2011.4.26.
チェルノブィリ原発事故から丁度25年の日。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)

講師はパーベル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。

議員会館の電光掲示板上の主催は福島みずほ氏で、本日司会もされてました。
他に出席していた議員は、山崎誠氏、篠原孝氏(農林水産副大臣)、重野安正氏、姫井由美子氏等。
福島氏は、この脱原発へ向けた講演会を、議員の皆さんも参加しているこの場でやりたかったのだ、との旨を話していました。
篠原氏は、昨日チェルノブィリから戻ったばかりとのこと。土壌の調査をしてきたらしいです。民主党だが、脱原発の考えと言っていました。


まず、DAYS JAPAN編集長の広河隆一さんから、スクリーンを使って多くの写真を紹介しながらの報告がありました。

広河さんは、チェルノブイリに40回以上訪問し、取材すると共に、福島原発事故後、直ちに福島原発周辺地域に入り、取材を続けてきました。
この間、取材し続けてきたチェルノブイリの25年間、また現在起っている福島原発の事故の現状と問題についてのお話でした。

以下、出席した僕・栗原優によるレポート(記録)になります。

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●まず、スクリーンに大きく「チェルノブィリ25年/フクシマ元年」という文字が映し出された。

●チェルノブィリの事故と、福島の事故との共通点や関連性について多くの話がなされた。
・ソ連政府は、長らく「チェルノブィリ」の名をタブーとしてきた。
・日本政府は、福島原発事故のレベルがチェルノブィリと同じ「7」とされても、「チェルノブィリの10分の1ですから」と強調する。
→しかし、そもそもチェルノブィリの事故では原爆500個分の放射能を撒き散らしている。これの10分の1でも原爆の50個分も出ているのだ。
「安全」?どう考えてもおかしい。

●放射能の飛散について
・チェルノブィリでの飛散→30km超えた場所でも、プルトニウムは検出されている。プルトニウムはあまり飛ばないと言われているが、事実は違う。
(この時映し出された資料でも、放射能の飛散は同心円状ではないことが明らかだった。)
→チェルノブィリでは、「現在も」放射能の測定がされている。
→福島も同じ事態なのだ。
(ここで、両国の測定時の写真が映る。何が起こっているのか全くわかっていない子供たちが手を広げて計られている写真も)
・3/12に広河氏は福島現地についた。
28号線を走る。海際に原発がある。この時点で地域住民は「念のため避難してください」と言われている。
念のため、等と言いつつも、通り沿いに検問くらいあるだろうと思い車を走らせたが、「検問は無かった」とのこと!
そのとき広河氏の放射線測定器は100μSVを超え、一緒に居た人が持っていた1000μSVまで計れる測定器も振り切れた。
(今まで広河氏は50回ほどチェルノブィリに行っているが、振り切れたことはなかったとのこと。)
・住民の人たちは、「念のため避難してください」としか言われていなかったので、普通に物を取りに自転車やバイクに乗って戻ってきていたので、
広河氏は放射能測定器の数値を示した。
→その後、政府にも避難警告をしてくれと訴え、住民の人たちは避難をした。
・また、その日、道路沿いで出会った車一台一台を止め、事情を説明した。「今はここに戻ってはダメ」と。
・また、20~30kmに位置する避難所に子供たちが集まっていたのでここでも話をした。
出来るならば今すぐ全員ここから逃げて!と叫びたかった。全員が無理でも、妊婦さんと子供たちだけでも、と。
→後に、避難が始まった。
(僕の聞き取りが間違っていなければ、「川内村」の状況でした。)

・南相馬市の写真→「原発爆発立ち入り禁止」の看板。町できちんと作成したものが掲示されていた。
・伊達市でも100μSVの途中までいった。
・飯舘村では100μSVが振り切れた。原発正門前と同じ数値であった。

●汚染と政府の対応
・チェルノブィリでは、最初はIAEAでも、被曝で亡くなった人は30人と言い続けた。
ここに、甲状腺がんで亡くなった子供をプラスしても40人くらい、と言っている。
→本当は全く違う。恐ろしい数の人々が亡くなっている。
・(事故処理をした人の写真が映し出される)この人を含め、7人の内、40~50代の5人が亡くなった。
・(チェルノブィリから17kmの場所にある病院の人たちが映る)この病院では、完全に健康体な人しか働いてはいけないとされているのに、
健康体ですか?の質問に全員が手を上げず、何か病気を持っているかと尋ねると、全員が手を挙げた。


(チェルノブィリ周辺の、封鎖された学校の写真が映る。人が一人も居ない。(聞き取れなかったのだが、プリピア市?のような名前))
→この学校の位置は、「福島では通学OKとされている位置」!!!
この写真の無人の学校の中に、福島の子供たちが普通に走り回っている様子を想像すると背筋が寒くなる、と広河氏。

・(避難や事故で使われたヘリコプターやバスなどが辺り一面並べられている写真)→放射能が強すぎて、埋められるのを待っている状態。
・プリピア市(?聞き取れず)の放射能は隠された。
人々に本当のことを言うべき?避難をさせるべき?という議論がされ、科学アカデミーは「言わなくてよい」と言った。
しかし軍の機動隊や住民の代表はそれに反対。避難をちゃんとさせるべきと言った。(ウクライナ代表)
→そして、避難させなくてよいといった官僚に、「ならばあなたの子供をここに住まわせてもいいのか?よいならばここにサインをしろ」と詰め寄った。
結果、2、3日の後、サインをしたらしいが、「数日の避難です」と言って避難をさせた。

・(家を取り壊している写真)→放射能汚染された家から、使えるものを盗んで売る人がいるため、
それを防ぐために破壊してから埋めるのだそう。
チェルノブィリでは30km圏内は有刺鉄線が張られて人が入れないようになっているが、
これは人が入れないようにする為だけでなく、「この中の物が外に出ないようにするため」でもあるとのこと。
→このように、汚染された家から物を盗んで売るという行為は、日本でも有り得ます、と言っていた。

●被曝
・被曝した人たちの居た場所を追い、追跡調査がされている。
健康を守るため。プライバシーは守られている。(丁寧にまとめられたファイルの棚の写真)
病気によって、治すことは可能。しかし、発見が遅いと(脳に転移するなどで)亡くなってしまう。


・(手術台に横たわる少女の写真)→「10年経って」甲状腺がんで手術する子供。これが「ただちに影響はない」の実態である。
・発症して数ヶ月で亡くなる子供もいる。
・(当時妊娠していた母親から生まれた子供の写真)→(病院で管を沢山つけられている少女の写真)
「20年経って」、あらゆる病気で苦しんでいるという。
・(母乳をあげる母親の写真)→母乳の問題。日本でも、調べた9人のうち4人から放射性物質が検出されているが、
チェルノブィリ事故の後も、ベラルーシにて80人調べたら80人全員から検出された。
セシウムやストロンチウム。


・(チェルノブィリにて、救助隊の隊長が防護服を着ている写真)→今、あなたは部下達に消火活動に行けと命令できますか?の質問に、NOと答えた。
放射能の防護服は、「無い」らしい。
今あるのは、あくまで「防塵服」なのだと。→ガンマ線や中性子は、軽く貫いてしまう。
・(日本での、救助隊の写真。みな防護服を着込んでいる)→日本の防護服であっても、「これでは防げない」らしい。
救助隊の人たちは、みな知っているのかと問えば、知っている、とのことだった。
しかし、危険を冒してでも行くしかない、と言ったそうだ。

・原発から離れた場所でも被曝は起きる。(内部被曝)
→食べ物から、だ。
汚染された食品を、安全なものと「混ぜて」全体の放射線数値を下げて売るということがある。
→これにより、被曝する。

●原発は、ただ止めただけでは駄目である。その後も冷やし続けなければ爆発する。
浜岡原発は「まず」即止めるべき。そして、津波などで水が一切進入しない形で電源を確保し、冷却をしていかねばならない。
(海沿いの浜岡原発の写真が映し出される)

もう、「想定外」とは言わせない。

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以上、広河氏の講演の、僕・栗原優による記録でした。読みづらくて申し訳ない。
次は、パーベル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録と資料の抜粋を書きます。
読んでくれて、ありがとうございました。

栗原優

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(※追記)


広河氏の講演の中で一つ書き漏れたことがあったので追記します。

チェルノブイリの町の手描きの看板が大きく映し出され、そこには放射線のマークと、鉄条網に囲まれた町が描かれています。
しかし空に大きな折鶴が描かれているのです。
この看板の意味は、
「私たちの町は放射能で汚染され、鉄条網で取り囲まれてしまっています。
しかし、日本から折鶴が飛んできて、私たちを救ってくれます」という意味だそうです。
(恐らく、日本からの土壌汚染除去のプロジェクトなど、多くの手助けのことを言ってくれているのだと思いました。
僕は、これほどまでにチェルノブイリにおいて日本の支援・手助けを大きく評価してくれていること、そして、
そうやって支援してきた人たちが日本にいることを改めて知り、感動しました。)
そして広河さんは言いました。
しかし、今度はチェルノブイリの人たちが日本を助けようとしてくれているのですね。と。

この日、同じ場所で講演されたパーヴェルさんは、チェルノブイリにとても近い小都市ノボズイプコフに住み、今もなお苦しんでいるチェルノブイリの人々を助けている大変な立場でありながら、「フクシマの事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っている」と言ってくれたことに深くつながります。
(パーヴェルさんの講演については
記録-2 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3125886.html
記録-3 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3130676.html
をご参照ください。)

栗原優