レポート【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】に参加して。記録-3 by 栗原優
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記録-1 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3123528.html
記録-2 http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3125886.html
の続きになります。
チェルノブィリ原発事故から丁度25年の2011.4.26.。
参議院議員会館の講堂にて、【院内集会:チェルノブイリから25年 いま福島原発事故を考える】が行われました。
(主催:原子力資料情報室、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議)
講師はパーベル・ヴドヴィチェンコさん(NGO『ラディミチ ― チェルノブイリの子どもたち』国際プログラムマネージャー)と、広河隆一さん(『DAYS JAPAN』編集長)。
記録-1では広河さんの講演の記録を。2ではパーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの資料から抜粋をお伝えしました。
そしてこの記録-3では、パーヴェル・ヴドヴィチェンコさんの講演の記録をお伝えしたいと思います。
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パーヴェルさんの言葉
※パーヴェルさんが当日お話され、通訳されたことをその場で可能な限り筆記したのですが、全ては筆記しきれてはいないと思います。
また、通訳の方の言葉から理解するしかないため、所々表現が曖昧に感じた部分があったことは否めません。
申し訳ありませんがその点、ご了承の上、お読みください。
(聞き取り・筆記by栗原優)
ヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆により、沢山の人が亡くなりました。
チェルノブイリの原発事故で、ベラルーシ、ウクライナ、多くの人が死にました。
時とともに忘れ去られました。
しかし、事故の影響を受けた人々は忘れることは出来ません。
チェルノブイリとフクシマの事故を分析すると、「二つの真実」があると思います。
一つ目は、政府の真実、二つ目は、住民の真実です。
・政府の役人は事故に対し、"多額をかけてきちんと対策を講じている"と言っていいますが、必ずしもその金はチェルノブイリの人々に役立ってはおらず、汚染されていない地域に使われたりもしています。
・チェルノブイリの事故が起こってから、多くの優秀な医師、技師、企業経営者等が汚染地域から避難していきました。残ったのは、移住出来ない高齢者、貧しい人々でした。
・母は子に、避難しなさい、そしてここには戻ってくるなというが、出ていった子供は汚染されていない地域で結婚が出来ないという現実があります。
・政府は被災者の為に診療所を作っていると言うが、それは大都市に、なのです。(確か、ブリャンスクやモスクワと言っていました。)住民のいるノボズイプコフ(小都市)からは遠く、使うことができません。
(※筆者注:実際地図を見ましたら、ノボズイプコフはブリャンスクの都市ではあるのですが200kmくらい離れていました。日本でいうと、例えば福島県南相馬市と茨城県つくば市くらいの距離でしょうか。)
・被災地では事故の前は、農作物の上質な芋がとても良く売れていました。しかし、今は誰も買おうとしない。
売ることが出来なくなった農民に対し、政府は補償金を出して"これで生活できるだろう"と言うが、「農民の生活」である、"朝起き、種を撒き、・・・"という生活は出来ない。つまり、「農民であることが出来ない」ということなのです。
また、彼等は森に行き、ベリーやきのこを採り、魚や鹿を取って食べてきました。これは昔からの習慣です。そして、これらが汚染されても、それを続けなければいけないのです。
・事故の後、政府は"甲状腺がヨードで傷つくということへの対策を、丁度良い時(タイミングという意味か)にやった"と言っていいました。
広河さんの写真からもチェルノブイリとフクシマが関係があると示していましたが(記録-1を参照ください。http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3123528.html)
ヒロシマ、ナガサキのこと、そしてチェルノブイリ、フクシマ。これは「一つの大きな惨事」であり、その後に必ず立ち止まって考えなければなりません。そういう出来事です。
原子力エネルギーは安い、と言われてきましたが、今はその通りに受け取れません。
チェルノブイリ原発事故の翌年、私たちは団体を作り、高齢者や障害を持つ子供たちへ支援活動を始めました。
フクシマ原発事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っています。
ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ、この3つの問題を個々の問題と考えてはいけません。一つの繋がった問題と考えなければなりません。
もしそう考えないならば、4つ目の問題が起こってしまいます。それを避けなければなりません。
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この後、質疑応答がありました。
Q. 「日本では、4/19に文部科学省の発表で、"子供たちが年間20mSV浴びても良い"と、被曝限度量を増やして示しました。
(参照:一般人の年間許容被ばく量は1mSV。文部科学省の発表については、「校舎・校庭の利用を判断する際の放射線量の暫定的目安を年間20mSVと決定した」件のことと思われます。)
チェルノブイリではどのように指定されていますか?当時、また今の値をおしえてほしいです。また、限度量を上げることに対して、どう思われますか?」
A. 「事故のあったのはソ連時代になりますが、一人ひとりの命は軽んじられていました。許容量は確か100mSVだったと思います。
(※筆者注:聞き間違え?!と思ったのですが、確認できませんでした。ただ、口調から、そのような値の指示などは今の日本のように報道さえもされていなかった、決められもしていなかったように感じました。)
医療技術も高くありませんでした。2代目の世代に病気が表れるとも思われてもいませんでした。
私が作った、甲状腺を調べるセンターは6年活動してきましたが、調べた住民の70%に問題があると分かりました。
1982年(事故前)はがんは1件でした。83年も1人。86年(事故の年)は8件。87年は13件。そして年々増加していっています。
この25年でチェルノブイリでは194人のがん患者が見つかっています。学童達に多く、最近も17歳の子にがんが発見されました。この子は4歳の時に甲状腺にしこりができていました。
甲状腺にがんができれば他に転移する可能性があります。
(政府が限度量を上げることに対して)政府のやることが、よいことのときは支持するべきですが、それがよくないことの場合は、抗議をするべきです。
フクシマの人々の命を守りましょう。」
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以上、パーベル・ヴドヴィチェンコさんの講演を聞き取り・書き起こした記録でした。
通訳の方を通していただいておりますが、やはり的確に把握できない部分があり、意味を捉えつつ考えつつの記録となってしまったことをお詫びいたします。
(この会に出席されていた議員の方が、最後にもまた何人か紹介されました。
石川大我氏、保坂のぶと氏など。(全員は書き取れていないことと、もしも間違っていたら申し訳ありません))
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◎印象的だったこと
●「今もなお」事故の影響が続いているという状況に愕然としました。
・事故のあった土地の農作物は「今はもう誰もかおうとしない」
・「最近も」17歳の子供にがんが発見された
などのお話です。
氏が、何度となく「ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ」は大きな一つの問題として考えなければ」とおっしゃっている意味がとてもよくわかりました。
●自らもその地に住み、今もなお苦しんでいるチェルノブイリの人々を助けている大変な立場である氏が、「フクシマの事故の後、私たちが今まで蓄えてきた経験によって、手を差し伸べられるのでは、と思っている」と言ってくれたこと。
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これに関連して、広河氏の講演の中で一つ書き漏れたことがあったのでこちらに書きます(このあと記録-1に追記もしておきます)。
チェルノブイリの町の手描きの看板が大きく映し出され、そこには放射線のマークと、鉄条網に囲まれた町が描かれています。
しかし空に大きな折鶴が描かれているのです。
この看板の意味は、
「私たちの町は放射能で汚染され、鉄条網で取り囲まれてしまっています。
しかし、日本から折鶴が飛んできて、私たちを救ってくれます」という意味だそうです。
(恐らく、日本からの土壌汚染除去のプロジェクトなど、多くの手助けのことを言ってくれているのだと思いました。
僕は、これほどまでにチェルノブイリにおいて日本の支援・手助けを大きく評価してくれていること、そして、
そうやって支援してきた人たちが日本にいることを改めて知り、感動しました。)
そして広河さんは言いました。
しかし、今度はチェルノブイリの人たちが日本を助けようとしてくれているのですね。と。
今回のパーヴェルさんの来日・講演(この日以外にも各地でされています)の意味は、とても大きいと思います。
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次は、同じ日に続けて講演された、地震学者の石橋克彦さんの講演について書きたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。