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パッションが充実するって、こういうことなのだ。

スパークするって、こういうことなのだ。

熱くなるって、こういうことなのだ。

はじめての体験。

 

◆見たり聞いたりときめいたりひらめいたり

◆希望という燃料

◆利他の心

◆バランス

◆感謝を叫ぶ

◆「う」の心

◆千年後


***

 

◆見たり聞いたりときめいたりひらめいたり

 

「フェイスブックに書いていることをお稽古の時間に伝えると三十分はかかるので、共通理解として、せめて読んでいてほしい」

 

お稽古が始まる前の、房仙先生のお言葉だ。

 

一斉に走り出そうとするときに、先生が見ている方向を、教室の全員が見ているのと、見ていないのとでは、推進力が全く違うということを、おっしゃっているのだと思う。

 

先生は、三島、米子、大阪、東京、米沢の各教室でのお稽古のほか、三島教室で開催されているフェイスブック講座や、食養道学院の講座ほか、さまざまなイベントに参加され、日本全国を飛び回っている。何もしていない日は、ほとんどない。


そして、どこにいても、フェイスブックでその日の行動と、感じたことを発信され、特筆すべきことは、ご自身のブログを更新されている。

また、生徒がフェイスブックで投稿した文章には、必ず、お心のこもった的確なコメントを返し、深いご指導が綴られていることもある。

 

特に、お稽古があった日の夜は、教室の熱気を画面に運ぶような投稿が多く、お稽古の続きが、フェイスブックで展開されている。お稽古の場で伝えられなかったことを、生徒も先生も文章にでき、誰もが共有することができる。

 

見逃せない。

 

お稽古では、生徒同士が話をする時間が、ほとんどないので、投稿を読んで、初めて、それぞれの心の輪郭にふれているような気持ちになる。その感動を、伝えることができる。

 

他の人の投稿から、自分が聞き逃していた先生の言葉を読むことができると、ものすごく得をした気持ちになる。

自分とは別の視点でとらえられた投稿を読むと、さらに理解が深まる。

コメントがコメントを呼び、忘れていた記憶が、どんどんよみがえる。

今いる空間が、教室になる。

 

参加しなければ、もったいない。

 

〈書道は、見たり聞いたりする目が行き届かないとうまくならない〉

〈ときめいたり、ひらめいたりしない限りは上手にならない〉

〈書道をやっていると、センスが磨かれる〉

 

五月の大阪教室で、房仙先生が話してくださったお言葉だ。

先生が、どんなことを見たり聞いたり、ときめいたり、ひらめいたりしているかは、フェイスブックを追いかければわかる。

 

毎月、手をとって教えていただいているのは「書道」だが、伝えてくださるご指導の言葉は、「書道以外にもあてはまる」と感じている。

特に、「表現」や「創作」において。

だから、書道がうまくなる人は、身に付いた感性で、書道以外でも頭角を現していく。

 

境港市の「水木しげるロード」を舞台に開催されたフォトコンテストで、応募総数409点の中から優秀賞に選ばれたのは、米子教室で房仙先生のご指導を受け、短期間に昇級、昇段を重ねていらっしゃる先輩だ。

来年夏に向けてのリニューアル工事によって、その期間しか見られない特設展示で華やぐ「今だけの水木しげるロード」を舞台に、開催されたフォトコンテストで、一位になった。

 

応募要項を見ると、


〈「水木しげるロード」の美しい・楽しい・キレイ・ワクワクする・感動的な風景など「あなたが伝えたい水木しげるロード」をテーマとした風景写真であること〉


と書かれていた。

 

房仙先生がおっしゃっている、

 

〈書道は、見たり聞いたりする目が行き届かないとうまくならない〉

〈ときめいたり、ひらめいたりしない限りは上手にならない〉

〈書道をやっていると、センスが磨かれる〉

 

という房仙流の教えを、日々、実践され、研鑽されている先輩だからこその受賞だと思う。

フォトコンテスト特設サイト → ★★

 

◆希望という燃料

 

「私は休憩がいらないの。一コマ一時間半のお稽古を、二コマぶっとおしで三時間やっても、ぜんぜん疲れない。やればやるほど元気になる。でも、私より若いみんなが、そんなにもたない。一時間半で、へとへとになる。どうしてだと思う? みんなと、どこが違うと思う?」

 

何がちがうか。


希望があるからだ」と、先生はおっしゃった。

 

「私には、みんなを上手にしようという希望がある。どうやったら上手になるかを考えると、尽きることがない。だから疲れない」

「それなのに、みんなは自分が上手になっているという気がしていない(笑)。希望を失って、疲れる」

 

〈希望を失って、疲れる〉

 

という先生の言葉が、突き刺さった。

お稽古を始めたころとちがって、最近の私は、家で練習をしていると、まだ数枚しか書いていないのに、気力が続かず、やめたくなってしまっていた。

 

(こんなにできていないのに、なぜ、練習する気持ちになれないのだろう? どうして、書いていても、ぜんぜん楽しくないのだろう?)と、情けなく思っていたが、

 

〈希望を失っているから〉

 

と教えていただき、腑に落ちた。

 

書いても書いても、うまくいかない。何枚書いても、できていない。うまくなる気がまったくしない。だから、ガス欠になる。数枚でイヤになる。

書くたびに、

「おおっ うまくなっている!」「私、天才!」

と思えたら、どんどん書きたくなるだろう。時間を忘れて書いてしまうだろう。

 

では、なぜ、書いても書いても、納得のいく文字にならないのか。

どういう姿勢で、筆を持てばいいのか。

そのヒントを、次々に先生が教えてくださった。

 

◆利他の心

 

「自分だけが楽しくてもダメ」

 

房仙流師範第一号の古谷翠仙先生は、房仙先生のおひざ元の三島教室で学ばれた後、御主人の転勤で京都にお住まいを移され、ご自宅の書道教室で、房仙流のご指導をされている。

古谷翠仙先生の書は、当初から、見た瞬間に、とにかく〈楽しい!〉ということが伝わってくるものだったそうだ。でも、

 

「自分だけが楽しくてもダメ。自己満足と、人のためにやるものはちがう。人が見ていいものと、自分がいいものはちがう」


と、先生はおっしゃっている。

 

もちろん、今の古谷翠仙先生が書かれるものは、房仙先生のご指導と、ご自身の研鑽によって、〈自分だけが楽しい書〉ではない。

 

だけど、書いたものから〈楽しい!〉が伝わるって、なんて素敵なんだろうと、すごくうらやましく思った。

私の書いたものは、お手本のとおり書こうとして書けなくて、苦しいだけで、わけがわからなくなっていて、楽しさのかけらもないと、感じるからだ。

第一段階の「自分が楽しい」ことすら体験できず、目的が見えなくなって、希望がないなんて、なんのためにやっているのだか。

 

でも、簡単に進まないところに、私に必要な学びがあるのだと思う。

 

房仙先生から伺うご指導のお言葉は、これまでに歩み、学んできた道を振り返り、ほこりをはらい、自分につながる〈一筋の軌道〉をすくいだしているような気持ちになる。

 

たとえば、書道の作品ではなく、作文であれば、〈楽しい!〉が伝わるものを、私は子どもの頃から書いていたと思う。書くことが楽しくてしかたがなかった。作文用紙が足りなくて、何枚も追加でもらいにいった。

でも、それは、〈自分だけが楽しい文章〉だったと思う。


子どもの頃は、それでもよいが、人がお金を払って読んでくれる文章にはならない。

だから、「自分だけが楽しくてもダメ」ということが、とてもよくわかる。

文章表現においても、同じだからだ。

主役は、読み手。書き手ではない。

 

以前は、どうやったら、自分が感じていることを相手に伝えられるかということを考えていた。意図していない感想が返ってくると、表現に問題があるのだと思い、自分の想いを正確に伝えることに必死だった。

でも、最近になって、人が感動するのは、「書き手の想い」ではなく、それによって触発される「読み手の想い」なのだとわかってきた。

 

どれだけ、読み手を主役にさせられるか。

 

自分の書いたもので、それを読んだ人が主役になり、読み手の数だけ物語が生まれるような文章が書けたら。

そこに、私はいなくていい。

 

〈自分が自分が、ではなく、人のことを〉

〈自分を捨てられるか〉

 

房仙先生が、よくおっしゃっている言葉だ。

房仙流の根底にあるのは、〈利他の心〉。

 

***

 

〈利他の心〉を経営の世界に投じたのが、「経営の神様」と呼ばれている稲盛和夫氏だそうだ。

その稲盛和夫氏から、人としての生き方と、経営者としての心の持ち方を学ぼうと、1983年に京都で立ちあがった自主勉強会に端を発し、現在では、1万2千人を超える経営者が集まり、全国各地及び海外に規模が拡大している「盛和塾」の、バンク―バー支部のロゴは、房仙先生の書だ。

 

房仙先生のブログ記事 → ★★★

 
◆バランス

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常に、ときめいたり、ひらめいたりされている房仙先生のお話は、スピード感満載。

テンポよく話題が変わっていき、ぼやぼやしていると、置き去りになる。

耳に残ったキャッチ―な言葉だけが一人歩きを始めてしまい、先生の意図とは違う受け止り方をしているかもしれないと思うこともある。

 

〈房仙会は、1番から10番まで、順位をみんなが知っている〉

〈知っていて、認め合える〉

 

という、先生の言葉が耳に飛び込んできたとき、どういう流れで、この発言が出たのかが聞き取れなかった。だから、先生が伝えようとしたこととは違うかもしれないが、これはすごいことだ! と思った。

 

今は、学校でも、会社でも、あえて順番をつけないことがよいとされている。

でも、房仙会では、〈1番から10番までは、誰もが知って認めている〉という。

 

順番がついているのに、ほめあえる。ねたみもうらやみもないという。

 

そこにあるものは、なんだろう?

尊敬? 感謝? あこがれ? 納得? 賞賛?

その気持ちは、どこから生まれるのだろう?

 

競書誌を見れば、師範、段位、級位が出ているので、書道のうまさの順番はわかる。

では、

 

〈一番動いているのは?〉

〈自分のためにではなく、人のために、一番動いているのは?〉

 

「書道のうまさの順番」と、「人のために動いている順番」が一致しているところが、房仙流書道の特徴だと気づいた。

 

〈一番の人が一番ひとのために尽くす〉

 

それが、自分も、人も、心地よいバランスだからだ。

房仙先生が、いちばん、人のために動いている。

だから、その教えを受けて、書道の評価があがるほどに、先輩たちは動く。

 

「人のために動いている順番」が、「書道のうまさの順番」であるという法則。

 

それが房仙会。

 

人のために動くと、どろどろしない。気持ちがいい。

人が人のために動く姿を感じて、人のために動く生き方に変わっていく。

それが房仙流。

 

私は今まで、人の前で能力をほめられたり、認められたりすることが苦手で、そういう場が苦手だった。身の置き場がないように感じて、居心地が悪かった。

ほめられた能力を、人のために使っていないので、バランスが悪かったのだと、今はわかる。

 

人のために動けば、人の言葉を受けとれる。

 

◆感謝を叫ぶ

 

パッションが充実するって、こういうことなのだ。

スパークするって、こういうことなのだ。

熱くなるって、こういうことなのだ。

はじめての体験。

 

満たされる。巡っている。脈打っている。

抜けた! 何かが抜けた。突き抜けた。

入ってくる。満たされる 

巡る!

熱い、熱い、胸のところが、熱い。

指先も。足先も。からだじゅうが、ぽかぽかしている。

 

大きな声を出すって、こんなにすっきりすることだったのだ。

 

輪になって、手を握る。

輪になって、手を握られる。

握る手と、握られる手が連鎖する。

力をこめる。

 

ありがとうーーーーーっ。

心をこめて、腹の底から、左隣の人の肩に叫ぶ。

 

ありがとうーーーーーっ。

心をこめて、腹の底から、右隣の人の肩に叫ぶ。

 

感謝を叫ぶ。

左回り。右回り。

連鎖した手を通して、氣が流れる。

ぐるぐる巡る。

 

何人いたのだろう。

土曜日のお稽古に来ていた人全員分。

 

握る手と握られる手で一つの輪ができ、全員が大きな声で感謝を叫ぶ。

握られた手から、握った手へ、からだを抜けて、エネルギーが巡っていく。

 

発散しないと入ってこない。

尽くさないとはいってこない。

 

大きな声を出せばいいのではなく、感謝を伝えたから、廻りはじめた。

志を同じくする仲間だから、つながりあえた。

 

気持ちいい!

 

ひとりでは、できない。

隣の人のために叫んだから、せきとめていたものが吹き飛んだ。

巡ったものの余韻が、いつまでも火照っている。

 

「清書は、熱えていないと書けない。パッションが充実していないと、書けない」

 

房仙先生が、そうおっしゃるのを、何度も耳にしていたが、からだが、こういう状態になることだったのかと、想像することができた。

次からは、清書を書くときに、試みるつもりだ。

自分ひとりでも、できるだろうか?

 

房仙先生は、おひとりでなさるという。

あまりに熱くなるので、衣類は脱ぎ捨ててしまうほど、氣を充実させ、発散するそうだ。

具体的な方法は、教えていただいていないが、先生のお言葉を借りると、「すっぽんぽん」になるそうなので、誰もいないところでされるという。


誰もいない、誰も来ないはずなのに、ありえない人が、ひょっこり顔を出すというアクシデントもあるそうだが。

 

……どういうときになさるかを、ぽつりと口にされた、その小さな声が、耳から離れない。

「社中展作品のお手本」を書くとき、どうしても、「気持ちが切り替えられないこと」があるのだそうだ。

 

草書、行書、楷書、隷書、かな、調和体など、さまざまな字体で、年齢も、性格も、性別も、習熟度も、立場も、環境もちがう生徒ひとりひとりになって、書いてくださるお手本は、清書を書き上げるまでの過程で、生徒の人生を引き上げるといっても過言ではないものだと思う。

 

毎月の競書誌の課題では見たこともない、かっこいい字体のお手本を受けとり、最初は、どうやって書くのかもわからず、嬉しさは、すぐに不安に変わるけれど、御指導を受け、練習を重ねるうちに、書道を通じて気がつくことがある。


まとっている不要なものがはがれ、思いもしなかったチカラが引き出される。

ついに頂上に立ったときに見える景色は、生きる姿勢に大きく影響をするものだと思う。

 

そのようなお手本を、書いてくださる。

 

昨年、初めての社中展を経験したが、生徒の私たちにとって、社中展作品の清書を仕上げる日々は、妊婦のようだと思った。

作品は、房仙先生と生徒に授かった子ども。

お手本を書いてくださるとき、房仙先生は、その生徒だけとつながっている。

 

そこまでのお心で、お手本を書いてくださっている。

 

そんな魔法みたいなことが、房仙会では、あたりまえのようになっている。

それが「房仙先生のふつう」なのだと思ってしまっている。

けして、簡単なことではないのだ。

 

一枚一枚、禊のような浄化と、精神力、集中力、そして生徒を想う心で、書いてくださっていることに気がつき、そのようにして、手渡されるお手本への感謝が、あまりにも薄すぎると感じて、たまらなくなった。

 

感謝を叫ぶ。

 

◆「う」の心

 

「ここで、セミになってみて」

 

「ここ」というのは、教室の前方のホワイトボードの支柱だ。

二つ目のワークショップだった。

 

なぜ、セミなのか? ということは説明されず、あまりにも唐突なので、生徒の輪に、一瞬の緊張と沈黙が流れる。

セミと言われて思い浮かぶのは、木の幹にとまって、羽をふるわせて鳴く姿だ。

精一杯、鳴こうと思った。

 

ミーンミーン。

 

ひとりずつ、前に出てセミになったが、全員が、そのようなパフォーマンスだったように思う。

鳴き方にバリエーションが見られたものの、全員、ミンミンゼミだった。

 

正解も不正解もないし、房仙先生から、説明はなかったので、どういう意図で行われたのかはわからないままだ。

でも、ずっと、自分の中でもやもやするものがあって、原因を考えていた。帰りの電車の中で思ったことは、

 

〈素直になることのむずかしさ〉

 

だった。

 

「セミになって」と言われ、ホワイトボードの支柱につかまって、ミーンミーンと鳴いたが、果たして私は、セミになったのか? ということだ。

 

セミってなに? どんなセミ? 生れたばかり? もう寿命? どこにいるの? 何をしているの? なぜ、鳴いているの? 

 

そこまで考えたとき、セミの雌は鳴かないことを思い出した。

なぜ、私は、鳴いてしまったのか。しかも声を張り上げて、ミーンミーンと。

 

〈セミになった〉のではなかった。

〈セミに見えるように〉ふるまったのだ。こわいことに無意識に。

 

素直になることの難しさ。

素直に受け入れて、まずは、そのまま出すことの難しさ。

 

「う」という音は、鵜飼の鵜のように、そのままを自分の中に受け入れ、受け入れたものを中から出していく動きだという。

 

素直とは「う」の心。

 

◆千年後

 

「千年後に残っている作品がいい。遠く離れた日本で、伝統を守っている正しい字があることを千年後に伝えたい」

 

と、房仙先生は、おっしゃった。

 

法隆寺や薬師寺などの復元を果たした最後の宮大工と言われる西岡常一棟梁の『木に学べ』という著書には、「千年持ってくれ、千年持ってくれ」と言いながら釘を打つということが書かれている。

 

千年先を考えて、木を組み、和釘を打ち込み、カンナをかける西岡常一棟梁が1981年に復元した薬師寺の西塔は、現在、基壇が高くなっていて、東塔より一尺高い。五百年経つと、東塔と同じくらいまで沈むのだそうだ。

 

「千年経って、東塔と西塔が並んで建っておりましたら、ええですがな」という、西岡常一棟梁の言葉が、その著書に書かれている。


東塔は、1300年前の創建当時より現存している建物だ。

現代に生きる私たちが見ているものを、1300年前の人々も見ていた。

墨と筆で和紙に書いたものも、千年以上残る。

 

宮大工でなくても、寺社の建造に関わらなくても、千年後に残る芸術を、千年後を見据える師から学べる幸福。

 

なぜ、書いても書いても、納得のいく文字にならないのか。

どういう姿勢で、筆を持てばいいのか。

そのヒントが、5月のお稽古に散りばめられている。(→冒頭へ)

 

浜田えみな