2008年04月02日

新年度、新しいこと

新年度ですね。
わたしは年度末におわれてます。まだまだ……

このクソいそがしく、かつ不安定な暮らしなのに、
まだよけいなことをしようと思ってしまいました。
http://www.kokugakuin.ac.jp/manabi/kokai_kouza/open20/0231.php
この公開講座に通うことにしました。

パウロ・フレイレは、大学時代、唯一、それなりにまじめに学んだブラジルの教育学者。
村人自らが村を治めるために=欧米の植民地主義と闘争の中で、
識字教育を位置づけ、展開した人。

銀行型教育(=日本の学校でやってる普通の教育です、知識をもつもが、ないものへ貯め込んでいくという意味/生徒は教育の客体として位置づけられる……)ではなく、対話型の教育を!ととなえた人。

私は、田舎で優等生(つまり銀行型教育の優秀な生徒)をしていたために、東京に出て、自分でものを考え社会とつきあわなければいけない状況にとても困惑していました。
誰かの価値観にのって、がんばっていればそれでよい、ということではなかった、ということを身に染みて感じていたころです。

専攻は教育学。しんどい中で、唯一、救いに感じたのがフレイレの実践とそれにもとづく哲学でした。
4年かかって、優等生を脱却していき、いまにいたってしまいました(よかったのかどうか……)。

大学を出て、十数年して、わたしはNPOを仕事とする中で、ワークショップやファシリテートという考え方と出会いましたが、それをフレイレは1950年代から南米でそれを展開していたのだと、最近、気づきました(勝手な解釈かもしれません)。

私は、フレイレの言う、対話型の教育が主流になったとき、このしんどい日本社会は変わるだろうと予想します。
それは教師が、生徒のために、といろいろな努力をするのではなく、
教師が、子どもたちとともに、何かをつくる、あるいは気がついていく、そんな時間をつくるということです。
最初から答えがあるわけではない、ということ……

ま、その後、教育学とはすっかり離れてしまったのですが。

たぶん私の人生も後半に突入ということで、ちょうど20年前に熱中したフレイレの「被抑圧者の教育学」をもう一度読んでみたいと思ったのでした。
訳者である里見実先生にも学んでみたかったし。
今回、オリジナルの訳書をつかって、講義(ゼミナール?)してくださるということで、とても楽しみにしています。

20年前のように、また社会とのつきあい方をさがそうとしているのかもしれません。

フレイレの本は、中古本の市場でどれも万単位の値段がついてますなあ。
この「伝達か対話か」のほうがわかりやすいんですよね。だから高値か。
amazon



yun0422 at 23:09│Comments(6)TrackBack(0)clip!

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この記事へのコメント

1. Posted by じゅん   2008年04月03日 05:50
お元気ですか?
私は、
学びっていいことだと思っています。
活動していると、次にどうしても学び、
哲学が必要に感じます。

私は、大阪のほうの障害を専門にしている大学の先生から、さわりだけ教わったことがあります。
大人になってから。

忙しいけど、
あなたの新しいステージのために用意されていたことではないでか?
応援してます。

私は、現在くたくたです。
2. Posted by コミ   2008年04月04日 06:14
講座に通うっていいなあ。

土曜の夕方ですね。

講義が終わった後、時間があえば、渋谷で飲む?
3. Posted by L(K)   2008年04月04日 19:09
フレイレといえば、私が最初に読んだのは『自由のための文化行動』でした。そういえば、私も20年くらい前に読みましたわ。
亜紀書房の本だったかなー。オレンジの表紙でした。

オリジナルの訳書、どんなんやろ…?
4. Posted by keroshi   2008年04月17日 17:24
優等生からの脱却!
わぁ同じだ!と思って思わずコメントしてしまいました。

私は高校時代からかれこれ8年。。。脱却できたのかしら。。。

私も優等生でいればいいって思って、自分で考えるって事はしてこなくて、この枠の中でいかにうまく生きるかってことにしか長けていなかったので、自分で考えて行動しなさいって言われても突然はできない口でした。

今は、、、少しはましになったかもしれない。と、希望的観測。
5. Posted by nekokan   2008年04月20日 09:44
みなさんコメントありがとさん。
哲学が必要です。めしの種にはならずとも。と。
めしの種なんとかしないといかんのですけどね…。

コミさん、渋谷で昨日もめしくったよ。次回ね。

Lさん オリジナルのってのは、ポルトガル語からの訳ってことで、亜紀のは、英語からの訳なんだそうで、原書とは、だいぶ違うみたいです。有名な「課題提起型教育」っていうのは、ほんとは「問題化型教育」っていうふうにいったほうがいいらしいよ。と昨日里見さんがいってた。

6. Posted by nekokan   2008年04月20日 09:44

そして、keroshi さん。
おお、同じ穴にいたわけですなあ。自分の入っている場所を穴と認識できれば、それでワンステップ。フレイレのいう「意識化」とはそういうものだそうな。それには対抗モデルが必要なんですよね。比較対象というか、相対化するチャンスというか。
へんな人、は世の中に必要なんだよね。たとえば、金は二の次って人がいないと、このお金万能信仰のおかしさは見えてこないものね。(といえば言い過ぎかもしれんが、お金の相対化というか、逆にありがたみ/意味というか…)

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