yuukurihara official blog

唄うたい、ラジオDJの栗原優です。 ライブ・ラジオ情報、また、脱原発に向けての記事をupしていきます。

April 2011


栗原優、弾き語りで出演決定。
5/4(wed)18:00~八王子中町公園で歌います☆

八王子古本まつり第4回 (2011年5月1日(日)~5日(木/祝))の恒例のスペシャル企画のひとつ、『MUSIC LIVE at 中町公園 音楽と本のしあわせな関係』に出演させていただくことが決まりました。

詳しくはまたupします。お時間ございましたら、是非!


レポート【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】に参加して。記録-3 by 栗原優



記録-1 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3123528.html
記録-2 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3125886.html
の続きになります。


チェルノブィリ原発事故から丁度25年の2011.4.26.。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)

講師はパーベル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。


記録-1では広河さんの講演の記録を。2ではパーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの資料から抜粋をお伝えしました。
そしてこの記録-3では、パーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録をお伝えしたいと思います。


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パーヴェルさんの言葉

※パーヴェルさんが当日お話され、通訳されたことをその場で可能な限り筆記したのですが、全ては筆記しきれてはいないと思います。
また、通訳の方の言葉から理解するしかないため、所々表現が曖昧に感じた部分があったことは否めません。
申し訳ありませんがその点、ご了承の上、お読みください。
(聞き取り・筆記by栗原優)


ヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆により、沢山の人が亡くなりました。
チェルノブイリの原発事故で、ベラルーシ、ウクライナ、多くの人が死にました。
時とともに忘れ去られました。
しかし、事故の影響を受けた人々は忘れることは出来ません。

チェルノブイリとフクシマの事故を分析すると、「二つの真実」があると思います。
一つ目は、政府の真実、二つ目は、住民の真実です。

・政府の役人は事故に対し、"多額をかけてきちんと対策を講じている"と言っていいますが、必ずしもその金はチェルノブイリの人々に役立ってはおらず、汚染されていない地域に使われたりもしています。

・チェルノブイリの事故が起こってから、多くの優秀な医師、技師、企業経営者等が汚染地域から避難していきました。残ったのは、移住出来ない高齢者、貧しい人々でした。
・母は子に、避難しなさい、そしてここには戻ってくるなというが、出ていった子供は汚染されていない地域で結婚が出来ないという現実があります。

・政府は被災者の為に診療所を作っていると言うが、それは大都市に、なのです。(確か、ブリャンスクやモスクワと言っていました。)住民のいるノボズイプコフ(小都市)からは遠く、使うことができません。
(※筆者注:実際地図を見ましたら、ノボズイプコフはブリャンスクの都市ではあるのですが200kmくらい離れていました。日本でいうと、例えば福島県南相馬市と茨城県つくば市くらいの距離でしょうか。)

・被災地では事故の前は、農作物の上質な芋がとても良く売れていました。しかし、今は誰も買おうとしない。
売ることが出来なくなった農民に対し、政府は補償金を出して"これで生活できるだろう"と言うが、「農民の生活」である、"朝起き、種を撒き、・・・"という生活は出来ない。つまり、「農民であることが出来ない」ということなのです。
また、彼等は森に行き、ベリーやきのこを採り、魚や鹿を取って食べてきました。これは昔からの習慣です。そして、これらが汚染されても、それを続けなければいけないのです。

・事故の後、政府は"甲状腺がヨードで傷つくということへの対策を、丁度良い時(タイミングという意味か)にやった"と言っていいました。

広河さんの写真からもチェルノブイリとフクシマが関係があると示していましたが(記録-1を参照ください。http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3123528.html)
ヒロシマ、ナガサキのこと、そしてチェルノブイリ、フクシマ。これは「一つの大きな惨事」であり、その後に必ず立ち止まって考えなければなりません。そういう出来事です。

原子力エネルギーは安い、と言われてきましたが、今はその通りに受け取れません。

チェルノブイリ原発事故の翌年、私たちは団体を作り、高齢者や障害を持つ子供たちへ支援活動を始めました。
フクシマ原発事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っています。

ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ、この3つの問題を個々の問題と考えてはいけません。一つの繋がった問題と考えなければなりません。

もしそう考えないならば、4つ目の問題が起こってしまいます。それを避けなければなりません。

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この後、質疑応答がありました。

Q. 「日本では、4/19に文部科学省の発表で、"子供たちが年間20mSV浴びても良い"と、被曝限度量を増やして示しました。
(参照:一般人の年間許容被ばく量は1mSV。文部科学省の発表については、「校舎・校庭の利用を判断する際の放射線量の暫定的目安を年間20mSVと決定した」件のことと思われます。)
チェルノブイリではどのように指定されていますか?当時、また今の値をおしえてほしいです。また、限度量を上げることに対して、どう思われますか?」

A. 「事故のあったのはソ連時代になりますが、一人ひとりの命は軽んじられていました。許容量は確か100mSVだったと思います。
(※筆者注:聞き間違え?!と思ったのですが、確認できませんでした。ただ、口調から、そのような値の指示などは今の日本のように報道さえもされていなかった、決められもしていなかったように感じました。)
医療技術も高くありませんでした。2代目の世代に病気が表れるとも思われてもいませんでした。
私が作った、甲状腺を調べるセンターは6年活動してきましたが、調べた住民の70%に問題があると分かりました。

1982年(事故前)はがんは1件でした。83年も1人。86年(事故の年)は8件。87年は13件。そして年々増加していっています。
この25年でチェルノブイリでは194人のがん患者が見つかっています。学童達に多く、最近も17歳の子にがんが発見されました。この子は4歳の時に甲状腺にしこりができていました。
甲状腺にがんができれば他に転移する可能性があります。

(政府が限度量を上げることに対して)政府のやることが、よいことのときは支持するべきですが、それがよくないことの場合は、抗議をするべきです。

フクシマの人々の命を守りましょう。」

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以上、パーベル・ヴドヴィチェンコさんの講演を聞き取り・書き起こした記録でした。
通訳の方を通していただいておりますが、やはり的確に把握できない部分があり、意味を捉えつつ考えつつの記録となってしまったことをお詫びいたします。

(この会に出席されていた議員の方が、最後にもまた何人か紹介されました。
石川大我氏、保坂のぶと氏など。(全員は書き取れていないことと、もしも間違っていたら申し訳ありません))

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◎印象的だったこと

●「今もなお」事故の影響が続いているという状況に愕然としました。
・事故のあった土地の農作物は「今はもう誰もかおうとしない」
・「最近も」17歳の子供にがんが発見された
などのお話です。

氏が、何度となく「ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ」は大きな一つの問題として考えなければ」とおっしゃっている意味がとてもよくわかりました。

●自らもその地に住み、今もなお苦しんでいるチェルノブイリの人々を助けている大変な立場である氏が、「フクシマの事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っている」と言ってくれたこと。


これに関連して、広河氏の講演の中で一つ書き漏れたことがあったのでこちらに書きます(このあと記録-1に追記もしておきます)。
チェルノブイリの町の手描きの看板が大きく映し出され、そこには放射線のマークと、鉄条網に囲まれた町が描かれています。
しかし空に大きな折鶴が描かれているのです。
この看板の意味は、
「私たちの町は放射能で汚染され、鉄条網で取り囲まれてしまっています。
しかし、日本から折鶴が飛んできて、私たちを救ってくれます」という意味だそうです。
(恐らく、日本からの土壌汚染除去のプロジェクトなど、多くの手助けのことを言ってくれているのだと思いました。
僕は、これほどまでにチェルノブイリにおいて日本の支援・手助けを大きく評価してくれていること、そして、
そうやって支援してきた人たちが日本にいることを改めて知り、感動しました。)
そして広河さんは言いました。
しかし、今度はチェルノブイリの人たちが日本を助けようとしてくれているのですね。と。

今回のパーヴェルさんの来日・講演(この日以外にも各地でされています)の意味は、とても大きいと思います。


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次は、同じ日に続けて講演された、地震学者の石橋克彦さんの講演について書きたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


栗原優
http://www.h2.dion.ne.jp/~u-sing/


レポート【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】に参加して。記録-2 by 栗原優

※記録-1の続きになります。

チェルノブィリ原発事故から丁度25年の2011.4.26.。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)

講師はパーヴェル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。

記録-1では広河さんの講演の記録をお伝えしました。
そしてこの記録-2では、パーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録を書く前に、当日いただいた資料からの抜粋をまずお伝えしたいと思います。

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ヴドヴィチェンコ・パーヴェル・イヴァーノヴィチ氏

(略歴)
ブリャンスク州の教育機関で教師として25年間働く。
1987年、ノヴォズィプコフ師範学校の生徒たちと共にロシア・ブリャンスク州ノヴォズィプコフ市に社会団体「ラジーミチ」を結成した。
24年間に小さな団体は汚染地域で活動するロシアで最も強力な指導的組織になった。
2009-2010年に「チェルノブイリ問題に関する国際的な科学情報ネット」プロジェクト(国際開発計画)のロシア・コーディネーター。
NGO「ラジーミチ」の仕事の枠内で社会団体の国際プログラムの組織化に責任を持つ。
以下の機関で社会団体「ラジーミチ」とチェルノブイリ地域の利益を代表する。
・中央連邦管区社会協議会
 ・青年政策実施問題委員会
 ・保健と健康生活づくり、慈善事業の発展問題委員会
・中央連邦管区社会協議会付属、中央連邦管区におけるボランティア促進に関する官庁間調整協議会
・ノヴォズィプコフ市社会院


◎資料「チェルノブィリ事故25周年についての私の考え」/パーヴェル・ヴドヴィチェンコ
より、抜粋
(※「」付けは抜粋者によるもの。)

「原子エネルギー利用は経済的にとても有利なので、ますます発展させなければならない」と思っている人たちがいることを私は知っています。
そのようなことを言うのは、1986年4月26日のチェルノブィリ原発事故の結果、被災した地域の現状を知らない人たちか、自分の行動が原子エネルギー利用と直接結びついている人たちです。
私は汚染地域に住んでいる人たちの苦しみを見ているので、違う考えをもっています。

残念ながら、「現在」までウクライナ、ベラルーシとロシアのチェルノブィリ地域の住民がチェルノブィリ原発事故の結果に苦しんでいることは、世界の様々な国々の多くの人たちに知られていません。

我々の病院には医者が足りず、学校には優秀な教師が足りず、企業からはずっと前から優秀な専門家たちが去る一方、新たな技師たちは高放射能地帯へは来たがりません。
我々の地域の高放射能の農産物は競争力がなく、セシウムとストロンチウムに汚染された土地には投資家は足を向ける気がありません。

1986年、私は34歳でした。4月末にラジオで、チェルノブィリ原発で「小さな事故があったが、人体に危険ではなく、すぐに始末されるだろうという報道」がありました。
だが、4月29日、私の知り合いの初等軍事教練の教師セルゲイ・シゾーフは偶然、線量計のスイッチを入れ、高い放射能を検出しました。
彼はこのことを市と地区の共産党指導者に伝えました。しかし、市と地域の当局はさらにほとんど2週間、放射能がすでに我々の生活圏に到達していることに沈黙していました。
この沈黙の時間は住民にとった高いものにつきました。
放射性ヨウ素は最初の2週間、数万、数十万の大人たちや子供たちの甲状腺を強く照射しました。
後に、数年たって、これは人々の免疫力の低下や、今日、我々の地域に広まっている甲状腺がんを含む一連の特徴的な病気の発生の中に現れ始めました。

本当に残念なことに、当時、移住の資金がなかったために、私は家族と一緒に汚染のない地域に立ち去ることができませんでした。
私の妻と息子(9歳でした)は高放射能すぽっとの真ん中にあったノヴォズィプコフに住み続けました。

短時間で地域全体が汚染されました。政府と私たちの市当局は何をなすべきかを知りませんでした。
首尾一貫した合理的な活動を始めるまでに1カ月以上かかりました。
それは例えば1か月後(夏に)、すべての児童を汚染のない地域に避難させ、それと同時に住民からすべての雌牛(牛乳の飲用はとても危険でした)、豚やその他の家畜を接取しました。
学校と保育園の敷地で上層(20-25cmの土)を除去し始めました。高レベルの汚染を示していた最も古い屋根を葺き替えるなどです。

私たちの村や町は1986年の夏にすっかり静寂に包まれました。

数年後、小さな村々が汚染のない地域に移住し始めました。
でも、老人たちはしばしば離れたがらず、自分たちの家に残りました。それもこれらの人々にとってとても大きな悲劇でした。

なぜ私は社会団体「ラジーミチ-チェルノブィリの子供たちのために」を結成したか、この団体の目的は何かをお話しします。
町に残って、私は師範学校の教師として働き続けました。
チェルノブィリの災害はゴルバチョフのペレストロイカの時期と重なることになりました。
人々は当時、自分たちを自由だと感じ始め、集会に出て行き、政府や地元の役人たちがチェルノブィリ地帯の人々の苦境に注意を向けるよう要求しました。
私もそのような集会で演説しました。
美辞麗句では我々は何一つとして解決できないと言い、社会活動に積極的な市民に演壇から下りて老人たちや子供たちや障害者たちのために何かをするよう提案しました。
ごみの山を横目にこの集会に来る代わりに、我々は行って我々の通りからそれを片付けなければならないと、私は思い、その時、人々に言いました。
これは多くの人たちに気に入られませんでした。
だが、私と学生たちは他のもっと弱い人たちを支援することを通して(精神的意味で)もっと強くなろうと決意しました。

1987年に私たちは小さなチェルノブィリの村々の孤立した老人たちと障害児たちへの支援を始めました。
このアイデアは若い精力的な学生たちが気に入りました。仕事が始まりました。

1993年に女医のオリガ・ジューコヴァはドイツのパートナーたちとともに小児脳性マヒの子供たちの医療の手当てをする診療所を設置しました。
1994年に私と学生たちは、学生の小さなNGOに属する、ロシアで最初のキャンプを設置しました。
そこでは毎年夏に最大560人の子供たちが保養し、その中には孤児たち、障害児たち、複雑な事情のある家庭の子供たちがいます。
NGO「ラジーミチ-チェルノブィリの子供たちのために」はロシア、ウクライナ、ベラルーシの放射能で汚染された地域に住んでいる児童やティーンエイジャーたちが休養し、健康を増進することができるようにしました。

数年前、私たちはロシアのボランティア活動支援センターを創設しました。

私たちの甲状腺検査室の医者たちは2004年から私たちの市の全住民の甲状腺を検査しています。目的は甲状腺の病気を発見し、患者の治療援助をすることです。

私たちはチェルノブィリ情報センターを創設し、そこでは次のことが実施されています。
チェルノブィリをテーマとする資料の収集、整理と保管、展示の実施、また、放射能で汚染された地域で安全に暮らすという緊急の問題に関する生徒たちや学生たちへの啓発、健康な生活法の宣伝などです。

放射能地帯に残った私たちは皆、身動きが自由になりませんでした。
私たちの多くは立ち去りましたが、他の人たちはそうなりませんでした。
何人かの私の友人は両親あるいは親戚が病気だったり、年老いたりして、新しい場所への困難な移住の準備ができませんでした。
何人かの友人たちは同僚や部下に対する職業的な責任感が強かったのです。
医者は自分の病院を放り出したくはありませんでした。なぜなら、余りにも多くの彼の同僚たちがよりよい生活を求めてもう立ち去っていたからです。
教師は自分の生徒たちを、ジャーナリストは自分の新聞を、機械修理の職人は自分の修理工場を等々、投げ出すことができませんでした。
逆説的な状況が生じました。
人は自己保存のためには外へ出なければなりませんが、いくつかの客観的な理由でそうすることができません。
そのような人たちを私は「状況の人質」と名づけます。

福島の悲劇について私は何を言いたいでしょうか。
福島の事故はあらゆる人々に核エネルギーについての考えをかえさせるでしょう。
チェルノブィリ事故の後、西側世界の多くの人たちには、原子力の大惨事がソ連で起きたのは、核施設の生産と操作でテクノロジーに従わなかった罰だと思われていました。
多くの人たちには、高い水準で労働が組織されている他の国々では、そこで原子力エネルギー産業に関わっているのが生産と操作の高い技術を持った尊敬すべき専門家たちであるということからして、そのような大惨事が繰り返されることはありえないように思われていました。
その際、エレクトロニクスとよく訓練された人々によって制御された列車が衝突事故を起こすという多くの事実が黙殺されていました。
毎年、航空機の墜落、海の船舶の衝突が起こり、宇宙の軌道から人工衛星が落下します。
「核テクノロジーでは事故や大惨事はありえない」と真面目に考えてきて、今もそう考えている私たちのうちのある人たちは何と自信過剰なことでしょう。
さらにテロもあることを忘れないようにしましょう。そこでは時として余りにありえない場所が選ばれるので、人間の理性はどうして「そのようなこと」をすることができるのか想像することさえできないのです。

日本の福島で起こっていることはもう1度全世界に、私たち皆が立ち止まって、多くのことを考え直さなければならないことを教えました。
歩んできた多くの過程を私たちは人類として今、チェルノブィリと福島の共同の経験から出発しながら、つまり新しい目で見なければならないのだと私は思います。

さもないと(どうかそうなりませんように)私たちはこの不吉な出来事の連鎖の悲しい続きを見ることになるでしょう。

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以上、抜粋でした。
次回はパーヴェル・ヴドヴィチェンコさんが当日直接我々にお話してくれたことの記録を乱文ながらもお伝えしたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

(抜粋・入力 by 栗原優)


今、東京も嵐みたいな雨が降り始めてます。

東北、関東、そしてできたら日本全土のみなさん、

特に子供たちと若い人、そして妊婦さん、これからパパ・ママになるひとたち、

マジで雨に気をつけてください。

「別にもう気にしないよ」なんて思ってる若い人もきっと沢山いると思うんだけど、

今はなんともなくても、5年、10年、20年後に、病気が発覚するかもしれないんだ。


絶対外に出ないで、なんて言わないです。

ゴールデンウィークが始まるんだし、春の気持ちよい風の匂いをかぎたいよね、僕もそうだ。

でも、出来る範囲でいいから、気をつけてみてください。

雨なら傘はちゃんとさして、

マスクして、帰ったら手を洗って、口はゆすいでからうがいして、洋服ははたいてから入って。

あと、直接土に触れないようにしてほしいな、できるだけ。

各地で放射線量が発表されてるけど、あの数値は地面から10、20mも離れた場所で計ってるんだって。

本当は地面に近いほど、濃度は高い。

つまり、実際の僕たち人間の口や鼻の位置、そして、勿論子供や赤ちゃんにとっては

あの数値より本当は高い数値を吸い込んでいると思ったほうがいい。

だから、もし連休中に外にでかけても、どうか、長時間、子供を公園とかで遊ばせないようにしてほしいんです。


でも、いろいろ考えすぎて苦しくなったり、ノイローゼになってしまっていたなら、

「長時間じゃなければ」外を楽しむのは、いいことだと思う。

だから、君の無理じゃない範囲で、頭の隅にいれておいてほしい。

子供たちは、この状況をあまり深くは理解できない。

空気に色も匂いもないからわからない。

だから、お父さん・お母さんは、しっかりお子さんを守ってあげてほしい。


「チェルノブイリの10分の1だけ」っていうけれど、

チェルノブイリの放射能放出は原爆500コ分なんだ。

だから、10分の1でも、原爆50コ分の放射能が飛び出ているってことなんだ。

用心するにこしたこと、ないからね。

子供たちや若い人たちの未来をつぶしたくないから、

出来ることをやって、守ろうね。


怖がらせてすまない。でも、前向きに対応・対処していくしかないんだ。

一人きりじゃないから。共に前に進もう。



栗原優











2011.4.26.
チェルノブィリ原発事故から丁度25年の日。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)

講師はパーベル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。

議員会館の電光掲示板上の主催は福島みずほ氏で、本日司会もされてました。
他に出席していた議員は、山崎誠氏、篠原孝氏(農林水産副大臣)、重野安正氏、姫井由美子氏等。
福島氏は、この脱原発へ向けた講演会を、議員の皆さんも参加しているこの場でやりたかったのだ、との旨を話していました。
篠原氏は、昨日チェルノブィリから戻ったばかりとのこと。土壌の調査をしてきたらしいです。民主党だが、脱原発の考えと言っていました。


まず、DAYS JAPAN編集長の広河隆一さんから、スクリーンを使って多くの写真を紹介しながらの報告がありました。

広河さんは、チェルノブイリに40回以上訪問し、取材すると共に、福島原発事故後、直ちに福島原発周辺地域に入り、取材を続けてきました。
この間、取材し続けてきたチェルノブイリの25年間、また現在起っている福島原発の事故の現状と問題についてのお話でした。

以下、出席した僕・栗原優によるレポート(記録)になります。

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●まず、スクリーンに大きく「チェルノブィリ25年/フクシマ元年」という文字が映し出された。

●チェルノブィリの事故と、福島の事故との共通点や関連性について多くの話がなされた。
・ソ連政府は、長らく「チェルノブィリ」の名をタブーとしてきた。
・日本政府は、福島原発事故のレベルがチェルノブィリと同じ「7」とされても、「チェルノブィリの10分の1ですから」と強調する。
→しかし、そもそもチェルノブィリの事故では原爆500個分の放射能を撒き散らしている。これの10分の1でも原爆の50個分も出ているのだ。
「安全」?どう考えてもおかしい。

●放射能の飛散について
・チェルノブィリでの飛散→30km超えた場所でも、プルトニウムは検出されている。プルトニウムはあまり飛ばないと言われているが、事実は違う。
(この時映し出された資料でも、放射能の飛散は同心円状ではないことが明らかだった。)
→チェルノブィリでは、「現在も」放射能の測定がされている。
→福島も同じ事態なのだ。
(ここで、両国の測定時の写真が映る。何が起こっているのか全くわかっていない子供たちが手を広げて計られている写真も)
・3/12に広河氏は福島現地についた。
28号線を走る。海際に原発がある。この時点で地域住民は「念のため避難してください」と言われている。
念のため、等と言いつつも、通り沿いに検問くらいあるだろうと思い車を走らせたが、「検問は無かった」とのこと!
そのとき広河氏の放射線測定器は100μSVを超え、一緒に居た人が持っていた1000μSVまで計れる測定器も振り切れた。
(今まで広河氏は50回ほどチェルノブィリに行っているが、振り切れたことはなかったとのこと。)
・住民の人たちは、「念のため避難してください」としか言われていなかったので、普通に物を取りに自転車やバイクに乗って戻ってきていたので、
広河氏は放射能測定器の数値を示した。
→その後、政府にも避難警告をしてくれと訴え、住民の人たちは避難をした。
・また、その日、道路沿いで出会った車一台一台を止め、事情を説明した。「今はここに戻ってはダメ」と。
・また、20~30kmに位置する避難所に子供たちが集まっていたのでここでも話をした。
出来るならば今すぐ全員ここから逃げて!と叫びたかった。全員が無理でも、妊婦さんと子供たちだけでも、と。
→後に、避難が始まった。
(僕の聞き取りが間違っていなければ、「川内村」の状況でした。)

・南相馬市の写真→「原発爆発立ち入り禁止」の看板。町できちんと作成したものが掲示されていた。
・伊達市でも100μSVの途中までいった。
・飯舘村では100μSVが振り切れた。原発正門前と同じ数値であった。

●汚染と政府の対応
・チェルノブィリでは、最初はIAEAでも、被曝で亡くなった人は30人と言い続けた。
ここに、甲状腺がんで亡くなった子供をプラスしても40人くらい、と言っている。
→本当は全く違う。恐ろしい数の人々が亡くなっている。
・(事故処理をした人の写真が映し出される)この人を含め、7人の内、40~50代の5人が亡くなった。
・(チェルノブィリから17kmの場所にある病院の人たちが映る)この病院では、完全に健康体な人しか働いてはいけないとされているのに、
健康体ですか?の質問に全員が手を上げず、何か病気を持っているかと尋ねると、全員が手を挙げた。


(チェルノブィリ周辺の、封鎖された学校の写真が映る。人が一人も居ない。(聞き取れなかったのだが、プリピア市?のような名前))
→この学校の位置は、「福島では通学OKとされている位置」!!!
この写真の無人の学校の中に、福島の子供たちが普通に走り回っている様子を想像すると背筋が寒くなる、と広河氏。

・(避難や事故で使われたヘリコプターやバスなどが辺り一面並べられている写真)→放射能が強すぎて、埋められるのを待っている状態。
・プリピア市(?聞き取れず)の放射能は隠された。
人々に本当のことを言うべき?避難をさせるべき?という議論がされ、科学アカデミーは「言わなくてよい」と言った。
しかし軍の機動隊や住民の代表はそれに反対。避難をちゃんとさせるべきと言った。(ウクライナ代表)
→そして、避難させなくてよいといった官僚に、「ならばあなたの子供をここに住まわせてもいいのか?よいならばここにサインをしろ」と詰め寄った。
結果、2、3日の後、サインをしたらしいが、「数日の避難です」と言って避難をさせた。

・(家を取り壊している写真)→放射能汚染された家から、使えるものを盗んで売る人がいるため、
それを防ぐために破壊してから埋めるのだそう。
チェルノブィリでは30km圏内は有刺鉄線が張られて人が入れないようになっているが、
これは人が入れないようにする為だけでなく、「この中の物が外に出ないようにするため」でもあるとのこと。
→このように、汚染された家から物を盗んで売るという行為は、日本でも有り得ます、と言っていた。

●被曝
・被曝した人たちの居た場所を追い、追跡調査がされている。
健康を守るため。プライバシーは守られている。(丁寧にまとめられたファイルの棚の写真)
病気によって、治すことは可能。しかし、発見が遅いと(脳に転移するなどで)亡くなってしまう。


・(手術台に横たわる少女の写真)→「10年経って」甲状腺がんで手術する子供。これが「ただちに影響はない」の実態である。
・発症して数ヶ月で亡くなる子供もいる。
・(当時妊娠していた母親から生まれた子供の写真)→(病院で管を沢山つけられている少女の写真)
「20年経って」、あらゆる病気で苦しんでいるという。
・(母乳をあげる母親の写真)→母乳の問題。日本でも、調べた9人のうち4人から放射性物質が検出されているが、
チェルノブィリ事故の後も、ベラルーシにて80人調べたら80人全員から検出された。
セシウムやストロンチウム。


・(チェルノブィリにて、救助隊の隊長が防護服を着ている写真)→今、あなたは部下達に消火活動に行けと命令できますか?の質問に、NOと答えた。
放射能の防護服は、「無い」らしい。
今あるのは、あくまで「防塵服」なのだと。→ガンマ線や中性子は、軽く貫いてしまう。
・(日本での、救助隊の写真。みな防護服を着込んでいる)→日本の防護服であっても、「これでは防げない」らしい。
救助隊の人たちは、みな知っているのかと問えば、知っている、とのことだった。
しかし、危険を冒してでも行くしかない、と言ったそうだ。

・原発から離れた場所でも被曝は起きる。(内部被曝)
→食べ物から、だ。
汚染された食品を、安全なものと「混ぜて」全体の放射線数値を下げて売るということがある。
→これにより、被曝する。

●原発は、ただ止めただけでは駄目である。その後も冷やし続けなければ爆発する。
浜岡原発は「まず」即止めるべき。そして、津波などで水が一切進入しない形で電源を確保し、冷却をしていかねばならない。
(海沿いの浜岡原発の写真が映し出される)

もう、「想定外」とは言わせない。

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以上、広河氏の講演の、僕・栗原優による記録でした。読みづらくて申し訳ない。
次は、パーベル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録と資料の抜粋を書きます。
読んでくれて、ありがとうございました。

栗原優

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(※追記)


広河氏の講演の中で一つ書き漏れたことがあったので追記します。

チェルノブイリの町の手描きの看板が大きく映し出され、そこには放射線のマークと、鉄条網に囲まれた町が描かれています。
しかし空に大きな折鶴が描かれているのです。
この看板の意味は、
「私たちの町は放射能で汚染され、鉄条網で取り囲まれてしまっています。
しかし、日本から折鶴が飛んできて、私たちを救ってくれます」という意味だそうです。
(恐らく、日本からの土壌汚染除去のプロジェクトなど、多くの手助けのことを言ってくれているのだと思いました。
僕は、これほどまでにチェルノブイリにおいて日本の支援・手助けを大きく評価してくれていること、そして、
そうやって支援してきた人たちが日本にいることを改めて知り、感動しました。)
そして広河さんは言いました。
しかし、今度はチェルノブイリの人たちが日本を助けようとしてくれているのですね。と。

この日、同じ場所で講演されたパーヴェルさんは、チェルノブイリにとても近い小都市ノボズイプコフに住み、今もなお苦しんでいるチェルノブイリの人々を助けている大変な立場でありながら、「フクシマの事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っている」と言ってくれたことに深くつながります。
(パーヴェルさんの講演については
記録-2 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3125886.html
記録-3 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3130676.html
をご参照ください。)

栗原優


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