2007年06月06日

楽観 (承前)

優秀な軍人であったナポレオンが、

「天候」

という基本的な自然要素をすっかり忘れてしまい、

「冬は寒い。ロシアの冬はめちゃくちゃ寒い。」

という現実を無視して大失敗したのと同じように、下手に頭の回転が早いエリート諸子は、

「人の考えが変わるのには時間がかかる」

「大衆の考えが変わるのにはより時間がかかる」

という大原則に気づいていない場合が多いんじゃないだろうか。

私が愛読する海音寺潮五郎さんがよく言うことに

「一世代30年」

というのがある。

たしかに20代の新人も50代になればスピードダウンするし、30代初めのバリバリ働き盛りのやり手も、60の声を聞くようになれば組織の老害となる。

この30年間のあいだでも、あるひとつの世代が社会のリーダーとなって他を牽引していく期間というのは長くて10年間がせいぜいだろう。

20代で社長になっちゃったなんて人が60になっても20代のころと同じように会社でリーダーシップとっています、なんてことはまずありえ無い。

こうした時間軸とともに重要なのが人の「心」の許容力の問題だ。

たいていの人間はこの30年間の間に

「価値観の大変動」

といった経験は1回ぐらいしか経験しない。

というか、たいていの人はそうした価値観の変動を2回も3回も経験してケロリとしていられるほどの許容力は無い。

そりゃ福沢諭吉みたいな偉人は、

「豊前中津の武家の次男坊」

だったのが、長崎、大阪適塾でオランダ語という異文化に触れ、蘭学をマスターし、晴れて

「蘭学先生」

として上京したものの、横浜見物で

「今の世界は英語だ!」

となり、英語を猛勉強し始める...なんて芸当をしてのける。

しかし、たいていの人はそこまで器用じゃない。

聖ポールだって「ダマスカスへの道」を歩いたのは1回だけだ。

以上のことを考えると社会の座標(パラダイム)というのは世代の交代と、世代中の価値観変動により、約10〜15年程度の周期で変動(シフト)するのではないかという(めちゃくちゃ)おおざっぱな仮説・見方ができる。

この10〜15年サイクルを念頭に、幕末史の年表をボーッと眺めていると、ある一定のパターンが見えてきた。

幕末が幕あける天保年間(1830年代)、渡邉崋山や高野長英ら在野の賢が、彼らの異業種交流会であった「尚歯会」の活動を通じて政治の改革を模索し始める(三河田原藩家老であった崋山が藩政改革に着手したのは天保4年、1833年)。特に長英が「戊辰夢物語」で、崋山が「慎機論」でより現実的な対外政策を(プライヴェートに)論じたのはそれぞれ1838・1839年のことだ。

ところが幕政のトップレベルでは老中筆頭(1839年に就任)水野忠邦による多分に時代錯誤の天保の改革が行われ、尚歯会はいわゆる「蛮社の獄」の弾圧を受ける(1839年)。

しかし、高島秋帆の徳丸が原(高島平)の砲術実演(1841年)などを経て、兵器の近代化、対外政策の合理化の努力は確実に進む。

こうした弾圧に負けなかった有志の努力により、蛮社の獄から10年後の1849年、崋山、長英の同士であった江川太郎左衛門は浦賀に侵入してきたイギリス軍艦、マリナー号に対して国際法を盾に取った互角の交渉をすることができたのである。

そして蛮社の獄から約15年後の1855年、幕府は長崎に海軍伝習所を設け、本格的に近代海軍設立への道を歩き始める。

幕政レベルを見てみると、水野忠邦の政権は4年でポシャってしまった。日本各地の重要拠点を幕府の直轄地として召し上げ(上知令)、幕府主導の強権政治を目指したところ、総スカンをくらって失脚してしまった(1843年)。1844年に一度復活するも1845年には再び解任され、以後幕政は諸藩との協調路線をとりつつ近代化を目指す老中・阿部正弘がその舵取りを行うことになる。

ところが、である。水野の第一回目の失脚からきっかり15年後の1858年にあの井伊直弼が大老に就任。幕府独断の強権政治を行い例の安政の大獄を引き起こすことになるのだ。

不思議な歴史の偶然?

いやただ単に井伊に打順が回ってきたころには、水野の失敗を経験した世代が舞台にいなくなっていた(リーダー世代の交代)というのが正解でしょう。

この安政の大獄を機に、それまで幕府を日本の政権受託者として疑わなかった日本の常識が崩れ、「倒幕」という政治運動が始まっていくのだが、それが成就するのが安政の大獄からちょうど10年たった1868年。

倒幕の立役者、西郷が

「晋どん、もうここらでよか」

と城山の露と消えたのが倒幕・維新から約10年後の1877年。

そして維新の後、約15年後(実際には13年だけど)には明治14年の政変で、維新の志士の第二世代による薩長体制が固まるんである。

調子に乗って続けよう。

サッチャー政権は11年間続いた。

ブレア政権は10年目の今年にその幕が下りる。

本邦を見れば...

宮沢改造内閣で郵政大臣に就任した小泉純一郎が郵政民営化を主張して政界の変人扱いされ、総スカンくらったのが1992年。郵政解散で小泉自民党が衆議院296議席獲得して大勝したのが約15年後(13年)の2005年。

山一証券の破綻が1991年。

日本長期信用銀行の役員会で

「グループ全体の不良債権額が2兆4千億円を超えた」

と報告され、不良債権の「飛ばし」が始まったのも1991年。

いろいろあった不良債権問題がやっと一段落するのには、この10年後の2001年、小泉内閣により金融担当大臣に任命された竹中平蔵の登場を待たなければならない。

この最後の例はごく日本的な事例で面白い。

アメリカのように責任の所在を明らかにしてずばりとエグリ切るような「対症療法」がなかなかできない日本。結局「失われた10年」の間に責任者世代(宮澤・宏池会?)が順繰り退場していくのをゆっくり待っていたような観がある。日本は体質変換を目指す「漢方療法」なのか?体質が変わる前に患者が死にそうだったけど。

まぁ牽強付会気味な過去の例を羅列しても始まらない。また最初から「10年・15年」という頭で年表を見ているから、たまたまそうした事象が目に飛び込んでくるだけかもしれない。

とにもかくにも、この

「10〜15年周期説」

に関して私個人が結論として言えるのは、

「人生、常に10年から15年先を見ながら生きていかなきゃだめだね」

ということだ。

もちろん、

「来年のことをいえば鬼が笑う」

ということわざも、この世の真実をついている。

しかしだからこそ、将来に対する見透しが効き、

「未萌に見る」

ような智者となり、長期的展望をもてるようになるためには、眼前の厳しい現実にすぐにへこたれない、すぐに「憂国」モードに流れて拗ねない、大らかでたくましい

「楽観」

が前提となるんじゃないかな...と思う次第であります。

決してあきらめなかった小平のようにね。

「やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。」

by勝海舟

yutethebeaute999 at 03:13│Comments(0)TrackBack(0)かため 

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