忘れえぬ人たち

 徳田虎雄 徳洲会創設者 徳之島の貧しい農家の8人姉弟の長男として生まれた。徳田氏が9歳のとき、3歳の弟がひどい下痢、嘔吐で苦しみだした。夜中の3時頃、医者の家まで暗いサトウキビ畑と山道を2キロ走り医者の家まで行った。しかし、医者はきてくれなかった。翌日午後1時頃やっと医者はきてくれたが、その弟は既になくなっていた。弟は医者にみてもらえずに死んでしまった。これが彼を医者にならせた原動力である。

大阪の今宮高校の2年生へ、一年遅らせて編入入学。徳之島の港を船で出るとき、父親は「医者になるまで帰ってくるな。もう駄目だと思ったら、海もある鉄道もある。飛び込め」といって息子を送ったそうです。その時から、徳田氏は「生か死か」を自分の座右の銘としました。

大阪大学医学部を目指す。2回落ちて、3度目で合格した。その間の受験勉強は、早飯、早糞、貧乏ゆすり、一日16時間の勉強をしたそうです。トイレに入る前にズボンのチャックを下げイチモツを左手でつかみながら、便所の扉を右手であけすぐ小用をだす。歯を磨くときも命がけ、顔を洗うときも命がけ。(後日、フィリピンで会った時も、トイレ、洗眼はこの通りであった。)畑を切売りして仕送りしてくれる両親もぎりぎりであった。負けるわけにはいかなかったのだ。

1986年フィリピン政変が終わり、若宮氏と徳田氏は知り合う。二人は意気投合し、フィリピンに病院を建てようと徳田理事長の旗振りで1987年調査チームが派遣された。その時、私もフィリピンに数度同行して現地での通訳やら、道案内やらお手伝いをさせていただいた。

○エピソードその1
初めて、徳田理事長を見たのは、東京赤坂の山王ビル徳洲会本部理事長室だった。

学生3,4人が徳田理事長と話しをしにきていた。ソファーに学生たちは座り、その対面の床に徳田氏はスーツ上下を着て、靴をはいたまま正座をして一生懸命語っていた。何と靴の片方の底には穴があいていた。スーツはアイロンの線が消えていて、しかも汗が染み込んでいるようで、2,3メートル離れてすわっていた私の所まで匂ってくる。頭髪も長く伸び放題で、2,3日風呂には入っていないのは明らかだった。べっとりと油ぎっている。「おい、そこの入り口のヤツ。気分がわるい。出て行け」と私を指差した。徳田理事長は直感で人間をかぎ分ける力があるようで、私は初対面する前につまみ出されてしまった。

○エピソードその2
徳洲会幹部
5,6名とフィリピンで仕事をすることになった。マニラ・ガーデンのスイートルームを本部事務所にして活動が始まった。壁に日程表、行動計画など大きな紙に書いてはったり、電話応対、道案内、通訳やらそんな雑用が主であった。外回りが終わり、反省会が深夜の1時過ぎまで続く。翌日も朝の7時から予定が詰まっていたので、私は「今日はこのへんで失礼します。」と自室へ帰った。あとで聞くところによると、徳洲会幹部は私のことを、「あいつは根性がない。1時で寝てしまった」と非難していたそうだ。その翌日朝7時にスイートルームの本部にあたふたと行くと、幹部はネクタイをしめて、全員そろっていた。「いつ寝たんだろうか。」「やはり徳洲会はただものではない」と思わざるをえなかった。

ある日、大阪岸和田の徳洲会病院院長から、徳田理事長の手帳を見せてもらった。「キミもいい機会だから理事長の手帳をみせてあげよう。」と、見せてくれた。表紙裏には、鉛筆で「生か死か。真実をもとめて」と大きな字でかかれていた。予定が細かく鉛筆で書かれていて、日付のしたに◎や○、△がかかれていた。「今日も昨日も一日あれだけ頑張って、△なんだよ。自分に厳しい人なんだよ。徳洲会職員でも理事長の手帳が見れる人なんて数人しかいないんだぞ。キミは幸せものだよ。」といってくれた。私は、その価値がわかなかったもので、ただ「はぁ~」と生返事をしていた。

また、ある日のエピソード。徳田理事長が幹部と立ち話をしながら、私を指差して、「彼は頑張ってやっているのかな。」と幹部職員にきいた。「はい、真面目にこつこつやっています。」と答えてくれた。理事長は私のほうへつかつかと来ると、「俺は金も名前も命もいらぬ、そんな男がほしい。おい、おまえ。俺の秘書になれ。」とその太い人差し指を私の鼻先にさしだし言った。私は即答できなかった。何と答えたかは覚えていない。当時私は27歳ぐらいであった。若宮さんのしたで薄給で働いていたから、「名も命もいらないが、金はいらないとは死んでもいえない」状況だった。丁重にお断りした。

エピソードその3。フィリピン政変1周年を祝う催しがマニラであった時、徳洲会からも医師、看護師数名がマニラに来ていた。私はタクシーで案内を務めていた。タクシーで看護師さんに、思い切ってきいてしまった。「看護師さんたちって、岸和田の病院の院長や、ほかの先生たちの悪口とか言われますけど、徳田理事長の悪口とかいわれないんですか?」

40代前後のきつそうな看護師さんだった。「まあ、きいていたの。言わないでよ~。」「徳田理事長は本当に患者さんのことだけを考えて日夜寝る間もおしんで、一日中働いていらっしゃる。私たち一看護師が悪口をいうなんてとんでもない。ただただ頭がさがるばかり。本当よ。」

徳田氏のことを悪くいう職員は一人もいなかった。ただの一人も・・。

結局、土地取得がうまくいかなくて、フィリピンの病院建設は失敗した。

 

私は平成4年だったか、フィリピン大学留学前に徳洲会本部の親しい職員を挨拶に訪れる。偶然、徳田理事長が部屋からでてこられ、挨拶をした。「おお、覚えてるぞ。頑張れ!」といって、毛がもじゃもじゃ生えた手、太い指で握手してくれた。抱擁されたような暖かい手であった。忘れられない。

その徳田氏は、ALSという難病で闘病中である。気管切開し声もでない。

平成22年のある日、私は徳洲会ホームページをふらっと見る。「ブルガリアに1000床の病院を建設。」とあった。「1000床!?」言葉がその後に続かない。これが徳洲会の力か、これが徳田氏の力なのか・・。筆舌に表せない驚きであった。

私が、今、医療業界にいるのも、徳田氏の縁からである。面接の時、徳洲会と接点があることを話したから、面白がって採用してくれたのだと思う。徳田理事長と会えたなら、もう一度「おかげで頑張っています。」とお礼をいいたい。あわよくば徳洲会で仕事をしてみたいものだ。