いや、タイトルを「独話」にしようと思ったのだが、
先に変換候補で「毒話」と出たので、
まあ、これでもいいか、と思い、そのままタイトルにする。
「独話」なので、誰かに対して語っているわけでなく、
読んでもらおうという気もないので、
普通体で書く。
もし、私が明日死んでも、これらの言葉はしばらく、
ネットの世界に残るだろう。

多分、誰も気にしない。誰も読まない。
存在する価値のない言葉。
ネットの世界にあふれかえる、あってもなくてもどうでもいい言葉の一つ。
誰も期待していない言葉が、辺り構わず撒き散らされる、
そんなネットの時代。世も末だ。
古来、この国では、あふれる思いを三十一文字に集約し、
語るべきでない言葉を呑み込み、最小限の言葉で思いを伝えようとした。
それが洗練された言葉の使い方だった。
その受け手もまた、短くまとめられた言葉と、そこに秘められた思いを察し、
少ない言葉から多くのメッセージを受け取ろうとした。
そこには人の優しさと、人々の信頼関係があった。
今の時代はその真逆だ。
大量の言葉が撒き散らされ、誰もが自分のことを分かって欲しいと願いながら、
誰からもその言葉は受け取られない。
人はネットの前で酷薄になり、信頼関係は崩壊した。
言葉の暴力により、万人の万人に対する闘争が繰り広げられ、
人々はあっちこっちに動き回る暴言の恐怖に怯える。
これが「言論の自由」?「表現の自由」?
結構なことで。



そう考えれば、私がここに書こうとしていることもまた、
愚かな行為なのだろうとは思う。
書くこと自体、私の欲であり、私の拘りだ。即ち、業の産物だ。
決して美しいものではない。
だが世には兼好法師の例もあることだし、大目に見て欲しい。
これはただの独り言なのだから。

これを随筆として書こうと思う。
何やら思索の果てに見つけた言葉を、「有難い言葉」と称し、
人からお金を取ろうと思えば、それは私の負けだ。
思索する者の堕落だ。
だから、タダで読めるブログに書く。
「聖なる貧者」を気取ってみたい。
なるべくカッコよくするのも善行ではないかと思うのだ。



さて。
人は何を考えながら生きているのか、考える時の基準は何か。
そして、この世界は一体何か。
ずっと興味があった。
私は自分が意図せず何かの宗教を求めているところかと思ったが、
そこは自分でもよく分からない。
多分、私は宗教に興味があっても、宗教団体には興味がないのだろう。

私は「宗教は何か」と聞かれれば、「仏教」と答える。
まず、私の苗字が仏教的であることが一つ。多分誰もが納得する。
それに、私の思い描く世界観、人生観を説明するのが面倒なので、
思索の際に大いに参考になった御釈迦様の考えが一番影響が大きい、
という意味で、仏教と答えても差し支えないだろうと思うのがもう一つ。
ついでに、この日本の社会ではそういうことを語る人間は
怪しい人間と思われるため、それを避けるという意味もある。
まあ、これを読んだ人は、以後私と関わるのを避けるだろうが。

実は、私には信仰する宗教がどうかというのはあまり関心がない。
それがどの宗教団体に所属しているかという話になるからだ。
要は世界観、人生観だ。
人がある種のよく知られた宗教を信仰しているのであれば、
その人の世界観、人生観は分かりやすく、
交際する際に扱い方が分かりやすい。
そう考えれば宗教とは「人の取り扱いマニュアル」とも言える。
このように世界を眺めつつ、このような方針で生きています、ということが
宗教という形で説明できるなら、人を理解する上でとても便利だ。
ただし、今日では宗教より文化の方が人を理解する手がかりとして
有用なようである。世界的な傾向で、現代人は宗教を語りたがらない。

ただ、理想を言えば、各々誰もが自分なりに思索し、
自分の心の中の「正しい何か」と最も符合する世界観、人生観を持つ宗教を
自分の宗教にすればいいと思う。
従って、私はこの世に宗教家は必要だが、宗教団体は不必要だと思う。
ましてや布教活動など、百害あって一利なしだ。

世の中は変化し、教養は社会の上層から底辺へ行きわたりつつある。
宗教家が思索を述べる手段も口伝から書籍、そしてネットに変わった。
人々も「正しい何か」について人から説かれなくても、
今は思索を始めるきっかけはいくらでもある。
人それぞれが、自分の中の「正しい何か」と対話し、
それぞれに合った世界観、人生観を見つければいいと思う。

これは、人々の海の中で生きる私の、思索の中から生まれた、
小さな泡のような呟きである。



私はかねがね、このようなことを考える。
この世界は人が生きるのに適していないと思う。
なぜなら、思った通りにならないからだ。

もし、完璧な世界があるならば、人が思ったことは全て叶い、
叶わないものは欲しもしない、
全て叶う範囲のみ欲するよう、人というものが作られているはずだ。
なぜ、人が望み、欲することと、
この世界から与えられ、叶えられるものとの間にズレが生じるのか。
それは、この世を作ったものが完璧ではないからだ。
人がより良い世界を空想し、進歩や革新を志向するのは、
この世を作ったのが全知全能の存在ではないからである。
私は唯一絶対の、全知全能の神を否定する。
もし、そのようなものがあるならば、
このようなアンバランスな世界を作るはずがない。
「望むものが全て叶うというのは、それは神の世界だ。
神の世界は神によって作られ、苦しみながら生き抜いて、
正しい心を得た人だけが、死後に行くところだ。」
とかいう言い訳もあるだろう。
だが思う。全知全能の神が、なぜ自分が作ったものを試すのか。
全知全能でありながら不完全なものを作り、
苦しみ、悪の道に堕ちようとし、危うい人生を生きるのをのを見ながら、
正しい心を得た者だけ神の世界に招き入れる、など、
タチの悪い悪戯にしか思えない。
本当に知恵のある者は、優しさや哀れみを感じる心を持つはずだ。
苦しまない人生が与えられるはずだ。
もし、憐憫の情を持たない全知全能の神とかいう存在があるなら、
私は軽蔑こそすれ、信仰の対象とはしないだろう。

従って、私は全知全能の神の存在を認めない。

私は、この世界を作ったものと、私の心を作ったものとが
別のものであると思うのだ。
私にとって、いつも望むものは大きく、叶うものは小さい。
いや、時々、望むものが小さくても、予想外に大きなものを得ることもある。
常にバランスよく、願い、叶うということは滅多にない。
それはつまり、願いの源である心と、
人に何かを与える世界の仕組みや他の人との関係性が、
それぞれ別個のものによってコントロールされている、
だから常にズレが生じる、と考えられるのだ。



そこで、私はこう考えた。
まず一つは、
この世界、あらゆる物理的現象を司る存在があるのだろう。
生成と消滅を繰り返しながら、絶えず変化し続ける世界の主。
全てを合理的にやり繰りするが、法則に従ってこの世界を動かす以外、
他のことは一切考慮しない。そのような神があるだろう。
極端な言い方で言えば「無知全能の神」。

もう一つは、
この世界に対して全くの無力、別の世界からこの世界を眺めている
存在もあるだろう。
全知であり、それ故に人の優しさや哀れみを知る、人の魂の主。
ただし、人を救うことはできない。
極端な言い方で言えば「全知無能の神」。

人は、肉体を前者から、精神を後者から与えられ、生きている。
別々のものによって作られたし、双方完璧な神ではないので、
バランスが悪い。
しかし人はそういう生き物だ、と考えている。



つづく。