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宝くじは弱者の税金だとか、宝くじに並んでいる人を見ると悲しくなる、とかいうコメントを最近よく目にする。

彼らが曰く、宝くじの期待値(平均リターン)は低いのに、それを知らずに一攫千金を狙っているのは情弱、ということのようだ。

確かに、期待値はそう。でも平均になぜ、そこまで絶対的な信頼を持っているんだろう。

今は昔、コンサルに入社して数か月、最初の上司だったFさんに言われたことで今でも覚えているのは

「データ分析のとき平均だけを見たらあかんで。分散も大事なんや」

ということだった。

確かに、例えば平均値は50でも、バラツキを見ると、全員0と100かもしれない。

年収でも、平均は400万だとしても、それは一部の人たちが引き上げていて、メディアン(中央値)はもっと低かったりする。


宝くじだったら、逆に平均期待値はマイナスでも、1等は3億円なわけで、それはもう人生を変えるくらいのインパクトを持っているわけだ。



思うのは、宝くじ批判をする人達もその辺のことは十分わかっているはずだろうに、なぜ宝くじに関しては平均だけを持ってそこまで否定するのだろうか。

例えば金融資産のポートフォリオ管理も、ハイリスクハイリターンの資産とローリスクローリターンの資産をバランスよくミックスさせる、みたいなことはやっているはずなのに。



完全に運ゲーなところが合理的じゃない感じがするのだろうか。

がしかし。完全に運ゲーだからこそ平等であり、だからこそ万人の期待を集めることができる。

逆に賢い人は、自分の実力を反映できないから嫌いなのかもしれない。



でも期待値は低くてもボラティリティの高いことに少しだけBETすることで、人生は面白くなるのではないだろうか!全部BETしちゃだめだけど。


なので僕は宝くじ大肯定派です。

ただ毎回買うのが面倒なので、自動引き落としで買ってくれるサービスがほしい。

給料の一部を宝くじで払ってくれる制度とか良いね。企業型確定拠出年金はやらないけど、こっちは刺さる人もいるでしょう。



ちなみに最近は恋愛についても同じような傾向を感じるので、今度書きます。


※例によって何年かに一度のブログブームが来たので再開しています

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書く書くと言って書かないと昔の自分に申し訳がないという気にさえなってくる。

何でもいいのだ、熱くさえさせてくれれば。熱くなくても体の冷えが少しおさまるくらいでも。




久しぶりに友人の職場を訪れたら、以前ケンカしてうちを辞めた社員(女性)が、働いていた。

挨拶をしようとドアを開けたら、その元社員がいて、友人と1つの小さなテーブルを共有していた。職場と言っても社員10人くらいのスタートアップだ。

浮気現場を目撃したかのようななんとも言えない空気が流れた。少なくとも僕の中では。

もちろん、別に恋愛関係にあったわけではないし、そもそも辞めているから浮気でもなんでもない。でも空気が凍るとはこういうことかというような。




この場合、浮気というよりケンカして別れてそれ以来一度も連絡を取っていなかった元カノが友人と付き合っている現場を目撃してしまったという方が近いかもしれない。

その元社員が辞める前後、その友人にはそのことを相談していて、どうして彼女が辞めるべきなのか、どんな風にひどい別れ方をしたかを語っていた。

だから、その友人が僕に一言も言わず、その元カノを採用したことに対するショックということになるのかもしれない。



状況を複雑にさせているかもしれない要素が2つあって、1つはその友人の職場というのは僕にとっては前の職場であり、僕はその友人と働いていた。

つまり友人からしたら僕が元カノ?であって、別れた元カノから元カノを取り返したというような気持ちなのかもしれない。僕は彼とケンカ別れをしたわけではないのだが。



状況を複雑にさせているかもしれないもう1つの要素は、その元カノ(元社員)は元々友人の職場(別の場所)で働いており、その点では友人の職場に戻ることはある意味元サヤなのだ。

友人からすれば元カノ(僕)に去られたうえ、元カノ(元社員)を取られたので、その元カノ(僕)からその元カノ(元社員)を取り返したかったのかもしれない。

友人が元カノ(元社員)と別れる(元々の職場をやめてうちに来るとき)とき、復帰は二度とない片道切符だと突き付けたことを知っている身としては、よっぽど執着があったのかと思ってしまった。

僕は元カノが友人と別れるとき散々相談して了承を取ってから採用したのだから、今回も相談してほしかったと思ったが。友人からすればもう僕とは別れているので、了承は必要ないと思ったのだろう。その辺は感覚が大いに異なるところだが。



突然の元カレ(僕)の訪問を受けた元カノ(元社員)はやや驚いた様子で、僕の目を見たまま3センチくらいの軽い会釈をした。僕は1ミリも動かず目は少し見たあと話題を変えた。

こういう人間関係における欲の露出のようなものは、僕がこの10数年間、付き合っている彼女の元カレとの密会を目撃して以来、なるべくなるべく避けてきたものだ。今回は心は痛まなかったが。




元カノ(元社員)との別れ方は最悪だったので、正直元社員に何の未練もないが友人のことは残念だ。

彼が同じように最悪な別れ方をしないことを願おう。というほど人間はできていないので、二度とその露出を僕の人生に持ち込まないようにと願うことにする。

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おそらく数年ぶりにディベートの夢を見たので書いておこうと思った。

夢を見るということは眠りが浅いということで、夢を見た時間は朝5時半のアラームで目を覚ましたあとの二度寝の時間だったと思う。

なぜ五時半にアラームをセットしているかというと、何かの記事で世の中のCEOは五時半に起きて自分の時間を大切にしている、みたいなものを読んだためだ。

朝は誰にも邪魔されない時間だから素晴らしいのだというから、僕も誰にも邪魔されずに二度寝を満喫させてもらっている。



二度寝といえば、高校の卒業文集に書いた文章のタイトルは二度寝だった。本田圭佑が小学生の頃、ヨーロッパのプロリーグで活躍する目標を語っていたというあの卒業文集で、高校生の僕は二度寝について語っていたのである。割りと後ろ向きな内容で。

ちなみに同じコント班に属していた塩谷の卒業文集のタイトルは蒲団で、まだ蒲団から出たくない、といった似たような内容だった。

あの頃の僕らはそういう時代の空気に支配されていたのだろう。



ディベートの夢の内容は、1NCのスピーチをしないといけないのに、マテがなくてプレパタイムがどんどんなくなっていくというもので、これが何かを象徴しているかもしれないと考えるのが自然だろうか。

そんな心当たりは一切ないのだが、とりあえず想像してみる。

ディベーターならわかると思うが、準備ができていないのにスピーチを始めなくてはならないことほど辛いことはない。

準備ができていないのに本番を迎えなくてはいけない精神状態なのだろうか。



また、なぜ1NCだったのだろう。1NCは相手のケースに反論をしなくてはいけない立場だ。何かケチをつけたい現実に、効果的に反論を持ち合わせていなくて困っているのだろうか。



パートナーは後輩だった気がする。だからマテもないのに、どこか余裕ぶっていた。焦りを見せてはいけない心境?




夢はスピーチを待たずに目が覚めた。起きたら脂汗をかいていたなどということもなく。

多分この夢は何の深層心理も反映していない。が、敢えてポジティブに活用しようとするならば、マテがなくてもスピーチが始まれば堂々と勝負しろ、というメッセージだ。たとえそれがジェネリックイシューのスプレッドだとしても。

大丈夫、あとは僕のことを放っておけない誰か(2ネガ)がなんとかしてくれる。

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これはH2で比呂がサッカーを始めた頃に言ったセリフだったと思う。

普段は社会の仕組みとか、その中での自分の位置づけとか、やっていることの意義とか、今後の自分のキャリアとか、家族や恋人との人間関係とか、まあ要は色々なことを考えてながら生きているのだが、(そしてその過程でウェブをサーフィンしたり、フェイスブックで他人の近況を見たり、不要と思われる可能性の高い情報をなんとなく仕入れているわけだが)、たまにモチベーションのスイッチが入って目の前のことをとりあえずやってやろうという気になることがある。

この気持ちは大変貴重だ。

そしてこれまでの経験上、このスイッチは怒りによってもたらされることが多い。

怒りは何も特定の他人に対する怒りだけでなく、自分や社会全体に対するものだったりする。

多分怒りによって一瞬周りが見えなくなって、余計な考えがなくなるのだと思う。そして現実を変えたくなる。

その衝動はきっと良いことだ。



怒りの原因は何だってよい。熱くさせてくれさえすれば。

猛烈にアウトプットしないといけないという思いにとらわれ、ブログを再開するに至った。

生きている以上何らかのアウトプットはしているわけだし、日々の仕事を通してなにがしかのアウトプットはしているのだけど、それだけじゃなくて、ここで書くというアウトプットをしたいと思った。

それは自分の人生が仕事だけで規定されているのではないという自己確認のためであるかもしれないし、アウトプットすることで思考が整理されるという自分が尤もだと思うテーゼのためかもしれない。



人間は多分複雑だ。

生命体としての人間は色々なフィードバックサイクルや意識の及ばない様々な仕組みによって維持されていると感じる。それで体調が悪くなったり、気分が落ち込んだりするのだ。多分。

がそれを真に受けても仕方ない。アウトプットするということは自分を整理するために、諸々のものを切り捨てることだと思う。

そしてその単純化された自分を再度見つめることで、自分はこういうものかと信じ込む。そういう効果がアウトプットにはあると思う。

自分に自分を教えてあげるのだ。

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一旦気が抜けたらあっという間に更新しないまま1か月経ってしまった。まあでもそれで凹んだりすることもなくなった。これが大人になるということか。



今、(やや)お世話になっている方からのお誘いで、とあるイベントの運営に携わることになったのだが、ここでの運営方法がいつか来た道という気がしている。

いつか来た道というのは、NAFAであり、SACクラスのことだが、

1.メンバーに強い動機があるわけではないが、付き合いや断れない理由があり、参加している
2.会の中にシニアなメンバーがいて本音を言い合える環境とは言えない
3.その中で何とか参加している意味を求めようと議論を進めようとするが、1そもそも動機が弱いことや2本音で議論できる環境ではないため、議論は遅々として進まない

という状況は既視感満載である。



過去の経験からこういう会(メンバーのインセンティブは低いがやめづらい環境)への関わりはできるだけ避けてきたのだが、今回は縁というか付き合いというかそういう形で引き受けてしまったので困っている。


この場合とりえる行動は以下。

A.やるからには結果を出そうと奮起する
B.所詮付き合いと割り切って付き合いが損なわれない程度にそこそこやる



これまでも、今のところ今回もAでやってきているわけだが、それで周りを動かして結果をドライブするためには相当の労力を必要とするし、それをすることによって会のメンバーから浮いてしまうというか、逆にそこまで求めてないよ、的な状況にもなってしまいかねないので、注意が必要だ。

NAFAのときはまさにそんな感じだったし、SACのときはクラスキャプテンやオフィスヘッドは評価してくれたからそれは良かったと思っているが、同僚からは必ずしも喜ばれたわけではなかった。余計なことをしてくれるな感。

今回もそんな気もするのでそこは見極めないと。




そして、こういうときに痛感するのがいわゆるリーダー的ポジションの人の行動の重要性。

前述の通り、動機が弱いくせにシニアメンバー等の建前のために嫌々やらなければいけない状況では、AかBか行動を方向付けるのはリーダーの役割だと言う気がする。

もちろん平スタッフも働きかけはできるのだが、対等な立場で動機づけたり巻き込んだりというのはリーダーの立場でやることに比べたら骨が折れることは確かだ。そもそも意見を聞くことさえ困難であったりする。

(例えばメーリスに全く反応しない人がいるというのは3回全てに共通すること。それならなんでメンバーになったのか疑問に思ってしまうが、B付き合いを損なわない程度に言われたことはやろう、という方針なのかもしれない。その覚悟はある意味すごいが、結局裏で仕事の押し付け合いをしたりするのでまあ正直醜い)。



が、リーダーがそこで何も指針を示さないと多分会は崩壊する。というか、結局個々人が自分のインセンティブを最大化させるように働くので、協調戦略が実現せず、裏切りが最適解となってしまう。

が、これは全体の利得どころか、個々人にとっての利得も最適解を実現していない。いわゆる囚人のジレンマであり、ナッシュ均衡ではあるが、パレート最適でない状況が実現してしまう。

これを解決するのがリーダーの指針であり、個々人の本音を共有させるファシリテーションだ。



同じような状況は、例えば意味のない打ち合わせなど。

みんな意味がないと思っていると強く思っていたとしても、それを自分が言うと周りが賛同してくれなかったり、偉い人の気分を損ねたりするときに自分だけ損をする役回りなので、誰も言えない。

よって会議は踊る、されど進まず。






だから正統性を持つリーダーやファシリテーターは重要なのだが、もう1つの方法として根回しというのがある。

たとえ平スタッフでも根回しをしておくことで協調戦略を誘導するのだ。

これはリーダーがイケてなかったときでも使える数少ない有効な戦略かもしれない。

が、根回しのコストはさらに高く、そこに明確なインセンティブは存在しないので、根回し自体が行われることは少ない。

そこを根気よく取り組むことができる人が影のフィクサーとなり得るのかもしれない。

その辺が自分の課題と言えば課題かも。それが成功したときの利得が十分大きければだけど。




きっとこういう事例は世の中に満ち溢れている気がする。日本人の場合空気を読めちゃったりするので特に。

強制力の弱いボランティアみたいな組織があまりうまくいかないのも同じ状況だろう。

なので、うまくいくのはオーナー企業だし、王様の命令は絶対なのだ。

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久々更新。

Newspicksで、ブラックバイトに対して学生がユニオン(労組)を結成しているという記事に対して、多くの人が「嫌なら辞めればいいのに」とコメントしていて、一部「明らかに法令違反を犯しているブラックバイトを変えようとすることは悪いことではない」、「辞めれば良いという人は冷たすぎる」などの見解が分かれていた。

数で言うと、前者が7割くらいだったと思う。

個人的には、確かに本人の効用だけを見たら辞めた方が早いと思うけど、効用以外で割り切れない正義感とか違和感が学生だし多分あって、それでユニオンという手段は、たとえそれが稚拙な方法である可能性があったとしても、まずは一言「やろうとしていることは間違っていない」ということを伝えてあげたいと思った。



過去に同じようなことを感じたことがある。

小さい頃に母親から「周りの人のことを考えられる人になりなさい」と言われていて、確かにやり方が下手で周りとぶつかったりもしたけど、自分ひとりの閉じた効用ではなく、全体が満足に近づくような行動をとることが正義なのだと思ってきた。

それが、あるときから母親は「自分が傷ついたら仕方ないのだから、傷つくことからは逃げなさい」ということがあり、それなら今まで言ってきたことは何だったんだ、と反発したことを覚えている。




これはおそらく共同体の範囲の捉え方の問題だと思う。

例えばブラックバイトを運営しているのが自分の家族だったら、それは自分の効用を離れて止めようとすると思う。でもそんなブラックバイトは辞めてしまえば自分とは関係のない世界なのだから、それでおしまいと思えばその方が楽だ。

同じように、例えばいじめも多くの人は自分がターゲットになるのが嫌だから見てみぬふりをしてしまうそうだが、クラスに共同体意識があれば、自分がターゲットになることを避けつつも何かうまい方法を考えるんじゃないかと思う。それが自分とは関係ないと思った時点で自分のために目立つ行動は避けるようになる。それは生徒も先生も同じだろう。



ある人は同じ日本人というだけで同じような意識を感じるだろうし、例えば僕が以前言われたことには、とある大学出身の人に「俺は〇〇大学出身だから、たとえ面識がなくてもどうしても〇〇大学のやつの方がかわいい」というものがあった。彼は出身大学というものにシンパシーを感じていたのだろう。




昔(就職する前の頃)僕が考えていたのは、全体最適を実現するにはどうしたらいいかということで、ここでいう全体とは人類全体のことだった。

例えばある企業に就職して、その会社の業績を良くすることに貢献できたとして、競合の業績が悪くなったとしたらそれは世の中にとってゼロサムではないか、といったような悩みをかなり真剣に持っていた。

その後、市場の中で競争はより良いものを生み出すプロセスとして肯定される、というロジックで頭では納得したつもりだったが、市場で解決できない分野(環境・平和などの公共財や貧困などの格差)に関心を向けさせることは防げなかった。





そうしたある意味無垢な共同体意識が次第に薄れていった原因は、やはり頭の中でだけ考えていた共同体意識をが、現実の様々な経験の中で維持することができなくなったからだろう。

例えば貧困。

世の中を全体を見渡せば、恵まれた先進国の人間に効用を加えるより、同じ資源で貧しさを解消した方が効用は大きい気がする。それをしようとしている国連のような組織もたくさんあるし、そのことの方が「イイコト」のように見える。

でもそこを少し掘り下げると、「なぜ僕が見ず知らずの人の貧困を」という問いが生じる。

単純に地球を1つの共同体として認識できるのか。

或いはもっと単純に、相手の幸せを自分のこととして、自分の効用を抑えてでも喜べるのか。

緒方貞子さんがなぜ援助をするかという話で、「人は一人では生きられないし、日本は世界中とつながっている」という「情けは人の為ならず」のようなロジックを語っていたような気がするが、そこの確信を得るのはなかなかスムーズではないだろう。

他方、マザーテレサは「遠い国の子どもの貧困を助けるより、日本にいる貧しい人を助けなさい」と言っているが、これも同じことかもしれない。

「汝、隣人を愛せよ」ということの本質はそういうことで、だからこそキリスト教はコミュニティを大切にするし、一旦部外者、敵のレッテルを貼れば、悪魔のように殲滅しないといけないのだろう。十字軍のように。それが必ずしも間違っているとも言えない。





となると、人の行動を決める大きな部分に、「共同体意識の範囲」というものが占めるようになるだろう。

例えば、よく「なんで人を殺してはいけないの」という問いに誰もまともに答えられない、というような問題が倫理上の大きな問題のように取り上げられることがあるが、現実的にはその問いに答えるよりも、実際に殺させないためには、そもそも殺したいという感情が生じさせないようにすることの方が重要だ。

そのとき共同体意識、つまり仲間意識が育っていれば殺したいとは思わないだろう。秋葉原の事件が世間を震撼させて久しいが、あの加害者は自分がどんどん周りから疎外されていくというように感じていたという例もある。

国のレベルでいえば公民教育や愛国心というものはそういうものだろう。国歌斉唱を義務化したからといって、仲間意識が芽生えるとは全く思えない。どうしたら自然に国歌や国旗、それに象徴されているものに共同体意識を抱くようになるかが大事そうだ。

世界平和も、案外宇宙人の出現によって地球という星全体の利害が現れることで実現するかもしれない。





今日日本では選挙があり、与党が大勝したらしい。

勝った方や負けた方で悲喜こもごもだったり、戦後最低の低投票率でみんな無関心だったりしたようだが、この仲間意識をどう持つか、というのは日本の為とは言わず、個人が幸せに生きるためにも大事なことな気がする。

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前回の防御編,らだいぶ間が空いてしまったが、今日は幸せに生きるための攻撃編。

ここでいう攻撃とは、自分でポジティブにアクションをとって幸せを手繰り寄せる行為のこと。或いは自分が幸せに近づくと言っても良い。

逆に防御編は、自分に訪れる不幸から身を守ること。いわばマイナスを0にすることだから、性質が異なる。



幸せになるために具体的にあーしろこーしろという指南書は本屋にたくさん並んでいると思うが、ここではより広いスタンスとして考えたい。

それは、自分の人生に変化をもたらすような実行可能なオプションを持つというである。

それは例えば住む場所を変えるでも、時間の使い方を変えるでも、付き合う人を変えるでも、変化が訪れそうなことなら良い。

ここではそのオプションの当否は論じられないが、オプションを持つこと自体が、たとえそのオプションを実行しなくてもそれを実行すれば変化が訪れる、という期待を抱かせるという意味で幸せに近づくと思う。



この意見には否定的な意見もあるだろう。

いわゆる青い鳥症候群や隣の芝生理論で、ココデハナイドコカにばかり期待を求めて、イマココで最善を尽くすことができないという。

確かに、結果的にはそういうこともあると思う。

つまり、イマココがどんなにつらくともそれに全力で取り組めば、それを乗り越えて幸せが待っている、場合もあるかもしれない。

しかし、乗り越えられなかった場合は悲劇だ。自分はダメだと思いこんで、最悪自死を選んでしまう人もいる。

この考え方のたちの悪いところは、成功者ほどこうした考えをとりたがるということだ。そしてそれは自信の成功体験に基づいており、信念からそう語っているのでより一層たちが悪い。どこぞのチェーン店で起こったようなことになってしまう。




一方、ココデハナイドコカに何かいいものがあるかもしれない、という考えは、イマココでの成功確率を下げるかもしれないが、弱っている人間が破滅に向かうのを防ぐには効果的だ。

さらに、そうした考え方をすることで、今の苦しみや欲を相対化でき、もしかしたら心が軽くなって、イマココでもうまく行く確率が上がる効果もあるかもしれない。





まとめると、イマココではない人生の選択肢を持つことは、

・その選択肢を実行したときに幸せに近づくかどうかはわからない

・実行しない場合に、イマココでの成功確率が高まるかどうかもわからない
(目の前に集中できなくなり下がる可能性もあるし、今の自分を相対化できて上がる可能性もある)

・が、少なくともイマココでうまくいかないとき、次があると思うことができる。イマココがだめでも自分を否定したり世の中全体を否定しなくても良い。というメリットがあると思う。



世の中、逃げだとか言う人も多いが、他人に振り回されることほど幸せから遠ざかることはない。

世界での戦い方=幸せの見つけ方ということを考えるにあたって、自分がどういうことに傷つくのかということを客観的に把握しておくことは大事だろう。

傷つくというのは、文字通り、心に傷がつけられたように感じる瞬間であり、結構ショックを受けてしまったりする。

そういうインパクトの大きい問題に対応策を持っておくことは、幸せを維持するためには大切だ。




実は、傷ついたことを明示的に考える機会は以前に一度だけあり、小学校の授業で傷ついた言葉を書いて先生に提出する、という課題があった。

そのとき書いたことは今でも覚えていて、以下の3つだ。

1.顔がでかい

2.走り方がペンギンみたい

3.成績が良いのはどうせ塾行ってるから



我ながらよく覚えているなと思うが、当時は自分の恥ずかしい姿を晒すように書いたし、それが信頼していたとはいえ、他人である担任の先生に見られるということが相当な告白だったのだろう。

今思えばそれほど大したことを言われていない気もするが、傷ついたからには、当時の自分にとっては深刻だったに違いない。

おそらく人が傷つくというのには、2つの要素があって、1つは自分にとって良くないと思っている評価を受けること、もう1つがそれが突然わかることだ

逆に言うと、たとえネガティブなことを言われても、自分でも思っていることについては、傷つかない。確かに、再確認して傷つく、というのはあるが、再確認というのは更に気づかされたという意味であり、再発見みたいなニュアンスを含んでいる。



上の3つで言うと、

1は顔がでかい、というのは自分の中であまりかっこよくないことであり、言われるまではそう自分では思っていなかった

2は足が速いことをある意味自慢に思っていたのが、走り方がペンギンみたいであることに気付かず速い自分に酔っていた

3は成績が良いのは憧れの対象で、それが嫉妬に転じることすらあれ、塾行ってるから当然で、何でもないことと思われていた

ということに気付かされ、傷ついたのだろう。気づくと傷つくのだ。




そして今気づいたことがあるが、上記の3つはそれが発せられた後クラスに笑いが起きた。

つまり、クラスの大多数の人間はそう思っていたということであり、それがなおさら自分だけ勘違いしていた感を強くし、傷ついたと思ったのだろう。




ちなみに最近の傷ついたことは、知り合いと参加した飲み会の感想で「あの人とはこういう話をする傾向にあるね。とか初対面の人同士で自分のことを話す人が多いと盛り上がりにくいね」とか言っていたら、その知り合いが「そんなに嫌ならもう飲み会でない方が良いんじゃないですか」と言ったこと。

普通の会話として話していたつもりが、人の悪口みたいに聞かれていたことと相手がそういうほど感じの悪い感じだったのか、と思ってショックだった。

まあ、別の経験からその相手の考え方や発言が普遍的とは思っていないで、そこが救いではあるが。





で、結局何が言いたいかというと、傷つくことへの防御力を高める方法としては、とりもなおさず、ここでしたように、ときおり自分が傷つくことについて振り返ってみる、ということではないか、ということだ。

上述したように、傷つくのは、自分にとって良くない評価が突然わかること、である。

それはいわば辻斬りにあったようなもので、自分の心が無防備なときにマイナスの評価を受けるとダメージが大きい。

ドラクエでいうと、「まもののむれは、とつぜんおそいかかってきた」というやつだ。

なので、自分が傷ついたことを振り返っておくことで、自分の傷つきやすいポイントがわかる。すると、同じように言われてもそれは耐性がついていたり、反論を自分の中で持っているということになる。



この「反論を持っておく」というのは、内容よりも持っておくということが大事なのであり、それは自分が納得できさえすればなんでもいいと思う。

例えば、上述の

・その相手の考え方や発言が普遍的とは思っていない

というのもでも良い。つまり、その人の言うことはそんなに普遍的でもないし大真面目に捉えなくてもいいよ、というメッセージだ。

逆に上述のクラスの笑い声の例のように、数の力で迫られるときは要注意だ。世の中多数派の方が正しい、という間違った理解がなんとなく信じられており、自分もその力に負けそうになりやすいからだ。




しかし、中にはそう簡単に自分の中で反論を見つけられない問いもあるだろう。

それはつまり、自分で自分にネガティブな評価を、ある程度恒久的に下しているということであり、すなわち劣等感だ。

劣等感は、普段は心の奥、でもはっきりとわかる場所にそっとしまってあり、できるだけ人目に触れないように保管しているのだが、ときにそれがそとから見つけられてしまったり、自分の中でも無視できない存在として、思考を支配してしまったりする。

最近では女子としての劣等感にさいなまれる「こじらせ女子」というのが海の向こうの日本では流行っているらしいが、下手にこじらせると長引く。



幸せには、劣等感への対処法も重要であるので、別途検討することとする。

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昨日の記事では、さらっと人生の目的は幸せになることだと書いた。

これは一見当たり前のように思えるし、何の抵抗もなく水を飲むように受け入れることができる人もいるだろう。

が、そうやって幸せを求めることをさらっと受け入れるまでに時間のかかる類の人間がいる。

ある教育を受けた人間の中には、自分が幸せになるよりも、周りや社会の幸せを求めなくてはならないのではないか、と思いこんでしまう人間が一定程度発生するのだ。

これはノブレス・オブリージュと言っても良いし、肥大化した自意識と言っても大した差はない。

こうした人間は自分が幸せになってはいけないくらいのことを真面目に思っていて、それで自意識と他者からの承認との相克に勝手に苦しんだりするのだ。これはそうだった当人が言うのだから間違いない。



これはいわゆるエリート教育というやつともかかわってくるが、一定の割合でそういう人間が発生するのは社会全体にとっては望ましいこと、というか、ある意味社会の延命装置として組み込まれているともいえる。

が、問題はそうした当人の幸せについてである。

ミンナノシアワセガジブンノシアワセ、と無邪気に信じられているうちは良いが、周りに望まれて感謝される経験が少なかったり、自分が信じていた人に裏切られたり、あまりにも悪い人間を見てきたりすると、自分の信じていた幸せを疑いだす。

疑いが深くなる前に、「周りは所詮バカなのだから自分が導いてやらないといけない。迷える子羊さ」と、羊飼いとしてのアイデンティティを確立できるほど自信があるか、筋金入りなら問題ないが(大体30を過ぎると症状は治まる)、そこまで自分を信じ込めない人間は、そこではじめて気づく。

「そうか、自分が幸せになった方が良いんだ」と。

「なった方が良い」というのは、周りも実はそれを望んでいるのだろう、ということをなんとなく信じられ始める、或いはそれが気にならなくなり始める、というくらいの意味だ。

ここを過ぎれば、おたふく風邪と同じで、もう同じ病にはかからない、と思われる(現在)。



そこではじめて人生のゴールがセットされ(リセットされるとも言う)、幸せという言葉の意味を考え始めたりする。

だいぶ遠回りはしたが、ゴール設定ができたことはスタート地点に立てたということでもある。

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ブログを復活させて、なんとか毎日書いてきて、でもあまりしっくりこない感じがするのだが、書いてることに一貫性がないのではないか、ということを思い始めた。

日々思ったり感じたりすることを書いていて、特に自分では自分が感じる世間との違和感を言葉にしたいと思って書いてきたのだけど、改めてやっぱり軸があった方が良いなと思った。

で、その軸が何かと考えてみたところ、「この世界での戦い方」という風に落ち着いた。



この「戦い」のゴールは魔王を倒すことではなく、自分が幸せになることだ。

でもそのためにはいろんな敵が襲ってくるし、体力が奪われることもある。

だから、攻撃力を身につけることも必要だし、防御力を高めたり、時には宿屋で休憩することも大切だ。



日々感じる違和感というのは、攻撃を受けていることだったり、またはその予兆だ。でも、それに対処することはある意味スキルのようなものかもしれない。

そこには多分それなりに普遍的な攻略法もあるだろう。そのための攻略本をみたいなものを書けたら良いなと思う。それがどれだけ他人に通用するかはともかく、少なくとも自分にとっては有効な。



他の人をブログを読んでいて、その人の攻略法が自分にとっても役に立ちそう、というものについてはとても読む気が沸いてくる。

逆に、どんなに成功しているように見えても、その人の攻略法はそーいう人にだけしか通用しないもので、自分とは違うと思った瞬間、読む気はしなくなる。

逆にそういう自分にとって非現実的な成功譚みたいなものを見続けるのはそれこそ百害あって一利なしだろう。




自分にとっての生きるヒントをポジティブに綴っていこうと思う。

他人の機嫌を伺ってばかりいる人間は何かとさげすまれたりする気がするが、機嫌を取ること自体は他人をハッピーにさせているわけだから、褒められるべき類だろう。

これが自分の機嫌を取ることに関しては、殆ど考えたこともない人が多いと思うが、自分をハッピーにすることだから、実はとても大事だろう。


機嫌を取ろうとするとき、人は顔色を窺い、気分や反応を探ろうとするものだが、自分の顔色をちゃんと窺っていることはあまりない気がする。

そもそも鏡は1日に1回朝見るくらいで、その後自分がどういう顔をしているか見る機会は実は少ない。

しかしこれは宜しくない。

大抵自分の気持ちは自分ではわかっているから顔を見る必要はないと思っているくらいだろうが、自意識というやつはときに客観性を失うので、ときに客観的に自分の顔色を窺うことも大事だろう。



内面的にしても、自分の機嫌がどういう状態で、その原因は何で、どうしたら機嫌が良くなれるか、ということを気にしておくことは大事だと思う。

「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」というが、自分を正しく認識しないと、他人(社会)の認識もずれてきてしまう、というのが実際ではないか。




今まで冷たい対応で傷つけることもあったかもしれないけど、たまには自分の話をじっくり聞いてやろうと思う。

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ベトナムに来てはや1年ちょっとが過ぎたわけですが、あっという間だったという気がします。

最初は友達の会社の手伝い、次は知り合った人の事業の継承、とやってきたことは変わり、ビジネス自体の困難やお金・友情と人間関係など、色々経験もしました。


今も順風満帆というわけではないですが、あまり1つのことで一喜一憂しないようになってきたかなという実感があります。

冷静になったというか、期待しなくなったというか。良い意味でそうだと思っています。



例えば今の事業にしてもいつまで続けるかわかりませんし、このまま続けても先が見えないと思ったら辞めるかもしませんし、事業には関りつつ自分は別の仕事を始める、という選択肢もあるかもしれません。

多分、これまでと変わったことは、これまでは1つの道というか今いる道が大事で、その中でうまくやらなきゃ、と思っていたのが、ダメなら次を考えれば良いかなと思えてきたような気がします。


もちろん、それで失っているものもたくさんあります。

例えば、友達や恋人や家族と会う時間とか、東京で良いものに出会える機会とか、本を自由に買えるお金とか。

でもそれも選択の結果であって、その分得られたものもあると思っているので、プラマイゼロかなと。

これで家族がいたり、子どもがいたりすると違うんでしょうけどね。そういう意味では、そういう選択肢を今のところ失っているということなのかもしれませんが、いずれ戻ることもあるでしょう。



問題があるとすると、そうやってニュートラルにやってると、あまりアドレナリンが出るような機会がないというか、全身全霊で没頭するみたいな、それはそれで楽しい経験があまりないということでしょうか。

まあそれは余裕ができたら挑戦してみたいことの1つとしてとっておこうと思います。

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ビジネスでもプライベートでも分かり合えないときというのはあって、それはお互いの利得が合わなくて交渉がうまくいかなかったのだから、仕方ないことなのだが、その後のよい対処というのがあって初めて成り立つ関係性もある。

先日橋下市長と在特会の代表が討議をしようとして、討議になっていなかったのが話題になっていたようだが、あれも意見は違っても話し合って差異を理解したり、妥協点を探る、という目的が共有できていればああいうことにはなっていなかったと思われる。


これは民主主義の前提みたいなところがあって、民主主義というと数の力と思われる節もあるが、討議と多数決というのは一体のプロセスであって、討議のない多数決だけの民主主義では、討議だとか熟議によってよりよい解決策が導かれるプロセスがないので、片手落ちと気がする。



そうしたメタ的なフレームワークというか暗黙の了解というのは、社会の様々な機能を司る前提となっていて、例えば市場社会が成り立つためには法律だったり、様々な仕組みが必要だ。


法律まで持ち出さなくても、精神的なレベルで、「この人とは少なくとも合理的に話し合える人だ」という理解がないと、そもそも交渉のテーブルにすらつくことができない。

サッチャーがゴルバチョフを称して"彼となら話ができる"と言ったのは有名だが、そういうものだ。




これが異文化コミュニケーションになると少しややこしい。

もちろん、普遍的な概念や慣習(経済的利得、笑顔、握手、等)によって歩み寄ることはできるが、そもそもロジックを踏まえない人間であったり、相手の目的レベルで理解することができない(自分の考えるフレームワークのみでしか判断できない)人間だと、交渉は難しい。



その際、上述したメタ的な共通理解があるかというと、それも怪しいが、少なくとも暴力に訴えることはない、くらいの条件であれば良しとしなくてはいけないのかもしれない。



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突然だが、圧倒的に自分を肯定することが幸福になる道だということが突然真実のように感じられた。

自分を否定してくるような他人の意見に耳を傾ける必要は全くない。

自分で自分を肯定できないときもあるが、それには理由があったのだと肯定しよう。

そして次の日からもっと肯定できるように行動すればよい。




幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。
−アラン



良い事があってこその笑顔じゃなくて 笑顔でいりゃ 良い事あると思えたら それが良い事の 序章です
−桜井和寿



というのが真実であるように

自信があるから肯定するのではない、肯定するから自信が生まれるのだ
−オレ


というのも真実だろう。



要は感情は行動によって決まるし、行動は理屈によっては決まらない、ということだ。

女性に向かって

「すっぴんの方がかわいい」

と言っている男性を過去に何度かみたことがあるが、それが女性をほめていることになるのか、けなしていることになるのか、未だに真意を測りかねている。


「素顔を褒められた」と言って喜ぶ女性もいるような気もするし、

「化粧してるのにすっぴんより悪いってどうなの」と言って素直に喜べない女性もいるような気がする。

僕の経験値ではちょっと判別できない。



が、いずれにせよ、化粧をしないありのままの私、の方が褒められているわけなので、素直にポジティブに捉えても良さそうな気がする。






一方、似たような言葉に

「眼鏡の方がカッコいい」

というものがある。

自分も何度か言われたことがあるが、本当にその方が良いと思っているのか、素顔が良くないという皮肉なのか。


「ありがとう!」と素直に受け取って、後者の意味だったら、皮肉もわからない能天気ヤローということになるし、

「え、素顔が良くないっていう皮肉?(笑)」と返して、前者の意味だったら、人の言葉を素直に受け取れない自虐的な人で、かつ、善意で褒めてくれた相手に気まずい思いをさせることになってしまう。




こうした勘違いを避けるため、もし後者の意味で言っているのであれば、「眼鏡の方がカッコいい」などという曖昧な言い回しは避け、

「眼鏡の方がカッコいいねね。ついでにマスクと帽子もして、襟立てて歩いた方が良いよ」

くらい、はっきりと皮肉性を押し出してもらいたい。




他方、前者のときは少し複雑だ。

本当に眼鏡をかけている方が良いと思われているとしたら、それはそれで自分の素顔に対してやや自信を失う。

化粧の場合とは違い、ありのままの素顔より眼鏡で加工された方がイケている、ということなので、どちらかというと悲観すべきことなのかなという気がする。




いずれにしても、「眼鏡の方がカッコいい」と言われたときは、できるだけ平静を装って口では「結構印象違うかな?」くらいのゼロビット回答をしておき、心の中で「絶対きれいになってやる」と誓いながら家で竹内まりやを聞くくらいの方が良さそうだ。



※ゼロビット回答:してもしなくても、会話と世の中に何の意味も与えない回答

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世の中には「良い人」と呼ばれる人たちがいて、彼らは例外なく大なり小なりの生きづらさを抱えていると思います。

良い人なのに苦しむ、というのは「この世に神はいないのか」という感じですが、良い人というのはときに「都合の良い人」であり、利用されやすい存在であるからです。



ちなみに、「良い人」の反対は「悪い人」ではなく「邪悪な人」です。


単に「悪い人」だと、特定の行動にも使われることもあると思います。

例えば車で送って行った帰りに突然のキスをして「まあ、悪い人///」みたいな。ない?

でもなんとなくあまり悪いと思っていない気がするのです。



が、邪悪な人というのはもう根っからの悪です。

彼らの本質は、如何に自分が得をするかを考えていて、その際他人の利害を考慮だにしないということです。

たとえ全体最適を目指せる場面でも、効用の単位は完全に自分に閉じていて、ゼロサムゲームを厭わないことが特徴です。

何より質が悪いのは、彼らは自分が悪であることに気づいてすらいない可能性がある、という点です。



この辺は以前「邪悪な人々」という記事に書きました。

http://blog.livedoor.jp/yusaku623/archives/52508396.html





なお、逆に「良い人」は「良い人」でなくてはならず、「善良な人」ではありません。

「善良な人」というと、ただ人畜無害というか、「善良な市民」というように、特に悪いことはしていない、という側面が強調されすぎているきらいがあります。

しかし、「良い人」の本質は、

・人の気持ちに敏感で、それを思いやった行動をとることができる

・その一方で自分も繊細で傷つきやすい。なので、他人と争うことは極力避け、自分が我慢すれば良いと思ってしまう

という点です。なので、結果的に苦しむことが多い。






囚人のジレンマでいうと、友達のことは絶対に売らず、でもその友達には売られ、自分だけ長い懲役をくらってしまう人です。でもそんなことは最初からわかっていたじゃないか、と空を見上げる。それが「良い人」です。

ことの本質は、どんなコミュニティにも「良い人」と「邪悪な人」がおり、その場合「良い人」は必ず傷ついてしまうということです。




「それも自分で選んだ行動ではないか」と言う人もいるでしょう。
いかにも邪悪な人が言いそうなことです。

「良い人」ならそうせざるを得なかった気持ちがよくわかりますし、そんな人を放っておけないのが「良い人」です。






ということで、自分が「良い人」であるということを暗にカミングアウトしたところで、ここに「良い人同盟」を結成し、良い人同士が安心して話せる社会を築きたいと思います。

上述の通り、社会には「良い人」と「邪悪な人」とが混ざり合っており、その状況が苦しみを生んでいるのでした。

なので、「良い人」だけの同盟を作り、誰もが苦しまずに済むユートピアを築こうというわけです。




「良い人」がいなくなったあとには、「邪悪な人」のみが残りますが、それはそれで問題ありません。彼らは自分の利得の最大化のみを求める集団であり、誰もがそういう行動をとるので、特に誰も傷つかないのです。

良い人と邪悪な人が混じり合って存在していることが問題の本質です。







なお、ここでいくつか注意点を挙げると、

・良い人同盟は秘密結社です。

なぜなら良い人で占められたコミュニティというのは、邪悪な人にとっては天国のような場所であり、良い人を騙って邪悪な人が入り込もうとすることは想像に難くないからです。

その場合、良い人しかいないはずの場所に邪悪な人を見つけた良い人のショックは計り知れません。それこそ「この世に神はいないのか」という状況になってしまい、逆効果です。

そのため、良い人同盟はあくまで公には知られない存在としてあり続けます。





・良い人同盟への参加は招待制をとっており、自薦は認められません。

そもそも人の気持ちに敏感で相手に気持ちを考えることができる「良い人」が自分から良い人同盟に入れてくれ、と言ってくる可能性は低いと思います。寧ろスパイ(=邪悪な人)の可能性が高い。

それでも念には念を入れて、メンバーからの推薦と慎重な審査を経て同盟への参加を認めています。





・いわゆる「人をいじる」人は入れません。

世間ではいじりキャラ、いじられキャラというように気軽に分類しようとしますが、人をいじる、という行為は一見周りを楽しませているように見えて、人の特徴や性質を面白おかしく喧伝しているわけで、本人をとても傷つけているかもしれないとても危険な行為です。

しかも、いじられている人が「良い人」だった場合には、「周りの人が楽しんでいるかもしれない」という空気の圧力により、嫌だと言えず、苦しみを拡大させている可能性が高い。

なので、そもそも人をいじる人が「良い人」である可能性はありません。

いじられている方は「良い人」でない可能性もあるので、いじる人が全て「邪悪な人」とは限りませんが。







いかがでしょうか。

「良い人」であれば、雲間から一筋の光が射すように、まだ世の中への希望を抱いたことでしょう。

「邪悪な人」は、特に何も感じなかったでしょうけど。




「良い人」の皆さんは、そのうち個別に招待状をお送りしたいと思うので、もうしばらくお待ちください。

「良い人」からすれば誰が「良い人」で誰が「邪悪な人」かは一目瞭然ですので。

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確か「すーちゃん」だったような気がするが、あるパーティで、

・自分(すーちゃん)はAとBをそれぞれ知っているが、AとBは面識がない

・AはDと知り合いだが、すーちゃんとDは面識がない

という場面がある。






このとき

・すーちゃんはAをBに紹介してあげるが、

・AはDをすーちゃんに紹介してくれない。


すーちゃんはAに対して(私をDに紹介しろよ)と心のなかで思うが、口には出さず、自分からDに自己紹介をする。

そして、心の中で「私だってもう子どもじゃないんだ」というようなことを思う。







今日、自分と面識のない人と会う機会が2度あった。

場面1:自分はEと面識はないが、Fは自分ともEとも面識がある

場面2:自分はGと面識はないが、Hは自分ともGとも面識がある




このとき、

・FはE自分に紹介してくれたが

・HはGを自分には紹介しなかった



そして場面2ですーちゃんとも違うのは、

・自分はGに対して自分から自己紹介をしなかった

(・ちなみにHは自分とGに対し「あれ?2人とも何か喋った?何で話さないの?」と言った)







整理すると、ここでは2つの場面と2つの対応がある。

ー分が共通の知り合いである場面

対応1:面識のない2人を互いに紹介する

対応2:面識のない2人を互いに紹介しない

(対応2´:紹介しないばかりか、なんで話さないの?という…上記のH)




⊆分が面識のない片方である場面

対応3:自分から自己紹介する

対応4:自分から自己紹介しない






すーちゃんは1と3、

僕は4、

Fは1、

Hは2(2´)、

だったわけだ。






この2つの場面におけるそれぞれの対応は、その人の優しさと強さの端緒だと思う。

1をしてあげられる人は優しくて、2は優しくない(他人の立場で考えられる)。

3をできる人は強くて、4は強くない(自分で状況を打破できる)。




すーちゃん(1−3)は優しくて強い人だ。

自分は1はできても3はできない(1−4)。優しいかもしれないけど弱い人だ。

2−3は優しくないけど強い人だ。

2−4は優しくないし弱い人だ。






1−4のような優しくて弱い人というのは結構いる気がして、繊細なので割と辛い思いをしている気がする。
でも2−3のような人には理解されず、なおさら疎外感を感じていると思う。


一方、2−3の優しくないけど強い人も結構いる気がするが、こういう人は割と平気で生きていたりする。



すーちゃん(1−3)になれるのが理想だけど、自分は2−3よりは1−4でありたいと思う。

それは倫理ではなく、ただの美意識の問題に過ぎないかもしれないけど。

そして2−3の人との関わりはできるだけ避ける。






強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない
(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive)

フィリップ・マーロウのように言える日を目指して。

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規則正しく生きる、といったときになぜか早起きは必須な気がする。

毎日昼の2時に起きて、朝の7時に寝る、というサイクルが確立したとしても、それは規則正しく、と言えても美しいものは生み出せない気がする。偏見かもしれないが。



あと美しさを生み出す要素としては、規則正しく食事をしっかり摂るのも大事だろう。

これも根拠はない。が健全な精神は健全な肉体に宿り、健全な精神が美しさを生み出すというような気がするからだ。



規則正しさを阻害するようとしては、まず訪問者だろう。

訪問者というのは突然やってくるもの相場が決まっており、酒が入ったりすることもありがちだ。

しかしそれは歓迎すべき事態であるのだから、やむを得ない。とか言って大体の人は規則正しさを失うのだ。



ベートーベンやカントは創作や思索を規則正しく行ったというが、訪問者にはどう対応したのだろう。

案外、その日はグデグデになって、旧友に自分のコンプレックスなんかをこぼしていたのかもしれない。

偉人と言ってもそんなものだろう。




もう1つ規則正しさの敵は、創作活動である。

創作活動というのは、生みの苦しみを伴うものであるから、工場でベルトコンベアに乗って運ばれてくる焼きそばパンに福神漬けを乗せるように作品を生み出すことはできない。

だから、創作活動を日常的に行い、かつアウトプットに制限などを設けていたりすると、これは規則正しさの最大の敵だ。

プロの作家などであればそうやって自分を追い込むことでアウトプットのペースを上げていくことに一定の合理性はあるだろうが(それでも多くの作家は文筆家は〆切を落とすものだ)、ましてや素人であればそんな制限を課すことになど一文の価値もない。

規則正しさと美しさを生み出すためには、ブログを毎日書くなどという無駄なルールは早急に廃止されるが良いに決まっているのだ。

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人の気持ちがわからない、と思うことは度々あって、それは普通の人よりそうなのかもしれない、と思うことも多いのだが、それを知って絶望的な気持ちになるか、まあそんなもんか、と思うかの違いは大きい。

もっと言うと、今人の気持ちがわからないとして、それが永遠に続くのか、それとも場面に応じてまあ程度に収束していくだろ、と思うかも大事だろう。

これは人の気持ちがわかるようになるというより、自分がわかる範囲内で自分の人生が決まっていくだろ、くらいに思っているのだと思う。




抽象的に書きすぎて訳が分からないかもしれないので具体的に書くと、

仕事においては、顧客やクライアントがどういうことを欲しているかということや、職場での人間関係で誰がどういう状況を望んでいるかということ、

プライベートにおいては、家族が何を期待しているかということや(これはなんとなくわかるが)、知り合いがどういう話題を望んでいて、どういう言葉を期待しているのかということ

など。





昔の僕なら、

人の気持ちがわからない→だから色々うまくいかない→だめかも

という気持ちになっていたと思うのだが、

今は、

人の気持ちがわからない→でもまあ言っていることの意味くらいは分かる(ニュアンスとか空気とか行間とかはわかんないけど)→わからなくて困る状況は自然と選ばないし(選ばれないし)、わかる範囲でしか結果も出せないだろう

くらいの気持ちでいる。




これは、

人の気持ちがわからなくてもうまくやっていける

と思ったわけではなく、

人の気持ちがわからないと色々問題もあるだろうけど、まあなるようになるさ

くらいの心持ちになれたということだ。




この心境の変化は結構大きい。

開き直ったと言えばそれまでだが、良く言えば余計なものが削ぎ落とされたというか、アウトプット志向になったということもできると思う。



今までは色々な視線を気にしすぎていたり、八方美人であろうとしていたのかなとも思う。

Facebookで複数のペルソナ(キャラ)を使いわけられない、という話を書いたが、同じような話かもしれない。

まあ、まだ開き直ってFacebookで好き放題書けるほどの境地には至っていないので、ここでこうしてブログを書いているのかもしれないけど。

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