August 21, 2006

季語とはマナーである。

信治さんのブログが盛り上がっているので、もしかして信治さんのブログの内容に絡むと僕も盛り上がれるんじゃないだろうか、と考えた。


長いものには巻かれよ!

寄らば大樹の蔭!

火のないところには煙は立たないし、心配しなくとも、世界の半分は女なのである。やった!


というわけで、信治さんのブログに絡みます。



さて、8月11日の信治さんのブログの書き方で、一つ気になっていたのは、

>15.季語は、俳句という遊びのルールだ。ほかに根拠はないと思う。サッカーは手を使わないと決めた、みたいなもので。季語というルールのもと、俳句は複雑化しおもしろくなったので、やめる必要もなく今に続いている。

という箇所。

まあ、とりあえず「ほかに根拠はないと思う。」という言い方には、僕としてはどうしても絡んでみたくなるわけで。

確かに「季語論」というものは、大体において「もっともらしい」書き方が好まれる。「人間も自然の一部だからなんとかかんとか」みたいな。「季語っていうのは、歌の世界の題詠に根ざしているんだとかなんとかかんとか」みたいな。「季語というものがあることで、俳句の構造はなんとかかんとか」みたいな。

しかし、もっともらしいものって大体において怪しいんで、「ルール!」という言い方は、つまりは、もっともらしい季語論を振りかざす人たちへの挑発なのだろう。おい、お前らそんなに難しく考えるなよ、という。

ただ僕が気になっているのは、「ルール」という言葉が果たしてどれほど状況に対して適切かということで。要するに、「ルール」というのが、あんまスバラシイ言い方ではないんじゃないかと。

そんでもって、僕はどう言いたいのかというと、季語とは「俳句という遊び」(この言い方も議論を孕んでいるでしょうね)における「マナー」だと言いたい。


「ルール」という言い方よりも「マナー」という言い方がよいと思う理由は、以下の通り。

○ルールとは、ある主体によって取り決められるもの。マナーは、ある共同体(この言葉の使い方も難しいな)の慣習において形成されていくもの。だとすると、「ルール」という言い方をした場合、そのルールを取り決めた主体、あるいは取り決め得る主体って一体何者なの?(何様なの?)ということにならないか。

○ルールにおいては、それが「守られている」「守られていない」ということについての判断を担当する人たちがいる。たとえば、法における裁判官、スポーツにおける審判など。マナーにおいては、その実現(あるいは非実現)の場に存在するすべての人たちがその是非についてそれぞれの判断を迫られるわけで、「全員参加の文学」(投げやりな言い方でごめんなさい)としての俳句の原理に適っているのではないか。

○ルールとは、それを破るものに制度的な罰を与える。一方、マナーとは、それを守らない人間に対して、制度的な罰は加えられないであろうと考えるのが一般的(だと思う)。たとえば、路上喫煙なんかでもマナーとしてやっちゃいけないんであって、それに制度的な罰が加えられるようになってくると、それは「ルール」であると言える。「季語を使わない」という営為について、制度的な罰という対応の仕方はどうも状況にそぐわないのではないか。

○ルールは、ある程度、それが将来的に破られることを前提に取り決められるという点で、実は俳句の置かれている基盤を脆弱にする可能性があるのでないか。


また思いついたことがあれば書き足します。

とりあえず「ルール」という言い方をすることには、反対。

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季語と「ルール」ということに関する2つの記事に「あさっての方角」から、絡む、というより、掠ってみようと思う。 ■信治さんの「季語と複雑」という記事↓ http://uedas.blog38.fc2.com/blog-entry-78.html 季語は、俳句という遊びのルールだ。ほかに根拠はないと思...
俳句はプロレスである【俳句的日常 come rain or come shine】at August 24, 2006 00:32
この記事へのコメント
 ルールもマナーも「正しいか否か」「良いか悪いか」という規範概念をベースにしている点で、俳句(のみならず文学一般、さらには芸術一般)にはそぐわないと思います。各自が好き勝手に自由にやればいいだけのことでしょう。俳句を論じるときに「〜が約束」とか「〜がルール」といった論調がすくなからず見受けられますが、私はそんな約束を交わしたこともなければ、そんなルールに従うことに同意した覚えもありません。
 俳句における五七五という定型や季語、切れ字などは「アイデア」ですね。それらを「なかないいアイデアだ」と思い採用する人の割合がたまたま多かったにすぎないでしょう。しかしだからといって多数派=正当、と思い込むのはあまりにも単純粗雑な思惟・感性であり、大人の態度とはいえません。
Posted by 大江進 at August 21, 2006 22:28
 ルールもマナーも「正しいか否か」「良いか悪いか」という規範概念をベースにしている点で、俳句(のみならず文学一般、さらには芸術一般)にはそぐわないと思います。各自が好き勝手に自由にやればいいだけのことでしょう。俳句を論じるときに「〜が約束」とか「〜がルール」といった論調がすくなからず見受けられますが、私はそんな約束を交わしたこともなければ、そんなルールに従うことに同意した覚えもありません。
 俳句における五七五という定型や季語、切れ字などは「アイデア」ですね。それらを「なかないいアイデアだ」と思い採用する人の割合がたまたま多かったにすぎないでしょう。しかしだからといって多数派=正当、と思い込むのはあまりにも単純粗雑な思惟・感性であり、大人の態度とはいえません。
Posted by 大江進 at August 21, 2006 22:29
 ルールもマナーも「正しいか否か」「良いか悪いか」という規範概念をベースにしている点で、俳句(のみならず文学一般、さらには芸術一般)にはそぐわないと思います。各自が好き勝手に自由にやればいいだけのことでしょう。俳句を論じるときに「〜が約束」とか「〜がルール」といった論調がすくなからず見受けられますが、私はそんな約束を交わしたこともなければ、そんなルールに従うことに同意した覚えもありません。
 俳句における五七五という定型や季語、切れ字などは「アイデア」ですね。それらを「なかないいアイデアだ」と思い採用する人の割合がたまたま多かったにすぎないでしょう。しかしだからといって多数派=正当、と思い込むのはあまりにも単純粗雑な思惟・感性であり、大人の態度とはいえません。
Posted by 大江進 at August 21, 2006 22:33
書き込みがうまくいきませんです。ブログによって書き込みの仕方がちがうようですが、そのヘルプもどこにもないし……。「評価」とか「顔」「星」とは??
Posted by 大江進 at August 21, 2006 22:37
 ルールもマナーも「正しいか否か」「良いか悪いか」という規範概念をベースにしている点で、俳句(のみならず文学一般、さらには芸術一般)にはそぐわないと思います。各自が好き勝手に自由にやればいいだけのことでしょう。俳句を論じるときに「〜が約束」とか「〜がルール」といった論調がすくなからず見受けられますが、私はそんな約束を交わしたこともなければ、そんなルールに従うことに同意した覚えもありません。
 俳句における五七五という定型や季語、切れ字などは「アイデア」ですね。それらを「なかないいアイデアだ」と思い採用する人の割合がたまたま多かったにすぎないでしょう。しかしだからといって多数派=正当、と思い込むのはあまりにも単純粗雑な思惟・感性であり、大人の態度とはいえません。
Posted by 大江進 at August 22, 2006 21:06
 すみません。書き込みがやはり変です。昨日は何度投稿しても「エラー」だったのに、今日は同じやり方でOK。しかも「エラー」だったはずの昨日分も重複表示されています。これではまるで私が「荒らし」をしているみたいです。もう書き込みやめようかな。
Posted by 大江進 at August 22, 2006 21:20
大江さん

はじめまして。ハイクマの上田です。
大江さんは、俳句を、文学とお考えですか?
Posted by 信治 at August 23, 2006 06:28
>大江さま
コメントありがとうございます。大江さんのせいではありません。ライブドアブログのせいです。コメントがすぐに反映されない。近々別のブログに変えます。


「自由」ということで言えば、思うに、「俳句における自由」が、「ルール」の上では実現されないんだが、「マナー」の上では実現されるのではないかと僕は考えています。マナーをマナーとして考えられる、真に自由な感性がありさえすれば。
Posted by ユースケ at August 23, 2006 15:52
もうすこし、話を進めてみます。

俳句にはいかなるルールも存在しないし、575の定型を破ろうが、季語を無視しようが、そうした方が面白いと考える方はそうした方がいいだろうと、僕は思います。自由。面白ければ何をしたっていいんで(この言葉が真実味をもって受け取られない世界は、やはりどこか腐っている)。

ただ、唯一、「歴史」には制約されるんではないかと。「僕の作っているものは俳句である」と考えて作品を生み出してきた人たちの作品に制約されなければ、彼の作っているものは俳句とは言えない、何か別のものであるはず。
Posted by ユースケ at August 23, 2006 15:52
ユースケさん。むずかしいことはいろいろあるんだけど、
信治さんの記事に絡むなら、リンク貼るくらいのことは、すれば?
Posted by てんき at August 23, 2006 20:19
>>上田さん
 「非実用的で、文章表現そのものを目的とするような文章」が文学だとすれば、俳句はまぎれもなく文学だと思います。言葉(俳句)でなにかを表現するというよりも、言葉それ自体を表現するという。
>>ユースケさん
 文学だからなにをしてもかまわないのですが、わざわざそれを他者の目にさらすのは、やはり誰かには分かってもらいたいと思うからでしょう。日本人に向けてならとりあえずまず日本語を使うとか。それは制約というのではなく、主体的な選択なのでは?
Posted by 大江進 at August 23, 2006 23:19
>てんきさま
まったくそうですね。
トラックバックの仕方も勉強してみます。
Posted by ユースケ at August 24, 2006 01:36
大江さん> 大江さんの文学の定義がそうだとすれば、その内部にルールがあっても、かまわないような気がします。 ローカルルールですよ、他の文学には適用されない。文学に規範概念はそぐわない、と感じるのは、大江さんのかなり、個人的な潔癖というか、モラル意識のように聞こえます。

ユースケ> 「ルール」という言葉を使ったのは、ものを発生から考えるのが、好きだから、という理由以外にはないので、好きに言い換えてくれていいです。ただ「マナー」っていうのは、どうだろ。「座の文芸」としての俳句が、ユースケの今の関心事なのかもしれないけど。「季語はマナー」って言っちゃうと、一句の内部で季語が働くということに、射程が、ぜんぜんとどかないんじゃない? 
Posted by 信治 at August 24, 2006 02:49
>>上田さん
 ルール、つまり規則・規定・決まりですね。それはそれに多くの人が(できれば全員が)従うことが要請されています。かつ逸脱する者にはなんらかの“罰則”が想定されてあるでしょう。程度の差はあるにせよ、また明示的であれ暗黙理であれ強制と罰則があるのがルールで、私には俳句になぜそれが必要なのか分かりません。私も五七五の定型や季語や切れ字などを多用しますが、それは決してそれが「ルールだから」ではありません。
 もちろん同じ指向をもつ者が集まって一定のルールを定めその範囲で俳句を読み書きするのはかまわないと思いますが、それこそそれはウルトラローカルルールにすぎないので、外の者にまでそのルールを押しつけないでくれということです。
Posted by 大江進 at August 24, 2006 08:27
(ユースケ、ごめんと思いつつ)

>>大江さん
>俳句になぜそれが必要なのか分かりません。
ゲームのルールって、ゲームそのものだったりしますから、必要なルールもあるんじゃないですか。

>私も(略)多用しますが、決してそれが「ルールだから」ではありません。
人間、自分が選んでいるのか、選ばされているのかなんて、よく分らないもので……って、これ基本ですよね。

>外の者にまでそのルールを押しつけないでくれということです。
こういう言い方をしていいかどうか分りませんが、すこし過剰反応だと思います。
押しつけ?罰則と強制? 
大江さんの言われていることは、「ルール」という言葉が、罰則とか押しつけを連想させて、不快だ、ということに尽きるような気がします。

でも、ほんと、それ言葉の好き嫌いですから。そこから、なにか生産的な議論が生まれるとは、思えません。




Posted by 信治 at August 24, 2006 22:40
>>上田さん
 私は、俳句にはルールというような客体的規制はいらないのではないかという意見を述べているので、ルールという言葉についての好き嫌いや連想等を述べているつもりはありません。また私には俳句はゲームではありません。したがって「ゲームのルール」も必要としません。
 「押し付けないでくれ」と書いたのは、自己および自己の所属する結社等の作句信条・方針=ルールのようなものを、内部のみならず意見を異にする外の者に対しても「それは俳句ではない」などと言いたがる人が実際に少なくないからです。意見を戦わせるのはいいのですが、存在自体を否定してはいかんでしょう。
Posted by 大江進 at August 25, 2006 07:55
「ルール」と聞いただけで、「『それは俳句ではない』などと言いたがる人」や「存在自体を否定」されることにまで、連想が飛んでしまうのは、やっぱり、すこし過剰反応だと思いますよ。

あと、俳句(というか日本の短詩)が、ゲームとしての出自をもっていることは、事実だと思います。「私にとって」ゲームではない、という否定のしかたは、なんか、あまりにも超歴史的すぎて、ついてゆけません。

俳句のゲームとしての性質をないことにすると、多くのことが説明しにくくなる、というのが、もともと、自分の言いたかったことでした。

と、まあ、このへんで、終りにしたいと思います。
大江さん、おつきあいくださって、ありがとうございました。
Posted by 信治 at August 25, 2006 17:10
すいません。

>「私にとって」ゲームではない、という否定のしかたは、なんか、あまりにも超歴史的すぎて、ついてゆけません。

この言い方は、なかった。取り消します。

大江さんにとっての俳句のあり方は尊重しますが、それをもって「ルール」という語で俳句を考えることの無効を宣言することは、できないと思います。

というようなことを、言いたかった。
Posted by 信治 at August 25, 2006 17:23
先日「澤」の句会にお邪魔した際に、小澤主宰が「句会なしに俳句は成立し得ない」というようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。

俳句に「ゲーム」という性質を付与するのは「句会」という営為のなせるわざだと思うんですけど、それでは果たして、俳句の世界における「句会」とは何なのか。

僕たちはその存在をあまりにも自明のものと考えてはいないか。

句会、結構な発明ですよね。
Posted by ユースケ at August 28, 2006 04:45