2007年03月30日

「天下の大権は、私に帰せずして、公に帰するやせり」

(ちょっとかなり「かため」な話を「長め」にしますので、その向きがニガテな方はとばしてください。)

かなり旧聞になるが政治家の平沼赳夫さんが脳梗塞を患って一時入院されていた。どうやら最近無事退院され、現在はリハビリに励まれているらしい。

なにはともあれ、大事に至らずよかったですね。

以前、中川幹事長のことに関連してちょこっと書いたが、平沼さんの人生には考えさせられることが多い。

ナマの平沼さんを拝見したのは高校時代の友人U君の結婚式のとき。あれは2001年のことだったと思う。

細かい事情は知らないが、U君のご尊父様はなぜかご令息を政治家に仕立てあげたかったらしい。そしてこの「ご尊父様」は偶然にも私のロンドンの留学先の同窓会日本支部の代表を勤めていらっしゃったこともあるのだが、ここら辺の事情をあまり詳しく書いているとキリがないのでやめときます。

そんなわけで当時、「次期総理」の呼び声が高かった平沼さんはU君結婚式披露宴の主賓ということになっていた。

使用前平沼さんはこうした席に呼ばれた政治家の常で、遅くやってきてスピーチしたらさっさと引き上げていった。そのスピーチも、

「私は若くして政治を志したものの...地盤も看板もなく...右も左もわからぬ岡山の選挙区で徒手空拳...夫婦二人三脚でがんばって...」

などとエラク垢抜けないことをしゃべっていた。「地盤も看板もなかった」などとおっしゃっても平沼騏一郎の養子であられて徳川のご令嬢と結婚されているのだからチャンチャラおかしな話だ。

U君にしてみれば「孝ならん」と思い「ご尊父様」のご意向におまかせしたのだろうが、私はせっかくの結婚式がこんなんでいいのだろうかと余計な心配をしていた。もっとも人格者のU君は鷹揚としていたが。

その後、例の小泉さんの郵政民営化の粛清で平沼さん、あえなく自民党追放。あっという間に「次期総理」から「政界の旗本退屈男」に格下げになってしまった。

我思うに平沼さんは確かに血筋や毛並みは良かろうが、地縁のない選挙区でがんばらなければならなかったので、いわゆる「地元の名士」との結びつきが欠かせず、結果として特定郵便局長の人々がその後援会に多かったのだろう。またそうした「地元の名士」とその奥方どもにしてみればスマートで氏素性の良い平沼さんと「徳川のご令嬢」夫人はちょっとしたアイドルだったのだろう。

「いよっ!次期総理!」

「次のフアースト・レディー!」

なんていいながら後援会の宴席ではしゃぐ「郷紳」の姿が目に浮かぶ。

今から思えば結婚式で私がじかに見た平沼さんは得意絶頂の時にいたわけだ。

使用後その後、久しぶりにテレビで平沼さんの姿を見たのは復党問題で中川幹事長にいじめられているとき。

「これが同じ人か...」

と思わず絶句してしまったほど、そこには憔悴しきった平沼さんの姿が映っていた。

そして脳梗塞。

これはあくまでも私の憶測の範疇を出ないが、郵政民営化政策に対する反対は、平沼さんの選挙区における支持母体の意向に則ったもので、政治家としての平沼さんの信念に基づいたものではなったのではないだろうか。

もし自分の信ずるところにより失脚したのであれば、あれほど心身にダメージをくらうはずはないと思う。

平沼さんにとっていちばん厳しかったのは、政策議論に敗れたことではなく、

「次期総理」

としての地位と周囲の人々の期待を失ったことだったのだろう。

平沼さんがあの「次期総理」の地位に到達するまで、平沼さんとその家族、特に奥さんは多大な犠牲を強いられたのだろうと思う。その犠牲がすべて無意味であったことを悟った瞬間に、平沼さんのなかで何かが壊れてしまったのであろう。

しかし、である。

本当の「政治家」とは権勢の地位を占めることのみを目的として生きる人ではない。(もちろんそうした政治屋はたくさんいるが...。)ましてや自分がそうした権勢の地位を占めることを期待して左袒し、結婚式のお飾りに招待し、晴れてご本尊が青雲の志を得た日にはその陰でオコボレに預かり甘い汁を吸おうなどと思っている輩の便利を図るものでは無いはずだ。

日本の歴史をひも解けば、幕末に勝海舟がいいことを言っている。

徳川幕府が「大政奉還」を宣した後、王政復古のスローガンの下なにがなんでも軍事クーデターを通じた政治の主導権奪取を目指す薩長との間で対決気運が高まった「鳥羽伏見の戦い」前夜。勝海舟は幕府の老中たちにあくまで和平方針を提言するが、最後の将軍徳川慶喜をとりまく幕府高官から、

「薩長の手先なんじゃないか」

と揶揄され、ついに匙を投げる。憤懣やるかたなかった勝は有名な「憤言一書」をしたためた。

えっ?有名じゃないって?

だから日本の教育はおかしいってんだよ。

「憤言一書」の出だし、

「天下の大権は、私に帰せずして、公に帰するやせり」

は、福沢諭吉の

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」

と同じくらい重要だと思うんだが...。

つまり勝は徳川幕府の存続と、それに寄生した自らの地位の保全に汲々とした幕臣どもに、

「そんな自分たちの都合ばかりを優先させてどうする。本当に日本のためにはどうするべきなのかを考えるのでなければ、日本の政権受託者としての徳川幕府はすでにその任に堪えないのではないか。」

ということを主張したのだ。

勝は後に鳥羽伏見の戦いに勝利し、江戸総攻撃のため東進してきた新政府軍を牽制するために提出した新政府あての書簡のなかでも、

「口に勤王を唱うといえども、大私を挟み、皇国土崩、万民塗炭に陥ゆるを察せず」

と同様のことを言っている。どうやらこれは勝の根底にあった信念のようで、晩年も

「民をかえりみず勤皇だ佐幕だなんだって、ソリャあべこべのはなしサ。」

といっている。

この信念があったからこそ、勝はあれだけ毅然として四面楚歌の状況の中で徳川幕府の死に水をとることができたのだろう。

またその信念があったからこそ、晩年に福沢諭吉の「痩我慢の説」でその去就を批判されても、

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存じ候」

と言い切れたんじゃなかろうか。

話がかなりわき道にそれた。

平沼さんに話をもどそう。

平沼さんのいちばん大きな過ちは自分の立身出世という「大私」をその政治人生の目的と勘違いしてしまったことにあると思う。

もうひとつは、自分や家族にあまりに大きな犠牲を強いるような余裕の無い生き方をしてはいけないということだ。

もちろん人間、人生の切所といったところで乾坤一擲のガンバリが必要なところもあるし、ましてや政治家ともなれば、いつでも

「ケツ割ってリキんでいます...」

みたいなポーズをしなけりゃならないんだろうけど、やはりメリハリが肝心。あまりに張り詰めた人生ではちょっとした躓きで「プッツン」となってしまう。

勝海舟にも躓きはあった。神戸の繰練所が坂本竜馬みたいな「不穏分子」の溜まり場となり、ついに江戸に呼び戻されて御役御免、蟄居となる。働き盛りの40歳。その後二年間も雌伏していなければならなかったが、その折に勝は初めて「源氏物語」などの日本古典を読み込んだらしい。

まぁここら辺の余裕ぶっこいた生活、人を喰った態度というのは彼の場合、天下御免の不良御家人、勝小吉という実の父親が手っ取り早い「模範(?)」としていたのが良かったのかもしれない。

平沼さん、真面目そうなお人柄だからな〜。

とにかく...平沼さんもまだまだ67歳。リハビリに励まれて、気長に「もしかしたら...」の捲土重来に備えつつ、自らの老いと家庭を楽しむ余裕を取り戻して欲しい。

なお、今年の参議院選挙で改選対象の片山虎之助(自民党参院幹事長)は岡山選挙区なので、地元の支持を取り付けるために平沼さんの協力がのどから手が出るほど欲しいらしい。もしにっちもさっちもいかなくなって比例代表にまわったら大笑いだね。
とらさん

yutethebeaute999 at 11:38│Comments(0)TrackBack(0)かため 

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