August 29, 2006

天ぷらそば、390円也。

12時起床。13時就寝。18時起床。


「あ、髪切ろう」と思い立ち、着の身着のままでふらふらと外に出かけてみると、どの美容室も閉まっている。当たり前か。21時に頑張ってるような店は小金井にはないわな(ちなみに、渋谷の道玄坂には朝8時までやってる店があります。びっくり。)


せっかく駅前まで出てきたので、このまま帰るのももったいないなと思い、北口の方へ歩いていく。


武蔵小金井駅の北口には、SEIYUと長崎屋が並び立っている。僕はとにかくSEIYUの方をこよなく愛しているわけで。長崎屋はなんだかセレブチックであまり好きになれない。少し古ぼけた外装が好きで、幅の狭いエスカレーターが好きで、いかにも安っぽい収納家具売り場が好きで、幸の薄そうな初老の店員が好きだ。


SEIYUの裏口から出るとわびしい繁華街があって、よく通う小振りな古書店がひとつ。ちっとも取りえのない回転寿司屋、ハンバーグがおいしい洋食屋、それから小金井では希少なカラオケ屋がある(高校生がよく通っているみたい)。


今日はお腹が減っていなかったので古書店にだけよって、駅の方へ引き返す途中、そば屋が目に入った。なんだか急にそばが食べたくなって、ふらふら店の中へ。「天ぷらの大きさが人気!」が売り文句の天ぷらそば、390円也。


安いそば屋、ホームの中にあるような、汁は醤油臭くて、てんぷらが油っこい、そういうそばが食べたくなることがときどきある。昨日の飲み会でも「人はなぜマックに行きたくなるのか」という話題が出ていたけれど、考えてみると不思議だ。不思議だが、ともかく人間は合理的にできていないということは分かる。人間が合理的にできていないというのは、おそらく、僕らにとって救いになっているのではないだろうか。そういう予感がしている。そして、僕はその非合理的な気分にすごく興味がある。


帰ってきてから、メロンを食べる。俳句関係の方から、家で余ったというので、送っていただいたもの。貧しい寮生たちと共に分け合って食べる。朝から冷蔵庫で冷していたので、冷たい。すこし熟しすぎてしまっていたが、とてもおいしかった。メロンにかぶりつくと、果汁があふれて、両肘から床へしたたりおちていった。(なんかB級小説みたいな終わり方だな)


(mixi8月29日の日記を改変・転載)  

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August 25, 2006

すい、きん、ちかもく、どっ、てん、かい!!!

冥王星が惑星でなくなるらしい。


ってことは、

「すい、きん、ちかもく、どっ、てん、かい、めい!」

とのたまっていたものが、

「すい、きん、ちかもく、どっ、てん、かい!!!・・・ううっ」

ってことになるってことだ。



お?

「すい、きん、ちかもく、どっ、てん、かい!!!・・・ううっ」

ってなんか俳句っぽくないですか?  

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August 21, 2006

季語とはマナーである。

信治さんのブログが盛り上がっているので、もしかして信治さんのブログの内容に絡むと僕も盛り上がれるんじゃないだろうか、と考えた。


長いものには巻かれよ!

寄らば大樹の蔭!

火のないところには煙は立たないし、心配しなくとも、世界の半分は女なのである。やった!


というわけで、信治さんのブログに絡みます。



さて、8月11日の信治さんのブログの書き方で、一つ気になっていたのは、

>15.季語は、俳句という遊びのルールだ。ほかに根拠はないと思う。サッカーは手を使わないと決めた、みたいなもので。季語というルールのもと、俳句は複雑化しおもしろくなったので、やめる必要もなく今に続いている。

という箇所。

まあ、とりあえず「ほかに根拠はないと思う。」という言い方には、僕としてはどうしても絡んでみたくなるわけで。

確かに「季語論」というものは、大体において「もっともらしい」書き方が好まれる。「人間も自然の一部だからなんとかかんとか」みたいな。「季語っていうのは、歌の世界の題詠に根ざしているんだとかなんとかかんとか」みたいな。「季語というものがあることで、俳句の構造はなんとかかんとか」みたいな。

しかし、もっともらしいものって大体において怪しいんで、「ルール!」という言い方は、つまりは、もっともらしい季語論を振りかざす人たちへの挑発なのだろう。おい、お前らそんなに難しく考えるなよ、という。

ただ僕が気になっているのは、「ルール」という言葉が果たしてどれほど状況に対して適切かということで。要するに、「ルール」というのが、あんまスバラシイ言い方ではないんじゃないかと。

そんでもって、僕はどう言いたいのかというと、季語とは「俳句という遊び」(この言い方も議論を孕んでいるでしょうね)における「マナー」だと言いたい。


「ルール」という言い方よりも「マナー」という言い方がよいと思う理由は、以下の通り。

○ルールとは、ある主体によって取り決められるもの。マナーは、ある共同体(この言葉の使い方も難しいな)の慣習において形成されていくもの。だとすると、「ルール」という言い方をした場合、そのルールを取り決めた主体、あるいは取り決め得る主体って一体何者なの?(何様なの?)ということにならないか。

○ルールにおいては、それが「守られている」「守られていない」ということについての判断を担当する人たちがいる。たとえば、法における裁判官、スポーツにおける審判など。マナーにおいては、その実現(あるいは非実現)の場に存在するすべての人たちがその是非についてそれぞれの判断を迫られるわけで、「全員参加の文学」(投げやりな言い方でごめんなさい)としての俳句の原理に適っているのではないか。

○ルールとは、それを破るものに制度的な罰を与える。一方、マナーとは、それを守らない人間に対して、制度的な罰は加えられないであろうと考えるのが一般的(だと思う)。たとえば、路上喫煙なんかでもマナーとしてやっちゃいけないんであって、それに制度的な罰が加えられるようになってくると、それは「ルール」であると言える。「季語を使わない」という営為について、制度的な罰という対応の仕方はどうも状況にそぐわないのではないか。

○ルールは、ある程度、それが将来的に破られることを前提に取り決められるという点で、実は俳句の置かれている基盤を脆弱にする可能性があるのでないか。


また思いついたことがあれば書き足します。

とりあえず「ルール」という言い方をすることには、反対。  

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August 09, 2006

僕がんばります。(2006.8.4)

てっちさんのお誘いで句会を催すこととなった。

てっちさんの友人の女の子が四人参加。


ゆ「てっちさん、僕のためにこんなに女の子を呼んでいただき、ありがとうございます。僕がんばります。」
て「タニ君、勘違いしないでくれよ。僕はもっと俳句の裾野を広げていこうという高尚な思想のタメに彼女たちを呼んだのである。」
ゆ「ありがとうございます。僕がんばります。」


まず悪評高き『ゲド戦記』を見て、それから巣鴨へ移動。縁日は既に祭のあと状態。とげぬき地蔵に参拝。荒川線に乗って移動。最後は大塚のファミレスで句会。


兼題は「遠花火」「草の花」「星月夜」「赤蜻蛉」「秋暑し」。


以下、僕が注目した句。

街灯の数の違いか星月夜  洋平
星月夜社小さき猿田彦  えりー
赤蜻蛉食す人なきデザートよ  えりー
星月夜すれ違う私も電車も皆から  りさ
草の花ホットケーキいかがうんと甘くね  りさ
うつむいてうつむくことで草の花  細田
磨かれてとげぬき地蔵草の花  てっち
遠花火青のビー玉しきつめて  てっち


以下、拙句。

星月夜携帯待受画面猫  
細田さんと呼べばかなしい赤とんぼ
遠花火岩の絵の具を伸ばしゆく
秋暑しあん馬を運ぶ五六人
弟も連れてきました草の花  ユースケ


僕とてっちさん以外は、ほとんどの人が句会初体験だったが、割といい句があった。猿田彦の句を特選でいただいた。

てっちさま、ありがとうございました(いろんな意味で)。  

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魔羅は四本陰一つ(2006.7.31)

櫂未知子さんにインタビューをさせていただく機会があった。

インタビュー後の飲み会の席で、「あなたが通いつめてるっていう『華』っていう喫茶店、いつか行ってみたいわね」と一言つぶやいたのが運の尽き。「じゃあ明日行きましょう」と強引にお誘いする。


最近の傾向として、「いつか○○しよう」と言われたときに、すぐにその場で実施の期日を決めてしまうことが多い。ぼーっと生きてきた大学1,2年の頃と比べると、実にいい傾向。



さて、去る7月30日、13時に華にて待ち合わせ。櫂さんと近しい人々も何人かお誘いする。

コーヒーがとてもおいしい。マスターの村上さんは、小学校3年生から自分で豆を挽いてコーヒーを淹れていたというつわもの。店で出されるコーヒーについては、生産地も淹れ方もかなりのこだわりがある。

名物メニューは、昭和風味のナポリタン。濃いめの味がたまらない。皆で貧しく分け合って食べる。

  珈琲にナポリタンに初蝉に  てっち

それから、すこし遅めの昼食。早稲田通りのカレー屋。マスコミもたびたび取材に訪れる名物店。

  スパイスは怒涛のごとし夏休  未知子

句会場を求めて早稲田方面に歩き出す。左右にちらほらと古本屋が並んでいる。

  プラタナス映画のやうな町ゆけば  ユースケ
  漱石の全集に染む蚊遣りかな  おーほ

ともかく句会が終わる。お疲れさまでした。

  汗にまみれ魔羅は四本陰一つ  さわD  

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August 04, 2006

セッツさんとフジワラさんと僕

午後から早稲田で教科書の校正のバイト。

中年のお姉さまふたりと一緒。馬鹿なことをして、がはがは笑っていただいて、お弁当の豚カツを一切れいただく。

バイトが終わってから華へ。ヒトミさまがいらっしゃったので、昨今の無礼を詫びる。先走っちゃってごめんなさい。


帰り、荻窪の古本屋に何件か寄る。

今更だが、穂村弘の『ラインマーカーズ』を購入。音楽で言うところの、いわゆる「ベストアルバム」のような体裁の歌集。

何故買ったかというと、歌の合間合間に、誰が書いたのだろう、たくさんの書き込みがあったから。この書き込みが非常に興味深い。

たとえば、「呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる」という歌の周りに「すったりはいたり」「ゆらゆらゆらゆら」「小さくなったりぱあっと明るんだり」「これ見てよなんなんだろうねえきれいだねえ」「子ども扱いされちゃった」というような言葉が、思いつくままに書き散らされている。

書き込みのある本は楽しい。


あるいは、『短歌はプロに聞け!』(穂村弘、東直子、沢田康彦共著)を買うと、中に東さん直筆の手紙が二枚挟まっていた。いや、正確には、手紙が挟まっていたので、家に一冊あるにもかかわらず購入してしまった。

俳句・短歌関連の本だと度々こういうことがあって、楽しい。



手紙の挟まった本で思い入れが深いのは、神田の古書店で攝津幸彦の『鸚母集』を買ったときのこと。

中に挟まっていた手紙は、攝津幸彦から「藤原君」という人に宛てた手紙だった。この藤原という人、僕にはある程度見当がついていた。

手紙は、当時攝津が務めていた旭通信社(現在のアサツー ディ・ケイ)の原稿用紙に青いインクの万年筆で書かれている。

手紙の前半部を引用してみよう。


藤原君

秋雨が朝からしとしととして肌寒い一日でした。早速にストーブを取り出しましたが、これは少々早いようで、厚着をして一日暮らしました。
仕事の方は順調ですか。マンネリ気味のこの業界、何よりも企画、企画で大変でしょう。
実際、会社というところは給料分だけ、しっかりと働かせられ、昔のように一日中、喫茶店で過ごすわけにいかなくなっています。つくづく体力が欲しいと思っていますが、不調続きで会社から帰るとすぐに寝るという生活をしてをります。(後略)


蓋し、名文と言っていいように思う。

初めてこの手紙を読んだ時、一種、戦慄の気分を覚えた。とても僕にはこういう文章は書けないなと思った。人間攝津幸彦の不気味なまでの茫漠とした存在感を垣間見た思いがした。


ちなみに「藤原君」と攝津に呼ばれているのは、既にお分かりの方も多いと思うが、歌人の藤原龍一郎氏。過去、彼は「藤原月彦」という俳号で、俳句表現の第一線で活躍していた。

『鸚母集』を購入してからしばらくして、藤原さんにメールで連絡を試みたことがある。すぐに返信があった。そこには、こまごまとしたエピソードとともに「『鸚母集』いい句集です。大切にしてください。」との一言が添えられていた。


結果的に『鸚母集』は本来の持ち主の手元を離れたわけだが、それはマイナスのイメージで捉えられるべきことではないと考える。

あの日、全くの気まぐれで立ち寄った古書店で、僕は『鸚母集』と出会った。持ち合わせのほとんどなかった僕は、急いで銀行に走って行って、それから『鸚母集』を購入したのだった。それは僕にとってあまりに幸福で、あまりに運命的な出会いだった。


(「mixi」8月4日の日記を改変・転載)  

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July 28, 2006

本日ハイクマ会議。

近々このホームページがすごいことになります。乞うご期待。



会議後、新宿西口地下「五右衛門」にて席題句会。

僕にとっては本当に久しぶりの句会でした。心から素直に、楽しかったです。


今回の題は店名の「五右衛門」から「衛」を除く「五」「右」「門」の三つ。


以下、提出句。


八月や本多秋五のループタイ
大門の鋲手に余るプールかな
とりあへず右手の雲丹を左手に  上田信治

夏の縄番外地より右へ出る
広島や五の付く事を並べつつ
或る門の直線部分夏休み     佐藤文香

涼しさや六かと問はれ五と答ふ
門前にごきぶり二匹ゐたりけり
日盛や右におはすは右大臣    谷 雄介  

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July 26, 2006

酒と涙と男と男

「新しい俳句は可能か(2)」、ひとまず保留。


今日は、喫茶店のマスターの勧めで、立石にもつ焼きを食いに行って参りました。with おーほ氏。立ち食い鮨も食いました。

食ってから喫茶店に舞い戻って、二人句会。以下、提出句。


かの豚のモツ洗はるる夜の秋
野球中継終り大暑のモツ煮黒し
ぼつたりと帆立の夜のありにけり
三本の指が穴子の熱へ伸ぶ
握られて置かれて鮨や板の上  

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July 24, 2006

「新しい俳句」は可能か(1)

僕が初恋をしたのは「あおぐみさん」(いわゆる年中組)のときだった。

同じ組の○○○ちゃんは、外で遊ぶときはいつもみんなの中心にいたし、おままごとのときはいつもお母さん役。僕の憧れの人だった。

「僕は大きくなったら○○○ちゃんと一緒にうどん屋をやるんよ!」とことあるごとに家族に吹聴していた。


さて、それから十五年余り。

見ての通り僕はうどん屋を目指すことをやめてしまったわけだが、○○○ちゃんの方はどうなってしまったかというと、年を追うごとにどんどん顔が不細工になってしまった。


いやー、若さってこわいですね。



というわけで、以上の話はまったく今回のブログの中身とは関係なし。



今回のブログの本題は「『新しい俳句』はどのようにすれば可能か」ということであります。


さて、この議論を進めていくに当たって、まず初めに考えておく必要があるのは、そもそも俳句を新しくする必要があるのか、ということです。

俳句に限らず、必要とされていないことを行うことは合理的な態度とは言えないわけで(「意味がない」とはもちろん言いませんが)、少なくとも外に向かって主張するという場面では、その主張についての「理にかなった(reasonable)」説得を用意しておく必要があります。


僕としては、俳句の性格として、俳句が「共振する表現」であるということ、そして、その結果として「収斂する表現」となるというところに、その必要性の根拠を求めたい。

だからこそ、俳句は常に「新しく在りつづけようとする」必要がある。



これでは大いに言いっ放しの感が強いので、少し説明を加えます。

俳句が「共振する表現」であるというのは、俳句を行っている方であれば、実感として、割と理解しやすいのではないかと思います。

例えば句会という行為は、まさしく「共振」を目的の一つ(僕は最上のものだと思っていますが)としているわけです。

「私の作品はコレ!完ぺきな出来だわ!」

「私の選句はコレ!うーん、抜かりなし!」

「私の批評はコレ!的確な批評だわね!」

なんていう自信マンマンな人というのは、まず句会の場には足を運んでいないのではないか(その存在を認めないわけではもちろんないですが)。誰もが自らの作品や選句の絶対性、批評の的確性などについて、多少なりとも不安をもって臨んでいるのが、句会という場ではないでしょうか。そして、その不安を解消するのが、句会における「共振」という現象なのではないか。

もちろん俳句以外のジャンルにおいても「共振」ということは重要でありますが、殊に俳句においては、「句会」という場(行為?)が結構なウエートを占めるが故に、そのことを強調してもしすぎることはないように思います(まあ、ここは言い回しだけですな)。


しかし、「共振」するということは、必ずしも共振しあうもの同士が平等な立場にあることを意味しません(当たり前だ)。何らかのレベルにおいて立場が上にある者の振動に、立場が下の者が振動数を合わせるということは決して珍しいことではありません。

例えば、結社に所属する人間が結社誌に投句をし、主宰の選を仰ぐということがあります。これは一体何なのだろうと考えてみると、投句者の振動数を主宰の振動数と同値になるように矯正する、と言うことができるように思います。
さらに、その関係性が複数になり、中心点として主宰が存在するような世界になると、「結社誌」という場において、投句者それぞれの振動数は、主宰の振動数に向かって限りなく収斂していくということになります。

もちろん、このことは主宰がいなくても起こり得ます。また、たとえば「結社」という集団の中で、いくつかの中心点が存在するということも大いにありえます。ただ、中心点に収斂することなく、それぞれが固有の振動数を持ち、平等な立場で共振し合うという状況を作り出すのは、かなり難しいことだなと感じます。成員が皆かなり意図的に行動しなければ難しい。


ここまで、俳句は「共振する表現」であり「収斂する表現」である、ということの説明を述べてきました。

そして、僕はそれを俳句にとって「よくない傾向」だと考えています。
したがって、「新しい俳句」(ここでいう「新しい」の意味は、これまたデリケートな問題ですので、また別の機会に)を積極的に作り出すことによって、「共振」の作用の中で不協和音を奏でたり、あるいは収斂していく作用を阻害することを意図しているわけです。


しかーし、俳句という表現が「共振」し「収斂」していくことを是とする人にとっては、僕の主張は全く説得力を持たないどころか、その論理を強化する方に働いてしまう可能性があるわけです。

うーん、困った。ひとまずつづく。  

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July 16, 2006

忘れきってるですか、もう!!

ハイクマ掲示板を読み返していて(←テスト期間中の学生の多忙な日常が伺えるエピソード)、2006年6月30日0時39分30秒の信治さんの書き込み、


忘れきってるですか、もう!!


ってのがものすごく面白いことに気がついた。


なんだそのフィリピン妻のような口調はっ!!!


と、半月越しに突っ込んでみる。  

Posted by yusuke0524 at 01:12Comments(0)TrackBack(0)