2006年01月30日

余は如何にして反司馬遼太郎信徒となりし乎

友人がちょっと挑戦的な「竜馬がゆく」のレビューを書いたので、ちょっと説明させてください。

司馬遼太郎...好きでした。「竜馬がゆく」もよかったけど、私的には「燃えよ剣」が好みだったかな。「国盗り物語」も楽しかった。「坂の上の雲」もよかったな...。でも、もういいや。私は司馬遼太郎を卒業しました。

理由はいろいろあります。文章が決して上手いと思えない。作品が冗長。「空海の風景」や「夏草の賦」みたいな作家として腰が引けてたり、作品として練り上げられていないものがある...。

でも一番嫌いになった理由は司馬さんの死後、まわりがよってたかって司馬さんを「権威」に押し上げたことでしょう。司馬さんのスタンスは「これは余談だが...」の脱線で象徴されるような、なんか長屋の親父の素人講談を聞いているようなところがよかったのに、あれよあれよという間に「司馬大先生」になっちゃった。

で、決定的だったのが盗作事件。池宮彰一郎氏の「島津奔る」と司馬さんの「関ヶ原」、池宮氏の「遁げろ家康」と司馬さんの「覇王の家」、これらの作品に類似した記述があるということで、結局池宮氏の作品が回収・絶版になった平成14年12月の事件です。

そりゃさ、別にまったくの創作ってわけじゃなくて、歴史上の同じ人物、同じ出来事を描いているんだから自然に似てきちゃうのはしょうがないんじゃねぇ〜か...?

この事件の論理的帰結は、とりもなおさず...「今後日本の歴史は「司馬史観」が完全無欠の経典としての立場を占め、何人たりともその権威を犯してはならない」...ということにほかならないわけです。

まぁこれは司馬さんの死後の話だから、福田未亡人をはじめ、取り巻き連中(もしかしたらフジサンケイグループ?)の不徳のいたすところなんだろうけれど、こうなってくると天性のへそ曲がりで横着者の私にしてみれば「ふざけるなっ!」と思わざるをえない。
海音寺センセー
そもそも産経新聞の一記者だった司馬さんを発見し、育て上げたのは日本歴史文学上の巨人、海音寺潮五郎先生その人なのです。海音寺先生のデビューは戦前、昭和11年の「天正女合戦」で直木賞を受賞したのが世に出たきっかけ。その後、戦争中の思想統制と皇国史観の理不尽な押し付けに憤慨し、戦後における正しい歴史教育の風化を嘆いて、自ら詳細な資料研究と理性的な史実分析を基にした「史伝文学」の分野を開拓。そんな海音寺先生の「史伝文学」の代表作である「武将列伝」や 「悪人列伝」の初めのころのあとがきを読むと、巷に珍奇な歴史小説もどきが跋扈する現状に絶望し、自らの努力が徒労に終わるのではと疑い、もう若くはない自分に後継者がいないことを嘆いている様がうかがい知れます。そんなところに現れて海音寺先生に白羽の矢を立てられたのが司馬青年。当時は「ペルシャの幻術師」やら、アクションまがいの「梟の城」なんかを書いていた司馬遼太郎は、かくして海音寺氏の後継者として歴史文学者の道を歩み始めたのです。

この大恩を忘れ、自らの文壇上の地位を利用して後続の道を断つようなまねをするとは一体全体どういう了見なんだよ、おい! ...と私が憤慨してみてもしょうがない。また司馬さんにとっちゃ死んだ後のことだから、身に覚えのないことなんだろう。しかし、とにもかくにも日本人の悪い癖で、取り巻きがよってたかって「権威」に押し上げ、その陰で甘い汁を吸う、もしくは部外者を蹴落とすという図式には反吐がでてくるんだな。

そんなわけで司馬さんには悪いが、こうなってくると「坊主にくけりゃ袈裟まで」の論法で、司馬さんの欠点ばかりが目に付き始める。一番我慢ならないのは司馬さんがまともな「女性」を書けないこと。一番いい例は「燃えよ剣」で土方のお相手役の...「お雪」さんだったっけ?...印象からして薄い...。京都で出会って、ワケアリの関係になり、土方が死ぬ直前に「思い出作り」かなんだか知らんが都合よく箱館くんだりまでやってきて、一晩共にして...さようなら...???そんな女の人いるわけないだろ!しかも司馬さん、このパターンの常習犯。「燃えよ剣」の前に書かれた「国盗り物語」でも斉藤道三が油屋だったときの女房...「お万阿」が、話の最初に出てきたきりほったらかしにされておきながら、道三の死後、信長について京入りした光秀の前に姿をあらわして「あのお人も面白いお人でしたわ...オホホホ...」なんて笑ってどこかへ消えていく。司馬さん...世の中そんなに都合のいい女ばかりじゃないって...。せめて池波正太郎さんに「血の通った」女性の書き方でも習ってほしかった...。とはいえ司馬作品に「肉置きのみっしりした乙女の凝脂...」なんて池波表現が頻繁にでてきたらびっくりしちゃうけど。とにかく司馬作品の登場人物を永井路子さんの作品のそれなどと比べると、設定、書き込みの拙さが目に付きます。

また海音寺作品に触れた後、司馬さんの作品を読むと、司馬さんの語り口が冗長なのも鼻についてくる。もちろん「これは余談だが...」で脱線しても読ませるだけの内容と筆力はあるんだけれど、文学作品として読む場合、海音寺さんのストイックで「言いおおせて余らない」文章、そして作品の構成力において一日どころか千日の長を認めざるを得ない。これは持論なんだけど、海音寺先生は元はといえば漢文の先生で、漢文の素養がある人が書く文章は、漢字を使い慣れているせいか読みやすく上手いなと感じることが多い(たとえばエッセイストの高島俊男さん)。こういっちゃ身もふたもないが、司馬さんと海音寺先生では文学上の目指すところが隔絶しているように思える。海音寺先生が「二本の銀杏」を書いたときの構想は「幕末の薩摩藩を舞台にパール・バックの「大地」のような三部作を書こうと思っていた...」。それに比して司馬さん...どうなんでしょうかね...。
恐そうな顔...
あまり悪口ばかり言っていても後味悪いので、海音寺先生について少々...。海音寺先生の作品の一番の魅力はやはりその底辺を流れる「男の美学」ということに尽きるでしょう。池宮さんの「島津奔る」は司馬さんの作品を一部盗作...なんていわれる前に海音寺先生の短編、「男一代の記」をまるまるそのまま持ってきて水増ししたものなんですね、これが。(大元は「薩藩旧伝集」という古書らしい。)大きな違いはといえば、池宮作品ではお殿様の義弘の夜伽に主人公の中馬大蔵の妻が...なんて辛気臭い伏線があるんですが、海音寺先生の「原作」では義弘公が目をつけた女を中馬大蔵が掠め取るという痛快なエピソードになっていること。そして一番大きいのはラストシーン。池宮作品では老人となった中馬大蔵が薩摩の郷中教育の一環として二才衆の若者たちに関ヶ原の話をしようとして涙で語れず、それを見た若者たちももらい泣きする...というラストなのですが、海音寺作品では無骨そのもの。涙で語れなかった中馬は妻に「不覚じゃった」と言い、次のように語るのです。

「泣くというのが、なにがよかことか。土台、涙というものは人をだます曲者なのじゃ。他人をだますだけでなく、おのれ自身までだますのだ。人間の泣くのは心が激しく感ずるためだが、一度泣きはじめると、泣くのが楽しいために泣くのだ。あの時、おりゃ戦死した朋友どものことや、飢えに苦しんだことや、追手におびえたことや、くにのことを思って心細かったことや、一時に胸にせまって、つい涙をこぼしてしもうたのだが、あとは涙に溺れてしまった。おいがような情のこわか人間でも、まだこの年になっても、ものに感じて泣く心がのこっていたかと、それがうれしくなったのだ。なんたる惰弱なことか。あの際、おいは二才衆に、一ぶしじゅう、細大もらさず話をしてやらなければならなかったのだ。だのに―おいほどの男も、年を取ればこんなにひよわくなるものかと、おいはそれが情けなくてならんのだ。それに、あの二才衆も二才衆だ。あいつら関ヶ原の戦さ話をこれまでいくらか聞いてはいるにしても、本当のことはなんにも知りはせん。戦さ話ほどウソ話のまじるものはなかからだ。だのに、、なに一つ聞きもせんのに、わしが泣いたからとて一人のこらず泣いてしもうた。泣くということがあるものか。涙というものはハヤリ風邪ににてうつりやすいものか故、おいが涙が移っただけのことだ。おまけに、泣いたがうれしくて、よか気持になって帰って行っとる。何たる甘っちょろい根性か。しっかり聞いて、心にきざみつけてこそ修行というものだ。頼もしか若者というものだ。説教坊主のウソ八百の説教におろんおろんと泣いてジュズをもんで念仏となえるそこらの百姓婆ァどものようなことで、なにが修行。たのもしからぬ根性だ。その上、今聞けば、国中こぞってほめているという。胸くその悪い。どいつもこいつも、女根性になり下がったのよ。おいは腹が立つ。おいはもう生きている精がなくなった」

「島津奔る」を読んだ後にこの作品を読み、この部分を読んだときは思わず膝をたたきましたね。わが意を得たり...そりゃそうだ...ってね。今思えばセンチメンタリズムに流れた池宮作品のラストに比べ、この激烈なモノローグこそが歴戦の勇士であった中馬大蔵の真骨頂であり、その人生を締めくくるにふさわしい咆哮だったわけだ。(もっとも臨終の際でホロリとさせる場面もあるんですが。)

自身薩摩隼人であった海音寺先生は母校、いまの鹿児島県立加治木高校に石碑を残している。そこには自筆でこう記してあるらしい。

「私の人間美学はここで形成された。当時の校風が、男はいかにあるべきかを私に教えた。私はその美学に従って生き、その美学を文学化しつづけて、今年七十四という歳になった。」

いったい今の日本の文壇でこう言い切れる作家は何人いるだろう。海音寺潮五郎

yutethebeaute999 at 21:22│Comments(2)かため 

この記事へのコメント

1. Posted by モモタ   2006年12月24日 22:04
4 こんばんは。

司馬さんは未だに日本で一番人気のある作家ですから、権威化していくのも仕方ない面があるのかもしれませんね。

私にとっても、司馬さんは海音寺潮五郎さんにたどり着く入門編的な役割で、今は海音寺さんにゾッコン(死語だ!)です。
海音寺さんは亡くなって30年近くになるということもありますが、最近の知名度の低さには納得できないものがあります。いい加減な歴史認識がはびこる昨今、もう一度見直されていい作家ですよね。
2. Posted by enta   2009年11月28日 00:30
司馬といえば、坂の上の雲の件で福田恆存に反論された時記事を載せた中央公論に行き、二度と彼奴に書かせるなと怒鳴りこんだ話しは有名です。取り巻きがどうこうじゃなく彼自身が権威主義的人間なのです。

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