レポート【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】に参加して。記録-2 by 栗原優
※記録-1の続きになります。
チェルノブィリ原発事故から丁度25年の2011.4.26.。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)
講師はパーヴェル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。
記録-1では広河さんの講演の記録をお伝えしました。
そしてこの記録-2では、パーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録を書く前に、当日いただいた資料からの抜粋をまずお伝えしたいと思います。
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ヴドヴィチェンコ・パーヴェル・イヴァーノヴィチ氏
(略歴)
ブリャンスク州の教育機関で教師として25年間働く。
1987年、ノヴォズィプコフ師範学校の生徒たちと共にロシア・ブリャンスク州ノヴォズィプコフ市に社会団体「ラジーミチ」を結成した。
24年間に小さな団体は汚染地域で活動するロシアで最も強力な指導的組織になった。
2009-2010年に「チェルノブイリ問題に関する国際的な科学情報ネット」プロジェクト(国際開発計画)のロシア・コーディネーター。
NGO「ラジーミチ」の仕事の枠内で社会団体の国際プログラムの組織化に責任を持つ。
以下の機関で社会団体「ラジーミチ」とチェルノブイリ地域の利益を代表する。
・中央連邦管区社会協議会
・青年政策実施問題委員会
・保健と健康生活づくり、慈善事業の発展問題委員会
・中央連邦管区社会協議会付属、中央連邦管区におけるボランティア促進に関する官庁間調整協議会
・ノヴォズィプコフ市社会院
◎資料「チェルノブィリ事故25周年についての私の考え」/パーヴェル・ヴドヴィチェンコ
より、抜粋
(※「」付けは抜粋者によるもの。)
「原子エネルギー利用は経済的にとても有利なので、ますます発展させなければならない」と思っている人たちがいることを私は知っています。
そのようなことを言うのは、1986年4月26日のチェルノブィリ原発事故の結果、被災した地域の現状を知らない人たちか、自分の行動が原子エネルギー利用と直接結びついている人たちです。
私は汚染地域に住んでいる人たちの苦しみを見ているので、違う考えをもっています。
残念ながら、「現在」までウクライナ、ベラルーシとロシアのチェルノブィリ地域の住民がチェルノブィリ原発事故の結果に苦しんでいることは、世界の様々な国々の多くの人たちに知られていません。
我々の病院には医者が足りず、学校には優秀な教師が足りず、企業からはずっと前から優秀な専門家たちが去る一方、新たな技師たちは高放射能地帯へは来たがりません。
我々の地域の高放射能の農産物は競争力がなく、セシウムとストロンチウムに汚染された土地には投資家は足を向ける気がありません。
1986年、私は34歳でした。4月末にラジオで、チェルノブィリ原発で「小さな事故があったが、人体に危険ではなく、すぐに始末されるだろうという報道」がありました。
だが、4月29日、私の知り合いの初等軍事教練の教師セルゲイ・シゾーフは偶然、線量計のスイッチを入れ、高い放射能を検出しました。
彼はこのことを市と地区の共産党指導者に伝えました。しかし、市と地域の当局はさらにほとんど2週間、放射能がすでに我々の生活圏に到達していることに沈黙していました。
この沈黙の時間は住民にとった高いものにつきました。
放射性ヨウ素は最初の2週間、数万、数十万の大人たちや子供たちの甲状腺を強く照射しました。
後に、数年たって、これは人々の免疫力の低下や、今日、我々の地域に広まっている甲状腺がんを含む一連の特徴的な病気の発生の中に現れ始めました。
本当に残念なことに、当時、移住の資金がなかったために、私は家族と一緒に汚染のない地域に立ち去ることができませんでした。
私の妻と息子(9歳でした)は高放射能すぽっとの真ん中にあったノヴォズィプコフに住み続けました。
短時間で地域全体が汚染されました。政府と私たちの市当局は何をなすべきかを知りませんでした。
首尾一貫した合理的な活動を始めるまでに1カ月以上かかりました。
それは例えば1か月後(夏に)、すべての児童を汚染のない地域に避難させ、それと同時に住民からすべての雌牛(牛乳の飲用はとても危険でした)、豚やその他の家畜を接取しました。
学校と保育園の敷地で上層(20-25cmの土)を除去し始めました。高レベルの汚染を示していた最も古い屋根を葺き替えるなどです。
私たちの村や町は1986年の夏にすっかり静寂に包まれました。
数年後、小さな村々が汚染のない地域に移住し始めました。
でも、老人たちはしばしば離れたがらず、自分たちの家に残りました。それもこれらの人々にとってとても大きな悲劇でした。
なぜ私は社会団体「ラジーミチ-チェルノブィリの子供たちのために」を結成したか、この団体の目的は何かをお話しします。
町に残って、私は師範学校の教師として働き続けました。
チェルノブィリの災害はゴルバチョフのペレストロイカの時期と重なることになりました。
人々は当時、自分たちを自由だと感じ始め、集会に出て行き、政府や地元の役人たちがチェルノブィリ地帯の人々の苦境に注意を向けるよう要求しました。
私もそのような集会で演説しました。
美辞麗句では我々は何一つとして解決できないと言い、社会活動に積極的な市民に演壇から下りて老人たちや子供たちや障害者たちのために何かをするよう提案しました。
ごみの山を横目にこの集会に来る代わりに、我々は行って我々の通りからそれを片付けなければならないと、私は思い、その時、人々に言いました。
これは多くの人たちに気に入られませんでした。
だが、私と学生たちは他のもっと弱い人たちを支援することを通して(精神的意味で)もっと強くなろうと決意しました。
1987年に私たちは小さなチェルノブィリの村々の孤立した老人たちと障害児たちへの支援を始めました。
このアイデアは若い精力的な学生たちが気に入りました。仕事が始まりました。
1993年に女医のオリガ・ジューコヴァはドイツのパートナーたちとともに小児脳性マヒの子供たちの医療の手当てをする診療所を設置しました。
1994年に私と学生たちは、学生の小さなNGOに属する、ロシアで最初のキャンプを設置しました。
そこでは毎年夏に最大560人の子供たちが保養し、その中には孤児たち、障害児たち、複雑な事情のある家庭の子供たちがいます。
NGO「ラジーミチ-チェルノブィリの子供たちのために」はロシア、ウクライナ、ベラルーシの放射能で汚染された地域に住んでいる児童やティーンエイジャーたちが休養し、健康を増進することができるようにしました。
数年前、私たちはロシアのボランティア活動支援センターを創設しました。
私たちの甲状腺検査室の医者たちは2004年から私たちの市の全住民の甲状腺を検査しています。目的は甲状腺の病気を発見し、患者の治療援助をすることです。
私たちはチェルノブィリ情報センターを創設し、そこでは次のことが実施されています。
チェルノブィリをテーマとする資料の収集、整理と保管、展示の実施、また、放射能で汚染された地域で安全に暮らすという緊急の問題に関する生徒たちや学生たちへの啓発、健康な生活法の宣伝などです。
放射能地帯に残った私たちは皆、身動きが自由になりませんでした。
私たちの多くは立ち去りましたが、他の人たちはそうなりませんでした。
何人かの私の友人は両親あるいは親戚が病気だったり、年老いたりして、新しい場所への困難な移住の準備ができませんでした。
何人かの友人たちは同僚や部下に対する職業的な責任感が強かったのです。
医者は自分の病院を放り出したくはありませんでした。なぜなら、余りにも多くの彼の同僚たちがよりよい生活を求めてもう立ち去っていたからです。
教師は自分の生徒たちを、ジャーナリストは自分の新聞を、機械修理の職人は自分の修理工場を等々、投げ出すことができませんでした。
逆説的な状況が生じました。
人は自己保存のためには外へ出なければなりませんが、いくつかの客観的な理由でそうすることができません。
そのような人たちを私は「状況の人質」と名づけます。
福島の悲劇について私は何を言いたいでしょうか。
福島の事故はあらゆる人々に核エネルギーについての考えをかえさせるでしょう。
チェルノブィリ事故の後、西側世界の多くの人たちには、原子力の大惨事がソ連で起きたのは、核施設の生産と操作でテクノロジーに従わなかった罰だと思われていました。
多くの人たちには、高い水準で労働が組織されている他の国々では、そこで原子力エネルギー産業に関わっているのが生産と操作の高い技術を持った尊敬すべき専門家たちであるということからして、そのような大惨事が繰り返されることはありえないように思われていました。
その際、エレクトロニクスとよく訓練された人々によって制御された列車が衝突事故を起こすという多くの事実が黙殺されていました。
毎年、航空機の墜落、海の船舶の衝突が起こり、宇宙の軌道から人工衛星が落下します。
「核テクノロジーでは事故や大惨事はありえない」と真面目に考えてきて、今もそう考えている私たちのうちのある人たちは何と自信過剰なことでしょう。
さらにテロもあることを忘れないようにしましょう。そこでは時として余りにありえない場所が選ばれるので、人間の理性はどうして「そのようなこと」をすることができるのか想像することさえできないのです。
日本の福島で起こっていることはもう1度全世界に、私たち皆が立ち止まって、多くのことを考え直さなければならないことを教えました。
歩んできた多くの過程を私たちは人類として今、チェルノブィリと福島の共同の経験から出発しながら、つまり新しい目で見なければならないのだと私は思います。
さもないと(どうかそうなりませんように)私たちはこの不吉な出来事の連鎖の悲しい続きを見ることになるでしょう。
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以上、抜粋でした。
次回はパーヴェル・ヴドヴィチェンコさんが当日直接我々にお話してくれたことの記録を乱文ながらもお伝えしたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
(抜粋・入力 by 栗原優)