ミュージアム展示にガラスケースはつきもの。貴重なコレクションを保護しつつ、鑑賞者には隅々まで堪能させる合理的な装置です。ところが、近年の欧米ミュージアムでは、このガラスケースの機能に変化がみられるようになってきました。

 

下の写真をごらんください。天井まで届くほどの巨大なガラスケースのなかに膨大な数の陶磁器が詰め込まれています。なんだか収蔵庫みたいですね。実はこれ、バックヤードどころか、2010年にオープンしたヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)の陶磁器セクションの主要な展示なのです。

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両側に並ぶガラス張り陳列棚の中央通路で、ふたりのスタッフが展示物の取り出し作業をしています。デモンストレーションでしょうか?いいえ、コンサベーションの日常業務を淡々とこなしているだけです。ガラスの扉があるから来館者は中には入れませんけどね。つまり、来館者は展示物だけではなくて、コンサベーターの仕事ぶりまで鑑賞?することになるのです。

 

「ヴィジブル・ストレージ」(目にみえる収蔵庫)といわれるこの展示形態は、自然史系ミュージアムから美術館まで、近年の欧米で盛んに採用されるようになりました。V&Aによれば、展示全体のイントロダクションとして機能しているとのことです。これだけの量を網羅的に見せられれば、一見して陶磁器の多様性、V&Aコレクションの豊かさに圧倒されることでしょう。専門家にとってはまさに陶磁器の宝庫そのもの。

 

従来の一般的な展示で来館者が見ることができるのは、全コレクションのごく一部しかありませんが、「ヴィジブル・ストレージ」ではかなり多くのコレクションにアクセスできます。V&Aのこのセクションでは一点一点の展示物に解説ラベルがありません。ある作品についてもっと知りたければ、そばにあるコンピューター検索で、ケースや棚の番号をたよりにその一点を探し、情報を入手できるしくみになっています。

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「ヴィジブル・ストレージ」の利点はそれだけではありません。ミュージアムのさまざまな機能―展示や教育だけではなく、保護・管理するという機能を、ひとびとが理解することができます。それは、伝統文化や自然資料、遺産の「真の所有者」が市民ひとりひとりであることを思い出させ、同時に、それらを大切にしようとする意識を育てることにもつながるでしょう。

 

「ヴィジブル・ストレージ」が採用されるようになった背景には、とりわけ自然史系のミュージアムで、自然保護の大切さを広く認知させることが、昨今ますます重要になってきたという現状があります。たとえば、ロンドン自然史博物館のダーウィンセンターはその最初の例です。同様のことは、大量生産・大量消費の時代、手作りの継承が危ぶまれるようになった工芸の世界でもいえます。

 

確かに、このような新しい展示が、ミュージアムの開放性やアクセシビリティーを高め、文化自然保護に対する理解を深めることは、間違いありません。それはそれであるべき方向性として評価されてしかるべきです。それを認めながらも「ヴィジブル・ストレージ」を歩きながら、実は、どこかよそよそしい冷たい感じを抱いてしまったことを白状しなければなりません。それはガラスの冷たさなのか。それともまなざしの冷たさなのか。はじめはよくわかりませんでした。アンビバレントな気分に揺れながら、視線をガラス棚の上方まで追っていくと、ガラス張りの天井が目に入りました。そして、この博物館の起源を思い出したのです。


V&A建立の基礎となったのは、1851年のロンドン万国博覧会でした。世界各国から最先端の技術や美術工芸品が集められ、あらゆる階級の人々が連日詰め寄せた大盛況の博覧会―日本の博物館のルーツにもなった博覧会です。会場となった建物もそれは目をみはるスペクタクルなものでした。そのガラス張りの巨大な建造物は「クリスタル・パレス」(水晶宮)と呼ばれました。言い換えれば、博覧会場全体がひとつの大きなガラスケースだったのですね。

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この水晶宮について、社会学者のトニー・ベネットや吉見俊哉は、ミッシェル=フーコーの理論をもとにしながら、視覚が特権化される場であったと書いています。近代的なミュージアム は、天井光を採用し、展示物の周りに柵をめぐらし、警備員をおき、ガラスケースを導入することによって、鑑賞者と物とのあいだに絶対的な距離をおきました。これは、例えば「茶の湯」での五感を使った鑑賞とはまったく違う次元のものです。また、ガラスケースのなかの展示物を見る大衆は知覚の主体であると同時に、不特定多数の視線(警備員やほかの来館者etc)からみられている客体でもある。それは、まなざしを管理するシステムであり、大衆に公けの場でとるべき理想的マ ナーや、科学的に鑑賞する目を植えつけるための装置だったといえます。「ヴィジブル・ストレージ」もその延長で見直してみると、わたしが感じる冷たさ がひょっとしたらその「身体のコントロール」機能からくるのかもしれないと思えるのです。


昨今、大きなガラスの壁で覆われてなかが丸見えの建築物が都市のあらゆるところにみられるようになりました。よくあるのがフィットネス・センターやダンス・スタジオ。誰かに見られていれば(見られているかもしれないと思えば)、「理想」の体に近づこうとがんばっちゃう、なんて心理的効果が期待できる。でもそれって、他者によってつくられた身体じゃないのって、わたしなんかは思ってしまう。

大きなガラス窓にブラインドもないオフィスも見られるようになりました。ちらっと目を向ければ(盗み見したというより、ほんとに明け透けなんですよ!)、なかの人たちはトレンディドラマにでてくるようなキャリアマン/ウーマンで、彼らの机周りもきれいに整頓されている。そこでは、仕事の疲弊も、挫折も、衝突も、興奮もきっと抑えられているのでしょう。彼らはその空間によって管理されているのです。

 

ガラスばかりではない。都市のすみずみにはCCTVカメラが設置されています。ひとびとは、どこにいても立ち振る舞いを無数の目線で監視されるようになった。わたしたちはそんな社会に住んでいます。ミュージアムの話がなんでこんな方向にいくのかと思われるかもしれません。でも、ミュージアムという空間は、現代の監視社会につながる、もっとも最初の装置でもあったこと、そういう本質をもっていることを心にとどめておきたいと思うのです。そこでは、「マナーを心得た良き市民」「理想的な身体」「効率的な労働」、それぞれの役割を担った社会の一員としてのあるべき行動が管理され、暗黙のうちに強いられているのではないでしょうか。

 

こう書いたからといって勘違いしていただきたくないのですが、V&Aを一方的に批判しているわけではありませんよ。いや、それどころか、V&Aの先駆的な展示や、独創的な教育プログラムについてはいつも注目していますし、これからもたびたびご紹介したいと思っています。実際、今回のヴィジブル・ストレージの導入もさすがV&Aと思ったのは事実だし、それがもつ可能性についてはすでに挙げたとおりです。そのうえで繰り返すのですが、近代的な展示を含め現代社会にあふれるヴィジブルな装置が、実は、管理社会というより大きな社会構造のなかで機能していることも、忘れてはならないと思うのです。

 

V&Aの陶磁器展示はこんな具合に感心したり、社会的問題を考えたりするきっかけになりました。その意味でも興味深い展示でした。最後に、そこでのすてきな出会いをひとつ付け加えさせてください。(上の話とはほとんどつながらないのですが!)このセクションの中央に、コンテンポラリーのコーナーがあります。濃いグレーの壁に覆われた展示場、そこに飾られた斬新で個性的なスタイルの作品の数々を観て回ると、ふと、天井はるか高く、赤い円状の枠のなかに、小さな白磁のシンプルな器がたくさんに重なり合っているのが目にはいります。

 

現代イギリスの陶芸家、Edmund de Waalエドモンド・デュ・ヴァールの作品です。ひとつひとつ機能美を内包した日常の使用に適した器であることが遠目にもわかります。それが、手の届かないところ、博物館全体を見下ろす丸天井に、崇高なオブジェのように浮かんでいるのです。これは、作家自身による意図的な展示です。ミュージアムのなかで、陶磁器を遠くに眺めるという体験ははじめてのことでした。それは、博物館の建物や陶磁器コレクション全体と一体となってある種の詩空間をつくっていました。以前にグレイソン=ペリーの大英博物館での展示のことを書きましたが、ヴァールは、ペリーと違うやりかたで、陶磁器という概念を超え、ミュージアムとは何かを考えるきっかけをも提供しているのでしょう。

なんだか、とりとめもないけど今日はこのへんで。

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