Spicy Museums

近日中にお引越しします。引越し先は、www.artlogue.net よろしくお願いします。

July 2012

「普通の人々」のロンドン・オリンピック開幕式

映画「トレンスポィテング」の監督が、どんなステージを作るのか興味があったので、人並みにロンドンオリンピックの開幕式を観ました。
面白かったのは、「威厳ある歴史」ではなく「普通の人々の文化」に焦点が当たっていたこと。
主役は王や政治家や将軍といったセレブではなく、農民や労働者や兵士や婦人参政権運動の女性や移民や子どもたちでした。
デビット・ベッカムやポール・マッカートニーなど英国を代表する人々も登場したけれど、あくまで物語の脇役だった。
演じたのもすべてボランティアの人々、NHS(国民皆健康保険制度)の看護婦たちは本当の看護婦さんだったし、聖火の最終ランナーを担ったのは数人の子供たちでした。

全体がごちゃごちゃしていたという批判もあるかもしれません。が、それは、人々が主役だったから。「英国性」を押し出しすぎてたという声もあるようで、その点、私も同感なのですが、オリンピックとはそうしたものだともいえます。でも、「強いイギリス」というイメージではなかった。
さまざまなところにウィットを効かせて、私にはなかなか好感がもてるセレモニーでした。

正直いうと、オリンピックは好きではありません。限界への挑戦とかフェアーな競合とか世界の調和という美辞麗句の裏に、政治的経済的なパワーがどうしても入り込むからです。
でも、セレモニーは開催国独自の表象が見られます。いかなる表象をするのか、人々はそれをどう受け止めるのか、それはミュージアムの表象にも通じるのではないかと思うのです。

ところで、ひとつ気になることがあります。
日本のメディアは英国の選手たちを英国チームと呼んでいると思いますが、イギリス国内(少なくともロンドン)のメディアは、GBチームと呼んでいるのです。
「GB」とは「グレート・ブリテン」のことでそこには北アイルランドは入りません。本来ならばUK(ユナイテッドキングダム)と呼ばれるべきなのですが、オリンピック・オフィシャルが「GBチーム」と決めているようです。
何か政治的な折衝があるのでしょうか?何より北アイルランドの人々はどう受け止めるのだろう?やっぱりオリンピックと政治はへんな具合に絡みあっていて、なんだかなあ・・・。そのあたりの事情に通じた方があれば、どうか教えて下さい。

ユーモラスな池:ヘルトォーク&ドムローンとアイ・ウェイ・ウェイ

ロンドンは先週末から急に晴天続き、今日は30度を越えました。秒読み段階のオリンピックの熱気が天にも伝わったのでしょうか?ミュージアムもいたるところで関連の展示をしています。

ケンジントン公園内にあるサーペンタインギャラリーもそのひとつ。
あの北京オリンピックスタジアムの「鳥の巣」を創った、
スイス建築家ユニットのヘルトォーク&ドムローンと中国のアーティスト、アイ・ウェイ・ウェイがふたたびコラボレートし、
ロンドンの公園に建築オブジェがお目見えしたのです。

いっしょに観に行こうと、友人と現地で待ち合わせしたのですが、
先に到着した彼女が、「池のそばで待ってるよー」と携帯メールをくれました。
「池?あのへんに池なんかなかったぞー、そうか、アーティストが作ったに違いない」と想像する私。
すぐいくよーと返信しながらギャラリーに近づいていくのですが、池なんてぜんぜん見えてきません。
と、向こうの方で友人が手を振っているのが目にはいりました。
「池なんて、ないやーん」と心で叫ぶやいなや、なんと、目線のまっすぐまん前に池!

つまり、土地のゆるやかな起伏を利用して、目の高さに池をしかけたのです。
構造的には、ちょうど二枚貝のようで、上のほうが人口の池、その下(垂直に真下)には、複雑な形状をしたベンチやステップができており、ちょっとしたカフェになっています。
少し高いところから見下ろせば、確かに池で、鏡のように公園の緑や赤レンガのギャラリーの建物が映りこんでいる。
この意表をつく出会いに、なんだか口角が緩んでしまったのです。

友人といっしょにお茶でもしようと池の下に入っていくと、今度は足元からユーモアが伝わってきました。
見た目には石製のステップやベンチやテーブルが、ぜーんぶコルクでできていたからです。
外見上は硬い物質と思って込んでいたものが、触れれば柔らかで暖く、またしても意表をつかれた次第。

彼らの作品は、わたしたちの視覚的なイメージやそれに付きまとう固定概念、感触というセンスと戯れているようです。
お茶じゃなくてやっぱビールよね、とチョイスを変えて、貝の中でわたしたちの会話も弾みました。

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image (c) Iwan Baah

お嬢様のラブ&ピース:ロンドンでのオノ・ヨーコ展

ギャラリーに設置された脚立をあがっていくと鼻先に白い天井。
そばには虫眼鏡がかけてあり、貼られたメッセージを読むようになっている。
そこに小さく書かれた文字は、「Yes」。

50年ほど前、ロンドン、ソーホーでYoko Onoという日本人の若い女性が展覧会をしました。そう、ジョン・レノンが彼女に初めて会ったのもその展覧会場でした。
今回、その作品が再びロンドンにやってきました。ところは、ケンジントンにあるサーペンタイン・ギャラリー。
このような60年代の作品から、最近の七夕風の作品やツィッターを使って不特定多数の人々を巻き込んだ作品までを並べた、小さな回顧展が開かれているのです。

うーん、面白いんだけど・・・、ね。
正直言って、これが今回の展覧会でのわたしの個人的感想。
彼女のコンセプチュアルな作品は、確かにスマートで、ストレートで、いつも時代の先端にあり、時にポエティックでもあります。
人々を巻き込み、行動を起こさせるという観点からも、メッセージ性がある。
そのメッセージとは一貫して「Love&Peace」でした。

でも、わたしには、なんだかとてもお上品なのです。
そのメッセージの奥に潜む現実の汚さや惨さや矛盾からは、ちょっとかけ離れたところからメッセージを送っているように見えてならない。
それは、彼女の半生とも関係するのかもしれません。
裕福な家庭に生まれて、外国生活を過ごし、ジョンと出会い、カリスマ的なアーティストのいつも光の中にいたわけですから。
今回の展覧会の作品を見通してみても、カタカナのオノ・ヨーコしか見えてこない。
そのようなセレブな人生の中にも、さまざまな葛藤や挫折があったに相違ないと想像します。ジョンの死ひとつみても。、
だけれど、彼女の表現からは、一アーティストとしての人間性が伝わってこないのです。
いいたいことはそれ?そうね、全くもってごもっとも。「So What?」で、終わってしまう。

ひょっとしたら、それが「オノ・ヨーコ」というブランドでしか勝負することのできない、(してこなかった)彼女の限界であり、不幸なのかもしれません。

オノ・ヨーコのファンの方ごめんなさい。でも、わたしには、サーペンタインで同時開催中の、ヘルトォーク&ドムローンとアイ・ウェイ・ウェイのコラボレーションの方がうんと面白かったのです。

・・・という、とりとめない主観的な感想でした。

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Serpentain Gallery Yoko Ono展で 七夕飾りをする来館者たち

イブニングドレス展の二つの死

ヴィクトリア&アルバート博物館で開催中の「イブニングドレス(夜会服)展」は、目の保養になる展覧会です。
気楽にこれが素敵だの、イケテルだのと自分の好みで楽しめる。
私個人はアレクサンダー・マックィーンです。とってもゴージャスでアンビバレントな感じがする。
たとえばこれ。カットは実にシンプルなのに、表のファーと裏地の絹という素材の使い方もコンセプシャルで素敵でっしょう?靴もユーモラスでいい。
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目に心地よいのは展示がそういうつくり方をしているからでもあると思います。ここには、ファッション史を紐解くようなミュージアムの常道はありません。むしろ、ひとつの展示ケースの中に展示された複数の衣装が色合い的に響き合うようになっており、目を楽しませてくれます。面白かったのは、このドレスを着たセレヴが誰で、彼女と服との関係が読み取れるようになっていたこと。有名な女優たちや王室の貴婦人たちの名前のオンパレードです。逆に展示されたドレスを通して、彼女たちのパーソナリティがかいま見えてくるのです。

もっとも印象に残ったのは、白いドレスで統一されたケースでした。そのうちのひとつがキャサリン・ウォーカーがデザインし、ダイアナ妃が着たすてきなドレス。白の絹地一面にパールが施されたとってもシンプルなもので、優美さのなかに、どことなく気さくなボーイッシュな感じがでていてダイアナ妃らしい。

その隣には、先ほどのとは違うアレクサンダー・マックィーンのドレスが並んでいます。
上品なAラインの絹(たぶん)のドレスは、白を基調にさまざまなグレイのレイヤーがはいり、胸には中世の宗教画の天使を思わせるようなふたつの顔が浮かんでくるもの。
キャリアの最後期に作られたのだそうですが、脇にある解説ラベルにはさらに、当時のマックィーンの様子を知る友人のコメントもありました。それを読めば、ものづくりの周囲にある社会的環境に対して懐疑的になっていた彼のアンニュイな感じが、ドレスからも漂ってくるような気がします。

思えば、ふたりとも現代のファッション界をリードした人たちなのに、アクシデントと自死という違いはあれ、社会によって死に追いこまれた人たち。ふたつのドレスを並べたのはキューレターの意図ではないかもしれませんが、白のケースということもあって、彼らがファッションに与えた影響とその死をだぶらせてしまいました。


「第三の男」とウィーンのアイデンティティ

20うん年ぶりに映画「第三の男」を観ました。
光と影の映像美や、墓地での長いカットシーン、すばらしい音楽が強く印象に残っています。

今回は、3ヶ月ほど前に訪れたウィーンの思い出と照らし合わせながら鑑賞することができました。
プラーター公園の大観覧車の名シーンについて言っているのではありませんよ。いえ、むしろウィーンの街全体です。
はじめて観たときは、第二次大戦の敗戦国の首都ウィーンがアメリカ・イギリス・フランス・ロシアに四分割統治された背景を少ししか理解することができなかったのですが、
この犯罪事件が、かつてヨーロッパ一の栄華を誇ったウィーンの街が破壊されたそのショック、アイデンティティーがずたずたに引き裂かれた都市で繰り広げられた出来事だった事がよくわかったのです。

というのは、訪れたウィーンの街は痛みの跡も残らぬほどに修復し、文化都市としての誇りを取り戻し、クリムト生誕150周年記念展などにみるように、ウィーンのアイデンティティーを強く感じることができた。それに照射する形で、「第三の男」に現れたウィーンの街の悲哀が、甘いシターの音とともに流れてきたのです。
本当の主人公は、名優オーソン・ウェルズ演じる「第三の男」ではなくて、ウィーンの街そのものかもしれない。

先回は見逃してしまった興味深い面をみつけることもできました。
たとえば、オーソン・ウィールズの演技も改めてすばらしいと思ったけれど、彼が住むアパートのおばあさんもよかった。
4つの国の治安部隊や警察が、土足で彼女の静かで豊かな生活をかき乱すことに対し抗議の声をあげる、その怒りや誇り高さがよく響いてきた。
前は小うるさいばあさんにしか見えなかったけれど、
今回は、誇りを失わないウィーンの気概を体現する重要な脇役にみてとれました。
第三の男の元恋人で、チェコスロバキア出身のアナの役は、もっと複雑でしょう。
そこには戦前からの、オーストリア帝国とチェコスロバキアの関係も横たわっているに違いありません。
それを理解するには、もっと勉強しないといけないのだろうけど。

爆撃によってめちゃめちゃに破壊された地上と、巨大な地下水道の対比も実に面白い。
あの地下水道は、過去のウィーンの力を象徴しているとも、あるいはナチスの陰とも読み取れます。
第三の男がその地下水道で追跡にあい、結局地上にでることなく殺される事にも、なにか意味があるのかもしれません。

すでに観た映画でも、その舞台となった土地を訪れてから再び鑑賞すると、さらに感慨深いものになるよい例でした。
そして、もっともっと読み解きたいと興味がそそられる。名画とはそういうものなのでしょう。

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「きょうの料理」古代ローマ編:ロンドン博物館

「フライパンにオリーブオイルをちょっととたらして、おだんごにまんべんなくこげ色をつけます。いい色になってきました・・・」 

    料理番組かしら? 
いいえ、ここは博物館。古代ローマの展示室の中です。
TV画面の向こうには、古代ローマ時代の一般家庭のキッチンを再現した展示があります。そこに展示されているものは、もちろん本物の考古学資料。

    なるほど、古代ローマの料理の再現ってわけね?ってことは歴史家か料理家がさもなきゃ学芸員がデモンストレーションしてるって事?
確かに古代ローマのスィーツの作り方なんですが、画面の解説者は、ちょっとシャイな男の子で、試食してるのもその仲間。
これはロンドン博物館の新しいプロジェクト、ティーンエイジャーを展示作りに巻き込もうという試みなのです。
他コーナーでも、同じような展開がくりひろげられています。

例えば、化粧品の道具や材料の展示コーナーでは、古代のおしろいの作り方を高校生たちがやっている映像が考古学資料とともに展示されている。
古代のメッセージが書かれた石片のわきには、フェイスブックのページを示したiPad がおかれている。
ローマ時代が斜陽し、社会的問題が生じた頃の記念碑のわきには、授業料値上げを実施した政府に抗議するプラカードが掲げられている。 
ワインの壷やガラス器などのわきには、キッコーマンしょうゆなどスーパーマーケットで入手できるさまざまな輸入食材が並んでいる。どれもこれも、現代の若者による考案を元にしているのです。

博物館はもっと専門的で正統的なものであって、こんな若年思考でごちゃ混ぜにされてはかなわない、という声もあるでしょう。
確かに、このつながりって無理があるんでないのという箇所もありました。展示全体の一貫性が保てないというマイナスもあるでしょう。
でも、こういう展示をすることのプラス面に、むしろ目を向けたい。重要なのは、古代ローマが一般来館者にとってもっと身近なものに感じられることです。共通点や違いをみつけたり、市井の人々が現代人と同じ悩みを抱えていた事や、人生や社会に対する個人的なチャレンジを、新鮮な目を通して感知することができる。
もうひとつ、博物館にとって大事なのは、ティーンエイジャーを巻き込むことなのかもしれません。
というのも、この世代はミュージアムにとって最も難しい世代。
子供たちなら学校や親が連れてきてくれる。大人になれば、彼ら自身の興味で訪れてくれるだろう。ところが、ティーンエイジャーからすればミュージアムなぞもっともしらける場所で、逆に言えば、ミュージアムにとってはもっとも手ごわい世代なのです。
でも、この世代を大事にすることによって、将来的に層の厚い来館者を作ることができます。
欧米の博物館で、ティーンエイジャーを巻き込むかようなプロジェクトが増えてきたのも、そうした理由からかもしれません。

さまざまな取り組みが行われる中で、数々の問題点が生じているのも事実。ですが、ロンドン博物館のそれは、常設展示にさえその動きを積極的にとりいれた斬新な試みだといえるのではないか。小さな問題点はさておき、わたしは、そのことを評価したいのです。
Museum of London

古代ローマの頭像と「オキュパイ・ムーブメント」の面を通して、マスクの役割を問う。ロンドン博物館

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