日蓮正宗の信心をしています

2005年01月01日

きょうの御書

色心二法抄

弘決の一に「仏なる故に生死あり」と釈し給ふなり。止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」と釈し給ひしも唯此の意なるべし。故に一年十二月は十二因縁の生死なり。正月の生の位より十二月の老死滅の位に至る。又此の滅の位より生の種をついで、十界の因果三世に改まらずして、十界の生死は過ぎ行く日月にて有るなり。又我等衆生の身のみならず、草木も皆此の日月の明け暮れ生死にうつされて、我等と倶に生々死々するなり。
(『平成新編日蓮大聖人御書』P24)


2004年12月31日

きょうの御書

26世日寛上人「六巻抄・当家三衣抄 第六」

☆数珠の珠は四菩薩+十大弟子+二仏+108個。108は煩悩の数を表します☆それではみなさん、よいお年を。

衣・袈裟・数珠、是れを三衣と名づく、数珠那んぞ衣と名づくるや。謂わく、初めの二に相従うが故なり、或は法性の珠百八煩悩を隠蓋する故に衣と名づくるなり。


2004年12月30日

きょうの御書

四恩抄

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、人にも縁を結ばしむるかと思ひて随分世間の事おだやかならんと思ひき。世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧もさてこそ候か。日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。
(『平成新編日蓮大聖人御書』P266)


2004年12月29日

きょうの御書

教機時国抄

☆肉食妻帯がどうのこうのと、今の日蓮正宗の御僧侶方をことさらに誹謗する無知な輩が跡を絶ちませんが、そもそも、よその宗派の戒律がどうだろうと、本宗には一切関係のないことです☆法華本門の三大秘法を純真に受持し奉るということこそが、仏法において一番大事な戒の実践なのです。☆末法の世においては、別に「肉食禁止」とか「生涯童貞」などの極端に厳しいな戒律の細目に縛られる必要はありません(末法無戒)☆日蓮正宗の信心をする者は、一切の謗法を捨てて、勤行・唱題・折伏・御供養を毎日の生活の最優先事項に据えていくようになるわけですから、上は御法主上人から下は私のごとき一在家に至るまで、どう転んだって放蕩的な快楽主義には堕ちこみようがありません☆また、禁欲主義に偏ることもないのです。適度にバランスの整った、「中道」の生活習慣が自然と身につくようになります☆自由を享受して大いに人生を謳歌しつつ、一生成仏の叶う仏道修行がさせていただけつ宗派。それは、日蓮正宗しかないのです☆

仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。
正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少なし。
像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多なし。

正法には破戒無戒を捨てゝ持戒の者を供養すべし。
像法には無戒を捨てゝ破戒の者を供養すべし。
末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。

但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時に亘りて、持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり必ず無間大城に堕すべきなり。 

((『平成新編日蓮大聖人御書』P270))


2004年12月28日

きょうの御書

守護国家論

問うて云はく、梵網経の文を見るに比丘等の四衆を誹謗するは波羅夷罪なり。而るに源空が謗法の失を顕はすは豈阿鼻の業に非ずや。答へて云はく、涅槃経の文に云はく「迦葉菩薩世尊に言さく、如来何が故ぞ彼当に阿鼻地獄に堕すべしと記するや。善男子善星比丘は多く眷属有り。皆善星は是阿羅漢なり是道果を得しと謂へり。我彼が悪邪の心を壊らんと欲するが故に、彼の善星は放逸を以ての故に地獄に堕せりと記す」已上。 此の文に放逸とは謗法の名なり。源空も亦彼の善星の如く、謗法を以ての故に無間に堕すべし。

(『平成新編日蓮大聖人御書』P145)


2004年12月27日

きょうの御書

上野殿御返事 弘安三年十二月二十七日

☆仏道修行としての「御供養」で問われるのは量の多い少ないではなく、供養する人の志なのです☆「お金を取られている」「労力としてこき使われている」、そういった不平不満の心で御供養したって功徳になるわけないのですから、するだけ無駄というものです☆どうせ御供養するのならば、御供養は在家にとってきわめて有利な修行法・成仏の因を積ませていただく有難いチャンスと心得ておいたほうが、後々の功徳の実感も遥かに大きくなることでしょう☆

 御心ざしの候へば申し候ぞ。よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。
 仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに水をあたへ、寒氷にこゞへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし。

(『平成新編日蓮大聖人御書』P1528)


2004年12月26日

きょうの御書

強仁状御返事
 
但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば、暗中に錦を服して遊行し、澗底の長松匠に知られざるか。兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり。貴坊本意を遂げんと欲せば、公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糺明せば、上一人咲みを含み、下万民疑ひを散ぜんか。其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付嘱せり。世出世の邪正を決断せんこと必ず公場なり。
 
(『平成新編日蓮大聖人御書』P916)


2004年12月25日

きょうの御書

第二祖日興上人「富士一跡門徒存知事」

一、五人一同に云はく、聖人の法門は天台宗なり、仍って比叡山に於て出家授戒し畢んぬと。
  日興が云はく、彼の比叡山の戒は是迹門なり、像法所持の戒なり。日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり、今末法所持の正戒なり。之に依って日興と五人と義絶し畢んぬ。
 
(『平成新編日蓮大聖人御書』P1868) 


2004年12月24日

きょうの御書

諸宗問答抄

☆きょうはキリスト教のクリスマス・イブです・・・☆さて、キリスト教は「有始有終」、つまり、世界に「始まり」と「終わり」が有る、と考える教えです☆では、「始まり」より以前には何があったのか。「終わり」の後にはいったい何があると言うのでしょうか?☆・・・キリスト教の矛盾は明らかです。こんな矛盾した教えを無理に信じこもうとしていれば、生活がおかしくなっていくのも当然ですね☆


我等一切衆生 螻蟻蚊虻(ろうぎもんもう)等に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見(びゃっけん)なり

(『平成新編日蓮大聖人御書』P37)


2004年12月23日

きょうの御書

月満御前御書
 
今日の仏生まれさせまします時に三十二の不思議あり。此の事、「周書異記」と云ふ文にしるし置けり。
  釈迦仏は誕生し給ひて七歩し、口を自ら開きて「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当度之」の十六字を唱へ給ふ。
 
(『平成新編日蓮大聖人御書』P462)