、先生のお考えになる〈師匠とはどういう人なのか〉ということを、お話ししてくださった。

 

「師匠とは、自分を信じてついてきた人を輝かせられる人。それができない人は、師匠ではないと思っている」と。

 

自分を信じてついてきた人を、必ず輝かせると言い切ってくださった先生の言葉。

 

信じてついていくということは、生半可なものではない。

輝くということにも、ひたむきで、たゆみない努力が必要だ。


努力だけでは足りない。

意識して自分の考えや、やりかたを変え、経験のないことを取り入れ、どんなときにも、何があっても、軸をしっかりと持って信じつづけて、あきらめないこと。

 

変化が、深い部分に及ぶほど、感情が波立ったり、すぐには受け止められないこともあるだろうと想像できる。

考えたくない、逃げ出したい、と思うこともあるだろうと思う。

 

それでも。

 

〈輝〉

 

今年の山形での雪上揮毫で、先生が書かれた文字だ。

誰もが輝きを秘めている。

まだ、その輝きが表に出ていなくても、先生には見えている。

 

先生が見ているものと、生徒が見ているものは、もしかすると、ちがうかもしれない。

 

そう感じたきっかけは、とあるテレビ番組の中で、「ゆず」の北川悠仁さんが、「オードリー」の春日俊彰さんに放ったセリフだった。

 

春日さんは、番組の企画で、十年来の恋人にプロポーズをする演出として、ゆずが歌う「栄光の架け橋」のピアノ伴奏をすることになった。

イントロや間奏など、ピアノソロの部分が二か所あり、聴き手を魅了する聴かせどころとなっているが、仕上がりが、はかばかしくない。

本番の5日前になっても、曲になっていない。

 

現在の状況は、何点だと思っているかと、北川さんに尋ねられ、春日さんは「70点」と答えた。

それに対して、北川さんは「15点」の仕上がりだといい、「70点」だと認識している春日さんに、

 

「だとしたら、見ている山がちがう」

 

と言ったのだ。

 

ぐっときた。

それは、現在の状況を「70点」と自己評価する春日さんを「15点」の価値しかないと貶めたのではなく、春日さんの伸びしろは、あと85点あり、満点の100点は、春日さんが思っているよりも、もっと高い山だと鼓舞するものだったからだ。

 

〈師匠の言葉だ〉と思った。

 

師匠とは、信じてついてくる者を輝かせる人。

「見ている山」とは、そのひとの持つ「輝き」のことだと思う。

 

自分の輝きを過小評価して、努力をあきらめるのはもったいない。

自分が見るべき山を教えてくれる師匠との出逢いを、手放してはもったいない。

 

今回のお稽古では、8月に開催される社中展作品を、先生が、生徒ひとりひとりに揮毫してくださる様子を、間近で見せていただけるという、とても贅沢な時間があった。


揮毫が始まると、場の空気が変わる。

息もできない。

 

社中展作品は、高い山。見たことも、想像したこともない輝き。

先生が、生徒ひとりひとりのために用意してくださるお手本は、しだいに高度をあげて、頂上を目指す。

 

今はまだ、先生にしか見えていない山。

その全貌が見えるまで、練習あるのみ。


頂上への道は、それぞれの伸びしろだ。

 

浜田えみな