2006年02月12日

マメでまじめな諭吉さん

仕事もプライヴェートも絶好調らしい畏友M君とは好対照に、こっちはどうも近頃仕事が上手く行かない。去年の10・11・12月がいけいけドンドンだったのに比べ、1月中旬からこっち、ここんところを自分がこうすれば上手くいくのではないか...と試行錯誤して結局うまくいかない毎日。思いつくのは「いけいけドンドン」だった時分に打っておかなければいけなかった手ばかり。う〜ん...やはりビジネスとはこういうモノか。

「こういうモノ」とは最近のラグビーでの経験からも思いつく。

昨シーズンまでは香港4部リーグに参加するクラブの六番手チームでちんたらやっていたのが、M君の(強引な)後押しで今シーズンから2部リーグに参加するクラブの三番手、四番手チームでプレーさせてもらっている。で、先週。上位チームの試合が無かったので、久しぶりに六番手チームに助っ人参加。より高レベルでの試合に慣れていきている私は、今シーズン負けがこんでいる古巣チームで「ウワァッハッハッ...オレが勝たせてみせる...」と意気込んでみたのですが...結果今シーズン初めての負け試合。なんだかんだいってラグビーって一チーム15人でやるスポーツなんですね。一人いきがってもだめなものはだめ。自分の事だけではなく、周りのプレーをレベルアップさせる事が出来るようにならなければ。

今現在の不調の仕事もネタを仕込んだところで、プロジェクトの重要な部分を丸投げしてはダメな方面に丸投げしてしまったため、いまになって問題湧出。全てを任せる前に万事先回りして手を打っておくべきであった。

ま、こんな時は仕事もラグビーも相撲も同じかな...頭を下げてじわじわ前へ。辛抱、我慢、辛抱、我慢...。

仕事は不調だけどラグビーはなかなか好調。昨日は三番手チームと四番手チームの双方でダブルヘッダー、フル出場。午後2時キックオフの三番手チームの試合は32−10で勝利。夕方6時キックオフの四番手チームの試合は前半2トライ先制したあと12−11で辛くも逃げ切るという、えらくしんどい試合展開で、最後3分でこむらがえってしまった。

連勝。よし、今夜は気分よく酒でも飲むか...と家に連絡をしてみたら...普段は丈夫な妻が体調くずしてダウン。こりゃ一大事...痛む三十ン歳の身体と2試合分の洗濯物をひきづって買物をすませ、家に飛び戻って看病。う〜ん...やはり最近バイオリズムが低い...かな...。

一夜明けて妻は小康状態。手のかかるセガレは朝風呂に浸けた後、なぜか好物の納豆と、どら焼きを喰わせ、今はディズニー・チャンネルを見せてごまかしている。その間にこれを書いているわけです。

ま、調子の悪い時はかための話は抜きにして、ときどき考えているショーモナイ事でも書いてブログをエントリーしようかな...ってなわけで最近思いついた事かかきます。また下ネタ気味になってしまいますが...。

最近思いついた事...それは福沢諭吉の性生活に関する一考察とでも申しましょうか...それはこういうことなのです。

幕末・明治の偉人たちの中で、なぜ諭吉さんだけは奥さんのお錦さんだけを大切にして、側室や妾などを置くようなまねをしなかったのか...ということです。

いや、これ考えてみると本当に不思議なんですね。あの当時の男にとって一夫一妻制なんていうのは今と違って常識でもないし、どちらかといえば例外。それに諭吉さんは結婚以前もかなり身持ちが良かった。大阪の緒方洪庵の適塾で学んでいた時も、女癖の悪かった手塚治虫の曾祖父さんやその他大勢とちがって女遊びをしなかったらしい(参考:「福翁自伝」、手塚治虫「陽だまりの樹」)。

でも別にそっちの方が淡白だったというわけではないらしい。かぞえ28歳で結婚してからはせっせと子づくりに励み男女9人の子供を成している。マメだ...。また明治22年、諭吉さん54歳の時に慶應に入塾した松永安左ェ門の回想によると、諭吉さんは昼間から奥さんと同衾していたらしい。元気だ...。

これだけ元気なのに、なぜ奥さん以外の女性の陰が見えないのか。

実はこのことについて以前、慶應の先輩と話をしたことがあります。

先輩曰く、やはり咸臨丸でアメリカに行った時にレディー・ファーストの風習に接して感心し、これぞ文明国の証しということで、妾などを公然と置く日本の風習を身を以て改めようとし率先して範となった...。

これに対し、私はやはり適塾で医学を修めた諭吉さんは性病の怖さを知っていたので、生涯一穴主義を通したのではないでしょうか...といささか下世話な勘ぐりをした次第。

しかしこの(まぁ...正直いってどうでもいいかもしれない)問題に関して、最近新たな考えが浮かびました.そのきっかけはみなもと太郎さんの「風雲児たち−幕末編」第8巻で描かれた諭吉さんの半生。そしてそこに示された諭吉さんのお母さん、於順さんの偉大さです。中津藩大阪屋敷勤務のお父さんが45歳で急逝し、その後5人の子供を女手一つでまとめあげ、九州中津に帰郷し、諭吉さんら子供たちを育て上げた母。大阪育ちで九州中津の風習に合わず、故郷で母子家庭は孤立。でも「福翁自伝」からうかがえる諭吉さんの幼年時代の思い出は幸福感に溢れた物となっています。またそこには身分の上下や貧富の差を問題にせず、分け隔てなく人に優しかった母親像が描かれています。「福翁自伝」を読むと、「人の上に人を作らず、人のしたに人を作らず」の精神は、実は諭吉さんが子供の頃からこの母親によってすり込まれていた考えであったことが解ります。

諭吉さんの人格形成の根幹にこの母親の慈愛に満ちた思いでがあったため、諭吉さんは大成した後も自ら築き上げた幸福な家庭を壊すような事はあえてしなかったのでしょう。

今考えてみると先輩の考察の方が正解に近かったのかな...なんて思います。アメリカでの見聞は日本では非常識だった自分と自分の母親の考えが正しかったことの裏付けだった...と思ったのかもしれません。

もう一つ、みなもとさんの漫画を読んでいて気がついた事。幕末から明治に移るとき、人の名前の流行り廃り...というか名前の趣味が大変化します。たとえば西郷吉之助が隆盛に、桂小五郎が(木戸)孝允にといった風に、どちらかといえば和風な名前から、漢字二文字の固いイメージの名前がウケるようになります。(勝海舟はちょっとひねくれていて、麟太郎が、義邦に、その後幕府から安房守(アワノカミ)を任官し、その因縁で維新後は安芳(アワ)と名乗る。でもこれは音読みでアホウとよませるいたづらだったらしい。)

そうしたなかで、諭吉さんだけは、産まれた時に父親が付けてくれた「諭吉」の名前を終生変える事は無かった。

大阪藩屋敷勘定方勤めで藩の借金のやりくりばかりに奔走させられていた百助父さんの趣味は本当は学問。諭吉さんが産まれた日にかねてから望んでいた清朝の法令集「上諭条例」を手に入れたことを記念した、命名「諭」吉。

これはやはり、いくら学問に秀でていても、下級武士として意のままにならない人生を送り急逝した父親の思いを大事にしたんだろうな...と、思いいたった次第。

「父の生涯四十五年のその間、封建制度に束縛されて何事もできず、むなしく不平をのんで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児の行く末をはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、わたしは毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤るとともに、亡父の心事を察して一人泣くことがあります。わたしのために門閥制度は親のかたきでござる。」(「福翁自伝」)



マジメ、マジメ...諭吉クン

yutethebeaute999 at 10:13│Comments(0)やわらかめ 

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